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krns-linkのブログ

まだ仮公開で、今後も本公開までドタバタします。コメント欄は有りません。ちなみに、拙ブログ作成者は医療関係者ではありません。拙ブログは訪問者の方々がお読みになるためのものですが、自己責任でお読み下さい(念のため記述)。

「仏陀の癒しと心理療法」の感想

はじめに

拙ブログはリンクと引用を中心に構成されており、ブログ作者による自由な文章記述の余地は少なくなっています。しかし、自由な文章記述の部分をより多くしたエントリを作成しようと思い立ち、次に紹介する本の読書感想を主体とした本エントリを作成しました。ただし、拙ブログの基本的な編集方針とは異なるため本エントリは期間限定の臨時公開とします。ちなみに、本エントリ削除後に改訂作業してからの復活又は他の拙エントリ公開・改訂における、本エントリの一部記述の採用があるかもしれません。

(2016年6月26日追記:様々な状況を考慮すると、本エントリの公開終了を検討する段階には至っていません)

≪主な改訂の履歴≫
2016年3月6日、5月28日、6月4日、10日、26日、9月1日、13日、2017年1月11日、2月12日、3月17日、4月24日:文章の追記をはじめとした改訂を行いました。

読書の感想

精神科医及びカウンセラーについて

平井孝雄著の本、「仏陀の癒しと心理療法 20の症例にみる治癒力開発」(2015年発行)を読んだ感想及び精神科医及びカウンセラーについて以下に記述します。ちなみに、この本における筆者の紹介によると、筆者は精神科医及び臨床心理士であり、新大阪近くの平井クリニック院長及び新大阪カウンセリングセンター長でもあります。

ちなみに、本エントリ作者の見解では、優秀な精神科医、(心理)カウンセラーは特に面接術*1が優れており*2、よろず相談(例えば、ここを参照。*3)として、様々な悩み・苦しみの相談に彼らが気軽に応じてくれるならば、例えば、(1)[「自分で考える」、「自分で決める」、「自分で行動する」、「自分の行動の責任は自分がとる」、「自分がほんとうのところ何を求めているのか」(引用参照)]、(2)[(何事にも)「ほどほどの感覚でいく」、「ほどよい加減を考えていく」(引用の「患者は中道が困難」項参照)]、(3)[「症状を受け止め、症状を持ちながら生活する」(引用参照)]に関連した相談をはじめとして、様々な特性を有して、悩み・苦しみ又は生活に支障がある方々の相談にも適しているかもしれないと考えます。ちなみに、精神疾患において、未診断(放置)、誤診及び/又は誤治療により、長期間にわたり治療が進まなく、ご本人及び/又はご家族が困っていることを示す引用例はここここ及びここに示します。

特性例としては、例えば、(1)臨機応変な対人関係が苦手」、(2)「暗黙や言外という概念の理解が困難」 *4ここ参照)[これに関連して、「想像力に障害がある」〔ここの③想像力の障害を参照〕、「経験が目の前にあるもので飽和し余白もない」〔ここ参照〕、自分を振り返る余裕がない〔ここの「いっぱいいっぱいになりやすく、自分を振り返る余裕がない」項参照〕]、(3)『「曖昧な関係」「判断を保留」という言葉の理解が困難』(ここのリンク先参照)、(4)冗談やからかいが通じない」、(5)「微妙な空気を読むことが困難」(ここここ及びここ参照)、(6)両極端で二分法的な認知に陥ってしまう」[これに関連して、「敵か味方か」といった極端な認識をしてしまう〔ここのリンク先参照〕、ハイコンストラスト知覚特性」、高過ぎるプライドと劣等感が同居している〔ここの「④高過ぎるプライドと劣等感が同居」項参照〕]、(7)仕事の優先順位がわかりにくい」[これに関連して「細かなことに著しくこだわる」]、(8)興味の偏りが著しい」、(9)助けを求めるのが苦手」、(10)物事を何でも簡単に信じてしまう」、(11)「誤学習してしまう」(ここここ及びここ参照)、(12)「森を見ずに木又は葉を見てしまう」[木又は葉を見ただけで、森を見ずに安易な判断をしてしまう](ここ参照)[これに関連して、並列処理(マルチタスク)が困難一事が万事〔ここここ参照〕、視点の切換えが困難揚げ足を取ってしまうシングルレイヤー思考特性である視野狭窄である〔ここの『「とらわれ」というワナ』項参照〕、(13)「ミスや失敗が何を引き起こすかわかっていない」(ここ参照)、(14)自分が他者からどのように思われるか気にしない」、(15)余計なことを言う」、(16)実際の経験によらなければ学べない」[「人の振り見て我が振り直せ」が困難]、(17)「コミュニケーションの問題がある」(ここここここここここ及びここ参照)、(18)認知様式が主にボトムアップ型で全体へとまとまりあがりにくい」[これに関連して「理念形成が困難」〔ここ参照〕]、(19)「アサーティブな主張が困難」(ここの「アサーティブな生き方」及び「アサーション」関連参照)、(20)「認知のかたよりがある」(ここの P13 、加えて、ここここここ及びここ参照)、(21)早期不適応的スキーマを有し、これを手放すことができず活性化してしまう」、(22)「多動性・衝動性及び/又は不注意が著しい」(ここ及びここ参照)[これに関連して「注意の配分が苦手」]、(23)情動調節の不全がある」、(24)心的等価モードになってしまう」、(25)「トラウマを負ったことによるフラッシュバック又はタイムスリップ現象(リンク集参照)に圧倒又は翻弄される」[これに関連して「記憶が消えなくて苦しむ」]、(26)「怒りのコントロールが困難」(ここここ及びここ参照)[これに関連して、少しの情動喚起で闘争モードになってしまう〔ここ及びここ参照〕、自己愛的な激しい怒りにとらわれる〔ここ参照〕]、(27)クレーマーになってしまう」(ここ及びここ参照)、(28)「枠組みのない又は構造化されていない状況が苦手である」(ここの「枠組みのない状況が苦手である」項及びここを参照)、(29)「(生活上の何らかの破綻に端を発し)鬱憤をぶちまけてしまう」(ここ参照)[これに関連して、「理想化後にこき下ろしてしまう」〔ここ及びここ参照〕]、(30)目的論的モードでの行動を取ってしまう」[これに関連して「暴発や行動化を起こしやすい」(ここの「⑤怒りや破壊的な感情にとらわれて、暴発や行動化を起こしやすい」項を参照)]、(31)7つの激しい感情が噴出してしまう」、(32)投影同一視をしてしまう」、(33)「自己と他者の境界が暖味になる」(ここの「②自分の視点にとらわれ、自分と周囲の境目があいまい」項及びここの「自己と他者の境界が暖味になる」項を参照)[これに関連して、「相手が自分と同じ道を歩いていると思いこんでいる」〔ここここのLesson4 *5を参照〕及び「自分の基準でしか、相手を見ることができなくなる」〔ここの「自己と他者の境界が暖味になる」項を参照〕]、(34)「過大なアラジンの魔法のランプ願望がある」(ここの「アラジンの魔法のランプ願望」項を参照)[これに関連して「非現実的な救済願望がある」〔ここの⑥項を参照〕]、(35)「心から安心することができなくなる」(ここの「心から安心することができない」項を参照)]、(36)「思い通りにならないと攻撃されていると思ってしまう」(ここの「思い通りにならないと攻撃されていると思う」項を参照)[これに関連して、『「妄想・分裂ポジション」に陥ってしまう』、『病的な「躁的防衛」をしてしまう』〔共にここの「思い通りにならないと攻撃されていると思う」項を参照〕、その瞬間瞬間に生きている〔ここ参照〕]、(37)「生理的症状と心理的症状の相互混乱がある」(ここの⑤項を参照)[これに関連して「自分の感覚によりネガティブな気持ちになってしまう」〔ここここ *6参照〕]、(38)「愛着が安定しない」*7[これに関連して、例えば、人に気ばかりつかってしまう、自分をさらけ出すことに臆病になってしまう、人と交わることを心から楽しめない、本心を抑えてでも相手に合わせてしまう、いつも醒めていて何事にも本気になれない、拒否されたり傷つくことに敏感になってしまう*8損だとわかっていて意地を張ってしまう〔以上はここ参照〕、ストレスに敏感、不安を感じやすい、人に信頼を持ちにくい*9気分が不安定〔以上はここ参照〕]、(39)規則正しい時間を作ったり守ったりすることは極めて苦手である又は睡眠時間が極端に短かったり乱れている」、(40)「離隔(離人感や体外離脱体験など)がある」(ここの「症候学」項及び/又はここで紹介されている本*10参照)、(41)「区画化(健忘や人格交代など)がある」(ここの「症候学」項及び/又はここで紹介されている本*11参照)[これに関連して「激烈な記憶の断裂がある」〔ここの②項を参照〕]、(42)「失感情症(アレキシサイミア)である」(ここ及びここ参照)、(43)『「非定型うつ病」のような気分変動がある。すなわち、本人にとって都合の悪いことに対面すると気分が沈み込んだ状態が続くものの、よいことや楽しい出来事があると、それまでの不調がウソのようにたちまち元気になる。』(ここ参照)[これに関連して、(非定型うつ病の特徴としての)「拒絶過敏性がある」〔ここ参照〕*12]、(44)『「平静の祈り」で示されるような深い叡智が欠如していて、受容と変化のバランスがとれない』(ここ参照)、(45)「精神内界における悪循環(とらわれ)や思想の矛盾がある」*13ここの「森田療法の基本的理論」項、ここの「思想の矛盾」項、及びここを参照)[これに関連して「精神相互作用の悪循環に陥る」]、(46)「人格の低下がある」*14ここ参照) が挙げられます。

