krns-linkのブログ

まだ仮公開で、今後も本公開までドタバタします。コメント欄は有りません。ちなみに、拙ブログ作者は医療関係者ではありません。拙ブログは訪問者の方々がお読みになるためのものですが、鵜呑みにしない等、自己責任でお読み下さい(念のため記述)。

一部拙エントリの補足説明について(その2)

目次

注:上記目次以外にも、①[精神疾患において]「正常と異常の境い目は明確に分けられうものではなく、広いグレーゾーンが存在している」ことについてここを、②解離性障害(又は解離症)に関する様々な紹介についてはここを それぞれ参照して下さい。

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前書き

本エントリは過日に公開されたエントリ「一部拙エントリの補足説明について(その1)」に続くもので、本エントリ(前者)は後者よりもより拙ブログ全体に関連が薄いかもしれない、主にポリヴェーガル理論、診察室における精神科医の対応例を含む精神医学に関連する補足説明を集めており、これらの補足説明は全体的に前者のエントリよりもバラバラ感があるかもしれません。

≪主な改訂の履歴≫
主な改訂の履歴はありません。

補足説明(その2)についての概要

本エントリは精神医学的なもの含む記事を引用します。

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以下の【1】【4】では、様々な精神疾患における非定型、グレーゾーン、スペクトラム等に関してそれぞれ紹介しています。ちなみに、 (a) [精神疾患において]「正常と異常の境い目は明確に分けられるものではなく、広いグレーゾーンが存在している」ことについて、岩波明著の本「どこからが心の病ですか?」(2011年発行)の「はじめに」における連続する記述の一部(P7)を二分割して次に引用(それぞれ『 』内)します。 『「どこからが、心の病ですか?」と訊かれることが、よくあります。』、『正常と異常の境い目は、明確に分けられるものではありません。その間には、かなりのグレーゾーンが存在しています。一見して明らかな「異常」、だれにでも明白な「病気」という状態も存在していますが、多くの場合異常との境界は曖昧なことが多いものです。これは精神疾患だけではなく、身体的な病気においても同様です。』 加えて上記「正常と異常の境い目は明確に分けられうものではなく、広いグレーゾーンが存在している」ことに類似するかもしれない[(自閉スペクトラム症のみならず)精神科の病気のすべてに共通することとしての]「正常と病気の境界線はほとんどの場合があいまいです。つまりグレイゾーンは広いのです。」について、村井俊哉著の本、「はじめての精神医学」(2021年発行)の 第2章 自閉スペクトラム症、知的能力障害、注意欠如・多動症 の「自閉スペクトラム症」における記述の一部(P34)を次に引用(【 】内)します。 【これは以下の精神科の病気のすべてに共通することなのですが、正常と病気の境界線はほとんどの場合があいまいです。つまりグレイゾーンは広いのです。】 (b) 「強い精神症状は明らかに異常ですが、軽度の精神症状と正常の間に明確な線は引けない」ことについて、松崎朝樹著の本、「教養としての精神医学」(2023年発行)の「あとがき」における記述の一部(P268~P269)を次に引用(《 》内)します。 《また、さまざまな精神症状について読むと、なかには自分にも当てはまりそうに思えるものもあったはず。強い精神症状は明らかに異常ですが、軽度の精神症状と正常の間に明確な線は引けず、正常のすぐ隣に異常は存在し、その点でも精神障害は意外に身近なものだったはずです。》 (c) 解離性障害(解離症)において病気と健常との境目もはっきりしていないことについて、柴山雅俊監修の本、「解離性障害のことがよくわかる本」(2012年発行)の 3 「健常」から「解離」に至る原因は の 一般的な経験 思い出の一シーンには自分が登場している の「解離性障害は脳がトラブルではない」における記述の一部(P56)を次に引用(『 』内)します。 『また、病気と健常との境目もはっきりしていません。過敏や離隔に似た症状は、解離のない人にもある、ごくありふれた症状です。ただ、それが強く出ているのが解離性障害なのです。』(注:引用中の「過敏」について、同本の 2 こころが二つに割れてしまう病 の「過敏 人のいる気配に敏感になりすぎる」における記述の一部(P36)を次に引用[【 】内]します。 【「過敏」という状態は解離の一つととらえられます。周囲の人や気配に敏感すぎるのです。】 加えてこれに関連する「対人過敏」についてはここを、「離隔」については次のWEBページを それぞれ参照して下さい。 「解離症 - 脳科学辞典」の「離隔」項 (d) ADHD における「“スペクトラム”の考え方」については次のWEBページを参照して下さい。 「"ADHDタイプ"の方の対処策①」の「“スペクトラム”の考え方」項 (e) 『パーソナリティ障害(参照)では、「その傾向がある」ことと「そう診断できる」の境はかなり曖昧である』ことについては次のWEBページを参照して下さい。 「【4140】私は境界性パーソナリティ障害の診断基準に一致しています」(注:HOME はここを参照して下さい) (f) 「複雑性PTSDの連続体」について、ピート・ウォーカー著、牧野有可里、池島良子訳の本、「複雑性PTSD 生き残ることから生き抜くことへ」(2023年発行)の 第1部 回復についての概要 の 第4章 回復への歩み の『「心配しないで,幸せになりなさい」という感情的帝国主義』における記述の一部(P89)を次に引用(《 》内)します。 《複雑性PTSDの連続体は,軽度の神経症から精神病まで,また高機能から機能不全まであります。重症度は,フラッシュバックのない期間が長いものから,フラッシュバックの恐怖に苛まれる期間が長いものまで様々です。また,範囲についても,生き生きとした経験が増えている状態から,障害をかろうじて乗り越えている状態まで様々です。》(注:1) 引用中の「神経症」については他の拙エントリの他の拙エントリのここや次の資料を参照すると良いかもしれません。 『いわゆる「神経症」の診断と診断のための面接』 2) 引用中の「精神病」については次の資料を参照すると良いかもしれません。 『Psychosis――「精神病」から「精神症」へ――』) (g) 「自由意志と強迫症を完全に区分することはできない」ことについてのツイートがあります。

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【1】精神疾患におけるすべての人は非定型・非典型であることについて

標記について最初に青木省三著の本、「こころの病を診るということ 私の伝えたい精神科診療の基本」(2017年発行)の 第11章 診断する の「診断基準で見えるもの・見えないもの」における記述、そして「非定型・非典型な病像や経過から考える」及び「すべての人は非定型・非典型である」における記述の一部(P148~P151)を以下に引用します。ちなみに、a) この本の書評については次のWEBページを参照して下さい。 「こころの病を診るということ」の「書評」項 b) 標記非定型に関連する対談が次のWEBページに紹介されています。 「診断に頼らない診かた 精神科診療に欠かせない発達と生活の視点

診断基準で見えるもの・見えないもの
国際疾病分類(ICD)や精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)は、臨床医が精神疾患を客観的に把握したり、基礎および臨床的研究の対象を均一に限定したり、多領域・多職種の人たちや多文化を生きる人たちと情報交換をしたり連携したりする際の共通語として非常に有用である。これらに基づく診断をつけることで、病気のイメージを共有でき、支援を考えることができる。また司法的な判断を求められるときや、精神障害者年金などの公的診断書にも共通語として必要である。だからこそ、ICD や DSM を理解し、その概念に当てはめて考えられるようになることは重要である。さらに診断に基づく治療ガイドラインや薬物アルゴリズムなども学んでおきたい。
しかし、ここで忘れてはいけないのは、ICD や DSM による診断が一人の患者さんをすべて理解したことにならないということである。精神科医は経験を積めば積むほど、明快な診断をすることが難しくなるように感じている。なぜなら病気に当てはまらない部分がいろいろと見えてくるからである。気がついてみると、悩み苦しんで混乱している一人の人がよく見えてくる。一人の人をよく知れば知るほど、病気のことがよくわからなくなる。統合失調症でも双極性障害でも、その輪郭がぼやけ、皆が非定型・非典型のように見えてくる。たとえば、自分を攻撃してくる幻覚や妄想という症状の背景に、誰の援助もなく孤立し心細く生きている一人の人が見えてくるといったように。病気よりも人が見えてくるのである。

非定型・非典型な病像や経過から考える
現実の臨床では、伝統的診断、そして ICD や DSM に当てはまらない、非定型・非典型な病像や経過が増えてきている。そのような例から考える必要があるのではないだろうか。
定型・典型な病像は、どの診察医が診ても基本的にはほぼ同じ診断になる。たとえば重症・中等症の統合失調症うつ病(内因性うつ病)、双極Ⅰ型障害などは、複数の精神科医が診てもその診断は変わらないことが多い。
一方、非定型・非典型な病像[表1]は、教科書の記載や ICD、DSM の診断基準に当てはまりにくく、診察医によって異なった診断名がつきやすい。それはしばしば軽症例である。特にうつ病発達障害は軽症例が増加しており、そのため非定型・非典型な病像を診る機会が増えていると考えられる(これらの軽症例の増加には、①疾患概念の浸透・拡大、②事例化の増加、③精神科受診の敷居の低下、などの要因が関与しているのであろう)。
たとえば、抑うつ状態も軽症になると診断が異なるものとなりやすい。「適応障害」「軽症うつ病」「病気ではない」など、診る精神科医によって診断が異なり、それだけでなく治療や対応も変わってくることがある。発達障害についても、軽症の場合は発達特性も精神症状も非定型・非典型となり、精神科医によって診断が異なるといったことが生じやすい。そのような診断の不一致が、患者さんや家族の医師に対する不信や、前医と後医の間での不信を招くこともある。

すべての人は非定型・非典型である
私たちが留意しなければならないのは、非定型・非典型な病像を、無理やり定型・典型な病像に当てはめて診断していこうとすることを避け、非定型・非典型な病像をそのままきちんと把握するという姿勢をもつことである。多職種や多文化の間で共有できる共通語としての ICD や DSM に病像を当てはめることは大切なことであるが、これらに基づく診断は患者さんの病像をいくらか無理に当てはめている可能性があるということを認識しておくべきである。ICD や DSM に当てはまらない部分に気づき、非定型・非典型病像をできるだけていねいにとらえることが、一人の患者さんを理解するということである。人は一人ひとり異なり、すべての人は非定型・非典型であると考えるくらいがよい。
筆者の臨床的な実感からいえば 定型発達の患者さんの病像は教科書的、すなわち定型・典型な病像になりやすく、発達障害傾向やトラウマ体験などをもつ患者さんの病像は非定型・非典型になりやすいように感じている。また、身体疾患や脳疾患などの器質因があるときにも、しばしば非定型・非典型な病像になるのではないがと感じている。(後略)

注:i) 引用中の「うつ病」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 ii) 引用中の「統合失調症」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iii) 引用中の「双極性障害」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iv) 引用中の「発達障害」については、他の拙エントリを参照して下さい。 v) 引用中の「適応障害」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「適応障害 - 脳科学辞典」 vi) 引用中の「[表1]」の内容を同の P150 より形式を変更して次に引用します。

[表1]非定型・非典型病像の例
■複数の病像、たとえば、解離症状、強迫症状、摂食障害などが、同時に認められる場合がある

■病像に古典的な枠組みでとらえられない矛盾したものがある
・幻覚妄想状態なのに、スーパーマーケットで普通に買い物ができる
・幻覚妄想状態なのに、派手な目立つ車に乗って街に出かけている
抑うつ状態なのに、赤い派手な下着を着ている
抑うつ状態なのに、1日のうちでも気分が激しく変化する
・不安・焦燥状態なのに、定期的に友人とランチを楽しんでいる など

■人や場面で病像が異なる
・職場では暗い表情でぼーっとしている。家ではテレビを見て笑っている
・病棟・病室では、無表情、寡黙。作業療法室では、笑顔で趣味について話す

■経過のなかで、急激な変化、病像の変遷
・環境が変わった瞬間に治る、病像が変化する(外来時は深刻なうつ病で、入院した瞬間に元気になる、など)
・経過のなかで病像が変わる(気分障害統合失調症強迫症など)

注:i) 引用中の「解離症状」に関連する「解離性障害」については他の拙エントリのリンク集[用語:「解離(解離性障害、解離症)」]を参照して下さい。加えて解離性障害において、病気と健常との境目もはっきりしていないことについてはここの b) 項を参照して下さい。その上に、「解離性障害に罹患している人は解離症状が頻発しているわけではない」ことについて、近藤直司田中康雄、本田秀夫編集の本、「こころの医学入門 医療・保健・福祉・心理専門職をめざす人のために」(2017年発行)の 講義09 トラウマとこころの臨床 の「5. 解離性障害離人・現実感喪失症候群,ならびに自傷」における記述の一部(P101)を次に引用(『 』内)します。 『解離性障害に罹患している人は,いつもいつでも、誰が見てもそれとわかる解離症状が頻発しているわけではありません。状態が落ち着いているときには,全く問題のない健康な人のように見えることもあります。そのような状態でも,現実感は乏しく,目の前の風景や物事が,「ガラス一枚を隔てたような距離感をもって」体験されていることが少なくありません。このような状態を離人症離人・現実感喪失症候群)と呼びます。これにストレスが加わった場合,この離人症の状態は悪化し,解離状態へと進展するわけです。』(注:a) この引用部の著者は松本俊彦です。 b) 引用中の「離人症」についてはここを参照して下さい。) ii) 引用中の「強迫症」については他の拙エントリのリンク集[用語:強迫性障害強迫症)、社交不安障害」]を参照して下さい。 iii) 引用中の「摂食障害」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iv) 引用中の「気分障害」の一部である双極性障害については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。加えて、上記「気分障害」の一部でもある引用中の「うつ病」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 v) 引用中の「統合失調症」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。

加えて、既存の精神障害における自閉症スペクトラム傾向を背景にもつ非定型・非典型な病像について、青木省三著の本、「精神科治療の進め方」(2014年発行)の 第14章 成人期の自閉症スペクトラム の 5 既存の精神障害の基底に認められる自閉症スペクトラム の「(4) 横断的にも病像が非定型・非典型である」における記述の一部(P173~P174)を次に引用します。

(4) 横断的にも病像が非定型・非典型である
〔症例4〕「確定診断」を求めて受診した30代後半の女性
3年あまりのうちに、抑うつ、不眠、夜間の頻尿やほてり、めまい、頭痛、幻聴(「誰もいないのに、命令するような声が、特定の人の声で聞こえてきた」)、「フラッシュ・バック」(特定の人物の声が聞こえてくる)などの多彩な症状が出現し、5、6カ所の精神科を受診し、統合失調症強迫性障害自閉症スペクトラム解離性障害などと診断された女性が、「今までいろいろに診断されてきたが、はっきりとした診断名を知りたい。自分は自閉症スペクトラムではないかと思うので、心理検査をしてほしい」という主訴で受診してきた。遠方からの「セカンド・オピニオン」(実際は6、7カ所目でセカンドではないが)を求めての受診であった。
幻聴は、不特定多数、超越的な他者の幻覚妄想ではなく、現実の特定の他者であり統合失調症は否定的であった。しかし解離性幻聴ということで、全部、説明できるかどうかはよく分からなかった。強迫性障害は、一時期、確認症状が強かったために付けられた診断であろうか。自閉症スペクトラムというには、本人のみの受診のため、発達歴が分からないため不明。女性は「集団の中に入るのは苦手で被害的となりやすく、孤立しやすい。幼い頃から、皆にいじめられやすく、一人でいた」という。たしかに診察では、こだわり、切り替えの困難、感覚過敏などが認められるようであった。
「私の診断は、何なんでしょうか?」という女性に、「あなたのように、診る先生によって診断が異なるという場合は、私の経験では、『診断がはっきりするような典型的なものではない』ということが多いのです。たとえば、典型的な統合失調症だったら、5人の精神科医が診て、皆の診断は同じになります。あなたの中には、解離や強迫、幻覚や妄想、自閉症スペクトラムのように見えるところがあって、その時々で出てくるものが異なるため、診断が変わってくるのではないかと思います。だから、いろいろな診断に見えるということこそが特徴なのです」と説明した(図9)。(後略)

注:i) 引用中の「図9」の引用は省略します。 ii) 引用中の「自閉症スペクトラム」は引用元の本の P162 によると、「自閉症スペクトラム≒広汎性発達障害と理解してもらえればよい」とのこと。ちなみに、上記「広汎性発達障害」については例えば次の資料を参照すると良いかもしれません。 「広汎性発達障害って(自閉スペクトラム症)」 iii) 引用中の「統合失調症」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iv) 引用中の「強迫性障害」については他の拙エントリのリンク集(用語:「強迫性障害強迫症)、社交不安障害」)を参照して下さい。 v) 引用中の「解離性障害」については他の拙エントリのリンク集(用語:「解離性障害(解離症)」)を参照して下さい。 vi) 引用中の「解離性幻聴」に関連する「解離性幻覚」ついては例えば他の拙エントリのここ及びここを参照して下さい。 vii) 引用中の「フラッシュ・バック」については、他の拙エントリのリンク集(用語:「フラッシュバック」)を参照して下さい。 viii) 引用中の「感覚過敏」については他の拙エントリのここを参照して下さい。

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【2】精神疾患を反応性であると考えてみることについて

最初に標記「反応性」については他の拙エントリのここを参照すると良いかもしれません。次に標記について青木省三著の本、「こころの病を診るということ 私の伝えたい精神科診療の基本」(2017年発行)より、以下に示す3つの記述を引用します。ちなみに、この本の書評については次のWEBページを参照して下さい。 「こころの病を診るということ」の「書評」項

① 同の 第11章 診断する の「反応性と考えてみる」における記述(P158~P159)を以下に引用します。

反応性と考えてみる
統合失調症でも発達障害でも器質性精神障害でも、どれだけ自覚されているかは別として、患者さんのなかに気持ちや考え、意思、願いが動いており、こころのなかの動きと精神症状はなんらかの形で影響し合っている。それと同時に、環境の負荷と精神症状も影響し合っている。そういう意味で、こころの動きや環境の変化に反応している部分が大なり小なりあるのではないか、すなわち「反応性の部分」があるのではないかと考えることが大切である。反応性に注目すると、精神症状の理解がより細やかになり、治療や支援のヒントが見つかることが多い。
筆者は、発達障害やトラウマ体験をもつ人に環境的なストレスが加わり、反応性に統合失調症様症状やうつ状態双極性障害様症状、不安症、強迫症摂食障害などを呈するのを見ているうちに、逆に従来の成人の精神疾患を反応性の視点から見直すことが増えてきた。そしてそのような姿勢で診ていると、統合失調症うつ病双極性障害などの既存の精神疾患のなかに、反応性の部分がたくさんあることに気づくようになった。そして患者さんの内的な悩み苦しみに気づき対応するだけでなく、環境調整や生活支援などをていねいに行うことで反応性の部分が和らぎ、それが精神疾患そのものの改善に役立つことを実感するようになった。筆者の体験からいえば 発達障害に注目することが、内的体験に注目することに、さらには発達障害だけでなく統合失調症などの反応性の部分に注目することにつながったのである。
臨床家は、たとえ患者さんが器質性精神疾患であったとしても、反応性の部分を診ていく、すなわち今ある器質因による認知機能の低下や環境因的な負荷のなかで、なんとかしたいともがいている本人を診ていくことが大切なのではないかと思う。

注:i) 引用中の(発達障害における)「統合失調症様症状」とは対照的に、社会に適応している自閉スペクトラム症(非障害自閉スペクトラム、本田秀夫)*6という状態もあります[『青木省三編著の本、「精神科臨床を学ぶ 症例集」(2018年発行)の ●発達障害 における青木省三、村上伸治著の文書「自閉スペクトラム症の診断をめぐって――主として思春期以降の例について」の「症例のまとめと問題点」』における記述(P155)より]。注:上記「非障害自閉スペクトラム」については例えば次の資料やWEBページを参照して下さい。 『自著とその周辺 自閉症スペクトラム -10人に1人が抱える「生きづらさの」の正体-』、「発達障害(14) 様々な側面から診る必要」 標記「反応性」を考慮して換言すれば、自閉スペクトラム症のグレーゾーン(ここを参照)の方々は、ストレス、負荷や危機等の状況により、上記非障害、神経症水準、境界例水準、精神病水準(他の拙エントリのここを参照)を移動することがあるのかもしれません。 ii) 「自閉スペクトラム(AS)は反応性精神障害のハイリスク」については、例えば次の資料を参照して下さい。 「ライフステージに応じた発達障害の人たちへの支援の考え方」の「ASは,反応性精神障害のハイリスク」シート iii) 引用中の「統合失調症」、「うつ病」、「双極性障害」、「不安症」、「強迫症」、「摂食障害」については共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。ただし、「不安症」に対しては用語「不安障害(不安症)」を、「強迫症」に対しては用語「強迫性障害強迫症)、社交不安障害」を それぞれ適用して下さい。 iv) 引用中の「トラウマ」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。

(前略)内山 横断面ですと、あまりエビデンスはないのですが、マイクロサイコーシスという、ちょっとした幻覚妄想がありますね。そんなに頑固なものではないですが、聞いていくとけっこういます。
僕は今、MINIを使ってインタビューしていて、そこには引っかかってこないけれど、よく聞き出すと、「そういえば2~3日、ちょっと幻聴がありましてね」ということがあります。
宮岡 それはなぜ起こるのでしょう。
内山 原因はわからないのですが、よく聞くと、受験や試験前とかのストレス状況のようですね。
宮岡 ストレスのある時ですね。
内山 そう。2~3日や4~5日続いて、落ち着いてから振り返ると「あの時、ちょっと変でしたね」という感じですね。(後略)

注:i) 同本の P150 にある、脚注としての引用中の「マイクロサイコーシス」についての説明を次に引用(『 』内)します。 『マイクロサイコーシス(micropsychosis) 微小精神病。一過性の精神症状で、brief psychotic disorder(短期精神病性障害)ともいわれる。』 ii) 同本の P150 にある、脚注としての引用中の「MINI」についての説明を次に引用(『 』内)します。 『MINI(The Mini-International Neuropsychiatric Interview) 精神疾患簡易構造化面接法』

② 加えて、同の 第12章 病気の経過(形)を知る の「発達障害の反応性精神症状の増悪と回復」における記述の一部(P169)を以下に引用します。ただし、脚注を示す記号の引用は省略します。

発達障害の反応性精神症状の増悪と回復
発達障害をもつ患者さんの場合、負荷がかかったときや危機的な状況に直面したときに発達障害の特性が急速に増幅し、精神症状も発現することがある[図14]。そして、その負荷がとれたり危機が過ぎたりした途端に、発達障害の特性や精神症状が急速に改善、時には消えてしまうこともある。なかには「一過性の発達障害」(福田)としか、表現できない状態もある。
また、抑うつ状態でも、徐々に回復するという過程をたどらず、「しんどいです」という悪い状態から、「ふっと楽になりました」と一気に回復するという経過をたどる場合もある。入院治療でいえば、入院した瞬間に改善している場合や、しばらく「まったくよくならない」という時期を経て(客観的には表情や雰囲気が徐々に改善しているように見えるが、本人は否定することが多い)、一気によくなる。従来の抑うつ状態が環境の変化と発症の間にタイムラグがあるのに対して、発達障害抑うつ状態にはそのタイムラグがないことが多い。変化と同時に抑うつが始まり、環境がよい方向に変化する(改善する)とともに抑うつ状態が消失するといったケースもある。逆に環境での負荷が続いている場合には、抑うつ状態が長期間、変化せず遷延する場合もある。つまり、経過が非定型・非典型なのである。(後略)