さらに、身体症状(注:様々な精神疾患又は身体疾患において現れるので、鑑別が必要)又は転換性障害(変換症)[例えばここ参照]の症状(注:特にてんかん[癲癇]との鑑別が必要)についても、必要に応じて相談すれば良いかもしれません。

読書の感想(箇条書き)

ここからは、この本の理解・感想等を思いついたままに箇条書きします。ただし、本エントリ作者は医学のみならず仏教にも初心者であること、本エントリ作者の筆力に限界があること等により、奥の深い記述は期待しないで下さい。さらに、用語の整理があまりできていないかもしれません。

①心の病の患者であろうとなかろうと、我々凡夫は誰でも様々なやその背後にある欲求・煩悩・執着・こだわりを抱えて生きている。これらが強くなり過ぎると、心の病に陥る可能性が高くなる。視点を変えると、心の病は、苦を受け止めることができなくなり、苦の悪循環が生じる結果(ここの「四諦と異常意識からの脱却」項参照)でもある。

②これらの苦を受け止める(ここの「苦を受け止めるとは?」項参照)ことに加えて、ほとんどの心の病は、根底に過度の欲望・執着・こだわりが潜んでいるので、後者の治療とは、それらを「ほどほどの欲求・執着・こだわりに変化させること」、執着・こだわりにふりまわされている状態から、執着・こだわりを自由にプラスになるように使いこなすという「主体性の回復」と言える(ここの「四諦とは?」参照)。視点を変えると上記「苦の悪循環」を良循環に転換できるように助けることが治療の目的となる(ここの「心の病は、苦の悪循環の結果」項参照)。ちなみに、スキーマ療法によると、早期不適応的スキーマがさまざまな状況において活性化されることで、例えばパーソナリティ障害の症状がもたらされるようだ。早期不適応的スキーマを手放し、ヘルシーモードを育み強化することが治療につながるようだ。

③従って、心の病は特別なものではなく、我々凡夫がいつでも陥るリスクを有するものである。視点を変えると、大事なことは、(人間の)心は身体と同様に、健康な部分と病的な部分(例えば、神経症部分、うつ的部分、心身症的部分、統合失調症的部分、依存症的部分、境界例部分など)があって、病的な部分が増えて、生活に支障が出てくると病気と呼ばれるだけで、健常者と病者の間に境はなく、程度問題だということである。(P216)
これに関連しないかもしれないが、ちなみに、自閉スペクトラム症はその名の通りスペクトラム(連続体)であり、一般人(定型発達者)から、発達凸凹非障害自閉症スペクトラム)、自閉スペクトラム症自閉症スペクトラム障害)まで、様々な方々が存在する。このことを示す図は、例えば次の pdfファイル「発達障害から発達凸凹へ」の図1(P12)を参照して下さい。

④不幸にも、心の病に陥った場合にも、上記のような位置どりの精神科医又はカウンセラーをうまく選定し、かかることは有力な選択肢の1つである。ただし、精神科医又は/及びカウンセラーに援助してもらっても、悩みの解決は自分でするものという自覚を忘れないようにしないと治療が進展しないリスクがある(例えば、ここの「[事例G解説]」参照)。

⑤中道(極端でないこと、ここの第2項参照)が大事である。中道を見つけられない又は中道から逸脱すると周りの方々を振り回すことにもなりかねない。その例はここ及びここ参照して下さい。

仏陀は合理的な人生態度を探求したと思われ(ここ参照)、加えて、記録に残る最古の優秀なカウンセラーでもある可能性が高いのではないか(ここ参照)。

神経症においては、必要に応じて「精神相互作用」(ここ参照)に注意する。

⑧心の病の水準*15と苦諦との関係は次の通り。統合失調症(例えばここ参照)等の精神病水準では苦諦すら認識できず、境界例水準では苦諦は実感できてもそれに直面できず、ましてや集諦は認識できない。神経症(例えばここ参照)水準では、苦諦、集諦、滅諦までは理解できても、道諦の実践ができないといったことになるかもしれないとのこと(P296)。注:四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)についてはここを参照して下さい。