注:(i) 引用中の「図14」の引用は省略します。 (ii) 引用中の「福田」は次の文献です。 「福田正人(編著):改訂新版 精神科の専門家をめざす.星和書店,2012」 (iii) 標記「発達障害の反応性精神症状の増悪と回復」に関連する、 a) 「障害特徴と言われているものは、決して固定しているものではなく、時、所、人によって現れ方が異なる」ことについて、青木省三著の本、「ぼくらの中の発達障害」(2012年発行)の 第五章 「発達障害」を考える の ◆障害特徴とは、強まったり弱まったりと、変化するものである の「3)時によって現す姿が異なる」における記述の一部(P127)を次に引用(『 』内)します。 『障害特徴と言われているものは、決して固定しているものではなく、時、所、人によって現れ方が異なり、発達障害らしくなったり、発達障害らしさが薄らいだり、時には消えたりすることもある。』 b) 加えて、「広汎性発達障害を持つ人は、時、所、人によって、異なった姿を現しやすい」ことについて、同章の「◆[まとめ]青年期・成人期に顕在化してくる発達障害の特徴」 における記述の一部(P136)を次に引用(『 』内)します。 『3)広汎性発達障害を持つ人は、時、所、人によって、異なった姿を現しやすい。家庭、学校、職場、診察室、などでの姿が異なることは少なくない。』 c) その上に、「成人期になって顕在化する自閉スペクトラム症の特質は,心理的,環境的な負荷が加わったときに際立ちやすい」ことについて、次に引用(【 】内))します。 【成人期になって顕在化する自閉スペクトラム症の特質は,心理的,環境的な負荷が加わったときに際立ちやすい。すなわち危機的なとき,緊張したときなどに自閉スペクトラム症らしくなる。危機や緊張のときが過ぎると,自閉スペクトラム症らしさが和らぎ,診断するに足る特質を示さなくなることも多い2)。】(注:1) この引用部の著者は飯田順三です。 2) 引用中の文献番号「2)」は次の本です。 「青木省三:成人期の発達障害について考える.青木省三,村上伸治編:成人期の広汎性発達障害.精神科臨床リュミエール23,中山書店,東京,p.2-16,2011.」) (iv) 引用中の「発達障害をもつ患者さんの場合、負荷がかかったときや危機的な状況に直面したときに発達障害の特性が急速に増幅し、精神症状も発現することがある」ことに関連する、 a) 『「大人のADHD」のなかには,(中略)慢性的な併存障害がなく,ストレス反応が耐えがたいときに単発的に飛び込んでくる人は多い。そしてストレス反応がおさまると遠ざかるのだがまた忘れたころになってやってきて,またいなくなるというのを繰り返す。』ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 「それまでは大過なく日常生活を送ってきた軽度の自閉スペクトラム症を基盤に持つ人が,職場環境の変化(上司の交代など)や家族構成の変化(結婚,出産,親の介護など)で環境的なストレスが増大すると,こだわりや知覚過敏などの岩盤にあった本来の性質が顕在化して,適応が障害され,それがまた環境を悪化させる悪循環が始まって,その結果,抑うつ心因性てんかん性発作などの精神科的症状を引き起こす場合がある」ことについて、内海健兼本浩祐編集の本、「精神科シンプトマトロジー -症候学入門- 心の形をどう捉え,どう理解するか」(2021年発行)の 各論 の 23 心的水準 の「3 ASDと心的水準」における記述(P131)を次に引用します。

近年目立つ事例には,知的に高く社会的適応のよい軽度の自閉スペクトラム症の傾向がある人たちを挙げることができる.それまでは大過なく日常生活を送ってきた軽度の自閉スペクトラム症を基盤に持つ人が,職場環境の変化(上司の交代など)や家族構成の変化(結婚,出産,親の介護など)で環境的なストレスが増大すると,こだわりや知覚過敏などの岩盤にあった本来の性質が顕在化して,適応が障害され,それがまた環境を悪化させる悪循環が始まって,その結果,抑うつ心因性てんかん性発作などの精神科的症状を引き起こす場合がある.ケースワーク的な環境因子への介入による心的水準の回復が,こうした場合・優先されるべき介入であることが多い.

注:i) この引用部の著者は兼本浩祐です。 ii) 引用中の「心因性てんかん性発作」については他の拙エントリのここを参照して下さい。

③ さらに、同の 第14章 トラウマの影響を視野に入れる の「トラウマ反応は危機や負荷が強まったときに顕著となる」における記述の一部(P204)を次に引用します。

トラウマ反応は危機や負荷が強まったときに顕著となる
トラウマ反応は、PTSD や解離症であっても、不安症や適応障害うつ病などであっても、危機や負荷が強まったときには、対人関係や感情の不安定さ、人の言動の被害的解釈、衝動性などが顕著となり、危機や負荷が弱まったときには、その特徴は弱まると筆者は考えている。これは成人の発達障害と同様である。(後略)

注:i) 引用中の(トラウマ反応としての)「解離症」に関連する、[解離症(解離性障害)において]病気と健常との境目もはっきりしていないことについてはここの b) 項を参照して下さい。 ii) 引用中の「PTSD」及び「うつ病」については共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。ただし、前者は用語「PTSD」を参照して下さい。 iii) 引用中の「不安症」については次のWEBページを参照して下さい。 「不安症 - 脳科学辞典

④ 一方、上記以外の精神疾患である境界性パーソナリティ障害の診断基準(例えばWEBページ「境界性パーソナリティ障害 - 脳科学辞典」の「精神症状と診断」項を参照)においては、次に引用する(『 』内)記述があります。 『著明な感情的反応性による感情的な不安定さ (例えば、一過性の強烈な気分変調性障害、焦燥感や不安、通常2-3時間続くが、2-3日以上続くことは稀)。』 加えて、上記境界性パーソナリティ障害に関連して、 a) 「境界例は多彩な症状を示す」こと(「あらゆる症状を出す出すのではないか」ということと「変幻自在」を含む)については他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 「境界例ではカメレオン的に症状が変化する」ことについては、他の拙エントリのここにおける引用の「第4項 境界例の印象と無明と境界例の関係」項を参照して下さい。さらに、境界性パーソナリティ障害の症状は環境によって変化することについて、青木省三著の本、「精神科治療の進め方」(2014年発行)の 第13章 境界性パーソナリティ障害 の「1 境界性パーソナリティ障害の症状は、環境によって変化する」における記述及び「2 診察室の治療者・患者関係だけで理解しない」における記述の一部(P152~P153)を次に引用します。

1 境界性パーソナリティ障害の症状は、環境によって変化する

境界性パーソナリティ障害の症状は、その人のパーソナリティの問題であるから、環境に左右されず続いていくように考えられやすいが、よく見ていると軽快したり増悪したり、変動していることが少なくない。現実生活の負荷が増えた時や対人関係が少なくなり孤立した時などに、症状は増悪しやすいものである。現実生活がしんどいものになればなるほど、現実に援助してくれる存在として治療者への期待が高まり、治療者・患者関係が不安定なものとなりやすく、自傷や自殺企図などの行動化も増えてくる。「ボーダーライン」らしくなるのである。
逆にその人に合ったよい職場で働いたり、友人ができたり、よきパートナーに出会うと、たしかに揺れ動きはあるものの、しだいに「ボーダーライン」らしさが和らぐことも経験する。また、長い年月に耐えた歴史ある宗教を信仰することによって、安定していく人もある。揺るがない安定さと生きる意味の答えを宗教の中に見出すからであろうか。いずれにしても、社会の中で、よい体験を持つことによって安定していく人は少なくない。
構造の柔らかい大学病院の病棟で境界性パーソナリティ障害の症状を呈した人が、枠組の硬い単科精神病院の閉鎖病棟に入院したとたんに、極めて模範的な患者に変身することなども、その一例かもしれない。

2 診察室の治療者・患者関係だけで理解しない(中略)

前述したように、患者を不安にさせ揺れ動かしているものは、患者を取り巻く環境であることは少なくない。診察室で患者を診ていると、目の前の患者の言動に目が向き、診察室の外の患者、すなわち患者の現実生活や対人関係を見落としやすいのである。診察室内の治療者・患者の相互反応と、診察室外の環境(人的、物理的)と患者の相互反応は連動しており、どちらが先かどちらが後かは別にして、一般的には、現実が苦しくなると診察室の中が荒れ、現実が和らぐと診察室も穏やかになっていく。そういう意味では、診察室で患者の内的体験を聞き対応することも大切ではあるが、同時に患者の現実生活に目を向け、それが少しでもよいものとなるように、助言や環境調整を行なうことは不可欠である。

注:i) 引用中の「境界性パーソナリティ障害」については、他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 ii) 加えて、境界性パーソナリティ障害の傾向を持つ人が非常に多いことについて、岡田尊司著の本、「対人距離がわからない ――どうしてあの人はうまくいくのか?」(2018年発行)の 第五章 対人距離がとれないタイプ の「(6)境界性パーソナリティ」における記述の一部(P123~P124)を次に引用(『 』内)します。 『境界性パーソナリティ障害は、見捨てられることへの過敏さ、強い自己否定、自己破壊的行動などを特徴とする深刻な障害だが、近年、身近でも急増しているものである。障害と診断されるレベルではないが、その傾向をもつ人は非常に多く、そうしたタイプを境界性パーソナリティと呼ぶ。』 iii) さらに、パーソナリティ障害とはいえないものの、パーソナリティの偏りを持つ人は珍しくないことについて、林直樹監修の本、「ウルトラ図解 パーソナリティ障害」(2018年発行)の 第1章 パーソナリティ障害の基礎知識 ~正しい知識を持って障害に取り組む の「障害なのかの判断は?」における記述の一部(P28)を次に引用(『 』内)します。 『パーソナリティに強い偏りがあっても、問題なく生活できているのならば、それは障害ではありません。実際に、社会で問題なく生活している人のなかにも、パーソナリティの偏りを持つ人は珍しくありません。』

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【3】自閉スペクトラム症(ASD)における「グレーゾーン群」という診断の提案について

標記について、青木省三編著の本、「精神科臨床を学ぶ 症例集」(2018年発行)の ●発達障害 における青木省三、村上伸治著の文書「自閉スペクトラム症の診断をめぐって――主として思春期以降の例について」の『おわりに――「グレーゾーン群」という診断の提案』における記述の一部(P159~P160)を次に引用します。

おわりに――「グレーゾーン群」という診断の提案

成人期の発達障害には、発達障害と定型発達の間のグレーゾーン群が多い。グレーゾーン群では、以下のように、場面、時期、ストレスなどによって、障害特性が顕著になったり、目立たなくなったりする。
・ある場面では障害(+)、別の場面では障害(-)。
・ある時期は障害(+)、ある時期は障害(-)。
・ストレスの有無で、障害(+)障害(-)間を変幻自在に移動。
そのため、ある時点で、障害(+)障害(-)としても意味がない。空間的にも時間的にも、白黒つけがたく、無理やり白黒つけようとすると泥沼となる。
だが、大切なことは、障害の有無を無理やり明らかにすることではなく、いずれの場合でも、生きづらさや生活障害が強ければ支援は必要ということである。そう考えると、グレーゾーン群としてそのまま捉え、支援していくことのほうが現実的ではないか。障害の有無自体が微妙で、状態像が障害(+)障害(-)間を移動する、そういう「グレーゾーン群」だと診断したらどうだろうか、と筆者らは考えている。
DSM-5 では、ASD の重症度を「支援を要する程度」で 3 段階に分けており、軽度に相当する「レベル 1」には「適切な支援がないと、社会的コミュニケーションの欠陥が目立った機能障害を引き起こす」と記されている。これは、「支援を要する人かどうか」が診断にとって重要であるということである。そういう意味で診断とは、「あなたには障害がある」という宣告よりも、「生活上の助言を含めて、いろんな支援を受けたら、あなたの人生の苦しみはかなり減ると思いますよ」という提案だと考えたい。
そもそも、発達障害の予後は障害の重さに並行しない。知的障害を伴い、幼少期から療育を受けた発達障害が、単純作業ながら障害者雇用でしっかり働いていたりする。その一方、高学歴の発達障害者がトラブルを繰り返していたり、引きこもってこじれていたりする例は少なくない。予後を分けるのは障害そのものではなく、「助けてもらう」や「相談する」パターンを身につけたかどうかであると筆者らは考えている。その点、グレーゾーン群としてであれば、本人も思い当たるところがあることが多く、受け入れやすい。すべてがダメなのではなく、自分の苦手な分野だけ、助けてもらえばよいので受け入れやすい。どこが得意でどこが苦手かを、本人と話し合いやすい。個々に応じたテーラーメードを支援を考えることができるように思う。(中略)

そして、発達障害者の不適応行動に対しては、その行動を直接変えようとする指導が行われがちだが、これは本人の反発を招きやすい。行動という「出力」が問題でもその原因は情報の「入力」がズレているためであることが多いので、場の状況や他者の気持ちなどを支援者が解説して入力を修正することで、出力を自ら修正できる人がグレーゾーンの人には多い。これがうまくいくと、「相談するたびに、生活が楽になる」好循環が生まれ、生活障害と予後が改善していく可能性がある。支援の可能性の意味でも「グレーゾーン群」の診断は非常に有用であると考えられる。

注:(i) 引用中の「ASD」は自閉スペクトラム症のことです。 (ii) 引用中の「ある場面では障害(+)、別の場面では障害(-)」、「ある時期は障害(+)、ある時期は障害(-)」及び「ストレスの有無で、障害(+)障害(-)間を変幻自在に移動」に関連するかもしれない、 a) 「発達障害は、環境によって変化し、見え隠れしながら、適応障害うつ病などの発症リスク因子として再考されつつある」ことについて、岩波明監修の本、「おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線」(2020年発行)の 第1章 成人期発達障害とは何か の 6 発達障害精神障害における今後の展望 の「発達障害精神障害の関係」における記述の一部(P57~P58)を次に引用(《 》内)します。 《発達障害は、従来言われてきた連続性、すなわち定常的な障害として存在するというより、環境によって変化し、見え隠れしながら、適応障害うつ病などの発症リスク因子として再考されつつあるのが現状だと思います。》(注:この引用部の著者は小野和哉です) 加えて、「発達障害の特性が目立つかどうかは、絶対的なものではなく相対的であり、個人と環境との関係によります。相対の良し悪しよって、特性が浮かび上がってきたり、水面下に沈んだりするのです。」について、上記 a) 項の本の 第4章 子どもから大人への発達障害診断 の 2 生育環境とパーソナリティ形成の関係について の「発達障害の特性が目立つかどうかは、環境との関係による」における記述の一部(P155)を次に引用(【 】内)します。 【個人と環境との間には相性というものがあります。発達障害の特性が目立つかどうかは、絶対的なものではなく相対的であり、個人と環境との関係によります。相対の良し悪しよって、特性が浮かび上がってきたり、水面下に沈んだりするのです。】(注:この引用部の著者は本田秀夫です) その上に、(発達障害の)『「グレーゾーン」とは「環境への適応がいいときと悪いときの両方がある人」という意味もある』ことについて、林寧哲、OMgray事務局監修の本、「大人の発達障害グレーゾーンの人たち」(2020年発行)の 1 発達障害のグレーゾーンとはなにか の グレーゾーンとは 発達障害の「傾向がある」人たち の「適応がいいときと悪いときがある」における記述の一部(P16)を次に引用(≪ ≫内)します。 ≪「グレーゾーン」とは、「発達障害の診断が定まらない人」という意味だけではありません。「環境への適応がいいときと悪いときの両方がある人」という意味もあります。つまり、ときには発達障害なのですが、ときには健常である人です。≫(注:注:この引用部の監修者は林寧哲です) b) 一方、境界例において「変幻自在」であることについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 c) また、「反応性と考えてみる」ことについてはここを参照して下さい。 (iii) 引用中の「グレーゾーン」については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて「グレーゾーン」に関連する閾下を含む「重要な点は、閾下 ASD もまた十分に臨床的に留意すべき一群」については、資料「精神保健研究 第29号(通巻62号)」中の文書「発達障害臨床のめさずものと現実」の「Ⅲ. ASD あるいは閾下 ASD の高い精神疾患リスク」項(P62~P63)を参照して下さい。 (iv) 引用中の「DSM-5」は「米国精神医学会(APA)の精神疾患の診断分類、改訂第5版」のことです。 (v) 自閉スペクトラム症のグレーゾーンと重なる、発達凸凹においてはなおさら、適応を計る際にしばしば誤学習が入り込み、本人はそれに気づかないといったことが実にしばしば起こるので、孫子の兵法「彼を知り己を知れば百戦危うからず」の考慮が大事なことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 (vi) 『診断見逃しも、診断過剰もどちらも大きな問題あり、それを避けるには、「グレーゾーン群」という診断が大切ではないか』との視点よりの「診断見逃しの問題」及び「過剰診断の問題点」について、同文書における「診断見逃しの問題」における記述(P157~P158)及び同文書における「過剰診断の問題点」における記述の一部(P158)を以下にそれぞれ引用します。 (vii) 引用中の「助けてもらう」に関連する「援助希求」については次のWEBページを参照して下さい。 『うつ病の対処に必要な「援助希求」という能力』 加えて引用中の『予後を分けるのは障害そのものではなく、「助けてもらう」や「相談する」パターンを身につけたかどうかである』(ここにおける引用も参照)ことに類似する『予後を決めるのは障害の重さではなく,「助けてもらうパターンを身につけたかどうか」である』ことや「大人の療育」を含む「助けてもらう人生」と「戦う人生」との対比について、中村敬、本田秀夫、吉川徹、米田衆介編の本、「日常診療における成人発達障害の支援 10分間で何ができるか」(2020年発行)の 第14章 成人発達障害支援における「解説者」 の「Ⅹ.助けてもらう人生 vs 戦う人生」における記述の一部(P206~P207)を以下に引用します。さらに上記『「助けてもらう」や「相談する」パターン』に関連する「自律スキル」及び「ソーシャル・スキル」については共に次のWEBページを参照して下さい。 「大人の発達障害の支援―就労支援機関、就労に必要なスキルについて」の「発達障害―就労に必要な自律スキルとソーシャル・スキル」項 (viii) 引用中の「支援の可能性」に関連するかもしれない「治療や援助が見据える基本的な目標」について、青木省三著の本、「精神科治療の進め方」(2014年発行)の 第14章 成人期の自閉症スペクトラム の「おわりに」における記述(P183)を以下に引用します。

診断見逃しの問題

診断見逃しには、以下のようないくつかの問題がある。
①本人の生きづらさや苦労を、周囲の人がうまくキャッチできない。例えば、そのため、孤立を強めたりする。
②性格・人柄として、ネガティブな評価を受ける。例えば、障害特性が「わがまま、自己中心的」「話を聞いていない。ウソをつく」などと、理解されてしまう。
自閉スペクトラム症状に、不適切な対応がなされる。例えば、曖昧な指示や助言が続き、混乱を助長する。その混乱が「ボーダーライン」という印象を与えたり、被害的な言動が出ると「統合失調症」などと診断されたりする。また、そもそも言葉がやりとりの道具として役立っていないのに、言葉での精神療法が行われ、言語化を求められたりすることがある。それだけでなく、変更を受け入れるのに時間を要することに気づかれず、早急な薬の変更などで不毛な押し問答となったりすることもある。
④一過性で終わる精神症状を、慢性化、遷延化、固定化させてしまう可能性がある。例えば環境調整が求められる状態に、過度の薬物療法が行われることによって、混乱を遷延させることがある。

過剰診断の問題点

過剰診断には、以下のようないくつかの問題がある。
①障害と言えないものまで、障害と診断してしまう。例えば、よく診る(得意な)病気の範囲は広がりやすいように、障害の特性に対する感度が上がる。
②障害ありと診断したのにストレスがなくなると障害が見えにくくなり、誤診だと言われる。逆に、障害なしと診断したのにストレスが加わると障害が顕著となり、「障害を見逃した。誤診だ」と言われる場合もある。
③診断が受け入れられない。患者さんは、白黒で考えやすく、スペクトラムという概念は伝わりにくく、「障害」「障害者」だけが頭に残る。それだけでなく、丁寧に説明したつもりでも、診断されたことがショックになり、時には激しい反応が生ずることもある。
④診断されたが支援を受けられない。診断されっぱなしの人は少なくなく、診断されても何のプラスもないことが少なくない。(後略)

注:i) 自閉スペクトラム症の文脈における引用中の「スペクトラムという概念」に関連する発達凸凹については、例えば次の資料を参照して下さい。 「発達障害から発達凸凹へ」 ii) 上記「診断見逃しの問題」及び引用中の「過剰診断の問題点」に関連するASD(自閉スペクトラム症)における「過剰診断と過小診断の問題」について、岩波明監修の本、「おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線」(2020年発行)の 第2章 成人期発達障害診断の現在地と課題 の 2 成人期発達障害の診断に関する現状と課題 の「過剰診断と過小診断の問題」における記述の一部(P76~P79)を次に引用します。

初めに、過剰診断と過小診断の問題についてです。
過剰診断とは、発達障害でない人を発達障害と診断してしまうことですが、その根底には以下のような状況があります。

一つ目は、「アスペさん現象」と呼ばれるものです。これは会社で困った人がいたり、ネット上で困った人がいたりすると、「アスベルガー症候群なんじゃないか」と言われることをさします。アスベルガー症候群とは、ASDに含まれる一つのタイプで、ASDの三つの特徴「対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」「パターン化した興味や活動」を併せ持つが、言葉の発達に遅れがない一群をさします。
ただし、最新の診断基準「DSM-5」(アメリカ精神医学会発行の精神疾患の診断・統計マニュアル第5版。精神科の診断に現在もっともよく使われている)では、アスベルガー症候群という言葉は使われないことになっています。(中略)

二つ目は、ネット上でAQ-J(ASDのスクリーニングテスト)などが簡単にできるようになったために、やってみて「35点だったから、発達障害だ」などと自己診断して来る人がいること。
そこに、医師の知識不足や経験不足が重なって、過剰診断が起こるのです。

過小診断についても、医師の知識不足や経験不足の問題はありますが、それ以前に、そもそも専門医が少ないという事情があります。発達障害を診るプロフェッショナルである小児精神科医自体が少ない上に、成人は守備範囲外のため診てもらうのが難しい。なおかつASDやADHDは、こちらから疑って尋ねないとわからない。何年も診ていて、あるとき質問して初めてわかったというケースが、けっこうあるのです。

このような現状をどう改善していくかを考える上で、青木省三先生(慈圭会精神医学研究所所長・川崎医科大学名誉教授)の言葉「理解としては発達障害を広くとり、診断としては発達障害を狭くとる」が、ヒントとなるのではないでしょうか。
「理解としては発達障害を広くとる」とは、患者さんとの面接場面において、常に「何らかの発達特性(障害)があるのではないか」「発達特性が患者さんの困りごとに関与しているのではないか」と考えることをさします。
ただし診断する際には、「発達障害を狭くとる」ことが重要です。具体的には、その困りごとが発達特性以外の要素で説明できないかどうかを考える、ということ。「人とうまく関われない」という困りごとでも、ASDの社会コミュニケーション障害に起因する場合だけではなく、特定の状況に不安や恐怖を感じる社交不安症からきている場合などもありますから、丹念に診ていく必要があるのです。
さらに、診断を急がないことが重要です。言い換えれば「留保する不安と向き合う」ということで、患者さんが「早く診断をつけてほしい」と焦っていても、医師は焦らずに留保する勇気を持つことが大事ではないでしょうか。
我々医師は、得体の知れないものに対しては安心できないために、とにかく何か診断をつけたいと思ってしまいます。そのまま置いておくことは心情的に難しいのですが、発達障害、特に成人の発達障害の正確な診断は、そんなに簡単につくものではないと思うのです。患者さんと長く付き合って、困りごとの背景にある要素を丹念に診たり、過去のことを繰り返し尋ねたりして、いろいろな情報を集めて初めてわかるようなところがあるのです。
2019年に新潟で開催された日本精神神経学会で、村上伸治先生(川崎医科大学准教授)が「グレーに診断して、グレーに支援すればいいんだ」とおっしゃっていましたが、それもまた至言だと思います。つまり、診断としてはグレーであっても、その時点で支援に移るということです。最終的な診断はもっと先でもいいのです。
私のクリニックにも、手帳(精神障害者保健福祉手帳)がほしいと言って来る患者さんがいますが、申請は初診から6か月以上経たないとできませんから、その期間を上手に使って情報を集めていくのです。