精神疾患の診断における注意点:a) 今この患者の健康部分はどの程度か、病的部分で優勢なのはどれとどれかといったところを診ること。 b) 診断は暫定的で仮のものであっていつ変わるかわからない。(P216)

⑩薬は悪循環から良循環への刺激因子すなわち応援部隊である。薬は万能ではなく方便・手段である。薬も、応機説法と同様に、その時その病人にあった薬を処方するのが大事である。(P316~P317)

余談

以下に示すように、この本の記述の一部を複数引用します。

(a)仏陀の癒しと心理療法からの引用

(1) 四諦、中道、縁起について、平井孝雄著の本、「仏陀の癒しと心理療法 20の症例にみる治癒力開発」(2015年発行)の 第1章 四諦・中道・縁起一仏陀の基本的教え の 第2節 仏陀から学んだこと-基本的な教え(四諦、中道、縁起) の「第1項 四諦ついて」、「第2項 中道について」及び「第3項 縁起について」における記述(P29~P38)を次に引用します。

第1項 四諦について
四諦とは?
第1節でも述べたように、治療者として最初に仏陀から教わったのは、四諦という教えであった。四諦とは、言うまでもなく、苦諦(この世や人生は苦であるという真理)、集諦(苦をもたらす根本原因は、世の無常と欲望に対する執着にあるという真理)、滅諦(苦を滅するためには煩悩をコントロールし、執着を断つことが必要であるという真理)、道諦(滅諦に至るためには、八正道の正しい修行方法によるべきであるという真理)のことである。(注:減とは、パーリ語で nirodha の漠訳語であるが、本来は消滅というより、心や感覚器官を制しておさめるというようにインドでは考えられている。したがって、減とは、苦や欲望の消滅ではなくて、ほしいままに動き回る欲望をコントロールし、苦しみを閉じ込めてしまうことだと考えておく方がいいであろう。決して欲望の否定ではない)
結局、ほとんどの心の病は、根底に過度の欲望・執着・こだわりが潜んでおり、治療とは、それらを「ほどほどの欲求・執着・こだわりに変化させること」、執着・こだわりにふりまわされている状態から、執着・こだわりを自由にプラスになるように使いこなすという「主体性の回復」と言える。

四諦による治療の明確化
筆者が危機的状況にあったころ、インドに行く機会を得、その縁で初めて仏典に触れることになり、そこでこの四諦の教えに出会ったのが、仏陀との初めての出会いであることは既に述べたとおりである。当時、欲望や我執に苦しめられていた筆者にとっては、非常に有り難い教えとして、自分の中に沁み込んできた。
この四諦を知った後、筆者は、常に欲求や煩悩や苦を中心にして、人間や病気や治療のことを考えられるようになり、その結果それらに関する見方が、次のように単純化された。
その第一命題は、人間は生まれてから死ぬまで、欲望や煩悩を常に持たされている存在であるということである。
そしてそうした欲望は、たいてい満たされないことが多く、また満たされたとしてもそれは束の間の時間であり、人間は絶えず欲求不満の状態に置かれる。
さらに、この不満といった苦の状態が強く、しかも長く続くと憂鬱、苦悩、絶望といった抑鬱状態に陥るであろうし、また今は満たされていても将来満たされないのではないかと心配したり一層悪いことが起きるのではないかと心配すると不安状態になるであろう。さらに人間は幾つもの相反する欲望を同時に持たされることが多く、それらに引き裂かれて葛藤状態になることが多い。
そして、このような抑鬱感、不安、葛藤といった重い苦(日常抱く欲求不満は軽い苦と呼んでいいのかもしれない)をなんとか受け止められると健全と言えるのであろうが、これを受け止められないといわゆる病的状態に陥ると言える(ちなみに、筆者はこの病的状態を、神経症的反応、うつ病的反応、心身症的反応、精神病的反応、直接逃避、行動化的反応、依存的反応等と勝手に分類しているが、治療を進める上でとても便利だと感じている)。

苦を受け止めるとは?
ところで、この「苦を受け止める」というのは、どういうことかというと、まず第一に苦があるのは人間として当然のことであると認識することであり、第二に苦を抱えながら日常生活や対人関係をなんとかこなし、第三に身体も健全さを保ち、第四に自分の苦の有り様と苦の原因である執着との関係をよくわかっていてしかも執着を程よくコントロールできており、第五に自分の苦に対する対策や見通しをある程度立てられることであり、最後に抑鬱、不安、葛藤というのは否定的な面だけではなく、自分や世界についての認識を深めるものであり、生活や創造の源泉なのだというように捉えていることだと考えられる。
逆に受け止められないということは、この六つのことができないと同時に、病的症状が出現する事態だと考えられる。

治療者としてなすべきとと
このように考えると、治療者のなすべきこととして、以下の事が挙げられることになる。
①まず患者がいかなる症状や苦に悩まされているか。
②その苦の背後にはいかなる欲求・煩悩があり、執着があるか。
③その欲求・煩悩・執着はほどほどか、強すぎるか(臨床的事態になる時はたいてい過度の執着がある)。
④その過度の執着からいかにして脱していくか、いかにして執着をほどほどにしていくか。執着に振り回されている状態からいかにして執着を有益なものとして使いこなせるようにするか。執着に振り回されない主体性を引き出していくか。
⑤苦をいくらかでも和らげると同時に、苦を受け止めていくためにはどうしていったらよいか。
といったことを、患者と共に考えていくこと、という根本原理が見えてきたのであった。
以上のように単純化できてからは、かなり事態が複雑になっている患者と出会っても、絶えずこの四諦の教えに戻って考えてみることで、問題の整理がついたように思われた。

四諦と異常意識からの脱却
また、それだけではなくこの四諦の教えは、患者の異常意識を和らげるのに役だった。というのは先述したように、患者は抑鬱、不安、葛藤といった苦を当り前だと考えたり、それを引き受けるといったことができず、それらを異常と考えたり、それを持っている自分は異常な人間になったのではという恐れを感じていることが多い。つまり、苦諦という第一聖諦を認識できていない。
人間は今挙げたような苦しみがとても辛いので「それらが常のものでない。常と異なるものであって欲しい」と考えてしまいやすい。そして異常な現象としての苦の消滅を願うが、なかなかそれが消えないと、今度は「このような異常な苦を持った自分が異常な人間になった」と感じやすい。そして、それは異常意識となってその人間に襲いかかり、今度はその異常意識がその人間を苦しめるのである。ここに不幸な悪循環が生ずる(病気とは悪循環の一つの結果だと考えていい)。
それゆえ、治療場面でこの点について話し合うことで、患者が「自分の苦しみは人間に共通するものだ」「お釈迦様も同じような苦を背負っていたのだ」と認識できれば、それだけでも患者の苦しみは和らぎ、苦を引き受けやすくなってくるのである。
患者は、苦を排除するという不可能なことをしょうとするので、かえって異常意識や苦を強めてしまうのであろう。

第2項 中道について
中道とは?
次に、苦を和らげそれを引き受けやすくするには、煩悩のコントロールや執着からの脱却という滅諦が治療目標となるわけであるが、それを実現させていくものとして、道諦つまり八正道がある。そして、この正しい道というのが、筆者には中道を指すものと思われる。中道は、極端を排するということで、例えば極端な快楽を排すると同時に極端な苦行をも排するといった考えである。これは簡単に到達した結論ではなく、釈迦が死線をさまようような激しい苦行の末に悟った貴重な教えである。

患者は中道が困難
さて、中道という観点から患者を眺めてみると、いかに患者が中道から離れ極端に偏しているか、また執着に捕らわれているかがよくわかる。例えば自己反省はとても大事なことであるが、これが極端になるとあらゆることに自責的になりうつ状態に陥るであろうし、逆にまったく自己に対する反省がなく他責的ばかりだと、例えば被害妄想や境界例のようになってしまうであろう。
また確認は必要な行為であるが、行き過ぎると強迫のような状態になるであろうし、逆に見直しをまったくしないで行動すると、衝動行為のようになってくるであろう。
さらに欲求を抑えることは大事であるが、抑え過ぎてまったく引きこもったりしてしまったり(自閉状態が主になった統合失調症など)するのも問題であるし、逆にまったく抑制が効かない(躁状態など)というのも問題である。
また仕事に励むことは大事だが、行き過ぎると過労死や過剰適応を主とする心身症等になるであろうし、仕事をまったくしないのも、退却症等さまざまな病気の状態と言えるであろう。
執着にしても、まったく執着しない状態だと生産的で創造的な人生が送れなくなるだろう。他方、執着し過ぎると体も心も人間関係も壊れてしまうし、病気になるだろう。ほどほどに執着し、執着を上手くコントロールし使い分けることで物事や難事業の達成が得られる。怒りもほどほどであれば身を守り、適度な自己主張に昇華するのである。
こうした例は挙げていけば切りがないが、患者を診る時の重要な視点として、患者がどのような極端に偏しているかを見ていくと、問題が大変わかりやすくなってくる。そして、患者との間で、このことが話し合われると、「ほどほどの感覚でいくこと」「ほどよい加減を考えていくこと」が、絶えず大事な治療目標となってくる。

中道の主体性――ほどほど感覚の重要性
ただ、この道諦、正道、中道すなわち「ほどほど感覚」というのは、言うほど実現が簡単なことではない。つまり中道というのは、単に中間ということではなくて、極端を排するといったことであり、したがって極端と極端との間には無数の中道があり、これが正しい中道だという基準は全然ないのである。そこで、中道やほどほどをどのあたりにするかは、結局自分で決めねばならず、そのためにはその人の主体性が強く要求されるわけである。またその判断の結果はもちろん本人が引き受けていかねばならない。そう考えると、そこの中道を実現させていくのは大変重大な決断になるであろう。

中道とは自由自在である
また、さらに連想を進めると、この中道というのは、絶対化を排して常に相対化を進めること、とらわれから脱した自由な思考や行動を目指すこと、そしてそこに主体的な決断を醸成していくことであると考えられる。したがって、最終的には「中道」という教えにもとらわれない生き方が、一番中道的であるとも言えるのであろう。そして結局それが治療であり自由自在の生き方となると思われる。主体性の後退した患者は、この自由な生き方や中道が苦手で、どうしても一つの固定観念に偏したり、極端になってしまいやすいのである。

第3項 縁起について
縁起とは?
さて、苦を和らげ引き受けていくことから、道諦、正道、中道、自由と考えていく中で、とらわれからの脱却が大きな課題となってきたようであるが、そのことに関連してさらに影響を受けたものとしては、縁起と空の教えであった。
縁起とは、因縁生起のことで、他との関係が縁となって生起するということである。また因とは結果を生ぜしめる内的な直接原因のことを言い、縁とは外からこれを助ける間接原因のことを言う。
仏陀はさらにそのことを「相応部経典」の中で「(一切の存在の有り様は)すなわち相依性にある」と述べており「一切の存在の有り様は関係の中に成り立っている」ということを強調しているようである。となると、一切は関係であるということだから、存在するものには実体がないという空の教えに近付くことになるように思えた。

病状と関係性
この縁起と空の教えは臨床において以下の考えへと筆者を導いていった。それは、病気や健康といったものがまったく実体を持たない相対的な概念であると同時に、病名や病態は関係の中でいくらでも変化するといったことであった。
例えば妄想や幻聴を訴える患者と出会った時、医者によってはその妄想がどんどんひどくなる場合もあれば、逆にそれらが減少していく場合もある。このような例は無数に挙げることができるし、また医者の態度だけではなく家族や周りの関わり方でも、随分と患者の状態が変わってくる。つまり病状とは、患者と医者(さらには両者を取り巻く人々)の合作なのだが、残念なことにまだ現在では、患者だけが診断され、患者を取り巻く関係性の診断がなされているところは少ないようである。
いずれにせよこの関係性ということから考えていくと、かなり難治の患者が来ても、そうなってきた因縁を探ることにより、いくらかでも悪縁を除き、良縁を呼び込むといった態度で接していくと道が開けてくると言える。しかし、逆に言えば易しそうに見えてもこちらの態度いかんで難治例になってくることが多い。昨今の境界例やパーソナリティ障害などの難事例は、特にそれが言えそうである。
また、健康にも病気にも実体はないわけだから、悪化しても良くなっても、そのことを考えておけば、そんなに一喜一憂しなくてすむであろう。したがってそれらにとらわれることなく自由性を保持できるとも言える。そして治療者が自由であればあるほど、患者の治癒力が開発されていきやすいのは言うまでもないであろう。

注:引用中の「八正道」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。「八正道」 ちなみに、八正道の一つである「正念」の「念」は、現代の「マインドフルネス」(例えば、他の拙エントリのここ、次の pdfファイル「日本の心理臨床におけるマインドフルネス」をそれぞれ参照して下さい)に相当するようです。ただし、仏教用語としての「念」と臨床心理学用語としての「マインドフルネス」は同一ではないと本エントリ作者は考えます。

(2) 臨床現場における患者の苦しみについて、平井孝雄著の本、「仏陀の癒しと心理療法 20の症例にみる治癒力開発」(2015年発行)の 第2章 心の病と苦 の 第2節 臨床における苦-苦と病の関係 の「第1項 患者の苦しみ」における記述(P63~P65)を次に引用します。