注:i) この引用部の著者は柏淳です。 ii) 引用中の「ASDの三つの特徴」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 iii) 引用中の「理解としては発達障害を広くとり、診断としては発達障害を狭くとる」ことに賛同する記述について、同の 第4章 子どもから大人への発達障害診断 の 1 発達障害の診断基準において、私が考える課題とは の『「社会生活上の支障」は、生物学的基盤に基づいた診断基準ではない』における記述の一部(P137~P138)を次に引用します。

DSM-5の診断基準でASDは、「A 社会的コミュニケーション及び対人相互反応の異常」「B 興味の限局」「C 症状が早期発達に存在」とあり、Dに「社会生活上の支障」が入ってきます。
「社会生活上の支障」は社会学的な概念であり、生物学的な基盤に基づいた診断基準とは言えないと思います。したがって、生物学的な基盤がある可能性があるA、B、Cを、私はAS(Autism Spectrum:自閉スペクトラム)の特性とみなしています。そして、このような特性がある人と、その特性によって社会的な支障をきたした場合の診断(ASD)を、分けて考えています。
柏先生(ハートクリニック横浜院長。第2章参照)が青木省三先生の言葉を引用されましたが、特性は広くとって、診断は狭くとるというのは、まさにこのことではないかと私も思っています。街を歩いていても特性のありそうな人は大勢いますが、いちいち診断はしないわけで、診断はその人に何らかの支援が必要なときにするものだと思います。(後略)

注:この引用部の著者は本田秀夫です。

Ⅹ.助けてもらう人生 vs 戦う人生

発達障害に限らず,精神障害でも高齢者在宅支援でも,周りが最も困るのは,「支援が必要なのに支援を拒否する人」ではないだろうか。対応に最も困るのは,助言や指導を聞き入れず,独断専行で断固として行動する人である。そのような人は,「支援を受けてよかった体験」や「相談して助かった体験」をほとんど持っていない。
であるから,支援の基本は,「相談したら解決した」「支援を受けたら楽になった」という体験を積み重ねて,「困ったら相談する人」「困らなくても何かと相談する人」になってもらうことである。解説者の姿勢は,抵抗を受けずに支援のありがたさを感じてもらいやすい。
発達障害の予後を決めるのは障害の重さではない。知的障害も伴う人が,作業所や障害者就労で安定して働いていることは少なくない。一方,高学歴なのに長年引きこもり,あらゆる支援を拒否し,年老いた両親を支配している人もいる。予後を決めるのは障害の重さではなく,「助けてもらうパターンを身につけたかどうか」である。
ASDであるとの確定診断でもよいし,灰色診断でもよい。とにかく,「自分には得意なところもあるが,苦手なところもあり,苦手なところは助けてもらった方が楽に生きられる」ということを知ってくれると,周囲から私的に助けてもらい,人によっては手帳や作業所などの「公的な支援」も受けるようになる。すると予後は変わり始める。
解説者を得て,「助けてもらう人生」になると,状況への解説が得られる→状況を理解する。解説があると得だと実感する→本人から相談してくれるようになる→いじめやパニックが回避される→本人のペースで作業や就労も可能になる→自己価値観が上がる→周囲と助け合う穏やかな人生→発達障害特性も目立たなくなる,という好循環が回り始める。
一方,助けてもらわない人生だと,解説者がいないので状況が理解できない→状況がわからない。相談もしない→独断専行で行動する→トラブル,いじめ,パニックが頻発する→本人は混乱し自己価値観も低下する→「人は信用できない」「この世は敵だらけ」だと認識する→「周囲と戦う人生」となる→二次障害(精神疾患など)が起こる,という悪循環からなかなか抜け出せなくなる。解説者などの手段を用いて,「助けてもらう人生」を育む介入を,筆者は「大人の療育」と呼んでいる。

注:(i) この引用部の筆者は村上伸治です。 (ii) 引用中の「支援」や「助けてもらう」ことに関連する、 A] 「グレーゾーンなので治療や支援がいらない、ではない」ことについては次のWEBページを参照して下さい。 「横浜院長のひとりごと No.401 グレーゾーン」 B] 「援助を求めればそれなりに助けが得られる」ことについて、中村敬、本田秀夫、吉川徹、米田衆介編の本、「日常診療における成人発達障害の支援 10分間で何ができるか」(2020年発行)の 第17章 自閉スペクトラム症成人患者の外来精神療法 の「Ⅳ.ライフスタイルを支持する精神療法」における記述の一部(P246)を次に引用(『 』内)します。 『また世間がそれほど怖くないと知っていること,援助を求めればそれなりに助けが得られるという信頼感が持てることもまた,自立に向けて背中を押してくれる。脳性麻痺のある小児科医である熊谷晋一郎3)は,自立とは依存先を増やすことであると述べているが まさしくその通りであるのだろう。元来コミュニケーションに困難があり援助希求が苦手な自閉スペクトラム症のある人達が,頼ることのできる依存先を増やしていくための支援は,可能であれば児童期から始めていけるとよい。依存する方法を知っていること,依存することに罪悪感を持たないことは,結果として自立の支えとなるのだろう。』[注:a) この引用部の著者は吉川徹です。 b) 引用中の文献番号「3)」は次の資料です。 「熊谷晋一郎:当事者の立場から考える自立とは(特集 相模原事件が私たちに問うもの).精神医療,86; 80-85, 2017.」] (iii) 引用中の「支援」に関連する「支援が入ると、成長が再開するように感じる」ことについて、「そだちの科学 2020年4月号」中の村上伸治著の文書「外来診療での工夫」の「おわりに」における記述の一部(P63)を次に引用(《 》内)します。 《発達障害は治らないのだろうか。たしかに、持って生まれた特性は変わらないだろう。だが、神田橋條治が「発達障害者は発達する」と述べているように、発達障害児発達障害なりに成長していく。筆者は、ASDとは「ASD特性+こじれ(トラウマ累積)」だと考えている。そして、こじれが起こると成長は止まり、支援が入ると、成長が再開するように感じている。》(注:1) 引用中の「トラウマ」の皮を剥ぐ作業については、この引用の直後にある記述の一部(P63)を次に引用(【 】内)します。【なので、児童期のASD臨床とは、こじれを防ぎ成長を促すことが目標であり、成人ASD臨床は、それに加えて、もつれた糸を解く作業が必要であり、それはトラウマの皮を剥ぐ作業だと考えられる。】 2) 引用中の「トラウマ累積」に関連する「様々な小トラウマがどんどん積み重なる」ことについて、同文書の「純粋な自閉スペクトラム症」における記述の一部(P63)を次に引用(≪ ≫内)します。 ≪われわれが感じている Disorder としてのASDとは、持って生まれたASD特性に、虐待や災害のような大トラウマはなくても、様々な小トラウマがどんどん積み重なり、その総体がASDになるのだ、と考えたらどうだろうか。≫ 3) 引用中の『ASDとは「ASD特性+こじれ(トラウマ累積)」だと考えている』に関連する『知的障害のないASDにも対処困難な課題がある。それは端的に言えば、「発達障害+トラウマ」の問題である。』ことについて、「そだちの科学 2020年4月号」中の大村豊著の文書「成人」発達障害支援をめぐって」の「支援と治療」における記述の一部(P59)を次に引用(《 》内)します。 《知的障害を伴うASDにおける強度行動障害と相似形をなすように、知的障害のないASDにも対処困難な課題がある。それは端的に言えば、「発達障害+トラウマ」の問題である。一般的な発達障害支援に抵抗し、通常の心理療法では容易に改善されない一群が存在し、その成育歴には環境との不幸な相互作用による症状の複雑化がある。》 加えて、(PTSDや複雑性PTSDを含んで)「発達障害の人はいろいろな要素を重ね着している」ことについては他の拙エントリのここここを参照して下さい。 3) 引用中の「発達障害者は発達する」に類似する「発達障害は治らないけど、発達して変わっていく」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。) (iv) 引用中の「発達障害の予後を決めるのは障害の重さではない」と「大人の療育」とに関連するかもしれない【今の日本の社会って学歴社会ですが、発達障害のお子さんのなかに勉強のできる子がいるんですね。そうすると、勉強していい成績を取って、いい大学を卒業したらいい会社に就職ができてなんとかなる……と思いがちなんです。でも実際は、それで失敗する人が多いんです。社会に出て必要なことは、学校の勉強だけでは学べないのです。発達障害の子どもさんたちには、「療育」といって、ひとりひとりの特性に応じて日常生活に必要な力を身につけるための教育的なプログラムが行われていますので、そうした支援を積極的に利用するとよいと思います。】については次のWEBページを参照して下さい。 『高学歴の発達障害者がつまずく会社、出世する会社…「クセの強い人」を生かす社会を目指す』の「“頭のよい”発達障害当事者は、高学歴を獲得しても社会に出てつまずく」項 (v) 引用中の「解説者」について、『困った行動という「出力」の元になっているのは,状況把握がズレているなどの「入力」の問題が主である』ことを含めて、中村敬、本田秀夫、吉川徹、米田衆介編の本、「日常診療における成人発達障害の支援 10分間で何ができるか」(2020年発行)の 第14章 成人発達障害支援における「解説者」 の「Ⅸ.出力よりも入力」における記述の一部(P203~P204)を次に引用します。

発達障害者の行動に周囲の者が困ってしまうことはよくある。だが困った行動という「出力」の元になっているのは,状況把握がズレているなどの「入力」の問題が主である。例えば外国に行ったとする。すると,現地の常識に反した行動をしてしまうことは避けたい。不適切な行動は止めてくれたり,正しい行動を指導してくれると助かるだろう。だが,それよりももっと助かるのは,できれば同時通訳してくれて,表情を読むことをも含めて状況を解説してくれ,その国の常識や慣習も解説してくれる人がいてくれることではないだろうか。
「指導者よりも解説者」を筆者が主張するのはこのためである。常識や慣習の解説が不十分なまま,「命令される」ばかりでは,誰でも嫌になってしまいやすい。指導への反発も起きやすい。だが,解説者であれば,抵抗を受けにくい。特に灰色の人は,解説によって指示を減らしやすい。「解説者は欲しいが,命令する人は要らない」と思うのは我々だって同じである。(後略)

注:この引用部の筆者は村上伸治です。

おわりに

統合失調症をもつ人への治療や援助は、当初の幻覚妄想などを対象とした治療から、時間の経過と共に、症状があるかどうかは別にして、しだいに日々の出来事の話題や日常生活の相談にのり、少しでも平和で穏やかな毎日、その人らしい毎日を過ごしていくことへの支援にと変わっていく。症状よりも生活や人生の方が大切になるのである。自閉症スペクトラムも同様ではないかと思う。自閉症スペクトラムをもつ人の治療や援助も、障害特徴と言われているものの長所を生かし短所をカバーするというような援助から始まるが、時間の経過と共に、しだいに日常生活の話題が中心となり、少しでも平和で穏やかな毎日、その人らしい毎日を過ごしていくためへと変わっていく。治療や援助はあくまでもその人らしい人生を生きるためのものであり、精神障害であれ、自閉症スペクトラムであれ、人は誰でもその人らしく誇りをもって生きていくことが第一である。治療や援助はこの基本的な目標とでもいうものを見据えたものでなければならないと思うし、またそのようになっていくことを心より願っているのである。

注:i) 引用中の「統合失調症」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 ii) 引用中の「自閉症スペクトラム」に類似した「自閉スペクトラム症」については他の拙エントリを参照して下さい。

【4】「こだわりスペクトラム」、「こだわり保存の法則」及び「こだわりの向きを変えること」について、その他

注:この項では自閉スペクトラム症を中心に紹介しますが、疼痛性障害とこだわりについても含みます。

最初の標記「こだわりスペクトラム」及びこだわりに関連する「注意の1点への集中」について、青木省三著の本、「こころの病を診るということ 私の伝えたい精神科診療の基本」(2017年発行)の 第6章 診察の途中で考える の 性格と発達特性をどうたずねるか の「③こだわりはどうか」及び「④注意力はどうか」における記述(P078~P079)を次に引用します。

③こだわりはどうか
筆者は「1つのことが気になったら、それが頭にこびりついたようになることはないですか?」とか、「1つのことをやり始めたら、夢中になってほかのことが目に入らなくなることはないですか?」などと質問する。こだわりが強い人は、仕事や趣味でも心配事でも「切り替えられない」ことに苦しむことが多い。「頭が硬くて頑固、でも筋を曲げない人」などと評されることもある。仕事や趣味へのこだわりはしばしば肯定的に評価され、逆に心配事などへのこだわりは否定的に評価されやすい。治療や支援では、心配事に対するこだわりを、仕事や趣味などの生産的なものへと切り替えることが求められる。「職人」的な手仕事など、そもそも資質としてこだわりを求められるものは少なくないので、支援により苦しみを和らげられることもある。
こだわりは、発達障害でも認められるが、強迫症摂食障害をはじめ、うつ病病前性格としての執着性格、てんかんの粘着気質などに、幅広く認められる。筆者はこれらを「こだわりスペクトラム」と呼んでもよいのではないがと考えている。

④注意力はどうか
「注意の転導性」「不注意」についての質問である。注意は1点に集中するほうか、移ろいやすいほうか。「1つのことに集中できず、次々と興味が移ってしまうタイプですか?」「パソコンで画面を開いたら、目に入るものが次々と気になって、そのページを開いているうちに、もともと、何をしようとしていたかわからなくなることはないですか?」などとたずねてみる。これは、プラスに出ると「好奇心の旺盛さ」となって表れることになるし、マイナスに出ると「仕事が手につかない」「忘れ物や落とし物が多い」「怪我やミス・事故が多い」ということにもなる。
逆に「1つのことに集中し途中でやめられなくなるほうですか?」などと聞いてみることもある。これは前述した「こだわり」に関する質問と同じであり、注意の1点への集中と「こだわり」は、ほぼ同じものではないかと筆者は考えている。
これらはいずれも、注意欠如・多動症ADHD)や自閉スペクトラム症などの発達障害で認められるものである。

注:i) 引用中の「自閉スペクトラム症」については他の拙エントリを参照して下さい。 ii) 引用中の「強迫症」については他の拙エントリのリンク集[用語:強迫性障害強迫症)、社交不安障害」]を参照して下さい。 iii) 引用中の「摂食障害」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iv) 引用中の「注意欠如・多動症ADHD)」については他の拙エントリを参照して下さい。 v) 引用中の「てんかん」については次のWEBページを参照して下さい。 「てんかん - 脳科学辞典」 vi) ちなみに、ASD 者の「こだわり」が特定の身体症状・身体的状態に焦点化し、心気症的こだわりが長期間継続することについては、次の資料を参照して下さい。 「成人の精神医学的諸問題の背景にある発達障害特性」の「5. 心気症的こだわり(hypochondria)」項

加えて、スペクトラムからの視点を含めた、こだわりと強迫の関係について、青木省三編著の本、「精神科臨床を学ぶ 症例集」(2018年発行)の ●発達障害 における青木省三、北野絵莉子、村上伸治、石原武士著の文書『精神科臨床と「こだわり」』の「はじめに」における記述の一部(P124)を次に引用します。

はじめに(中略)

また、こだわりと強迫はどのような関係にあるかといえば、両者ともに「反復性」を特徴としているものの、こだわりは自我親和的で、強迫は自我違和的というイメージがある。すなわち、こだわりは強迫以上に自覚されにくい印象がある。それだけでなく、こだわりには、まさに「こだわりの味」など、職人などの優れた技術に対する肯定的な評価として用いられることもある。
強迫もスペクトラムとして理解できるが、こだわりもスペクトラムとして理解できるのではないか。(中略)

さらに、次の標記「こだわり保存の法則」を含むこだわりの対象が移動すること、こだわりの程度は変動すること及びこだわりに合わせることについて、青木省三編著の本、「精神科臨床を学ぶ 症例集」(2018年発行)の ●発達障害 における青木省三、北野絵莉子、村上伸治、石原武士著の文書『精神科臨床と「こだわり」』の「こだわりの対象が移動する」における記述、「こだわりの程度は変動する」における記述及び「こだわりに合わせる」における記述(P128~P131)を次に引用します。

こだわりの対象が移動する

20代前半の女性。2、3年前から、体重が60kgから42kgに減少。同時に無月経になった。
もともとおとなしい性格で、自分から友人を作ることはできなかった。小学校、中学校といじめを受け、中2より不登校となり、高校は定時制高校に進学し卒業した。2、3アルバイトをしたこともあるが、短期間でやめ、以後、家にひきこもった生活をしていた。2、3年前にダイエット番組を見て、それから食事量が減少、身体や将来のことが心配となり、当科受診となった。食事摂取量は徐々に増加し1年半ほどで、50kgほどに回復。その頃よりアルバイトなどの話題が出るようになった。本人は「接客は苦手で、人と話すことの少ない、裏方の仕事がよい」と話し、3年ほど経ったころに仕分けの仕事をはじめた。診察では、幼少時より聴覚過敏があること、1つのことに集中すると他のことが目に入らなくなることなども話した。
アルバイトを始めてから、外出時に家の戸締まりが気になるようになり、何度も出かけては引き返すということを繰り返すようになった。外出時の確認には1時間以上かかったが、家や職場にいるときには、確認などの症状はなく元気にすごしていた。診察では、強迫症状はありながらも仕事を頑張っていることを評価し、仕事を続けることの大切さを助言した。強迫症状の出現後は、体型や体重、食事摂取量へのこだわりはない。
摂食障害から強迫性障害や社交不安障害へと症状が移っていくことは、稀ならず経験する。症状の移動にはさまざまな理解の可能性があるが、臨床的にはこだわりの対象の移動と考えると、理解しやすいように思う。また、こだわりの向きをいつも考えることが治療的なように思う2)。本田秀夫は、「あることに対するこだわりは冷めても、『何かにこだわりをもつ』ということのエネルギーそのものは保たれて、その対象が他に向けられる」(「こだわり保存の法則」4))と記しているが、臨床的にはとても納得がいく。

こだわりの程度は変動する

ある40代の男性。宅配の配送センターの受付で混乱状態となって保護された。20代からの何度目かの興奮・混乱した状態で、前医は統合失調症と診断し加療していた。入院後、詰所に何度も訪れて同じことの確認をすることを繰り返し、看護スタッフはその回数の多さに驚いていた。
男性は一人暮らしをしており、その生活について尋ねていると自炊をしていることがわかった。それも、夕食は2、3品作っているという。ネットでレシピを見ながら、「大さじ一杯」などの量をきちんと守って作っているということであった。料理以外にも、1日のスケジュールが決まっていることがわかった。ただ、このところ、ネットで注文したのに届かないということが続き、業者が送ったというのに届かないことから、数日眠れない目が続いていたという。何度も業者に問い合わせたが対応してもらえず、パニックとなり配送センターに行ったということであった。ただ、センターでは「どこにある? どこにある?」と興奮して断片的に話したので、問題となったようであった。
もともと、男性は友達づくりが苦手で、休憩時間は一人で机に座っていたという。特に中学ではいじめられて苦しかったと話した。趣味は音楽で、好きなバンドができるとそのCDを集め、繰り返し聞いていた。
統合失調症なのか、発達障害の反応性の統合失調症様状態なのか、経過をみなければわからないと考えたが、診察時は落ち着いており、統合失調症を疑わせる明らかな症状は認められなかった。
だが、看護スタッフの一言が筆者のこころに残った。「○○さんは、髭剃り機がうまくいかないと、直接、メーカーの修理係に電話するのです。そして、何度もかけたりしているようなんです」と話した。故障というほどのものではない、ちょっとした不調で電話しているらしい。そのとき、ハッと気づいた。男性は「この髭剃りがうまくいかない。どうしたらいいんだろうか」というような困りごとを、傍の人や友人、そして看護スタッフに相談できない。相談するという発想がない。だから、髭剃り機の説明書に書いてある修理センターに(まさに字義どおり解釈し)電話をかけてしまう。修理センターで対応した人も、男性の訴えがあまりにも漠然としているので返答できず、その結果、男性が何度も電話をかけてしまうということになったらしい。それは、病棟のことであれば詰所に、宅配のことであれば宅配センターに押しかけてしまうという行動と同様のもので、近くの人に相談するという過程がなく、遠くの人に直に抗議することになってしまう。
男性の場合、ネット注文や髭剃り機の不具合などで、容易に不安や緊張が強まりこだわりや確認が強まる傾向にあった。身近な人に相談できないということが、男性の不安、そしてこだわりを強めていた。支援のポイントは「身近な人に相談する・相談できるようになること」で不安や緊張を和らげることではないかと考えた。
こだわりはいつも一定というものではなく、強まったり弱まったりと変動する。こだわりは「適応のための合理的な対処努力」8)と考えることもでき、一般に、不安や緊張が強まるとこだわりも強まり、不安や緊張が弱まるとこだわりも弱まりやすい。

こだわりに合わせる

強迫症状を診るとなんとか減らしたり和らげたりできないかと考える。もちろん、こだわりにおいても減らしたり和らげたりできないかと考えるが、周囲がうまく合わせることによって、結果として減る、和らぐということが起こることもある。
30代の男性。大学卒業後、就職。営業を担当していた。会社全体が遅くまで働く職場で、深夜に帰宅することがしばしばだったという。営業成績はよかったが、1年ほどして重篤抑うつ状態におちいった。休職して治療を受けたことで、抑うつ状態はいくらか軽快し、会社の配慮で事務職に配置替えになって復職した。しかし、その後、軽度の抑うつ状態が持続するようになった。その抑うつ状態には波があり日曜日の夜からはじまり、金曜日の夜には改善するというものであったという。明らかに仕事を意識すると抑うつ状態に陥るようであった。しかし、数年してこれ以上は耐えられないと会社を辞め、その後は、家庭にひきこもった状態が続いていた。しかし、軽度の抑うつ状態はなかなか改善せず、近医より紹介され受診となった。最初の抑うつ状態から10年ほどの時間が経っていた。
これまでの経過を詳しく尋ねたが、これほど長期に抑うつ状態が持続する原因が筆者にはよくわからなかった。薬について尋ねると、抗うつ薬の服用は当初の半年ほどで、その後は抗不安薬を少量服用しているだけということがわかった。男性は「僕には抗うつ薬は効きませんでした。薬は今の薬がよい」と話したが、筆者はこれまでの抗うつ薬での治療が不十分たったのではないかと考え、抗うつ薬の治療をもう一度やってみることを提案した。男性は非常に嫌そうであったが、半ば押し切るような形で抗うつ薬の処方を開始した。しかし、一度に一剤、何種類かの抗うつ薬を試してみたが、いずれも「頭がボーっとしてしんどい」と話し、次の診察までにやめていた。筆者に「なぜ、もう少し辛抱して飲んでくれないのだろうか。短期間でやめてしまうと薬の効果がでないではないか」という気持ちが湧いてきた。1年近い時間が経っていた。そこでハッと気づいた。男性には「抗うつ薬は効かない。副作用しかでない」という強い思い込みがある。いくら丁寧に説明しても、いくら副作用の少ない抗うつ薬を処方しても、その思い込みは変わらない。この思い込みと正面から戦ったとしても、治療はうまくいかない。この思い込みに合わせた治療を行おうと考えた。そして男性に「○○さんには、抗うつ薬が効かず、副作用しかでないということはよくわかりました。もう一度最初に戻って、これまで副作用がでなかった抗不安薬を少量でやっていきましょう。ただそれに加えて、外に出て身体を動かし、できれば昔好きだったスポーツなどを再開してみませんか」と提案した。次回男性は初めて笑顔で現れ、「家の農作業をはじめました。少しよい気がします」と話したのであった。
男性は、自分の思い込みや考えを切り替えられない人であった。抗うつ薬も「自分には合わない」と感じていたので、服用することに抵抗があった。抑うつ状態も「周囲の人が自分をダメな人間と思っている」という思い込みが切り替えられず遷延化した可能性があった。思い込み、すなわちこだわりが抑うつ状態の基盤にあるのではないかと考えた。それ以後、筆者は男性の考えを十分に確かめたうえで、男性の考えに沿った治療や支援を考えるようになった。特に身体を動かし、外に出るという助言は男性の納得がいったようであった。それ以後、男性の表情は明るくなり、やがて抑うつ症状は認められなくなった。
精神科医は患者の考えを変化させることを考える。もちろんそれが基本である。しかし、男性の場合、それが何人も精神科医を変え治療を中断することにつながっていた。自分の考えを切り替えられないということが男性の特徴と考えると、それを変えようとするのではなく、合わせながら、治療や支援を考えるという方針を考えることの大切さを実感した。