苦一覧
それでは、肝心の臨床現場における患者の苦しみはどうなっているのだろうか。思いつくままに挙げてみると、
①不安、恐怖、強迫、パニック、心配、気がかり、気苦労、心労、危惧、懸念、対人恐怖、醜形恐怖など
②憂鬱、絶望感、無気力、無感動、自己否定、自信喪失、罪悪感、自罰感情、劣等感、希死念慮、自殺願望、思い煩い、憂悶、むなしさなど
③イライラ、怒り、モヤモヤ、不満、不快、瞋、憤り、憤怒、むかつき、家庭内暴力など
④迷い、葛藤、困惑、不決断、逡巡、迷妄、惑乱など
⑤焦り、焦慮、いらだち、焦燥など
⑥身体的苦痛、不眠、食欲不振、過食、頭痛、身体的痛み、麻痺、しびれ、かゆみ、ふらつき・めまい、便秘・下痢、疲労・だるさ・倦怠感、動悸、呼吸困難、過呼吸、吐き気、嘔吐、発熱、体力低下、視力低下、聴力低下、性機能低下など
⑦健忘、思考機能低下、認知機能低下など
⑧解離、分裂、ばらばら、狼狽、自己喪失、脱落意識など
⑨幻聴、妄想、幻覚、作為体験(させられ体験)、異常体験など
⑲他者からの誤解、無理解、拒絶、見捨てられ感など
⑪目標喪失、先が見えないなど
⑱依存、アルコール依存、薬物依存、買い物依存、セックス依存、ギャンブル依存、過食、拒食など
自傷行為、他者への破壊的行為、自己統制困難など
⑮自立困難、過度の依存、一人で居られない、外出困難、日常生活の能力低下、就労不能、金銭管理の無能力など
⑯経済的困窮、貧困、借金など
といったところが浮かんでくるが、これはほんのちょっとした例で、患者の苦はそれこそ先の華厳経の苦のごとく多いものである。

心の病は、苦の悪循環の結果
ところで、これら①から⑯は相互に関連しており、それぞれが原因とも結果ともなりえる。例えば、不安→動悸→恐怖→過呼吸パニック発作→恐怖定着→外出恐怖→外出困難→日常生活能力低下→自信喪失→うつ状態→未来に対する過度の不安、といった具合である。それから言えばこういう悪循環や負のスパイラルの果てに病気が発生するのであろう。これは、心の病だけでなく、身体疾患にも言えることである。
それで、専門家(医師、臨床心理士、カウンセラーなど)に相談することになり、運が良ければ、悪循環や負のスパイラルが断ち切られ良循環が引き出されるのだろう。
ただ、この悪循環の結果は、ある程度の不安定さを有しながら固定化していることが多い。症状や問題点というのは、その患者の歴史の総決算かもしれない。だから、不用意に性急に手を加えると平衡状態が崩壊して一層悪い事態を招くときがある。それゆえ、治療という介入は慎重にせねばならない。

(3) 平井孝雄著の本、「仏陀の癒しと心理療法 20の症例にみる治癒力開発」(2015年発行)の 第1章 四諦・中道・縁起一仏陀の基本的教え の 第2節 仏陀から学んだこと-基本的な教え(四諦、中道、縁起) の「第5項 応機説法-仏陀の説法の仕方」における記述の一部(P40~P43)を次に引用します。

仏陀の説法の仕方
以上のように、仏陀は、四諦、中道、縁起という素晴らしい教えを説いたが、一般の衆生、特に追い込まれている患者はなかなかそのことを理解できないことが多い。また理屈ではわかっても実生活でそれを生かせなかったりということが、往々にして生じやすい。
しかし、仏陀は教えの内容だけが素晴らしかったのではなくて、教えの説き方そのものにも素晴らしい技を発揮しており、ここでも学ぶことが多かった。
その説き方の基本は「応機説法」とよばれるもので、これは「その場(人) に応じて法を説く」といったことである。仏陀はあるバラモンに対して「私はこのことを説くということが、私には無い。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の見解における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを得た」と答えているが、ここの所は大変大事な個所である。
というのは先にどんなものにも実体がないということや、何事にもとらわれない自由な態度が重要だと言ったが、仏陀はまさに何も説かないと同時に、何でも説く、その場その人に応じて、自由自在に説く内容を変えていったと思われるし、時には何も答えないというかたちで応えていったこともあるのであろう。
仏陀の教えの説き方の要約は以下のとおりである。
①相手の立場に立つこと
②相手のレベルや言葉で考えること
③知らないうちに相手に考えさせ反対の立場に導くこと
といったものであるが、この辺の事情をペック(十九世紀ヨーロッパの仏教学者)は「質問に対する仏陀の態度もまた重要である。問われるままに質問に答えるとは限らず、むしろ仏陀は教化によって問うものに回心を呼びおこし、内面的な心霊変化を生じさせるのであって、これによって、問う者は自分の質問の意味からまったく引きはなされ、その質問を思いついた思考のあらゆる前提が、仏陀の言葉によって自分の内部によって呼び起こされた高次の知恵に対しては、対象を失い、意義を失って消失する、ということがわかる」と述べている。この仏陀の態度は一言で言えば、御説を垂れるというよりは、相手に考えさせるといったことだと思われる。

応機説法の例-バラモンの非難に対する応答
この例として、弟子を仏陀にとられたバラモンが、仏陀を非難した時の問答を挙げてみる。仏陀は、バラモンの非難に直接答えずに次のように問い返した。
仏「バラモンよ、汝の家に来客のあることがあるか」
バ「もちろんある」
仏「では、その時には、食事をふるまう時もあるか」
バ「もちろんその通りだ」
仏「では、その時、その客がその御馳走をいただこうとしなかったら、その御馳走は誰のものになるであろうか」
バ「それは私のものになるよりしかたがない」
仏「バラモンよ。今、汝は悪口雑言を浴びせ掛けてきたが、私はそれを受け取らない。したがって、その悪口雑言は、もう一度翻って汝の物に成るよりほかないではないか」
このような問答によって導かれたバラモンは深く反省し、仏陀に帰依していったということである。

心理療法と応機説法
この例でわかるように、相手の立場に立って相手に考えさせていくほうが、しっかりと教えが身につくということを仏陀はよくわかっていたと思われる。
これは臨床でもよくうなずけることで、患者の「これは病気ですか」とか「治りますか」といった重大質問に直接答えるよりも、相手に考えさせていく方がより患者の理解が深まり、身につくように思われる。また、そう考えさせていくことで、実は自分が精神病ではないか、精神病だと治らないのではないかといったかなり核心的な怯えを明るみに出して話し合うことも可能になることが多い。
また対話によって相手に考えさせるというやり方と同時に、相手に直接、体験させるというやり方をとる場合もある。

キサー・ゴータミーに対する応機説法
この例としては、我が子を亡くして嘆きの底にあったキサー・ゴータミーのそれが挙げられる。彼女は、赤ん坊を亡くして半狂乱の状態にあったのだが、仏陀はそれに対し「芥子の実を二、三粒もらってきたら生き返らせてあげよう」という驚くべき約束をする。ただし「その芥子粒は今まで死者を出したことのない家からもらってくるように」ということを言い添えるのを忘れなかった。
村を巡る彼女に村人たちは喜んで芥子粒を提供しようとするが、第二の条件に対してはどこで聞いても「うちはあるじがなくなったばかりで……」とか「うちでは先祖から数え切れないほどの人が死んで、今は私一人きりです」といった返答しかなかった。結局彼女は芥子粒をもらうことはできなかったが、村を巡る体験の中で「結局、死者を出したのは、私の家だけではない。生きている者は必ず死ぬのだ」ということを実感し、精神的な安らぎを得たのであった。
この応機説法、相手に考え体験させるといったやり方は、先述したように、筆者の日常臨床の基本であるが、ここで自験例を挙げる。

注:引用中の「ここで自験例を挙げる。」における自験例の引用は省略しています。

(4) 合理主義者としての仏陀として、平井孝雄著の本、「仏陀の癒しと心理療法 20の症例にみる治癒力開発」(2015年発行)の 第1章 四諦・中道・縁起一仏陀の基本的教え の 第2節 仏陀から学んだこと-基本的な教え(四諦、中道、縁起) の 第6項 救済者、超越者としての仏陀 の「合理主義者としての仏陀」項における記述(P50)を次に引用します。

ところで、今まで述べてきた、四諦、中道、縁起、応機説法等は、よく考えてみれば、きわめて合理的で、しかも常識的な教えのように思われる。すべて、人間やこの世の世界に関する根本的な理屈を述べているようである。その意味で、仏陀は、この錯綜した世界の中に明確な因果律をもたらすと共に、合理的な人生態度を探求していった最初の人であるように思われる。

(5) 精神科の位置づけ例として、平井孝雄著の本、「仏陀の癒しと心理療法 20の症例にみる治癒力開発」(2015年発行)の 第5章 求不得苦とうつ病・ヒステリー の 第2節 ヒステリーと求不得苦-事例G の「第2項 身体が麻痺してしまった主婦-事例G」における記述(P129~P130)を次に引用します。

(前略)さて、Gさんは実母に連れられて私の元を受診したが、明らかに精神科に連れて来られたことに不満そうであった。そこで私は<病院にかかるだけでも辛いのにましてや精神科に、しかも自分の意志ではないのに連れてこられたら、それは辛いですよね>と言うと、「そうなんです」と少しうなずいてくれた。
これは行けると思い<ここは名前は精神科・神経科・心療内科となっていますが、悩み事のよろず相談所と考えたらいい。ここは援助するところで、精神科医は悩み事相談のプロですから>と説明すると、また少し心を開いてくれたようであった。そして<とりあえず事情を聞かせてくれませんか>と言うと、少しずつ応じてくれた。そこでなるべく本人の身体症状や現在の生活や対人関係に焦点を合わせて詳しく聞いていくと、本人は堰を切ったように喋り始めた。(後略)

(6) スキーマ療法における早期不適応的スキーマについて、「こころの科学 185号(2016年1月)」の特別企画「パーソナリティ障害の現実」中の伊藤絵美著の文書「スキーマ療法」(P63~P67)より記述の一部(P63~P65)を次に引用します。

はじめに
スキーマ療法(schema therapy)とは、米国の心理学者ジェフリー・ヤングが構築した、認知行動療法(CBT)を拡張した統合的な心理療法である。ヤングはパーソナリティ障害の治療のために、従来、うつ病や不安障害を対象としていたCBTを拡張し、そこにアタッチメント理論、対象関係論、ゲシュタルト療法、感情焦点化療法、構成主義などを加えて融合し、スキーマ療法を構築した。
二〇〇三年にヤングらによる包括的な治療マニュアルが出版されたこと(1)、そして二〇〇六年に境界性パーソナリティ障害(BPD)に対するスキーマ療法のエビデンスが質の高いRCT(無作為化比較試験)によって示されたことにより(2)、スキーマ療法は世界中に知れわたることになり、現在、BPDをはじめとしたパーソナリティ障害に対する、そしてパーソナリティ障害に限らず「生きづらさ」を抱えるクライアントに対する治療法・援助法として広く実践されるようになっている。
本論ではスキーマ療法について紹介し、次にBPDにスキーマ療法を適用した事例を報告する(中略)

スキーマ療法とは(中略)