注:i) 引用中の文献番号「4)」は、「本田秀夫『自閉症スペクトラムSBクリエイティブ、2013年」です。 ii) 引用中の「こだわり保存の法則」について、本田秀夫著の本、「自閉スペクトラム症の理解と支援」(2017年発行)の 第8章 こだわりへの対応 の『★「こだわり保存の法則」に活路あり!』における記述(P151~P152)を以下に引用します。

「こだわり保存の法則」ということを言いましたが,残したいこだわりが増えると,その分だけ困ったこだわりは減ります。逆に,何か困ったこだわりがあって,必死でやめさせるということをやっていると,その嫌なこだわりは減りますが,別のこだわりが出てくることがあります。
ですから,残したいこだわりを増やしていくようにするのです。たとえば,朝起きたら,絶対顔を洗いたくなってしまうこだわりというのがあったとすると,それはむしろ良い生活習慣になります。
それから,鉄道にものすごく興味がある場合には,鉄道を良い趣味としてどんどん広げていくことによって,そちらに向くエネルギーの分,他の変なこだわりが減るということがあり得るわけです。
したがって,このこだわりは使えるな,このこだわりは役に立つなと思うようなことを,率先して増やしていくことが有用となるのです。

注:引用中の「こだわり保存の法則」の図については、例えば次の資料を参照して下さい。 「ライフステージに応じた発達障害の人たちへの支援の考え方」の「‘こだわり’保存の法則」シート

一方、こだわりの向きを変えることをはじめとした、疼痛性障害とこだわりについて、青木省三編著の本、「精神科臨床を学ぶ 症例集」(2018年発行)の ●発達障害 における青木省三、北野絵莉子、村上伸治、石原武士著の文書『精神科臨床と「こだわり」』の「こだわりを活かす……こだわりの向きを変える」における記述(P132~P133)を次に引用します。

疼痛性障害とこだわり
70代後半の女性。数年前に歯の痛みを感じるようになり、近くの歯科で加療を受けたが改善せず、総合病院の歯科に紹介された。頭部MRIなどの精査をし異状はなかったが、痛みはしだいに激しくなり、経過よりストレス性が最も疑われると紹介となった。「ストレスと言われても、思い当たるものがない」と女性は話し、「でも、もうここ(精神科)にしか行くところがないんです」と話した。これまでの経過と「しんどさ」について詳細に話したが、表情は決して苦しそうではなく、声には張りがあり、勢いのようなものが感じられた。今は、家にいる時間が長く、テレビを見ている。外出はときおり、歯科や内科に通院しているくらいであった。楽しみなテレビ番組についてたずねると、旅番組が好きで見ていること、以前はよく旅行に出かけていたことを話した。一人暮らしであったが、団体旅行に参加したり、一人で旅行に出かけたりなど、旅行好きで、活動的であることがわかった。歯の痛みが出現する前に、足を痛め旅行には出かけなくなったこともわかった。思ったことをはっきり言うタイプで、自分の考えを主張するために、現役時代も退職後も、人間関係ではトラブルが多く孤立しがちであったらしい。心配ごとや悩みごとの切り替えが苦手であり、旅行は大切な気分転換になっていたようであった。
筆者は、歯の痛みを感じるときには、①歯そのものが悪いとき、②歯から脳に信号を送る神経が悪いとき、③脳の信号を感じ取るところが敏感になっているとき、の3つがあり、女性の場合には、脳が敏感になっている可能性があることを、図に書いて説明した。そして、これだけ調べ治療も受けてきたのだから、③脳の敏感さを軽減させるのがよいと思うと話した。そして、そのためには、以前楽しんでいた旅行などを楽しんでみましょうと提案した。女性はそれを受け入れ、少しずつではあるが旅行など再開した。しばらくの間、痛いという訴えは続いていたが、旅行などの楽しみについて話すことが増え、痛みも徐々に軽減していった。
趣味や活動で適度に切り替えられ、発散されていた、何かに固執するエネルギー(「こだわりエネルギー2)」)が、特定の身体の不調や痛みに向けられ、その症状が持続してしまうことがある。不調や痛みへのエネルギーの集中、こだわりを、他の方向に向けるという発想が、臨床では大切となる、と考えている。

注:i) 引用中の文献番号「2)」は、【青木省三、村上伸治『大人の発達障害を診るということ―診断や対応に迷う症例から考える』医学書院、2015年】です。 ii) 引用中の「こだわりエネルギー」について、青木省三著の本、「ぼくらの中の発達障害」(2012年発行)の 第6章 発達障害を持つ人たちへのアドバイス の [自分の考えで生きる] の「こだわりエネルギーを生かそう」における記述(P172~P173)を以下に引用します。 iii) 引用中の「こだわりを、他の方向に向ける」ことに関連する自閉スペクトラム症における「残したいこだわりが増えると,その分だけ困ったこだわりは減る」ことについて、本田秀夫著の本、「自閉スペクトラム症の理解と支援」(2017年発行)の 第8章 こだわりへの対応 の『★「こだわり保存の法則」に活路あり!』における記述(P151~P152)を以下に引用します。

こだわりエネルギーを生かそう
「こだわり」という言葉は、プラスとマイナスの両方の意味で用いられている。料理や物作りなどの職人の技量において、こだわりはプラスとして評価される。こだわりがあるからこそ、良い物が作れる。「こだわりの味」「こだわりの一品」である。適当なとこ
ろで妥協しないことが、質を高める。趣味の世界だったら、オーディオにこだわる人、ワインにこだわる人……、それこそいろいろな奥深い世界がある。これらは、生きがいではあっても、決して生きることを苦しめるものではない。
しかし、自分の考えを切り替えられず、同じ心配を持ち続けるというような「こだわり」もある。気になって何度も何度も確かめてしまうというような「こだわり」だ。
実は、先のプラスのこだわりと後のマイナスのこだわりは、決してかけ離れているものではなく、同じものから出発している。何がこのプラスとマイナスの分かれ目か? こだわる力、即ち「こだわりエネルギー」とでもいうものを何に向けるかが分かれ目のように思う。
極めて単純なことだけど、楽しいことや面白いことに、「こだわりエネルギー」を向けて、しっかりと使おう。それは、悩み事や心配事を切り替えられないという、生きづらさを生む「こだわり」に、はまり込まないための一つの方法になる。

注:引用中の「こだわりエネルギー」に関連する「こだわりの強い人は,職人・趣味人として生きていく道もある」ことについて、内海健清水光恵、鈴木國文編の本、「発達障害の精神病理Ⅱ」(2020年発行)の 第Ⅱ部 記憶・認知 の 第1章 反応性からみた成人期の自閉スペクトラム症 の Ⅳ. 日常生活での反応に気づく の「治療と支援の考え方③ 社会の中にその人に合った場を探す」における記述の一部(P22)を次に引用(『 』内)します。 『さらに,こだわりの強い人は,職人・趣味人として生きていく道もある。』(この引用部の著者は青木省三です。)

「こだわり保存の法則」ということを言いましたが,残したいこだわりが増えると,その分だけ困ったこだわりは減ります。逆に,何か困ったこだわりがあって,必死でやめさせるということをやっていると,その嫌なこだわりは減りますが 別のこだわりが出てくることがあります。
ですから,残したいこだわりを増やしていくようにするのです。たとえば,朝起きたら,絶対顔を洗いたくなってしまうこだわりというのがあったとすると,それはむしろ良い生活習慣になります。
それから,鉄道にものすごく興味がある場合には,鉄道を良い趣味としてどんどん広げていくことによって,そちらに向くエネルギーの分,他の変なこだわりが減るということがあり得るわけです。
したがって,このこだわりは使えるな,このこだわりは役に立つなと思うようなことを,率先して増やしていくことが有用となるのです。

注:引用中の「こだわり保存の法則」の図については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 『発達障害「早期発見・早期療育は誰のため?」療育神話の真実【子どもの発達障害 現場から伝えたい“本当のこと” 第2回】[ページ2]』の図「こだわり保存の法則」

【5】「発達性協調運動障害」(発達性協調運動症)について

最初に標記「発達性協調運動障害」については次の資料を参照して下さい。 「発達障害について」の「7.運動症群(Motor Disordes)」項 加えて標記「発達性協調運動障害」について、 a) 花園大学心理カウンセリングセンター監修、橋本和明編の本、「発達障害との出会い」(2009年発行)より、田中康雄著の「第1講 発達障害を支援するコツ」の「発達障害の特性を知る」項における記述の一部(P17)を以下に、 b) そだちの科学 2019年4月号 中の斉藤まなぶ、小枝周平、大里絢子、三上美咲、坂本由唯、三上珠希、中村和彦著の文書「発達性協調運動障害(DCD)」(P47~P54)の「はじめに」項における記述の一部(P47)を以下に それぞれ引用します。

<発達性協調運動障害>は、運動面の不器用さのことです。幼稚園の頃に、右手と右足が同時に出てしまう、三輪車がこげない、小学校に上がると、縄跳びができない、跳び箱、逆上がりもできない、コンパスがうまく使えない、リコーダーがうまく吹けない、といったような子どもたちです。

発達性協調運動障害(Developmental Coordination Disorder: DCD)は、不器用さ、運動の苦手さを症状とする神経発達障害の一つであり、協調運動技能の獲得や遂行がその人の生活年齢や技能の学習および使用の機会に応じて期待される水準を明らかに下回っており、それにより日常生活における活動へ支障をきたしている状態をいう。近年のメタ解析などによれば、原因は自身の脳内での運動予測と身体の動きを協調させて目的とする運動を遂行させるプロセス、すなわち脳の機能障害(内部モデル障害)とする説が有力である。有病率は、五~一一歳の子どもの五~六%であり、症状は五〇~七〇%の高い割合で青年期になっても残存する。幼児期では運動の問題が中心だが、学童期になると学業成績等にも影響を及ぼし、青年期にかけては周囲からの孤立や自尊心の低下、運動嫌いなどの二次的な心理・社会的問題として発展する。DCDの兆候は、始歩の遅れ、発語の遅れ、身辺自立の遅れなど早期から他覚的にみられることが多いが、将来的な予後についての周知が浅く、積極的に診断されていない。DCDの見過ごしは、過剰な反復練習などの不適切な対応につながり、結果として彼らのメンタルヘルスの悪化を助長し、不登校等に発展する恐れがある。早期発見し、脳の発達を介して運動発達の促進をするとともに、苦手な作業をある程度克服するコツを習得することにより、将来的な予後が改善できる可能性がある。(後略)

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【6】第四の発達障害について

標記について、杉山登志郎著の本、「子ども虐待という第四の発達障害」(2007年発行)の 第一章 発達障害としての子ども虐待 の「第四の発達障害」項における記述の一部(P19)を次に引用します。

徐々に筆者は、被虐待児は臨床的輪郭が比較的明確な、一つの発達障害症候群としてとらえられるべきではないかと考えるようになった。
筆者は現在、被虐待児を第四の発達障害と呼んでいる。第一は、精神遅滞、肢体不自由などの古典的発達障害、第二は、自閉症症候群、第三は、学習障害注意欠陥多動性障害などのいわゆる軽度発達障害、そして第四の発達障害としての子ども虐待である(表3)。

加えて、杉山登志郎著の本、「発達障害の子どもたち」(2007年発行)の 第七章 子ども虐待という発達障害 の「発達障害としての子ども虐待」項における記述の一部(P164)を次に引用します。

(前略)このような事実から徐々にわれわれは、被虐待児とは、同じ症状を示し、同じように変化をしていく、一つの発達障害症候群として捉えるべきでないかと考えるようになった。近年、バンデアコルクというトラウマの世界的権威によって、発達性トラウマ症候群という概念が提唱された。これはわれわれの見いだしたものと同じ現象を述べている。

注:i) 前者の引用中の「表3」の引用は省略します。 ii) ちなみに、後者の引用中の「バンデアコルク」と同一人物である「べッセル・ヴァン・デア・コーク医師」についての紹介はリンク集を参照して下さい。 iii) 「発達性トラウマ症候群」(又は発達性トラウマ障害)を含むこの引用より最近の情報は、例えば以下に示す資料を参照して下さい。
・「児童青年精神医学入門 その4:子ども虐待」における「発達障害と子ども虐待」シート
・「精神医学講義 児童思春期その6 Child Maltreatment PTSD & Complex PTSD
・『「発達障害から発達凸凹へ」における「3. 発達障害とトラウマの複雑な関係」項(P12)』 注:該当部は P12~P14 です。
・「トラウマからみた発達障害の特徴」 注:自閉スペクトラム症においては比較的軽微な出来事でもトラウマ化することの説明を含みます。
・「若年者に対する刑事法制の在り方に関する勉強会第7回ヒアリング及び意見交換(P13)」 注:ここに、複雑性PTSDと第四の発達障害(発達性トラウマ症候群)との関係が簡単に説明されています(なお、上記複雑性PTSDについては他の拙エントリのリンク集を参照して下さい)。 iv) 主に引用中の「発達性トラウマ症候群」に関連した資料例は以下を参照して下さい。ちなみに、「発達性トラウマ症候群」は「発達性トラウマ障害」とも呼ばれます。ただし、この症候群は国際的な診断基準には採用されていません。
・「『児童虐待による脳への傷と回復へのアプローチ』」における「発達性トラウマ症候群」項(P2)[加えて、この資料の続報的な位置付けで、発達性トラウマ症候群に関連するかもしれない次の資料があります]「子育て困難を支援する“愛着障害の診断法と治療薬”の開発 ~発達障害や愛着障害の脳科学的研究~」、「被虐待者の脳科学研究」、「マルトリートメントに起因する愛着形成障害の脳科学的知見」、「不適切な生育環境に関する脳科学研究*7
・「児童期逆境体験(ACE)が脳発達に及ぼす影響と養育者支援への展望」[注:上記「児童期逆境体験(ACE)」に関連する「ACE研究」(逆境的小児期体験研究)については他の拙エントリのここを参照して下さい]
・「脳科学からみた子ども虐待 ~児童虐待・ネグレクトが及ぼす神経生物学的影響~
・「子ども虐待とケア」(注:この資料の表1には発達性トラウマ障害の診断基準が記載されています)
・「複雑性 PTSD への簡易トラウマ処理による治療
・pdfファイル「あきた小児保健 第55号」中の杉山登志郎著の文書「発達障害と発達性トラウマ障害」(P19~P24)
・「Developmental trauma disorder:Towards a rational diagnosis for children with complex trauma histories.

一方、次の資料もあります。
・pdfファイル「子どもの虹情報研修センター 日本虐待・思春期問題情報研修センター 紀要 No.17 (2019)」中の久保田まり著の文書『講義「世代間連鎖と親子関係の支援」』(P14~P33)
・「トラウマ体験における症状認知と対処行動に関する検討

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【7】PTSD又は複雑性PTSDからの回復に必要な辺縁系セラピーについて

最初にトラウマは心的外傷とも称されます。加えて、PTSDについては他の拙エントリのリンク集を、複雑性PTSDについては他の拙エントリのリンク集をそれぞれ参照して下さい。次に標記について、又はトラウマ性ストレスを解消するうえでの根本的な課題について、べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、杉山登志郎解説の本、「身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」(2016年発行)の 第13章 トラウマからの回復――自己を支配する の「回復のための新たな主眼点」における記述(P334~P335)及び「辺縁系セラピー」における記述の一部(P336~P337)を次に引用します。。

回復のための新たな主眼点

トラウマについて語るときには、私たちはしばしば話や問いから始める。たとえば、「戦争中に何がありましたか」「性的虐待を受けたことはありますか」「その事故(あるいは、そのレイプ)について話をさせてください」「家族にアルコール依存の人はいましたか」といった具合に。だがトラウマは、ずっと昔に起こったことについての話という程度のものでは断じてない。トラウマを負ったときに刻みつけられた情動と身体的感覚が、記憶としてではなく、現在における破壊的な身体的反応として経験されるのだ。
自己を制御する能力を取り戻すためには、トラウマに立ち返る必要がある。自分に起こった出来事に遅かれ早かれ対峙しなければならないのだが、それは、自分が安全だと感じ、過去に立ち返ることによって再びトラウマを負わないようになったあとだ。最初にしなければならないのは、過去と結びついた感覚と情動に圧倒されていると感じる事態に対処する方法を見つけることだ。
第4部までで示したように、心的外傷後の反応を引き起こすエンジンは、情動脳の中にある。理性脳が思考というかたちで現れ出てくるのとは対照的に、情動脳は身体的な反応というかたちで姿を現す。たとえば、はらわたがよじれるような感覚、心臓の激しい鼓動、速く浅い呼吸、胸が張り裂けるような感覚、話すときの緊張した甲高い声、虚脱や硬直や憤激や過剰な自己防衛を示す特徴的な体の動きなどだ。
なぜ私たちは、ただ理性に従うわけにはいかないのか。理解は手助けになるのだろうか。理性的で実行機能のある脳が上手に手助けしてくれるので、私たちは自分の抱いている感情の由来を理解できる(「男性に近寄るとおびえてしまうのは、父に性的虐待をされたからだ」「息子への愛情表現が下手なのは、イラクで子供を殺したことに罪の意識を持っているからだ」というように)。とはいえ、理性脳は、情動や感覚や思考をなくすことはできない(レイプされたのは自分のせいではないと理性ではわかっていても、漠然とした脅威を覚えながら生きていたり、自分は根本的にひどい人間なのだと感じていたりする)。なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない。だが、理解をすれば、思わず強烈な反応(加害者を思い出させる上司を非難する、一度意見が衝突しただけで恋人と別れる、見知らぬ人の腕に飛び込むといった反応)を見せてしまうのを防ぐことはできる。それでも私たちが疲弊すればするほど、理性脳は情動に主導権を奪われていく(3)。

辺縁系セラピー

トラウマ性ストレスを解消するうえでの根本的な課題は、理性脳と情動脳との適切な均衡を取り戻して、自分がどう反応し、どう人生を送るかを自分で取り仕切っていると感じられるようにすることだ。私たちは、何かのきっかけで過覚醒や低覚醒の状態になるときには、「耐性領域」(最適なかたちで機能できる範囲)の外に押しやられている(4)。過覚醒の場合には、私たちは反応しやすくなり、混乱に陥る。フィルターが働かなくなるので、音や光に悩まされ、望みもしない過去の光景が心に侵入し、パニックになったり逆上したりする。低覚醒の状態で機能停止に陥ると、心も体も麻痺しているように感じ、頭の働きが鈍り、椅子から立ち上がることも難しくなる。
過覚醒になったり機能停止に陥ったりしているかぎり、人は経験から学ぶことができない。どうにか主導権を握り続けていたとしても、極度の緊張状態になっているので(アルコホーリクス・アノニマス[中略]ではこれを、「指の関節が白くなるほど手をきつく握りしめながら保つ、しらふの状態」という)、柔軟性を欠き、頑なになり、気分が落ち込んでいる。トラウマからの回復には、実行機能を回復し、それとともに自信と、遊び戯れたり創造したりするための能力を取り戻すことが必要となる。
心的外傷後の反応を変えたいのなら、情動脳にアクセスして、「辺縁系セラピー」をしなければならない。壊れた警報システムを修理し、情動脳を通常業務(体の維持管理をする静かで目立たない存在)に戻して、食べ、眠り、親密なパートナーと結びつき、子供たちを保護し、危険から身を守ることがきちんとできるようにするのだ。
神経科学者のジョセフ・ルドゥーとその共同研究者たちは、情動脳に意識的にアクセスできる唯一の方法は、自己認識を通してであることを示した。つまり、自分の内部で何が起こっているかに気づいて、自分が感じているものを感じること(専門用語では、「内部を見る」というラテン語に由来する「interoception(内受容)」)を可能にする脳領域である内側前頭前皮質を活性化するのだ(5)。意識ある脳のほとんどは、もっぱら外の世界に向けられており、他者と仲良くやったり、将来のための計画立案をしたりすることに専念している。だがそれは、自分自身を管理する助けにはならない。神経科学的な研究から明らかなとおり、私たちの感じ方を変えられる唯一の方法は、内部の経験を自覚して、自分の内部で起こっている出来事と仲良くなれるようにすることなのだ。

注:i) 引用において記述を省略した、「アルコホーリクス・アノニマス」の説明を次に引用(『 』内)します。 『アルコール依存症からの回復を手助けする匿名会員による組織』 ii) 引用中の脚注番号「(4)」及び「(5)」の内容の引用は省略します。原本をお読み下さい。一方、「(3)」には以下に紹介する論文も含まれます。 iii) 引用中の「理性脳」、「情動脳」については、例えば共に他の拙エントリのここここを参照して下さい。 iv) 引用中の「interoception(内受容)」に関連する「内受容感覚」については「ニューロセプション」の視点からここを、 加えて他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。 v) 引用中の「辺縁系セラピー」に関連する「トラウマに対する治療法」について、ピーター・A・ラヴィーン著、 ベッセル・A・ヴァン・デア・コーク序文、花丘ちぐさ翻訳の本、「トラウマと記憶 脳・身体に刻まれた過去からの回復」(2017年発行)の「序文」における二つの記述の一部(Pix~Pxii)をそれぞれ以下に引用します。これらの引用部の著者は共にベッセル・A・ヴァン・デア・コークです。

(前略)ピーター・ラヴィーンは、トラウマの記憶は潜在的であり、感覚、感情および行動のパッチワークとして身体と脳に刻まれていると説明している。トラウマの痕跡は、物語や意識的な記憶とは異なり、感情、感覚および心理的な自動反応のように、身体が勝手に行っていく「手続き」の形をとって、密かに私たちを支配している。トラウマが手続き的な無意識行為として現れているとき、アドバイスや薬物、理解、治療ではどうすることもできない。私は、「生来の生命力」と呼んでおり、ピーターは、「耐え抜き勝利するための生来の衝動」と呼んでいる、その力にアクセスして治療するしかない。
これは何からできているのだろうか? これは、自分自身を知ること、自分の身体的な衝動を感じること、自分の身体がいかに固くなり萎縮しているかに気づくことであり、また、内面の意識が高まるにつれて、感情、記憶および衝動がどのように沸き起こってくるのかに気づくことである。トラウマの感覚の痕跡は、その後の反応、行動および感情や気分に強い影響を及ぼす。われわれは、過去から忍び寄る悪魔を寄せつけまいと絶えず見張ることに慣れてしまっているが、これからは、この悪魔を裁くことなく、それは何なのか観察することが必要だ。これは、本能的な運動行動プログラムを賦活させる信号なのだ。自然が導くままに従うことによって、われわれは自身との関係性を再構築することができる。しかし、このマインドフルな自己観察は簡単に圧倒されうる。そして、パニックや爆発的な行動、凍りつき、崩れ落ちが引き起こされる。(後略)

注:i) 引用中の「マインドフル」に関連する「マインドフルネス」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 iv) 引用中の「凍りつき」については他の拙エントリのここを参照して下さい。

(前略)よいセラピーとは、内面に潜んで咆哮を放っているものに圧倒されることなく、フェルトセンスを感じることを学ぶということだ。あらゆるセラピーで一番重要な表現は、「気づいてください」および「次に起こることに気づいてください」という言葉である。内側のプロセスを観察できるようになると、脳の論理的な部分と情緒的な部分をつなげる回路が活性化する。これは、人が意識的に脳の知覚システムを再構成することができる、現在知られている唯一の回路である。「自己」とコンタクトするためには、自分の身体と自己を感じることをつかさどる重要な脳の領域である前島を活性化しなければならない。多くの霊性開発の伝統においては、深い感情的、感覚的状態に耐え、それを統合させていくために、呼吸、動き、および瞑想法を発達させてきたとラヴィーンは指摘している。(後略)

注:i) 引用中の「フェルトセンス」については、他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、ブレインスポッティングの視点よりデイビッド・グランド著、藤本昌樹監訳、藤本昌樹・鈴木孝信訳の本、「ブレインスポッティング入門」(2017年発行)の「用語集」における記述の一部(P222)を次に引用(『 』内)します。 『フェルトセンス(felt sense):ユージン・ジェンドリンによって名づけられた語。身体で体験されたはっきりしないもの、または非言語的な体験を指す。』 ii) 引用中の「前島」に関連する「島」については、次のWEBページを参照して下さい。「島 - 脳科学辞典

Stress signalling pathways that impair prefrontal cortex structure and function.[拙訳]前頭前皮質の構造及び機能を損なうストレスシグナル伝達経路(全文はここを参照して下さい)

The prefrontal cortex (PFC) - the most evolved brain region - subserves our highest-order cognitive abilities. However, it is also the brain region that is most sensitive to the detrimental effects of stress exposure. Even quite mild acute uncontrollable stress can cause a rapid and dramatic loss of prefrontal cognitive abilities, and more prolonged stress exposure causes architectural changes in prefrontal dendrites. Recent research has begun to reveal the intracellular signalling pathways that mediate the effects of stress on the PFC. This research has provided clues as to why genetic or environmental insults that disinhibit stress signalling pathways can lead to symptoms of profound prefrontal cortical dysfunction in mental illness.