これはCBTの基本モデルを拡張したものである。CBTでまず扱うのは、「自動思考」という浅いレベルの認知であり、その時々に頭をよぎる瞬間的な思考やイメージである。一方、スキーマ療法で扱うのは、すでにその人の頭の中にあるその人なりの「価値観」「深い思い」「マイルール」といった深いレベルの認知である。それを心理学的にはスキーマと呼ぶ。なかでも、人生の早期(幼少期や思春期)に形成され、当初はその人の適応に役立っていたかもしれないが、その後その人をかえって生きづらくさせるスキーマのことを「早期不適応的スキーマ(Early Maladaptive Schema)」と呼ぶ。スキーマ療法が対象とするのは、まさにこの早期不適応的スキーマである。そのようなスキーマがさまざまな状況において活性化されることで、ネガティブで強烈な自動思考や気分・感情や身体反応が生じ、自分を大事にするための行動が取れなくなってしまう。
ヤングら(1)は一八の早期不適応的スキーマを定式化した。それを以下に挙げるが、これらのスキーマは、「愛されたい」「安心したい」「褒められたい」「有能でありたい」「自律的でありたい」といったすべての人間が有する
欲求(中核的感情欲求)が適切に満たされない場合に形成されると仮定されている。①見捨てられ、②不信・虐待、③情緒的剥奪、④欠陥・恥、⑤社会的孤立、⑥失敗、⑦損害と疾病に対する脆弱性、⑧無能・依存、⑨巻き込まれ、⑩服従、⑪自己犠牲、⑫評価と承認の希求、⑬否定・悲観、⑭感情抑制、⑮厳密な基準、⑯罰、⑰権利要求・存在、⑱自制と自律の欠如。
スキーマ療法には 「モードモデル」と呼ばれるもう一つのモデルがある。これは、その時にどのスキーマが活性化され、それにどのように対処したかによって、その人の「今・ここ」での体験や感情状態が変化することに注目したモデルである。モードは以下の四種類に分けられ、それぞれに複数の個別のモードが分類される。具体的には、①非機能的チャイルドモード(脆弱なチャイルドモード、怒れるチャイルドモード、衝動的・非自律的チャイルドモードなど)、②非機能的コービングモード(従順・服従モード、遮断・防衛モード、過剰補償モード)、③非機能的ペアレントモード(懲罰的ヘアレントモード、要求的ペアレントモード)、④ヘルシーモード(幸せなチャイルドモード、ヘルシーアダルトモード)である。
パーソナリティ障害の特徴は、彼ら・彼女らが多くの早期不適応的スキーマを強烈にもっていることである。それだけ人生早期に中核的感情欲求が満たされず、傷ついてきたということになるのだろう。また、モードモデルに基づけば、常にそれらの早期不適応的スキーマのどれかが彼ら・彼女らの中で活性化し、それに対して健全な対処ができないので、非機能的チャイルドモード、非機能的コービングモード、非機能的ペアレントモードに陥りやすいという特徴がある。そして、「幸せなチャイルドモード」と「ヘルシーアダルトモード」からなる「ヘルシーモード」が非常に脆弱であり、人生を楽しんだり、自分を助けたりすることがきわめて難しい。
したがってパーソナリティ障害に対するスキーマ療法の目的は、①早期不適応的スキーマを理解し、手放すこと(1)、②自分を幸せで健全な方向に導いてくれる新たな「ハッピースキーマ」を手に入れること(4)、③非機能的なモードを減らし(「非機能的チャイルドモード」の場合はそれを癒し)、ヘルシーモードを育み強化すること、とくに「ヘルシーアダルトモード」を自分の中に確立し、自己を統合すること(3)の三点となる。これらを目的として行われるスキーマ療法において最も重視されるのが「治療的再養育法(limited reparenting)」という治療関係を用いた技法である。これは、セラピストが治療という限られた設定の中で「よき親」としてクライアントとかかわり、クライアントのこころの傷ついた部分に対する再養育を試みる、という技法である。クライアントは治療的再養育法を通じて幼少期に得られなかった健全なアタッチメントを供給され、そこを足がかりにして心理的発達が促される。また、治療的再養育法によって、クライアントの早期不適応的スキーマや非機能的チャイルドモードが癒され、ハッピースキーマやヘルシーモードが徐々に育まれていく。この治療的再養育法は非常にパワフルな技法で、これがスキーマ療法の最大の武器であると筆者は考えている。(後略)

注:i) 標題の「スキーマ療法」については、次のWEBページを参照して下さい。「日本スキーマ療法研究会」 ii) 引用中の「BPDにスキーマ療法を適用した事例」の部分は以下を除き引用していません。 iii) 引用中の文献番号「(1)」、「(2)」、「(3)」、「(4)」はそれぞれ次の本又は論文です。「Young, J.E., Klosko, J.S., Weishaar, M.E.: Schema therapy: a practioner's guide. Guilford Press, 2003.(伊藤絵美監訳『スキーマ療法-パーソナリティ障害に対する統合的認知行動療法アプローチ』金剛出版、二〇〇八年)」、「Outpatient psychotherapy for borderline personality disorder: randomized trial of schema-focused therapy vs transference-focused psychotherapy.」、「Arntz, A., Jacob, G.: Schema therapy in practice: an introductory guide to the schema mode approach. Wiley-Blackwell, 2013.(伊藤絵美監訳『スキーマ療法実践ガイド-スキーマモード・アプローチ入門』金剛出版、二〇一五年)」、「伊藤絵美編著、津高京子、大泉久子、森本雅理『スキーマ療法入門-理論と事例で学ぶスキーマ療法の基礎と応用』星和書店、二〇一三年)」 iv) 引用はしていませんが、BPDの患者に対しスキーマ療法を本格的に展開するためのお膳立てが必要です。お膳立ての内容例は引用元文書の非引用部に示されています。 v) 引用中の「自動思考」について、伊藤絵美著の本、「折れない心がメモ一枚でできる コーピングのやさしい教科書」(2017年発行)の「Lesson① STEP3 自動思考をつかまえる」における記述の一部(P030)を以下に引用します。 vi) (早期不適応的)スキーマの外在化に関して、同文書の「事例-BPDに対するスキーマ療法の展開」項における記述の一部(P66)を以下に引用します。 vii) ちなみに、上記「お膳立て」に関連するかもしれない a)「コンテインメント」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 「認知行動療法」における成果を上げられる段階に至るまでが大変なことについては、岡田尊司著の本、『パーソナリティ障害がわかる本 「障害」を「個性」に変えるために』(2014年発行)の 第3編 パーソナリティ障害の治療と克服 の (3)主な治療法 の「③認知行動療法」における記述(P314~P315)を以下に引用します。 c) さらに、人生の危機に直面した方々に対し、科学としての医学には限界があることについて、医療少年院に勤めた経験がある岡田尊司著の本、「生きるための哲学」(2016年発行)の「はじめに 生きづらさを抱えた人に」における記述の一部(P3~P5)を以下に引用します。 加えて、幼少期のトラウマ治療法である「STAIR&NST」(感情と対人関係の調整スキル・トレーニングとナラティブ・ストーリー・テリング)では、第1段階の STAIR が 第2段階の NST の準備(お膳立て)になっているようです。この視点からの「STAIR&NST」の説明は、野呂浩史企画・編集の本、「トラウマセラピー・ケースブック 症例にまなぶトラウマケア技法」(2016年発行) 中の 大滝涼子,加藤知子著の文書「感情と対人関係の調整スキル・トレーニングとナラティブ・ストーリー・テリング 幼少期のトラウマによる PTSD のための認知行動療法」の「2.STAIR&NST の誕生と治療構造」における記述の一部(P134~P135)を以下に引用します。

(前略)わたしたちの頭のなかでは、朝から晩まで、さまざまな考えやイメージが浮かんでは消えていくことが繰り返されて、これを心理学では「自動思考」と呼びます。

スキーマ分析はクライアントにとって痛みの伴う作業だが、このようにこれまでスキーマとはわからずに内在化されていたつらい思いが、スキーマとして外在化され、客観視できるようになると(スキーマの自我違和化)、それだけでかなり楽になる人が多い。(後略)

認知行動療法

間違った信念に倍づく自動思考や否定的思考を、問題が生じるたびにチェックし、そう思ってしまう根拠や本当にそうなのかを問い直すことで修正を図っていきます。患者のセルフヘルプを重要視し、自らが行う宿題を与え、記録させます。
境界性パーソナリティ障害の場合、自分は欠陥品なので、どうせ見捨てられてしまうという信念を抱いています。そのためにしがみつき行動や試しが繰り返されます。根底にある信念を自覚させ、それが妥当性を欠いたものであることを悟らせることで、行動が次第に変化していきます。
また、境界性パーソナリティ障害によく見られる二分法的な思考の修正も図られます。二分法的な思考が改善すると、行動も衝動的で両極端なものから、安定したものに変わっていきます。
ただ、愛着が非常に不安定なケースでは、自分の「偏った」認知を指摘されたり、修正する作業が、自分を否定されているように感じてしまい、つらい作業になりがちです。ドロップアウトすることも多いと言えます。認知行動療法を、機械的で、冷たく、受け止めてもらえなかったと感じる人もいます。不安定なタイプの人ほど、感情面に深い傷を負っており、もっと手前の段階の手当てを必要としているからです。ある意味、認知行動療法が成果を上げられる段階に至るまでが大変なのです。治療が続けられるように、共感的な対応の部分も大事だと言えるでしょう。

注:i) 引用中の「認知行動療法」におけるうつ病に対する資料を次に紹介します。 「うつ病の認知療法・認知行動療法(患者さんのための資料)」 ちなみに、これらの認知行動療法は、精神科医アーロン・ペックによって創始された認知療法のことであると本エントリ作者は考えます。他の拙エントリのここも参照して下さい。 ii) 引用中の「自動思考」についてはここ及び資料「うつ病の認知療法・認知行動療法(患者さんのための資料)」の P5 をそれぞれ参照して下さい。 iii) 引用中の「信念」については、他の拙エントリのここを参照して下さい。

はじめに 生きづらさを抱えた人に(中略)

私は重い試練を抱え、人生の危機に直面した人々と向かい合ってきた。その中で、ひしと感じるようになったことは、科学的アプローチや科学としての医学だけでは、人は救われないということである。重い困難ほど、それを乗り越えるためには、形而上の精神的な営みが必要だと教えられた。そうした局面に立たされたとき、科学的合理主義には明らかな限界がある。合理的な理屈をいくら振り回しても、気持ちを汲むことも、助けになることもできず、事態をこじらせるだけで、なんの役にも立たないことも多い。(後略)

2.STAIR&NST の誕生と治療構造
ここで紹介する STAIR(Skills Training in Affect and Interpersonal Regulation:感情と対人関係の調整スキル・トレーニング)と,NST(Narrative Story Telling:ナラティブ・ストーリー・テリング)は,前述したような幼少期の虐待に始まる複雑性トラウマを持つ成人患者のための治療法として,Dr.Marylene Cloitre によって開発された。
この治療は,STAIR と NST の 2 つの異なる介入で構成されている。前半の STAIR に関しては DBT(Dialectical Behavior Therapy:境界性パーソナリティ障害のための弁証法的行動療法)を基に,後半の NST は PE(Prolonged Exposure Therapy:PTSD のための持続エクスポージャー療法)の理論を基に作られ,これらを掛け合わせて改良されたものと考えられる。
この 2 つの段階を踏む治療構造は,Herman(1992)10) の段階的治療の概念である,第1段階:安全,安定化,生活能力の強化,第2段階:トラウマ記憶の処理,第3段階:大きなコミュニティへの統合とも整合性がある。治療前半の STAIR では,現在の生活での対人関係や感情調整の問題に直接働きかけるもので,患者が一段ずつ階段を上っていくように段階的に取り組んでいく。ここで最初の目的は,まず感情への気づき,また,否定的な感情の扱い方や苦痛を調整するスキルを構築することである。2 つ目には,幼少期に学んだ対人関係のパターンが今現在にも影響を与え続けていることを学びながら,対人関係のスキーマを同定し,患者自身がより安定して自分の感情をコントロールできるスキルや,健全な対人関係を築くためのスキルを獲得していくことを目的としている。
そのようなスキルを習得した上でトラウマの語りの段階,NST に取り組むのがこの治療法の大きな特徴である。第1段階の STAIR での取り組みが,より強い感情が関わってくる第2段階の NST の準備になるとも言える。この準備なしにトラウマのナラティブに取り組むと,トラウマ体験の語りとともに生じる感情に圧倒されて,大きな回避や解離が生じたり,治療自体をドロップアウトしてしまうケースもある。STAIR の段階で身につけたスキルをもってトラウマのナラティブに取りかかることで初めて,トラウマについての語りが可能となり,その出来事と関連する体験や感情の整理をしっかりと進められるようになる。(後略)

注:i) 引用中の文献番号「10)」は次の本です。「Herman J: Trauma and Recovery. Basic Books, New York, 1992.」 ii) 引用中の「境界性パーソナリティ障害」及び「PSTD]については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iii) 引用中の「スキーマ」については、ここ及び他の拙エントリのここを参照して下さい。 iv) 引用中の「ナラティブ」に該当する「ナラティヴ」については、他の拙エントリのここを参照して下さい。


注:本エントリは臨時公開です。予告のない改訂(削除、修正、追加、公開日や修飾の変更等)又は全削除を行うことがあります。

*1:精神科医と面接との関係について、井原裕著の本、「激励禁忌神話の終焉」(2009年発行)の「第7章 精神科医は薬のソムリエにあらず」における記述の一部(P141~P142)を次に引用します(【 】内)。【「精神科的診察においては、面接を通して病歴の聴取も診察も治療も行われる」と説く土居にとって、臨床とはすなわち面接である。精神科医にとって、いい面接をすることがプロの仕事である。同じことは、笠原も次のように述べている。「生物学的精神医学を専攻するにしろ、心理・社会的アプローチのほうにより多くの関心を抱くにしろ、精神科医である以上、そのアイデンティティのかなり中核部分に『面接術』とでもいったものがあるだろう。面接をしない精神科医というのは丁度、手術をしない外科医のようなものだろうから」】 注:引用中の文献番号の記述は省略しています。

*2:精神科医には診断技術や薬の処方技術も求められます

*3:ちなみに、似た位置取りの精神科医の著作からの引用例は、他の拙エントリのここを、他の精神科医を紹介するWEBページ例はここを参照して下さい

*4:追加のキーワード:「常識がない」「気が利かない」「協調性がない」「チームワークがとれない」「感覚(思考)がずれている」「どこかおかしい」「理解できない」

*5:前者のリンクは引用元の本の紹介で、後者のリンクは引用です

*6:前者のリンクは引用元の本の紹介で、後者のリンクは引用です

*7:より詳しくは、愛着スタイルが「自律型」又は「安定-自律型」ではない(ここ参照)。愛着の問題はトラウマ(ここ参照)と密接な関係があります(ここここ参照)

*8:ここも参照すると良いかもしれません

*9:ここの「③心から人を信じたり、人に安心感が持てない」項も参照して下さい

*10:例えば、P20~P21、P26~P27、P38~P41

*11:例えば、P28~P29、P46~P49

*12:このWEBページ中の「トラウマ」については、他の拙エントリのリンク集を参照して下さい

*13:ここでの「思想」は観念や認識を含む概念です

*14:顕著な人格の低下は無治療の統合失調症に見られるようです

*15:神経症水準、境界例水準、精神病水準の順に状態が悪くなります。ここを参照して下さい。