[拙訳]
最も進化した脳領域である前頭前皮質(PFC)は、我々の最高位の認知能力を援助する。しかしながら、これはまたストレス曝露の有害な影響に対して最も感受性が高い脳領域でもある。かなり軽度の急性の制御不能なストレスさえも、前頭前皮質の認知能力の急速かつ劇的な喪失を引き起こす可能性があり、そしてより長期的なストレス曝露は、前頭前皮質樹状突起における構造変化を引き起こす。最近の研究は、PFC に及ぼすストレスの影響をメディエイトする細胞内シグナル伝達経路を明らかにし始めている。ストレスシグナル伝達経路を阻害しない遺伝的又は環境的な損傷が、なぜ心の病における重大な前頭前皮質の機能不全の症状をもたらす可能性があるのかの手がかりをこの研究は提供している。

注:i) 引用中の「前頭前皮質(PFC)」に関連する「前頭前野」については、次のWEBページを参照して下さい。 「前頭前野 - 脳科学辞典」 ii) 標記論文の著者である Amy F. T. Arnsten も著者であるより最新の論文(全文)「Loss of Prefrontal Cortical Higher Cognition with Uncontrollable Stress: Molecular Mechanisms, Changes with Age, and Relevance to Treatment[拙訳]制御不能ストレスによる前頭前皮質の高次認知の消失:分子メカニズム、年齢による変化、及び治療との関連性」があります。この論文(全文)の「1. Introduction」項には次に引用(『 』内)する記述があります。 『The prefrontal cortex (PFC) provides "top-down" control of behavior, thought, and emotion. However, these newly evolved circuits are especially vulnerable to uncontrollable stress, with built-in mechanisms to rapidly take the PFC "off-line" and switch the brain from a reflective to reflexive state.[拙訳]前頭前皮質 (PFC) は行動、思考、及び情動を「トップダウン」で制御する。しかしながら、これらの新たに進化した回路は、PFC の「オフライン」を急速に採用し、そして脳を内省的な状態から反射的な状態に切り替えるメカニズムを内蔵しているため、制御不能なストレスに特に脆弱である。』

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【8】ニューロセプション(神経知覚)、味覚嫌悪に関連する単一試行学習及び血管迷走神経反射を含む神経生理学的な反応等をはじめとしたポリヴェーガル理論について

(注:本項における用語「凍りつき」については他の拙エントリのここにおける「注」を参照して下さい)最初にポリヴェーガル理論(又は Polyvagal theory)の概略については例えば次の資料、論文や YouTube を参照して下さい。 「多重迷走神経理論による神経性過食症理解の可能性について」の「Ⅰ. 多重迷走神経理論 Polyvagal theory について」項、「ポリヴェーガル理論からみた精神療法について」の「Ⅰ. ポリヴェーガル理論とは」項、そして、「Polyvagal Theory: Background & Criticism」、「Polyvagal Theory: A Primer」、「Association of Childhood Maltreatment with Adult Body Awareness and Autonomic Reactivity: The Moderating Effect of Practicing Body Psychotherapy」、「Polyvagal Theory: A biobehavioral journey to sociality」、「Polyvagal Theory: A Science of Safety」、「Cardiac vagal tone: a neurophysiological mechanism that evolved in mammals to dampen threat reactions and promote sociality」、「Heart Rate Variability: A Personal Journey」、「The vagal paradox: A polyvagal solution」(注:これらは共に英文で拙訳はありません)、「ポリヴェーガル理論を一緒に学ぼう!☆重大告知あり☆【Dr.P×心療内科医たけお対談】」(「心身医学の人こそ(ポリヴェーガル理論を)学ばないといけないかも」については同 YouTube の 6:30~を参照)、「令和3年度第2回子どものこころ診療部セミナー」の 11:45~ なお、ポリヴェーガル理論における「自律神経の反応」及び「耐性領域」(例えば上記資料の「4.Window of Tolerance(耐性領域・耐性の窓)について」項[P332]を参照)については、上記の各資料以外にも他の拙エントリのここ及びここを参照して下さい。加えて、ポリヴェーガル理論、医学的に説明困難な身体症状、そして functional somatic syndrome の視点を含めた「自律神経系の調整不全」については次の資料を参照して下さい。 「青年期において被虐待経験と不安定愛着が心身の健康に及ぼす影響の回顧的研究 ―解離性障害や心身症の予防と効果的介入に向けて―」の「新たな疑問点とその説明モデルとしての自律神経系の調整不全」項 また、ポリヴェーガル理論とヨーガの関連については他の拙エントリのここを、EMDRの作用メカニズムとの関連の視点を含むポリヴェーガル理論については次の文書を それぞれ参照して下さい。pdfファイル「学校安全推進センター紀要 2021年3月 創刊号」中の山内美穂、岩切昌宏著の文書「EMDRの作用メカニズムとポリヴェーガル理論について」(P55~P63、注:ポリヴェーガル理論については同文書の特に「Ⅳ.ポリヴェーガル理論」項を参照) 一方、 a) ポリヴェーガル理論(「生き残るための対価」)の視点からのアロスタティック負荷(アロスタティックロード)については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、子ども時代のマルトリートメントが大学生における自律神経の調整やメンタルヘルスに与える影響については次の論文(全文)を参照して下さい。 「Childhood Maltreatment Influences Autonomic Regulation and Mental Health in College Students」 b) 「RSA:呼吸性洞性不整脈」の視点を含めたポリヴェーガル理論の簡単な説明は次の資料を参照して下さい。 「バイオフィードバックにおける心拍変動の可能性」の「2. 2 HF成分の特徴」項 加えて、「社会的関わりシステムと心拍変動」については次の資料を参照して下さい。 「心拍変動の有用性 ――高周波および低周波成分に着目して――」の「社会的関わりシステムと心拍変動」項(P32) c) ポリヴェーガル理論の視点からの「身体志向の心理療法」については他の拙エントリのここを、加えて「息を長く吐けば落ち着いていきます。息を急いで吐くような呼吸法では、不安が強化されます。」については他の拙エントリのここを、さらに「歌う」こと等については他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。 d) 『最近のトラウマに関連する欧米の書籍で、「ボリヴェーガル理論」に言及しないものを見ないことはあまりない』ことについては次のエントリを参照すると良いかもしれません。 「ポリヴェーガルと感情 推敲 1」 e) 構造的解離に対するパーツアプローチにおけるポリヴェーガル理論の適用例については拙エントリのここを参照して下さい。 f) また、ポリヴェーガル理論の視点からの「防衛状態中では、捕食者を知らせる騒々しい低周波音はより容易に検知できるだろう」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 g) 脳と身体との交感神経と迷走神経の結合の概略を示す FIGURE 1 を有する論文(全文)「Traumatic stress and the autonomic brain‐gut connection in development: Polyvagal Theory as an integrative framework for psychosocial and gastrointestinal pathology[拙訳]発達におけるトラウマティック・ストレス及び自律神経的な脳-腸相関:心理社会的及び胃腸病理学の統合的フレームワークとしてのポリヴェーガル理論」があります。 h) ニューラルエクササイズを含むかもしれない上記ポリヴェーガル理論ベースのエクササイズをたくさん紹介する本は他の拙エントリのここを参照して下さい。 i) これら以外にも、ポリヴェーガル理論における、進化中に生じた神経解剖学的及び神経生理学的な変化に依存することの強調例について、上記「Polyvagal Theory: A Primer」の「Overview」項における記述の一部を以下に引用します。加えて、引用はしませんが「ある特定の行動や心理状態を引き起こすためには、まず神経生理学的反応が引き起こされる必要がある」ことについてはステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の 第1章 「安全である」と感じることの神経生物学 の『正当な科学的論題としての「感じること」に関する研究』項を参照して下さい。 j) 一方、標記ポリヴェーガル理論では「自律神経がどのように機能するのかを説明している」ことについて、同本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』の「序文」における記述の一部(P6)を次に引用(【 】内)します。 【ポリヴェーガル理論では、「異なる状況において、それぞれ適切な適応的行動をとるための神経的基盤として、自律神経がどのように機能するのか」を説明している。】 加えて引用中の「自律神経」に関連する「自律神経系の状態は、人間が携わるほとんどすべての機能を構成している」ことについて、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の 第Ⅰ部 神経系と友達になる の「第Ⅰ部 まとめ」における記述の一部(P65)を次に引用(『 』内)します。 『「自律神経系の状態は、人間が携わるほとんどすべての機能を構成している」とウィリアムソンらは述べています(Williamson, Porges, Lamb, & Porges, 2015, p.2)。』(注:引用中の「Williamson, Porges, Lamb, & Porges, 2015」は次の論文です。 「Maladaptive autonomic regulation in PTSD accelerates physiological aging」) k) 「ポリヴェーガル理論」の視点からの「patients with BPD appraise and react, both subjectively and physiologically, to positive social contexts as if they were unsafe and rejecting.[拙訳]BPD(境界性パーソナリティ障害)を伴う患者は主観的かつ生理学的にポジティブな社会的文脈をまるで不安全で拒絶されたかのように評価、そして反応する」との考え方(view)については次の論文(全文)を参照して下さい。 「Autonomic vulnerability to biased perception of social inclusion in borderline personality disorder」の「Conclusions」項 l) また「ポリヴェーガル理論とDefence Cascade modelとでは、凍りつきの扱いが違う」との主旨の記述を有するツイートもあります。ちなみに、上記「Defence Cascade model」についてはツイートを参照して下さい。 m) これら以外にも「ResearchGateにポリヴェーガル理論を批判的に検討するスレみたいなのがある」ことの記述を有するツイートがあります。

(前略)Polyvagal Theory describes an autonomic nervous system that is influenced by the central nervous system and responds to signals from both the environment and bodily organs. The theory emphasizes that the human autonomic nervous system has a predictable pattern of reactivity, which is dependent on neuroanatomical and neurophysiological changes that occurred during evolution. Specifically, the theory focuses on the phylogenetic changes in the neural regulation of bodily organs during the evolutionary transition from ancient extinct reptiles to the earliest mammals.


[拙訳]
ポリヴェーガル理論は、中枢神経系の影響を受け、環境と身体器官の両方からの信号に応答する自律神経系を記述する。人間の自律神経系には予測可能な反応パターンがあり、進化中に生じた神経解剖学的及び神経生理学的な変化に依存することを、この理論は強調する。具体的には、古代の絶滅した爬虫類から初期の哺乳類への進化的変遷期間での身体器官の神経調節の系統発生的変化に、この理論は焦点を当てる。

注:i) 拙訳中の「神経生理学的な」(neurophysiological)についてはここを参照して下さい。 ii) 拙訳中の「ポリヴェーガル理論」と「進化」との関連について、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の 第1章 「安全である」と感じることの神経生物学 の『「安全であること」の役割と、生き残るために必要な「安全である」という合図』における記述の一部(P25)を次に引用します。

(前略)ポリヴェーガル理論によって、身体の反応と生理学的状態は、様々な治療モデルの介入技法を構築する上での神経生理学的な基盤であることが明らかになった。これにより、さらに効果的な治療モデルを創出することができるだろう。ポリヴェーガル理論では、我々の心理的、物理的、行動学的反応が、我々の生理学的状態に依存しているという事象に重きを置く。本理論では、身体の諸機関と脳が、自律神経を制御している迷走神経やその他の神経を通して、双方向に情報交換しているということに注目する。自律神経系の制御は、進化を通して変化してきた。哺乳類は、進化の過程で爬虫類と別れ、新たに「安全であること」をお互いに発信しあい、協働調整することができる神経系を獲得していった。(後略)

注:(a) 引用中の「神経生理学的な」に関連する、 1) 上記ポージェス(Porges)著の本の例「Porges, S.W. (2011)」については他の拙エントリのここの (i) 注 1) 項を参照して下さい。 2) 「ポリヴェーガル理論は、人々の特定の行動を説明するための、神経生理学的な枠組みをセラピストに提供する」ことについて、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の「第Ⅰ部 神経系と友達になる」における記述の一部(P6~P7)を次に引用(『 』内)します。 『ポリヴェーガル理論は、人々の特定の行動を説明するための、神経生理学的な枠組みをセラピストに提供します。ポリヴェーガルのレンズを通すと、「行動は意識レベルよりはるか下にある自律神経系によって生み出された、自律的で適応的なものである」ということがよくわかります。これは、認知的な選択をする脳によってなされる決定ではありません。防衛パターンで動く自律的なエネルギーです。』 3) 「ポリヴェーガル理論がもたらしたもっとも大きな貢献は、この理論が、トラウマを体験した人が抱えていた状態について、神経生理学的な説明を行ったことであった」ことについてはここを参照して下さい。 (b) 引用中の「神経生理学的な基盤」に関連するかもしれない「過去を思い起こさせるものが、ある種の神経生理学的反応を自動的に活性化させる」ことについて、デイヴィッド・エマーソン、エリザベス・ホッパー著、伊藤久子訳の本、「トラウマをヨーガで克服する」(2011年発行)の 第2章 トラウマティック・ストレス の「トラウマとサバイバル反応」における記述の一部(P27~P28)を次に引用します。

過去を思い起こさせるものが、ある種の神経生理学的反応を自動的に活性化させるという事実を見れば、現在においては不適切かつ有害ですらある不合理な(大脳皮質下で引き起こされる)反応を、トラウマ・サバイバーがたやすく起こす理由がよくわかる。
特に、人生の初期に極度の脅威にさらされ、十分なケアを受けないでいると、随伴するストレスに影響されて、人体の交感神経・副交感神経の反応調整能力が、長期にわたり重大な影響を受ける。

――ベッセル・A・ヴァン・デア・コーク(後略)

注:i) この引用部はベッセル・A・ヴァン・デア・コークによる記述の引用でもあると考えます。詳細は原文を参照して下さい。 ii) 引用中の「交感神経・副交感神経の反応調整能力が、長期にわたり重大な影響を受ける」ことの例としての「自律神経系の調整不全」については他の拙エントリのここを参照して下さい。

次に、上記ポリヴェーガル理論の神髄が「安全を求めることこそが、私たちが成功裏に人生を生きていくための土台である」ことについて、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の 序文 の「なぜ安全を求めるということに焦点を当てているのか?」における記述の一部(P7)を次に引用します。

(前略)最近ウェビナーでインタビューを受けたのだが、その後視聴者が私のブログにコメントを寄せてくれた。そのコメントを読んでみると、視聴者は複雑なポリヴェーガル理論を十分に理解したことがうかがえた。私は科学者であり学術論文を書く訓練を受けてきている。しかしウェビナーにおいて、日常的な表現を使って説明したことによって、ポリヴェーガル理論が、むしろ効果的にわかりやすく一般のみなさんに受け入れられたことがわかった。一時間に及ぶインタビューだったが、それを聞いていた視聴者は、ポリヴェーガル理論の神髄、つまり「安全を求めることこそが、私たちが成功裏に人生を生きていくための土台である」ということを、しっかりと理解してくれたのである。
本書執筆にあたっては、癒しを引き起こすためには、「安全である」と感じることがいかに重要であるかに光を当てていく。ポリヴェーガル理論の観点からすると、「安全ではない」と感じることによって、精神的、肉体的に疾病を引き起こす生理行動学的な特徴が形成される。我々が「安全である」と感じることの必要性が広く理解されることで、社会的、教育的、臨床的な戦略が、お互いの安全のために、進んで他者を受け入れて、互いに協働調整*を図ることを勧める方向に、大きく変わっていくことを望んでいる。(後略)

注:(i) 引用中の「協働調整*」中の「*」は、次にその一部を引用(『 』内)する用語解説[用語解説(6)~(7)]があることを指します。 『ポリヴェーガル理論では、協働調整とは、個人の間で相互に生物学的状態を調整しあうことを意味する。たとえば、母親と乳児の関係では、母親が乳児を落ち着かせるだけではなく、母親の声、表情、仕草などに答えて、乳児が落ち着きリラックスする反応が、母親を落ち着かせる。母親が乳児を落ち着かせることができないと、母親の生理学的状態も、調和を欠くことになる。協働調整、家族のような集団でも行われる。家族の一員が亡くなったときは、悲しんでいる人の生物行動学的な状態に対し、往々にして他の家族の構成員の存在がたすけになる〔「相互調整」と訳されることもある。〕』 (ii) 引用中の「癒し」にひょっとして関連するかもしれない「マインドフルネス」(例えば他の拙エントリのここを参照)について、 a) 同の 第2章 ポリヴェーガル理論とトラウマの治療 の「自閉症の治療」項における記述の一部(P71)を次に引用(【 】内)します。 【ポージェス:(中略)私は「マインドフルネス」の講義をしますが、そこでは「『マインドフルネス』は安全であると感じることが必要だ」といつも言っています。もし私たちが安全だと感じられないなら、絆をつくったり、人間らしくのびのびと創造的になれるようなすばらしい神経回路を使うことができなくなってしまうのです。もし安全な環境を作ることができれば、私たちは社会的になり、学んだり良い気分になったりする神経回路を発動することができるのです。】 b) 加えて同の「第7章 心理療法に関するソマティックな視点」における記述の一部(P245)を次に引用(【 】内)します。 【ポージェス:(中略)また、交感神経系の活性化に関連する防御システムの起用は、マインドフルネスとは両立しないということにも気づきました。マインドフルネスは中立であることを必要とすることを思い出してください。何事も評価しない中立の状態は、生存のために良い評価を得なくてはいけないという防衛状態とは両立しません。】(注:引用中の「マインドフルネス」と関連する、『「今・ここの」の感覚』と耐性の窓(Window of Tolerance)との関連について、キャシー・L・ケイン、ステファン・J・テレール著、花丘ちぐさ、浅井咲子の訳の本、「レジリエンスを育む ポリヴェーガル理論による発達性トラウマの治癒」(2019年発行)の『第7章 「耐性の窓」と「偽りの耐性の窓」』における記述の一部(P190)を次に引用(≪ ≫内)します。 ≪図6の「最適な覚醒領域」(訳注:「耐性の窓」と同義)は、自身や他者の様子を察知し、適切に反応することができる範囲を示しており、通常、腹側迷走神経系の生理学的機能に支えられている。この領域内で機能している時は、「今・ここ」の感覚があり、脳は情報と体験をうまく処理するように働く。≫[注:1) 引用中の「図6」の引用は省略しますが、代わりに拙訳はありませんが、次のWEBページにおける図を参照して下さい。 「How to Help Your Clients Understand Their Window of Tolerance - nicabm」 2) 引用中の「耐性の窓」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 3) 引用中の「今・ここ」と異なる「反すうと心配」については他の拙エントリのここを参照して下さい。]) (iii) 一方、 a) 引用中の「安全を求めることこそが、私たちが成功裏に人生を生きていくための土台である」ことに関連するかもしれない「生理機能が落ち着き、回復し、成長するためには、私たちは体の芯で安全を感じる必要がある」ことについては次の資料を参照して下さい。 『東日本大震災県外避難者が描く「復興曲線」から見えてくるもの ─トラウマの視点から』の「3-2 身体の芯から感じる安全・安心」項 加えて、上記「安全を感じる」ことに関連する「安全の確保」については次のWEBページを参照して下さい。 『「大人」への支援を考える ~「大人のトラウマ」という視点』の「安全の確保」項 上記 b) 引用中の『我々が「安全である」と感じることの必要性が広く理解される』ことに関連するかもしれない「我々は、社会が安全であると感じられる環境や、信頼できる人間関係を十分人々に提供しているのか、という問いに直面することになる」ことについては次の資料を参照して下さい。 「令和の看護をひらく力」の『ポリヴェーガル理論心身に変革をおこす「安全」と「絆」(2018)』項(P26) c) 引用中の「安全」及び「協働調整」にも関連するかもしれない「他者との絆の形成」について、『「安全である」と感じることは、生きていく上でなくてはならない』ことを含めて同の 第1章 「安全である」と感じることの神経生理学 の「結論」における記述の一部(P29~P30)を以下に引用します。 (iv) 引用中の「安全」に類似するかもしれない「安心・安全」について、大河原美以著の本、「子育てに苦しむ母との心理臨床 EMDR療法における複雑性トラウマからの解放」(2019年発行)の 第2章 子育て困難と複雑性トラウマの理解 の「5. 単回性のトラウマと感情制御の脳機能」における記述の一部(P97)を次に引用(【 】内)します。 【ポリヴェーガル理論(複数の迷走神経に関する理論)は,人間が育つためにどれほど「安心・安全」という感覚が重要であるのかということについての生理学的な根拠を教えてくれました(Porges, 2007)。】(注:引用中の「Porges, 2007」は次の論文です。 「The polyvagal perspective」) 加えて、引用中の『「安全である」と感じる』ことを含めて、「ポリヴェーガル理論がもたらしたもっとも大きな貢献」について、同の「謝辞」における記述の一部(P257)を次に引用(《 》内)します。 《しかしポリヴェーガル理論がもたらしたもっとも大きな貢献は、この理論が、トラウマを体験した人が抱えていた状態について、神経生理学的な説明を行ったことであった。トラウマを抱えた人々に対し、ポリヴェーガル理論は、生命の危機に及んで、なぜ彼らの身体はかくのごとく反応し、その結果、レジリエンス、柔軟性、回復力を失い、「安全である」と感じられる状態に戻れなくなったのかを説明したのである。》[注:トラウマに対する引用中の「ポリヴェーガル理論がもたらした(中略)貢献」の例について、べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、杉山登志郎解説の本、「身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」(2016年発行)の 第5章 体と脳のつながり の「治療への新しい取り組み」における記述の一部(P143~P144)を以下に引用します。]

(前略)ポリヴェーガル理論では、他者との絆を形成し、互いに協働調整しあうことは、我々人間にとって必要不可欠な生物学的必須要件であると説いている。「安全である」と感じることは、生きていく上でなくてはならない。そして、我々が行動的、生理学的状態を協働調整することができる、信頼に満ちた社会的関わりを持つことによってのみ、我々は「安全」を感じることができる。したがって、何を感じているのかを示す生理学的な反応と、その生理学的反応を引き起こす「合図」を用いて、我々がクライアント、家族、友人とよりよい関係を築き、支援することが大切である。絆の形成は、生物学的な必須条件である。それを達成するためには、我々は、人々に「安全である」と感じてもらえるように尽力していくことが重要である。

注:引用中の「他者との絆を形成」とは大きく異なる「孤独」は「社会的脅威に対する感受性を高める」ことについての記述「Evidence indicates that loneliness heightens sensitivity to social threats and motivates the renewal of social connections, but it can also impair executive functioning, sleep, and mental and physical well-being.[拙訳]孤独は社会的脅威に対する感受性を高め、社会的つながりの復活を促すが、実行機能、睡眠、そして精神的及び身体的なウェルビーイング参照)を損ない得ることが証拠から示されている。」を有する論文要旨は次を参照して下さい。 「Social Relationships and Health: The Toxic Effects of Perceived Social Isolation」 加えて全文はここを参照して下さい。

私やトラウマセンターの同僚は、虐待された子供やトラウマを負った大人の治療を計画するにあたって、ポージズの研究に計り知れない影響を受けてきた。(中略)

だが、これらの多様で型破りな技法がなぜこれほど効果があるのかを私たちが理解し、説明するうえで、ポリヴェーガル理論にはおおいに助けられた。私たちはこの理論のおかげで、トップダウンの取り組み(社会的関与を行わせる)とボトムアップの方法(体の緊張を和らげる)を、以前より意識的に組み合わせるようになった。私たちはまた、呼吸法(プラーナーヤーマ)や詠唱から、気功のような鍛錬法や武道、ドラム演奏や合唱、ダンスまで、西洋医学の外で長年行われてきた、他の古い、非薬理的な取り組みの価値も、受け容れやすくなった。これらの取り組みはみな、人と人との間のリズムや、内臓感覚の自覚、声や表情による意思疎通に依存している。それらは、人が闘争/逃走状態を脱し、危険の知覚を立て直し、人間関係を管理する能力を増進するのを助ける。(後略)

注:i) 引用中の(中略)部において挙げられている、引用中の「これらの多様で型破りな技法」の例を次に示します。治療的ヨーガ(他の拙エントリのここを参照)、演劇(他の拙エントリのここを参照)、「インパクト・モデル・マギング」(注:レイプサバイバーのための空手プログラム)、遊戯療法、感覚刺激のような身体療法。 ii) 引用中の「合唱」に関連する「歌う」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 iii) 引用中の「社会的関与」に寄与するかもしれない「ニューラルエクササイズ」については例えば次の資料を参照して下さい。 「ポリヴェーガル理論からみた精神療法について」の「4.ニューラルエクササイズとリラクセーション」項 iv) 引用中の「闘争/逃走状態」に関連する「闘争-逃走反応」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。

加えて上記「安全」に関連して、資料「Polyvagal Theory: A Primer」中の『Cues of Safety Are the Treatment[拙訳]安全の「合図」が治療』項における記述(P61~P62)を次に引用します。

Polyvagal Theory proposes that cues of safety are an efficient and profound antidote for trauma. The theory emphasizes that safety is defined by feeling safe and not simply by the removal of threat. Feeling safe is dependent on three conditions: 1) the autonomic nervous system cannot be in a state that supports defense; 2) the social engagement system needs to be activated to down regulate sympathetic activation and functionally contain the sympathetic nervous system and the dorsal vagal circuit within an optimal range (homeostasis) that would support health, growth, and restoration; and 3) cues of safety (e.g., prosodic vocalizations, positive facial expressions and gestures) need to be available and detected via neuroception. In everyday situations, the cues of safety may initiate the sequence by triggering the social engagement system via the process of neuroception, which will contain autonomic state within a homeostatic range and restrict the autonomic nervous system from reacting in defense. This constrained range of autonomic state has been referred to as the window of tolerance (see Ogden, Minton, & Pain, 2006; Siegel, 1999) and can be expanded through neural exercises embedded in therapy.


[拙訳]
安全の合図がトラウマに対する効率的かつ深遠な対抗手段であることをポリヴェーガル理論は提案する。安全は単に脅威を取り除くことではなく、安全を感じることによって定義されることをこの理論は強調する。安全を感じるには、三つの条件に依存する。1)自律神経系が防衛を支持する状態にはなれないこと 2)交感神経の活性化をダウンレギュレートし、そして健康、成長、及び回復を支持するだろう最適な領域(恒常性)内に交感神経系と背側迷走神経回路を機能的に囲い込むために必要とする社会的関わりシステム 及び 3) 安全の合図(例えば、韻律的な発声、肯定的な表情及びジェスチャー等)が利用可能でありニューロセプション(神経知覚)を介して検知される必要があること。日常の状態において、安全の合図は、恒常性の範囲内に自律神経の状態をとどめて、そして自律神経系が防衛において反応するのを制限する、ニューロセプションのプロセスを介した社会的関わりシステムを誘因とする、一連の過程を開始するかもしれない。自律神経の状態のこの制限された範囲は、耐性の窓(Ogden, Minton, & Pain, 2006; Siegel, 1999を参照)と呼ばれ、そして治療に組み込まれたニューラルエクササイズを通じて広げることができる。

注:(i) 引用中の「Ogden, Minton, & Pain, 2006」はここの i) 項を、引用中の「Siegel, 1999」はここの ii) 項を それぞれ参照して下さい。 (ii) 拙訳中の「安全の合図がトラウマに対する効率的かつ深遠な対抗手段であることを提案する」ことに関連するかもしれない、(ポリヴェーガル理論を提唱するポージェスが述べた)「有機体の安全体験を増す可能性を持つ刺激はすべて、社会交流システムに組み込まれた向社会的行動を提供する、より進化した神経回路を回復する可能性を持っている」ことについて、キャシー・L・ケイン、ステファン・J・テレール著、花丘ちぐさ、浅井咲子の訳の本、「レジリエンスを育む ポリヴェーガル理論による発達性トラウマの治癒」(2019年発行)の 第5章 発達性トラウマの副作用 の「生き残りをかけた生理学的反応が暴走する時」における記述の一部(P133)を以下に引用(『 』内)します。 『ポージェスはこのように述べている。「防衛的な戦略から、社会的交流の戦略に効果的に切り替えるために、哺乳類の神経系は、二つの大切な適応課題を成し遂げる必要がある:(1)危機を査定する(2)環境が安全だと感じられたら、闘争、逃走、凍りつき行動を引き起こす、より原始的な辺縁系の働きを抑制する。有機体の安全体験を増す可能性を持つ刺激はすべて、社会交流システムに組み込まれた向社会的行動を提供する、より進化した神経回路を回復する可能性を持っている」(Porges, 2009, 88)』(注: a) 引用中の「Porges, 2009」は次の論文です。 「The polyvagal theory: new insights into adaptive reactions of the autonomic nervous system.」 全文はここを参照して下さい。 b) 引用中の「闘争、逃走、凍りつき」については例えば拙エントリのここを参照して下さい。) (iii) 拙訳中の「社会的関わりシステム」については例えば次の資料を参照して下さい。 「ポリヴェーガル理論からみた精神療法について」の「2.社会的関わりシステムと腹側迷走神経複合体」項 (iv) 拙訳中の「背側迷走神経回路」に類似する「背側迷走神経系」については例えば次の資料を参照して下さい。 「多重迷走神経理論による神経性過食症理解の可能性について」の「1.背側迷走神経系」項 (v) 拙訳中の「ニューロセプション」についてはここを参照して下さい。 (vi) 拙訳中の「耐性の窓」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (vii) 拙訳中の「ニューラルエクササイズ」については例えば次の資料を参照して下さい。 「ポリヴェーガル理論からみた精神療法について」の「4.ニューラルエクササイズとリラクセーション」項 (viii) ポリヴェーガル理論の視点からの拙訳中の「恒常性」について、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の 用語解説 の「恒常性・ホメオスタシス」における記述の一部(用語解説 P7)を次に引用(『 』内)します。 『恒常性は「健康」、「成長」、「回復」を最適化するように身体が内臓を制御する、神経化学的反応のことである。』 (ix) 上記「社会的関わりシステム」に類似する「社会交流システム」、「ニューラルエクササイズ」と同等の「神経エクササイズ」、そして「交感神経系」、「背側迷走神経回路」、「ニューロセプション」、「恒常性」、「耐性の窓」はもちろん、「安全」について、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の 用語解説 の「安全」における記述の一部(用語解説 P1~P2)を次に引用します。

ポリヴェーガル理論では、「安全」と「信頼」に関して神経生理学的なモデルを提唱している。このモデルでは、安全とは、「安全だと感じること」であり、「脅威を取り除くこと」ではないとしている。安全だと感じることは三つの条件に依存している。(1)自律神経系が防衛を支持するような状態にないこと、(2)社会交流システムが適度に活性化して、交感神経系を抑制し、交感神経系と背側迷走神経回路を機能的に最適な領域に囲い込み、「健康」、「成長」、「回復」を支持する恒常性が保たれていること、(3)ニューロセプションによって、韻律に満ちた声、優しい表情や仕草など、「安全である」という合図を検知すること。日常生活の中で感じられる「安全である」という合図は、ニューロセプションのプロセスを通じて社会交流システムを刺激する。それにより自律神経の状態が恒常性の範囲にとどまり、防衛反応に移行しないですむ。この自律神経の状態が一定の幅に収まっていることは、「耐性の窓」(許容領域)と呼ばれており、「神経エクササイズ」をもりこんだ療法によって、この「耐性の窓」を広げることができる(Ogden, et al. 2006; Siegel, 1999)。(後略)

注:i) 引用中の「Ogden, et al. 2006」は次の本です。 「Ogden, P., Minton, K., & Pain, C., (2006). Trauma and the body: A sensorimotor approach to psychotherapy. New York, NY: W. W. Norton & Co., Inc. [パット・オグデン、ケクニ・ミントン、クレア・ペイン(2012)『トラウマと身体:センサリーモーター・サイコセラピー〈SP〉の理論と実践』日本ハコミ研究所訳、星和書店]」 ii) 引用中の「Siegel, 1999」は次の本です。 「Siegel, D. J. (1999). The developing mind. New York: Guilford.」

その上に(治療的状況における)上記「安全」について、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の 用語解説 の「安全(治療的状況における)」における記述の一部(用語解説 P2)を次に引用します。

ポリヴェーガル理論では、医学、心理学、心理教育を含む治療的関係において効果をもたらすには、「安全である」と感じることが非常に重要であると考える。本理論では生物学的状態や自律神経の状態は治療の効果に影響を与える変数であると捉えている。具体的には、本理論では治療が必要かつ十分な効果を発揮するためには、神経系が防衛の状態に入っていないことが必要であると考える。腹側迷走神経経路を通して社会交流システムを活性化し、自律神経系を、「健康」、「成長」、「回復」を支持する状態に導くことが必要である(中略)。このように「安全な状態」を保つと、自律神経系は、容易には防衛体制に入らない。この「安全である」ことが効果的な治療をもたらす必要条件であるという理論は、教育、医学、メンタルヘルスなどの治療モデルにいまだに十分反映されていない。セラピーが行われる環境には、様々な「合図」がある。例えば低い周波数帯の雑音、道路の音、換気扇の音、エレベーターやエスカレーターの振動などがニューロセプションによって検知され、自律神経系が防衛状態に入ってしまい、治療の効果を低減させる恐れがある。(後略)

注:(i) 引用中の「ニューロセプション」についてはここを参照して下さい。 (ii) 引用中の「社会交流システム」に類似する「社会的関わりシステム」については例えば次の資料を参照して下さい。 「ポリヴェーガル理論からみた精神療法について」の「2.社会的関わりシステムと腹側迷走神経複合体」項 (iii) 引用中の『「安全な状態」を保つと、自律神経系は、容易には防衛体制に入らない』に関連する『クライアントは、自律神経をうまく調整したいと望みます。しかし調整ができるようになるには、身体に落とし込んだ「安全である」という感覚を味わうことが必要なのです。』について、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の 第Ⅰ部 神経系と友達になる の「第1章 安全、危険、生命の危機――適応反応のパターン」における記述の一部(P21)を次に引用(【 】内)します。 【対人間神経生物学を提唱するシーゲルは、精神的な問題は、すべて神経系が過覚醒か、低覚醒のいずれかと診断されることであると述べています(Siegel, 2010)。これはポリヴェーガルの観点からも理にかなっています。防衛反応を抑制する能力がなければ、神経系はつねに生き残り戦略をとることになり、それは活性化された可動化(過覚醒)か、不動化(低覚醒)のいずれかであるといえます。クライアントは、自律神経をうまく調整したいと望みます。しかし調整ができるようになるには、身体に落とし込んだ「安全である」という感覚を味わうことが必要なのです。多くのクライアントにとって、それはしばしば手の届かないところにあるようです。】(注:a) 引用中の「Siegel, 2010」は次の本です。 「Siegel, D. (2010). Mindsight: The new science of personal transformation. New York, NY: Bantam Books.[ダニエル・J・シーゲル(2013)『脳をみる心、心をみる脳:マインドサイトによる新しいサイコセラピー――自分を変える脳と心のサイエンス』山藤奈穂子,小島美香訳、星和書店]」 b) 引用中の「過覚醒」や「低覚醒」について共に他の拙エントリのここを参照して下さい。)

さらに同理論におけるニューロセプション(神経知覚、資料「ポリヴェーガル理論からみた精神療法について」の『3.階層的反応モデルと「ニューロセプション」について』項[P332]も参照)について、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の、 a) 用語解説 の「ニューロセプション」における記述の一部(用語解説 P18)を以下に、 b) 第2章 ポリヴェーガル理論とトラウマの治療 の「ニューロセプション:意識せずに行う知覚」における記述の一部(P45~P49)を以下に それぞれ引用します。

ニューロセプション
神経系は、意識することなく常に危険を評価しており、これをニューロセプションという。この自律的なプロセスは、「安全」、「危険」、あるいは「命が脅かされている」という合図を評価する脳の一部位によって行われる。ニューロセプションによって危険が検知されると、自動的に生理学的状態が、各段階に合わせた生き残りに最適になるように整えられる。通常我々は、ニューロセプションを引き起こすような「合図」には気づかないが、生理学的な状態が変化したことには気づく(→「内受容感覚」)。時として我々は、腹や心臓で何かを感じたり、「この状態は危険だ」ということを第六感で感じ取ったりする。またニューロセプションは、「信頼」、「社会的交流活動」、「親密な関係性」を築くのに必要な生理学的状態を引き起こす。ニューロセプションは、必ずしも常に正確とは限らない。危険がないのに「危険である」とニューロセプションが誤って検知してしまうこともある。あるいは危険でないにも関わらず「安全である」という「合図」だと取り違えてしまう可能性もある。(後略)

注:(i) 引用中の「内受容感覚」については「辺縁系セラピー」の視点からここを、加えて他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。加えて上記「内受容感覚」のポリヴェーガル理論における説明として、同の 用語解説 の「内受容感覚」における不連続な記述の一部を2つに分割して以下に引用(それぞれ【 】内)します。 【内受容感覚は、意識的に感じられる感覚であり、身体が無意識的に監視している作用でもある。】、【ポリヴェーカル理論では、内受容感覚は、生理的な状態が変化していることを脳に伝達する信号を提供する過程であると考える(Porges, 1993)。「危険」あるいは「安全である」という合図があると、ニューロセプションに続いて、内受容感覚が発生する。内受容感覚は、身体の反応を意識的に感じることと言ってもよい。一方でニューロセプションは、意識の外側で起きる。】(注:引用中の「Porges, 1993」の紹介は省略します) (ii) 一方、引用中の「ニューロセプション」及び「内受容感覚」に「島」(参照)が関与するかもしれないことについて、論文(全文)「The polyvagal theory: New insights into adaptive reactions of the autonomic nervous system」の「Other contributors to neuroception」項における記述の一部を以下に引用します。 (iii) 加えて、「ニューロセプション」に関連して、「同じ出来事であっても、この反応の発動、どういう生理学的状態になるかが異なる」ことについてはここを参照して下さい。そして、「クライアントの知覚システムが、安全が感じ取れない状態だとしたら、本当に脅威ではないことに対しても本物の脅威に反応する時の行動を取る」ことについて又は関連して、 a) 上記「ニューロセプションは、安全と脅威を知覚する神経生理学的なプロセス」であることを含めて、キャシー・L・ケイン、ステファン・J・テレール著、花丘ちぐさ、浅井咲子の訳の本、「レジリエンスを育む ポリヴェーガル理論による発達性トラウマの治癒」(2019年発行)の 第2章 「安全である」ことを知る の「ニューロセプション」項における記述の一部(P54~P55)を次に引用(『 』内)します。 『ニューロセプションは、安全と脅威を知覚する神経生理学的なプロセスであり、ポージェスはこれを、行動を支える神経系の基盤であると述べている(Porges, 2007)。ポージェスは、行動と生理学的プロセスを区別して論じている。本物ではない脅威に対して、不正確な警報を発する知覚システムをもったクライアントに働きかける時、この考え方が重要になる。クライアントの知覚システムが、安全が感じ取れない状態だとしたら、本当に脅威ではないことに対しても本物の脅威に反応する時の行動をとる。』(注:引用中の「Porges, 2007」は次の論文です。 「The polyvagal perspective.」) b) 上記に関連して、資料「こころの傷つき体験をしたあなたのためのワークブック - 武蔵野大学心理臨床センター」中には「こころの傷つき体験の後には、アラームが誤作動を起こす」項(P5)があります。また、 1) 「ニューロセプションがうまく機能していないと、周囲の状況が安全なのか危険なのかという判断が、実際の状況とは合致しないかもしれない」ことについて同本の 第3章 健全な発達が阻まれる時 の「基本構造の調節不全」における記述の一部(P90~P91)を次に引用(【 】内)します。 【ニューロセプションがうまく機能していないと、周囲の状況が安全なのか危険なのかという判断が、実際の状況とは合致しないかもしれない。比較的安全な時でも危険だと感じるかもしれないし、逆に脅威であるのにその兆候を見逃すかもしれない。さらに事態を複雑にしているのは、これは認知的プロセスから生まれるものではないということだ。この反応は、神経生理学的なプロセスによって、意識よりも下で引き起こされている。】 2) 「過活性」状態になると「ニューロセプション、すなわち安全の知覚はあてにならなくなる」ことについて同本の 第6章 逆境的小児期体験(ACE)の影響 の「大人になってからの発達性トラウマの身体的影響」項における記述の一部(P177)を次に引用(《 》内)します。 《生き残ることにのみ集中する生理機能のために、内受容感覚も外受容感覚も、危険や脅威の徴候である情報を探し出そうとして、過活性状態になっている。命自体が危険に晒されていると感じていたら、人は興味を持って探究することなどできない。その結果、彼らのニューロセプション、すなわち安全の知覚はあてにはならなくなる。クライアントは往々にして自分の状態を誤って解釈してしまう可能性があるのだ。》(注:引用中の「外受容感覚」については他の拙エントリのここを参照して下さい) ちなみに、上記「逆境的小児期体験」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (iv) その上に、「トラウマ患者の脳画像研究ではほぼ例外なく、上記島の異常な活性化が見つかる」ことについて、べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、杉山登志郎解説の本、「身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」(2016年発行)の 第14章 言葉――奇跡と暴虐 の「自分の体になる」における記述の一部(P406)を以下に引用します。 (v) さらに、上記「内受容感覚」にも関連する「ニューロセプションは意識せずに行う知覚である」ことについて、同の 第2章 ポリヴェーガル理論とトラウマの治療 の「ニューロセプション:意識せずに行う知覚」項における記述の一部(P45~P49)を以下に引用します。

(前略)The insula may be involved in the mediation of neuroception, since it has been proposed as a brain structure involved in conveying the diffuse feedback from the viscera into cognitive awareness. Functional imaging experiments have demonstrated that the insula plays an important role in the experience of pain and the experience of several emotions, including anger, fear, disgust, happiness, and sadness. Critchley proposes that internal body states are represented in the insula and contribute to states of subjective feeling, and he has demonstrated that activity in the insula correlates with interoceptive accuracy.23


[拙訳]
島は広汎性のフィードバックを内臓から認知的な気づきに伝達することに関与する脳構造として提案されているので、島はニューロセプションのメディエーションに関与しているかもしれない。痛みの体験、及び怒り、恐怖、嫌悪、幸福、悲しみを含むいくつかの情動の体験において、島が重要な役割を果たすことを機能的イメージング実験は証明してきた。Critchley は、内的な身体状態が島において表象され、そして主観的な感情の状態に寄与することを提案し、彼は島における活動が内受容感覚の正確さと相関することを実証した。23)

注:i) 引用中の「23」は次に紹介する論文です。 「Neural mechanisms of autonomic, affective, and cognitive integration.」 ii) 引用中の「島」については次のWEBページを参照して下さい。 「島 - 脳科学辞典」 iii) 引用中の「表象」についてはメンタライジングの視点から他の拙エントリのここを参照して下さい。

(前略)トラウマ患者の脳画像研究ではほぼ例外なく、島の異常な活性化が見つかる。脳のこの部分は、筋肉や関節やバランス(固有受容)システムといった内部器官からの入力を統合して解釈し、一つにまとまった体を持っているという感覚を生み出す。島は信号を扁桃体に伝え、闘争/逃走反応を引き起こすこともできる。このときには、何かがうまくいかなかったという認知的な入力や意識的な認識は必要なく、苛立って集中できないと感じるだけか、悪くすると、今にも死ぬのではないかと思ってしまう。こうした強烈な感情は脳の奥深くで生み出されるもので、理性や理解によって消し去ることができない。(後略)

注:i) 引用中の「島」については、次のWEBページを参照して下さい。「島 - 脳科学辞典」 ii) 引用中の「扁桃体」及び「闘争/逃走反応」については共に他の拙エントリのここここを参照して下さい。

ニューロセプション:意識せずに行う知覚

プチンスキー:神経回路は、どうやってある状況が安全か否かを判断しているのでしょうか?
ポージェス:どの神経経路が使われているのかは、まだ厳密にはわかっていません。辺縁系の防衛回路を抑制する、側頭葉を含む高次の脳を使っているのではないか、と考えられています。側頭葉は「生物学的な動き」の意図を評価しています。「生物学的な動き」とは、表情、声の韻律、手や頭のジェスチャーなどを含む身体の動きのことです。例えば、赤ちゃんを落ち着かせるのにはお母さんの韻律に富んだ声が重要な働きをしますね。しかし危険を察知する回路については、すでによく研究されていますが、安全を検知する回路の特性については、まだわからないことが多いのです。
さらに研究が進めば、危険だと判断する閾値が下がってしまい、不適応な反応を引き起こす原因に関して、幼児期の体験が大きな影響を与えているということがわかってくるかもしれません。
新しい迷走神経回路で保護されている間は、私たちは落ち着いていられます。しかし、この新しい迷走神経回路の、生理学的反応を制御する能力が失われてしまうと、私たちは「戦うか・逃げるか」という防衛反応に駆り立てられたロボットになってしまいます。闘争/逃走反応という防衛反応に陥ると、人間や他の哺乳類は、身体を動かしたいと感じます。そのような中で、孤独であったり、拘束されていて動くことができないと、私たちの神経系は、それを「自分はどうすることもできない状態である」という合図として受け取り、「不動状態」に陥ります。二つのおもしろい例をあげましょう。「闘争/逃走反応」と「凍りつき反応」が引き起こされた例です。一つ目はCNNで見たニュースです。
数年前に、私は学術会議に出席していました。本会議に出席する前に、私はCNNのニュースを見ていました。するとテレビの画面には、飛行機が着陸に際して非常に危険な状態になっている様子が映っていました。突風に煽られて、翼が激しく上下していました。飛行機はとても不安定な状態でしたが、なんとか無事に着陸することができました。そこで降りてきた乗客に対して、レポーターがインタビューしました。レポーターは、乗客たちが「本当に怖かった」とか「叫び声をあげた」とか、「もう自分の身体から飛び出したかった」などと答えると思っていたようです。レポーターは、一人の乗客に近づき、着陸時にひどく揺れたときの様子について聞きました。しかし彼女の答えを聞いて、レポーターは何も言えなくなってしまいました。その女性は言いました。「感じる? いえ、何も。だって気を失っていましたので」。
この女性は生命の危機を感じたことによって、迷走神経の古いほうの回路が発動されたのです。この回路が発動すると、私たちはもう自分のことを制御することはできなくなります。しかし、意識を失うことにもいくつかのメリットがあります。例えば、痛みの閾値を上げることで、トラウマ的な状況に遭遇しても、うまく生き延びることができたりします。
性的虐待や身体的な虐待で、被虐待児が動けない状態に置かれた場合、そうしたトラウマを扱うセラピストであれば、被虐待児が、「自分はそこにいなかった」というような心理的な状態を述べるのを聞いたことがあるでしょう。彼らは、解離したか気を失っており、身体は何も感じなくなっていたのでしょう。こうした被虐待児は、トラウマ的な出来事によって引き起こされる身体的心理的な苦痛を緩衝する、適応的な反応を行ったのです。しかし問題は、このような人たちをどうやって身体に戻せるかです。解離したり、身体を感じなくするということが、かつては適応的な反応だったのですから。
もう一つの例は、私の個人的な体験です。私自身、予期せぬ生理学的状態の変化を体験しました。MRIの検査を受けたときです。私はMRIの検査には、非常に強い興味を持っていました。なぜかと言うと、私の同僚の何人かがMRIを使った研究を行っていたからです。私はMRIはどんな感じなのか、とワクワクしていましたし、MRI装置に入ることも楽しみにしていました。MRIで脳のスキャンをするには、台の上に仰向けに横になります。その台が次第にMRIの大きな磁気を発する機械の中に移動していきます。私は横になったとき、とてもワクワクしていました。一体どんな体験なのかと、胸をときめかせていました。もちろん、大変心地よい状態でしたし、心配もしていませんでした。
私を乗せた台が静かに動き出し、MRI磁気装置の小さな穴の中へと滑り込んでいきました。私の頭がすっぽりと磁気装置の中に入ったとき、私は「ちょっと待ってください。水をください」と言いました。私はMRI装置の外へ出され、水を一杯もらいました。もう一度横になり、私を乗せた台はゆっくりと磁気装置の中へと入っていきました。私の鼻が入るあたりで、私は言いました。「無理です。出してください」。私は、このように狭いところに入ることができなかったのです。パニック発作が起きそうでした。
私はこれをとても良い例だと思ってお話ししています。私の知覚、つまり認知が、身体の反応とずれていたのです。私はMRIの装置の中に入りたかったし、怖くはありませんでした。危険でないこともわかっていました。しかし私の身体に何か起きて、MRIに入ったときに、私の神経系がいくつかの「合図」を察知し、防衛反応が引き起こされたのです。つまり私を突き動かし、「ここから出たい」と感じさせたのです。(中略)

ポージェス:(中略)「知覚」と「ニューロセプション」の違いをはっきりさせましょう。「ニューロセプション」は環境中の危険因子について、意識しないで評価します。「知覚」とは、意識して行うもので意識的に検知しようとすることです。ニューロセプションは認知のプロセスではありません。これは神経的なプロセスで、意識には依存していません。ニューロセプションは環境中にある様々な「合図」や「きっかけ」を評価し、危険を察知し、こうした「合図」に適応的な自律神経系の状態をもたらす神経回路に依存しています。ポリヴェーガル理論では、ニューロセプションはポリヴェーガル理論で定義された自律神経の三つの主要な状態、つまり「安全」「危険」「生命の危機」を察知し、それにふさわしい神経回路にスイッチを入れる作用機序を表しています。(後略)

注:i) 引用中の「ニューロセプション」に関連して、「私たちが体験する生理学的な状態は、意識して選択しているのではない」ことについて、同の 第3章 自己調整と社会交流システム の「迷走神経パラドクス」における記述の一部(P97~P98)を以下に引用します。 【もう一度言いますが、私たちが体験する生理学的な状態は、意識して選択しているのではないということです。私たちの神経系は、無意識レベルで環境を評価しています。環境の中にあるリスクを反射的に評価する神経系の働きに敬意を表して、私は、「ニューロセプション」という言葉を使います。】 加えて引用中の「ニューロセプション」の定義に関連する引用中の「意識せずに行う知覚」に相当する「Detection Without Awareness」(拙訳:[意識的な]気づき無しの検出)については、次の資料を参照して下さい。 「The Polyvagal Theory for Treating Trauma」の「Neuroception - Detection Without Awareness」項(P10~P12) ii) 引用中の「新しい迷走神経回路」や上記「背側迷走神経複合体」に類似した「腹側迷走神経系」については例えば次の資料を参照して下さい。 「多重迷走神経理論による神経性過食症理解の可能性について」の「3. 腹側迷走神経系」項 加えて、引用中の「ポージェス」が個人的に体験した認知と上記ニューロセプションとがずれていた上記防衛反応の例について、同の 第2章 ポリヴェーガル理論とトラウマの治療 の「ニューロセプション:意識せずに行う知覚」における連続した記述の一部(P45~P48)を以下に引用します。一方、引用中の「迷走神経の古いほうの回路」に相当する「背側迷走神経系」については例えば次の資料を参照して下さい。 「多重迷走神経理論による神経性過食症理解の可能性について」の「1. 背側迷走神経系」項 加えて引用中の「凍りつき反応」の際には「脈拍,血圧,呼吸の低下を伴う」ことについても同項を参照して下さい。 iii) 引用中の「迷走神経」に関連して、「ほとんどの副交感神経の神経線維は迷走神経を介している」ことについては、引用元の本の P37 における記述の一部を次に引用(『 』内)します。 『たしかに私たちの内臓には交感神経と副交感神経の両方が接続しており、ほとんどの副交感神経の神経線維は迷走神経を介しています。』 iv) 引用中の『「闘争/逃走反応」と「凍りつき反応」が引き起こされた』ことに関連する『状況が逃げたり戦ったりすることのどちらも許さない場合,「凍りつく」ことでその場を切り抜けようとする』ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 v) 引用中の「CNNのニュース」における「この女性は生命の危機を感じたことによって、迷走神経の古いほうの回路が発動」した(すなわち意識を失った)ことの別の表現法としての、引用はしませんが同の P237 に、「恐怖に起因する不動化反応」についての記述があります。 vi) 引用中の「知覚」については次のWEBページを参照して下さい。 「知覚 - 脳科学辞典」 vii) トラウマの視点からの引用中の「ニューロセプション」に相当する「神経知覚」について、べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、杉山登志郎解説の本、「身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」(2016年発行)の 第5章 体と脳のつながり の「安全性の三段階」における記述の一部(P133)を以下に引用します。 viii) 引用中の(MRI装置のように)「狭いところに入ることができなかった」ことに関連する「閉所恐怖症でMRI検査に不安」なことについては、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「閉所恐怖症でMRI検査に不安」 ix) 引用中の「凍りつき反応」に関連するかもしれない、「トラウマを負った人々が腹の底で感じるものを無視し、内部で起こっていることの自覚を麻痺させる」及び/又は「恐怖で凍りつく」ことについて、べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、杉山登志郎解説の本、「身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」(2016年発行)の 第6章 体の喪失、自己の喪失 の「主体性――自分の人生を支配する」における記述の一部(P161~P164)を以下に引用します。 x) 引用中の「解離」とポリヴェーガル理論との関連についてはここを参照して下さい。加えて、「同じ出来事であっても、人によってどのようなニューロセプションの反応が発動し、どういう生理学的状態になるかが異なる」ことについて、同の 第2章 ポリヴェーガル理論とトラウマの治療 の「ニューロセプション:意識せずに行う知覚」における記述の一部(P50~P51)を以下に引用します。その上に、ソマティック・エクスペリエンス(又はソマティック・エクスペリエンシング、SE、参照)の視点からの解離の原因、「解離は凍りつきの心理的な側面である」及び「乳幼児は生き残りのため、背側迷走神経を過剰使用することを学ぶ」ことについて、野呂浩史企画・編集の本、「トラウマセラピー・ケースブック 症例にまなぶトラウマケア技法」(2016年発行)中の藤原千枝子著の文書「ソマティック・エクスペリエンス」の Ⅱ.SE 療法の実際 の 2.実際のケース -ショックトラウマと発達トラウマを例に- の「【症例2】主に発達トラウマを取り扱ったケース」における記述の一部(P341)を以下に引用します。さらに、「危険な状態にあることを知らせる情動脳の警報ベルが鳴り続けると、どれほどの洞察をもってしてもそれを黙らせることはできない」ことについては他の拙エントリのここここ(特に後者における引用の「騎手と馬」項)を参照して下さい。これら以外にも、「トラウマを負った人にとっては、自分がいつ本当に安全なのかを見極めたり、危険に直面したときに防御反応をとったりできるようになるのは、非常に難しい」ことについて、べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、杉山登志郎解説の本、「身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」(2016年発行)の 第5章 体と脳のつながり の「防御するか、くつろぐか」における記述の一部(P141)を次に引用します。 【トラウマを負った人にとっては、自分がいつ本当に安全なのかを見極めたり、危険に直面したときに防御反応をとったりできるようになるのは、非常に難しい。それには、身体的に安全であるという感覚を取り戻せる経験をする必要がある。】(注:引用中の「安全であるという感覚を取り戻せる」ことに関連する『「安全である」と感じる』ことについてはここを参照して下さい)

安全性の三段階

トラウマを負ったあと、周りの世界は、危険と安全の知覚が改変された、異なる神経系によって経験される。ポージズは、自分の環境中の相対的な危険と安全を評価する能力を指す、「神経知覚」という言葉を造った。ニューロセプションに欠陥のある人を助けようとするときには、彼らの生存メカニズムが本人に不利に働くのをやめるよう、彼らの生理的作用をリセットする方法を見つけるのが、非常に大きな課題だ。これは、彼らが危険に適切に対応するばかりではなく、こちらのほうがなおさら大切なのだが、安全と緊張緩和と真の相互作用を経験する能力を取り戻すのを助けることを意味する。(後略)

注:i) 引用中の「神経知覚」には「ニューロセプション」のルビが振られています。従って「神経知覚」=「ニューロセプション」であると考えます。 ii) 引用中の「ポージズ」は、上記ポリヴェーガル理論の提唱者である、ステファン・W・ポージェス博士のことです。

主体性――自分の人生を支配する(中略)

私たちが腹の底で感じるものは、なぜそのように感じるかをきちんと説明できなかったとしても、何が安全か、生命の維持に役立つか、脅威を与えるかを知らせてくれる。私たちの内部感覚は、自分の生体の欲求について、微妙なメッセージを絶えず送ってくる。腹の底で感じるものは、身の周りで起こっていることを評価するのも手伝ってくれる。近づいてくるあの男性は気味が悪く感じられるなどと警告するが、キスゲに囲まれた西向きの部屋は落ち着いた気分にさせるといったことも伝える。人は、自分の内部感覚と快適なつながりを持っていて、それらが正確な情報を提供してくれると信頼できる場合には、自分の体や感情や自己を取り仕切っていると感じるだろう。
だが、トラウマを負った人々は、自分の体の内部で絶えず危険に感じている。過去が、心を苦しめる内部の不快感として生き続けているからだ。彼らの体は、内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ、それを制御しようとするうちに、腹の底で感じるものを無視し、内部で起こっていることの自覚を麻痺させるのか得意になってしまう場合が多い。彼らは自己から隠れることを学ぶのだ。
体内の危険信号を退けて無視しようとすればするほど、それらの信号が主導権を握り、本人は当惑し、混乱し、恥ずかしく感じる羽目になる可能性が高まる。体内で何が起こっているかに気づくと不安になる人は、どのような感覚の変化にも、機能停止やパニックといったかたちで対応しやすくなってしまう。恐れそのものに対する恐れを抱くようになるのだ。
パニックの症状が維持されるのは、パニック発作と結びついた身体感覚に対する恐れを抱くのが大きな原因であることが、今ではわかっている。発作は、本人も不合理だと承知していることによって引き起こされうるが、その感覚への恐れのせいで彼らはしだいに反応をエスカレートさせ、全身を巻き込む緊急事態にまで陥る。「怖くて体が硬直する」とか「恐怖で凍りつく」(虚脱状態や麻痺状態に陥る)といった表現は、恐怖やトラウマがどのように感じられるかをじつに正確に言い当てている。トラウマは、内臓を土台とするそうした感覚から生じる。恐れの体験は、何らかのかたちで逃避が妨げられて感じた脅威に対する原始的な反応に由来する。内臓の経験が変わらないかぎり、その人の人生は恐れに人質に取られたままとなる。
体のメッセージを無視したり歪めたりすると、その代償として、自分にとって本当に危険なものや有害なものを感知できなくなるし、それに劣らず問題なのだが、安全なものやためになるものも感知できなくなる。自己調節は、自分の体との友好的な関係に依存している。そのような関係がなければ、外部からの調節、たとえば薬や、アルコールなど常習性のあるもの、他者からの絶え間ない励まし、他者の願望への否応ない追従に頼らざるをえない。
私の患者の多くはストレスを受けると、それがストレスだと気づく代わりに、偏頭痛や喘息の発作を起こすことで応じる(15)。中年の訪問看護師サンディは、子供のころ、アルコール依存症の両親に面倒を見てもらえずに、怖くて寂しかったと語った。自分が頼りにしている人(彼女のセラピストである私も含む)全員に、丁重になることでそれに対処した。夫が無神経な発言をするたびに、喘息の発作を起こした。息ができないことに気づいたときには吸入器ではもう間に合わず、病院の救急処置室に搬送してもらわなければならなかった。
助けを求める内なる叫びを抑え込んでも、ストレスホルモンが体を動員するのを止めることはできない。サンディは人間関係の問題を無視して身体的苦悩の信号を締め出すことを覚えたものの、そうした信号は、彼女の注意を要求する症状となって表れた。彼女のセラピーは、自分の身体的感覚と情動とのつながりを突き止めることに焦点を絞った。私はさらに、キックボクシングのプログラムに参加するよう彼女に勧めた。私の患者だった三年間、彼女は一度も救急処置室に搬送されることはなかった。(後略)

注:(i) 引用中の原注「(15)」の引用は省略します。この本をお読みください。 (ii) 引用中の「凍りつく」及び「麻痺状態」の関連はここを参照して下さい。 (iii) 引用中の「私の患者の多くはストレスを受けると、それがストレスだと気づく代わりに、偏頭痛や喘息の発作を起こすことで応じる」に関連する「心理的なストレス及び喘息の罹患率」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (iv) 引用中の「ストレスホルモン」に関連するストレス応答における、 a) 「HPA系」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「ストレス - 脳科学辞典」の「視床下部-下垂体-副腎系」項 b) 「SAM系」については他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。 (v) 引用中の「情動」については次のWEBページを参照して下さい。「情動 - 脳科学辞典」 さらにメンタライジングの視点からの情動については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (vi) 引用中の「パニック発作」に関連する「パニック症」については次のWEBページを参照して下さい。 「パニック症 - 脳科学辞典」 (vii) 引用中のストレスを受けた際の「喘息の発作」に関連するかもしれない、 1) 「無髄の迷走神経経路のいくつかは、横隔膜より上の心臓、肺、気管支などの臓器にも接続しており、これは未熟児にみられる徐脈や、のちに起きる喘息の作用機序と関連していると考えられている」ことについてはここを、 2) 「心身症としての気管支喘息」については例えば次の資料を それぞれ参照して下さい。 「心身症としての気管支喘息の現状と今後の課題

(前略)ポージェス:(中略)飛行機の中で気を失ったご婦人と、私のMRIの体験ですが、どちらの反応も不随意だということを理解してください。飛行機が大きく揺れたことで、このご婦人はシャットダウンを起こしました。私の場合はMRIの狭い穴から抜け出さずにはいられなかったのです。もしこの飛行機に乗っていた他の乗客にインタビューをしていったら、様々な反応が見られたことでしょう。ある人は叫んだり怒鳴ったりしたかもしれません。そして身体を動かして、「飛行機から出たいと思った」と言う人もいるかもしれません。また別の人は、隣に座った人と互いに手を握り、静かに耐えていたと言うかもしれません。
非常に重要なのは、同じ出来事であっても、人によってどのようなニューロセプションの反応が発動し、どういう生理学的状態になるかが異なるということです。(後略)

注:(i) 引用中の「飛行機の中で気を失ったご婦人と、私のMRIの体験」についてはここにおける引用を参照して下さい。 (ii) 引用中の「どちらの反応も不随意」に関連する「私たちが体験する生理学的な状態は、意識して選択しているのではない」ことについてはここを参照して下さい。 (iii) 引用中の「同じ出来事であっても、人によってどのようなニューロセプションの反応が発動し、どういう生理学的状態になるかが異なるということです」に関連する、 a) 「何を地獄と感じるかは、一人一人違う」ことについて、同の「第6章 トラウマ・セラピーの今後 ポリヴェーガル的な視点から」における記述の一部(P208)を次に引用します。 『ポージェス:トラウマに関しては、何が起きたかという出来事ではなく、その危機的な出来事にどう反応したかということが大切です。私はいつも自分に言い聞かせていることがあります。それは、「何を地獄と感じるかは、一人一人違う」ということです。これは、私がある出来事について下す判断は、クライアントにとっては無意味であり、どのような経緯を経るかは、その出来事へのクライアントの反応によって決まると言うことです。ある人にとっては、比較的穏やかだと感じることが、別の人の神経系にとっては、まるで生きるか死ぬかの状況として感じられるのです。』 b) 『同じ「脅威」であっても、皆が皆、同じ反応をするわけではない』ことについて、キャシー・L・ケイン、ステファン・J・テレール著、花丘ちぐさ、浅井咲子訳「レジリエンスを育む ポリヴェーガル理論による発達性トラウマの治癒」(2019年発行)の 第4章 調製とつながりのための神経基盤 の「ポリヴェーガル理論と発達性トラウマ」における記述の一部(P106)を次に引用(【 】内)します。 【「ポリヴェーガル理論」においてポージェスも明言しているが、人間は複雑であり、二人として同じ人はいない。同じ「脅威」であっても、皆が皆、同じ反応をするわけでない。】 c) 『私たちはみな、「安全」、「危険」、そして「生命の危機」というスペクトラムを共有していますが、その状態を移行する条件は人によって大きく異なる』ことについて、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の 第Ⅰ部 神経系と友達になる の「第2章 自律神経系の監視――ニューロセプション」における記述の一部(P47~P48)を次に引用(《 》内)します。 《私たちはみな、「安全」、「危険」、そして「生命の危機」というスペクトラムを共有していますが、その状態を移行する条件は人によって大きく異なります。自律神経系は、体験によって形成され、人間関係に左右されるシステムです。クライアントはそれぞれに独自の反応パターンを持ち、「安全である」という状態と、「安全ではない」という状態の間を行き来しています。》 d) 『何をリスクの「合図」ととるかは、個人個人の解釈で異なる』ことについて、「今までのトラウマの臨床と診断は、出来事のみに焦点が当てられていたため、的外れだった」ことを含めて、同の 第3章 自己調整と社会交流システム の「迷走神経:運動経路と感覚経路の導管」における記述の一部(P101~P102)を以下に引用します。 e) 上記「何を地獄と感じるかは、一人一人違う」、『同じ「脅威」であっても、皆が皆、同じ反応をするわけでない。』や『私たちはみな、「安全」、「危険」、そして「生命の危機」というスペクトラムを共有していますが、その状態を移行する条件は人によって大きく異なる』ことに関連する「人にはそれぞれ独特の神経的な反応がある」ことについて、「クライアントによっては、すぐに不動化の状態に入る人がいる」ことを含めて、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の 第Ⅰ部 神経系と友達になる の 第1章 安全、危険、生命の危機――適応反応のパターン の「階層に関与する」における記述の一部(P41~P42)を以下に引用します。

迷走神経:運動経路と感覚経路の導管(中略)

ポージェス:(中略)何をリスクの「合図」ととるかは、個人個人の解釈で異なりますが、その解釈に従い、それぞれの神経回路が発動し、当該の生理学的状態や行動へと変換されます。トラウマの治療が難しいのは、同じ状況であっても、どの神経回路が発動するかに大きな個人差があることが、十分理解されてこなかったからです。今までのトラウマの臨床と診断は、出来事にのみ焦点が当てられていたため、的外れだったのです。「出来事に対してその人がどう反応したか」ということが極めて重大なことだということが理解されていませんでした。

注:(i) 引用中の(それぞれの神経回路が発動し)「当該の生理学的状態や行動へと変換される」ことについてはここここを参照して下さい。 (ii) 引用中の『「出来事に対してその人がどう反応したか」ということが極めて重大なこと』に関連する、 a) 「トラウマもまた外的な出来事(トラウマ事件)自体ではなく,それに対する身体内部の反応(生理学的状態)によって定義されるべきもの」であることについて津田真人著の本、「ポリヴェーガル理論への誘い」(2022年発行)の 第6章 自律神経の3段階論 の「8 3層構造のダイナミズム」における記述の一部(P121)を次に引用(【 】内)します。 【トラウマもまた,ポージェスにとってDSMにおけるPTSDの診断基準(A基準)に反して*14,外的な出来事(トラウマ事件)自体ではなく,それに対する身体内部の反応(生理学的状態)によって定義されるべきものなのです[PoG, pp.22, 112, 165, 203 ; Porges & Culp 2010, p.59 ; Porges & Buczynski 2013b, pp.19-20]。】(注:1) 引用中の註「*14」の引用と、引用中の「PoG」との紹介は省略します。 2)引用中の「Porges & Culp 2010」と「Porges & Buczynski 2013b」はそれぞれ次の資料です。 「The GAINS Anniversary Interviews: Stephen W. Porges Interviewed by Lauren Culp」、「Beyond the Brain: How the Vagal System Holds the Secret to Treating Trauma」 3) 引用中の「A基準」についてはWEBページ「トラウマ体験における症状認知と対処行動に関する検討」からダウンロード可能な博士論文「トラウマ体験における症状認知と対処行動に関する検討」の「表1-1 外傷後ストレス障害PTSD)の診断基準(DSM-5)」の「A.」[P3]を参照して下さい。ちなみに、上記「A.」に関連するICD-11における記述「いずれの場合でも,出来事は生命の危険,脅威をもたらすことが必要であり」については次の資料を参照して下さい。 「ICD-11におけるストレス関連症群と解離症群の診断動向」の「2. 複雑性心的外傷後ストレス症(Complex post-traumatic stress disorder:CPTSD)」項[P679]) b) 「DSM-5のPTSDの基準を満たすような体験だけがトラウマだとするかのような考え方が大嫌いです。多様なトラウマティック・ストレスの中に本来引けるはずのない線を引くようで。」との記述を有するツイートやこのツイートに完全に同意する引用ツイートがあります。 c) また、(トラウマ的な体験に関しては、何があったのかという出来事ではなく)「どう感じたのか、という感覚を重視します」について、花丘ちぐさ編著の本、「なぜ私は凍りついたのか ポリヴェーガル理論で読み解く性暴力と癒し」(2021年発行)の 第Ⅳ部 ポリヴェーガル理論の可能性癒しを求めて の 第14章 [座談]性暴力をめぐるポリヴェーガル理論的見解 の『「何があったか」ではなく「どう感じたのか」』における記述の一部(P294)を次に引用します。

ポージェス ポリヴェーガル理論では、トラウマ的な体験に関しては、何があったのかという出来事ではなく、どう感じたのか、という感覚を重視します。クライアントの物語をドキュメンタリー的な側面、つまり、何が起きたのかといった出来事や物事に焦点を当てるのではなく、生き残りをかけ、安全を求める無意識の身体的衝動の物語として理解します。ポリヴェーガル理論は、どう感じたのかということを重視します。(後略)

注:(i) この引用部の著者はS・W・ポージェス、翻訳:花丘ちぐさです。 (ii) 引用中の「どう感じたのかということを重視します」に関連するかもしれない、『「危険」あるいは「安全である」という合図があると、ニューロセプションに続いて、内受容感覚が発生する』ことについてはここを参照して下さい。

階層に関与する(中略)

自律神経系のパターンは、時間をかけ、体験を通して形成されます。人とつながる体験をしたり、困難を乗り越えたりする中で、私たちは独自の反応パターンを形成していき、自分だけの神経プロフィールを発達させます。ポリヴェーガル理論を基礎に置いたセラピーでは、人にはそれぞれ独特の神経的な反応があることを知り、活性化のパターンを見極めます。クライアントによっては、すぐに不動化の状態に入る人がいます。ほんの一瞬、同調が乱れただけでも「神経系にとっては大きすぎる困難」になってしまい、彼らの自律神経系は生き残り反応を引き起こします。こうしたパターンを持つクライアントが、私にこんなことを話してくれました。
「パートナーが私に、『全部終わったかい?』と聞いてきました。私は即座に怒りがこみあげてくるのを感じました。私のことをそんなに信用できないなら、あなたが全部やればいいじゃないの、と思いました。私はちゃんとやったのです。あとから友達にこの件について相談してみました。友達は、彼がそんなふうに声をかけるのは、普通じゃないかと言いますし、私のことを気にかけてくれていたんじゃないかとも言うのです。でも、私はそんなふうに考えることなんてできません」。
また別のクライアントたちは、ほとんど気づかないうちに可動化から崩壊へと移ります。彼らの自律神経系は、むしろつながりを絶たれた状態に逃げ場を見つけます。この反応パターンを持つクライアントは、「誰でも簡単にやっている日常の雑務だというけれど、どうやってやったらいいのかわからない。自分は、子どものころ、恐ろしい夜を一晩なんとか生き延びるために必死だった。だから普通の人たちが学ぶことを、学ぶ余裕はなかった。私には、この世で生きていく準備ができていない。うまく順応できていないと感じるや否や、私は崩壊する」と私に話してくれました。

(前略)特に,解離にはかならず時間をかけて取り組む必要がある。前述したように解離は生存戦略であり,SE 的に見た解離の原因は以下の2つである。
①トラウマ体験にまつわる身体感覚はしばしば強烈な不快感をともなう。それをその都度感じていると日常生活を送れなくなるため,有機体が解離を選択している。
②子ども(特に乳幼児)は,置かれている生育環境がどんなに過酷なものであっても,そこから逃げ出す(交感神経の生存戦略)という選択肢がない。従って,乳幼児は生き残りのため,副交感神経の背側迷走神経を過剰使用することを学ぶ。すなわち凍りつきである。解離は凍りつきの心理的側面であるため,日常的に凍りつくことによって,解離がその子どもの通常の意識状態になってしまう。(後略)

注:(i) 引用中の「子ども(特に乳幼児)は,置かれている生育環境がどんなに過酷なものであっても,そこから逃げ出す(交感神経の生存戦略)という選択肢がない。従って,乳幼児は生き残りのため,副交感神経の背側迷走神経を過剰使用することを学ぶ。すなわち凍りつきである。」に関連する、「子どもの凍りつき」について、白川美也子監修の本、「トラウマのことがわかる本 生きづらさを軽くするためにできること」(2019年発行)の 第2章 トラウマの影響はなぜ長引くのか? の だれにでも起こること トラウマ体験は三つの反応を引き起こす の「Freeze 凍りつき」における記述の一部(P35)を次に引用(『 』内)します。 『あまりの恐怖に立ちすくみ、凍りついたように動けなくなってしまう状態。闘うことも、逃げることもできない子どもが用いることのできる唯一の方法といえます。』 (ii) 引用中の(「人間」を含む)「有機体」について、引用元の文書中の「Ⅲ.まとめ」における記述の一部(P349)を次に引用(【 】内)します。 【Levine はよく「有機体」(organism)という言葉を使うが,有機体としての我々人間は「個々の部分の総和を超えて,全体として働く叡智ある存在」である。】(注:引用中の「Levine」については他の拙エントリのここを参照して下さい。) (iii) 引用中の(凍りつきにおける)「背側迷走神経を過剰使用」に関連するかもしれない「低覚醒状態は背側迷走神経複合体の活動によるとされる」ことについて、WEBページ「解離症 - 脳科学辞典」の「病態メカニズム」項における記述の一部を次に引用(『 』内)します。 『こうした過覚醒に対する反応として副交感神経優位の解離状態が生じ、低覚醒や離隔をきたすという。この低覚醒状態は背側迷走神経複合体(dorsal vagal complex, DVC)[12]の活動によるとされる。』(注:引用中の文献番号「[12]」は次の論文です。 「The polyvagal theory: phylogenetic substrates of a social nervous system.」) 加えて、「背側迷走神経により、子の反応はシャットダウンし解離反応に転ずるとされる」ことについて、日本感情心理学会企画、内山伊知郎監修の本、「感情心理学ハンドブック」(2019年発行)の 第3部 感情と社会生活 の 11章 感情の発達 の 2節 感情制御の発達 の「4. 感情制御の発達不全の問題」における記述の一部(P235)を次に引用(【 】内)します。 【Porges(2007)のポリヴェーガル理論(Polyvagal Theory)によると,過覚醒反応のエスカレートのあと背側迷走神経(dorsal vagal nervous system)により,子の反応はシャットダウンし解離反応に転ずるとされている。】(注:a) この引用部の著者は大河原美以です。 b) 引用中の「Porges(2007)」は次の論文です。 「The polyvagal perspective.」 c) 引用中の「ポリヴェーガル理論」にも関連する『「負情動・身体感覚」を否定されることで解離が生じる』ことについては次の資料を参照して下さい。 「母子のトラウマ体験が子の感情制御の発達に及ぼす影響(2) ―― どのようにして愛着システム不全は生じるのか(横断研究)――」) その上に、(不動化の推移に沿っている)「彼らは、解離や、絶望感を抱いており、その結果、動機づけが消失している。」ことについて、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の「第6章 トラウマ・セラピーの今後 ポリヴェーガル的な視点から」における記述の一部(P203~P204)を次に引用(《 》内)します。 《トラウマのサヴァイヴァーを扱う臨床家たちは、トラウマの神経生物学的な発現は、必ずしも闘争/逃走反応と言われる過剰に可動化された防衛の推移に沿うものではなく、むしろたいていは不動化の推移に沿っていることに気づいています。彼らは、解離や、絶望感を抱いており、その結果、動機づけが消失しています。》 さらに、健康面と心理面における「背側迷走神経系の反応」について、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の 第Ⅰ部 神経系と友達になる の 第1章 安全、危険、生命の危機――適応反応のパターン の 自律神経の階層を詳しく見ていく の「最も古い根っこの神経系」における記述の一部(P28)を次に引用(【 】内)します。 【しかし背側迷走神経系の反応は、スペクトラム〔訳注:連続体〕として起きてきます。健康面では、免疫機能の障害、慢性的なエネルギー不足、消化器の問題として現れてくる可能性があり、心理面では、解離、うつ、社会的なつながりからの逸脱として現れるかもしれません。】 (iv) また、引用中の「背側迷走神経」に類似する「背側迷走神経系」については例えば次の資料を参照して下さい。 「多重迷走神経理論による神経性過食症理解の可能性について」の「1. 背側迷走神経系」項 加えて、引用中の「背側迷走神経」にも関連する上記「背側迷走神経複合体」について、同の 用語解説 の「背側迷走神経複合体」における記述の一部(用語解説 P18~P19)を次に引用します。

背側迷走神経複合体は脳幹に位置し、迷走神経背側運動核と孤束核という二つの神経核からなっている。背側迷走神経複合体は、迷走神経の感覚経路を経て、内臓から送られてきて孤束核に終結する感覚の情報と、迷走神経背側運動核から始まり、内臓へ至る運動の情報を統合し調整する。孤束核と迷走神経背側運動核は、それぞれの神経核の特定の部位と、内蔵の特定の部位が反応しあうように、内臓指向型の組成を持つ。この後者の神経核から発している運動経路は、迷走神経を通り横隔膜下の内臓に終結する、無髄の迷走神経経路である。無髄の迷走神経経路のいくつかは、横隔膜より上の心臓、肺、気管支などの臓器にも接続している。これは未熟児にみられる徐脈や、のちに起きる喘息の作用機序と関連していると考えられている。迷走神経の背側核に端を発する迷走神経回路は、様々な文献において、背側迷走神経、横隔膜下迷走神経、無髄迷走神経あるいは植物性迷走神経など、異なった名称で呼ばれている。(後略)

一方味覚嫌悪に関連する単一試行学習について、ステファン・W・ポージェス著、花丘ちぐさ訳の本、『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』(2018年発行)の 第4章 トラウマが脳、身体および行動に及ぼす影響 の「単一試行学習」における記述の一部(P164)を次に引用します。

(前略)ポージェス:単一試行学習の良い例は、化学療法または放射線療法と味覚嫌悪の結びつきです。患者が化学療法または放射線療法を受ける前に食べた物は、治療を受けてからかなり経っても、吐き気を引き起こし、味覚嫌悪を形成します。ここでも無髄の迷走神経が吐き気に関連しているのは注目に値します。
科学者は、こうした反応を抑えるためにどのような戦略を用いてきたかご存じでしょうか。
私の基本的な考えは次のようなものです。シャットダウンを引き起こす単一試行のトラウマ反応ですが、ある人は、その出来事が起きる前は正常でごく普通ですが、この出来事の後、公の場所にいられなくなり、下腹部の問題が始まり、他者の接近に耐えられず、低周波音に過敏で、線維筋痛症の症状が起こり、血圧が安定しなくなってしまいました。
これらの症状を抱えた人々は、症状の根底にある作用機序を理解する手がかりを与えてくれます。いくつかの症状は古い無髄の横隔膜下の迷走神経に仲介されるので、ここにヒントを見つけることができます。これらの特徴は、無髄迷走神経が防衛反応に駆り出されたときに起きる広範囲にわたる迷走神経的反応を表しています。
古い迷走神経がトラウマへの防衛反応に採用された場合、これは機能的に言って単一試行学習の一例であると私は考えています。一旦、無髄の迷走神経が防衛反応に採用されたら、神経制御は変化します。そして修正に対して耐性があり以前のような恒常性に自然に戻ることが難しくなります。このようにトラウマの反応は、味覚嫌悪モデルと非常に類似して見えます。ここから、不動化の作用機序をさらに脱構築して理解することができるようになると期待しています。(後略)

注:(i) 引用中の「古い無髄の横隔膜下の迷走神経」に関連する「背側迷走神経」について、及び単一試行学習のさらなる説明について、同の 用語解説 の「単一試行学習」における記述の一部(用語解説 P15)を次に引用(『 』内)します。 『単一試行学習は、一つの刺激に対し一つの反応が対になって起こる学習であり、長期にわたって複数回刺激に暴露されても、強化されることがない。ポリヴェーガル理論では、多くの場合、背側迷走神経による反応が起きたときに、この単一試行学習が起こると考えている。生命の危機を体験した後は、PTSD を発症することが多い。脱糞、擬死、失神、吐き気などが条件反応に含まれる単一試行学習の考え方が、トラウマのサヴァイバーの治療に大いに参考になると考えられる。』(注:a) 引用中の PTSD については例えば次の資料を参照して下さい。 「トラウマ体験に苦しむストレス症候群 心的外傷後ストレス障害を診る」 b) 拙訳はありませんが引用中の「擬死」[thanatosis]やこれに類似するかもしれない「near-death experiences」[臨死体験]については次の資料や論文(全文)を参照すると良いかもしれません。 「Thanatosis[拙訳]擬死」、「The evolutionary origin of near-death experiences: a systematic investigation[拙訳]臨死体験の進化的起源:系統的調査」 加えて、上記「擬死」に関連する「解離性昏迷」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 c) 引用中の「失神」に関連する「血管迷走神経反射」についてはここを参照して下さい。 d) [上記「単一試行学習」には言及していませんが背側迷走神経による反応が起きた又は背側迷走神経によりシャットダウン、崩壊、解離が引き起こされたときの]日常生活での問題又は健康への影響について、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の 第Ⅰ部 神経系と友達になる の『「はしご」の底』における記述の一部(P15)を次に引用(《 》内)します。 《日常生活では、人と切り離され、記憶障害があり、うつ状態で、孤立し、日常生活を営むために必要なエネルギーがないといった問題が出てきます。健康への影響としては、慢性疲労線維筋痛症、胃の問題、低血圧、二型糖尿病、そして体重増加などが考えられます。》) (ii) 引用中の「下腹部の問題」及び「線維筋痛症」に関連して、タイトルを除き拙訳はありませんが、次の論文(全文)を参照して下さい。 「Chronic Diffuse Pain and Functional Gastrointestinal Disorders After Traumatic Stress: Pathophysiology Through a Polyvagal Perspective[拙訳]​トラウマティック・ストレス後の慢性びまん性疼痛及び機能性胃腸障害:ポリヴェーガル理論の視点からの病態生理」 (iii) 加えて引用中の「下腹部の問題」に関連する「腸や胃の問題」については、同の 第3章 自己調整と社会交流システム の「迷走神経:運動経路と感覚経路の導管」における記述の一部(P101)を次に引用(【 】内)します。 【クライアントが腸や胃に問題を抱えているのなら、それは不動化の防衛反応を引き起こす、無髄の迷走神経の働きの産物かもしれません。横隔膜より下の問題は、人が慢性的に可動化した闘争/逃走反応を使っている場合にも起こります。この場合は、無髄の迷走神経の、消化を含む恒常性の機能を促進する働きが、活性化した交感神経系によって抑制されています。】 (iv) また上記「単一試行学習」に関連する「味覚嫌悪条件付け」[又はガルシア効果〔参照〕]において、「ときには1回で強力な嫌悪が獲得される」ことについては例えば次のWEBページを参照して下さい。 「行動分析学との遭遇(5)」の「2.味覚嫌悪学習(ガルシア効果)」項 さらに【上記「味覚嫌悪」と非常に類似したモデルについては、まだ私たちは治療法を編み出していない】ことについて、同の 第4章 トラウマが脳、身体および行動に及ぼす影響 の「迷走神経と解離」項における記述の一部(P159)を次に引用[『 』内]します。 『味覚嫌悪と非常に類似したモデルについては、まだ私たちは治療法を編み出していません。それは、わずか一回の暴露により、何かが結びつき、特定の生理学的状態になるように誘発する単一試行条件付けモデルです。』 (v) その上に、上記「味覚嫌悪」と「嘔吐反応」の関係について、同項における記述の一部(P160)を次に引用(【 】内)します。 【味覚嫌悪では、汚染された食物を摂取した後の適応反応である、嘔吐反応が起きます。味覚嫌悪は不動化と解離に類似しており、命が脅かされ、内臓に損傷が生じることを最小限に抑えようとしているのです。】(注:引用中の「嘔吐反応」に関連する「吐き気」については上記 (i) 項を参照すると良いかもしれません) さらに、上記「味覚嫌悪」に関連するかもしれない「脳内の味覚情報神経回路」については例えば次の資料を参照して下さい。 「味覚による快・不快情動の制御機構」 ところで、上記「味覚嫌悪」の学習でもたらされる古い記憶を含む記憶同士の連合による記憶のアップデートについての研究報告は、次の資料を参照して下さい。 「記憶アップデートの分子・細胞メカニズム」 (vi) 一方、引用中の「一旦、無髄の迷走神経が防衛反応に採用されたら、神経制御は変化します。そして修正に対して耐性があり以前のような恒常性に自然に戻ることが難しくなります」に関連する、 1) 「命を脅かされたことが、古い反応回路を誘発したのであり、そのためトラウマ後には、彼らの自律神経系が生理学的状態を調整するやり方が変化してしまった」ことについて、同の「第7章 心理療法に関するソマティックな視点」における記述の一部(P235~P236)を次に引用(『 』内)します。 『トラウマを受けた人々を調査すると、彼らは予想外の強力な不動化を経験していることがわかりました。命が脅かされたときに発動される無髄の迷走神経の古い防衛機制について説明すると、トラウマを受けた人々が経験した反応が明快に理解でき、的外れな解釈を一掃することができます。命を脅かされたことが、古い反応回路を誘発したのであり、そのためトラウマ後には、彼らの自律神経系が生理学的状態を調整するやり方が変化してしまったということが理解できると、トラウマを受けた人たちも、日常生活を送る中で、なぜ自分が変わってしまったのかを理解しやすくなるでしょう。』 2) (無髄の迷走神経によるシャットダウン等の)「生き残り戦術には、代償が伴う」ことについて同の 第3章 自己調整と社会交流システム の「私たちが世界に反応する方法に影響を与える三つのシステム」 における連続する記述の一部(P95)を二分割して次に引用(それぞれ【 】内)します。 【もう一つの防衛反応としてシャットダウンがあります。これも適応的機能の一つで、これが起きると痛みの閾値が上がります。この反応があるおかげで、恐ろしい虐待にさらされたとき、苦しみを感じなくなるという方法で生き残ることができます。】、【しかしこの生き残り戦術には、代償が伴います。哺乳類は、「安全である」と感じたときの社会交流システムと、交感神経系の活性化による可動化の間をすばやく行き来できるように進化しましたが、シャットダウンと可動化の間や、シャットダウンと社会的交流の間をうまく行き来できるような能力を持つようには進化しませんでした。】 加えて、上記代償について、同「私たちが世界に反応する方法に影響を与える三つのシステム」 における記述の一部(P95)を次に引用(『 』内)します。 『防衛反応として不動化を引き起こす神経回路を使うのはよいのですが、神経系には、「不動状態」からうまく抜け出す経路がないのです。多くの人が、この「不動状態」から抜け出せないためにセラピーに通っています。』 (vii) 引用中の「シャットダウン」についてはソマティック・エクスペリエンシングの視点を含めては他の拙エントリのここを参照して下さい。 (viii) 引用中の「線維筋痛症」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「線維筋痛症 全身の痛み」 (ix) 引用中の「単一試行学習」に関連する「単一試行モデル」では、非常に詳細な病歴が必要であることについて、同の 第4章 トラウマが脳、身体および行動に及ぼす影響 の「迷走神経と解離」における記述の一部(P163)を次に引用します。

(前略)ポージェス:(中略)単一試行モデルでは、クライアントに様々な質問をすることになるでしょう。私は、非常に詳細な病歴が必要だと考えています。つまり、出来事の説明よりも、どう反応し、何を感じたのかを詳細に説明してもらう必要があります。一人一人の経験、行動および感情について知ることが重要です。失神したか、解離したか、空想したか。虐待されていた間に何が起こったか、その出来事の後に何がおこったかについての詳細な情報が必要です。(後略)

注:i) 引用中の「解離」についてはここここを参照して下さい。 ii) 引用中の「失神」についてはここを参照して下さい。 iii) 引用中の「感情」に関連する、コンパッション・フォーカスト・セラピーの視点からの、「身の危険と関連した感情」については他の拙エントリのここを参照して下さい。

また、ポリヴェーガル理論に関連する「血管迷走神経反射」について、ツイート以外にも、WEBページ「寝不足の後に長時間立っていたり、恐怖や痛みを感じた時などに嘔気、冷汗、目の前が真っ暗になり時に気を失って倒れてしまいます。」の「A 回答」項における記述の一部を次に引用します。 『この失神は、交感神経亢進(車で言うアクセルが踏まれた)状態の後に病的な血管迷走神経反射(急ブレーキが踏まれた状態)が誘発され血圧と脈拍が急激に低下し、意識が消失します。』 この記述は、ソマティック・エクスペリエンシング(他の拙エントリのここを参照)やポリヴェーガル理論の主張と整合していると本エントリ作者は考えます。加えて、上記引用中の「意識が消失」に関連する「気を失う」、「凍りつき」(又はフリーズ)、[深い]「シャットダウン」、「虚脱」、「麻痺」、「解離」、「機能停止」、「不動化」、「擬死」等については共に他の拙エントリのここを参照して下さい。その上に上記「解離」や「擬死」に関連する「解離性昏迷」については他の拙エントリのここを参照して下さい。一方、台湾のWEBページ「女大生常昏倒 迷走神經作祟[拙訳]女子大生はよく気を失って倒れる 迷走神経が災いする」の「多半站立時發作 慎防撞傷[拙訳]大体が立位での発作 打撲傷を防止」項にも標記の引用と類似しているかもしれない次に引用(【 】内)する記述があります。 【因迷走神經過度興奮,抑制交感神經,造成心跳過慢、血液輸出量減少,因腦部血液灌流不足而暈倒。[拙訳]迷走神経の過度な興奮により交感神経を抑制し、心拍数の低下、血液拍出量の減少をもたらし、脳部への血液流入の不足により失神する。】(注:引用中の「昏倒」と「迷走神經作祟」とに関連する「血管迷走性暈厥」[注:「暈厥」はここを参照]については次のWEBページを参照して下さい。 「淺談多層迷走神經理論 (POLYVAGAL THEORY)」の最後の図 なお、本WEBページには上記 POLYVAGAL THEORY についての動画「Dr. Stephen Porges – Human Nature and Early Experience」がリンクされています。) ちなみに、 a) 「医療スタッフが血管迷走神経性失神を経験することは少なくない」ことについて、次の資料を参照して下さい。 「よくみる自律神経症候:失神・めまい・たちくらみ」の「Ⅱ. 血管迷走神経性失神」項 b) 「血管迷走神経性失神の臨床的特徴」としての「発作直前に前駆症状自覚が多い」ことについては次の資料を参照して下さい。 「アナフィラキシー/血管迷走神経反射への対応」の「血管迷走神経性失神の臨床的特徴」項(P42) c) 災害時における「凍りつき症候群」については例えば次の資料を参照して下さい。 「どうすれば災害からの逃げ遅れを防げるか」の「第5の罠 凍りつき症候群」項(P31~P33) d) 法廷に関連して上記「フリーズ」についての記述がある記事は例えば次のWEBページを参照して下さい。 『「典型的で、最悪なケース」精神科医が法廷で語ったDVの“車輪構造”と児童虐待【目黒5歳児虐待死裁判・証人尋問①】』の『ーー次の話です。結愛さんの腹部を蹴る暴行があったんですが、これを優里さんが目撃した。その時に、「動けなかった」と言っているんですけれども、これはどういうような心理状態だったんでしょうか。』項を参照して下さい。

※:上記「血管迷走神経反射」と「意識が消失します」に相当する「血管迷走神経性失神」について、同の 第5章 安全の合図、健康および「ポリヴェーガル理論入門」 の「ニューロセプションの働き」における記述の一部(P178)を次に引用します。

(前略)また、ニューロセプションはときには間違うことがあり、リスクがないのにリスクがあると判断したり、リスクがあるのに、「安全である」と判断したりする可能性があります。
公の場で話しているときに、失神する人たちがいますが、それは強い不安を感じたからではありません。彼らは単に、スーッと気が遠くなり、失神します。これは、臨床的には血管迷走神経性失神として知られており、急激な血圧の低下によるもので、酸素を含んだ血流が脳に十分供給されないことによって起きます。この反応は、神経系が「命が脅かされた」と感じる「合図」を検出したために引き起こされます。こうした神経生理学的な反応を一度体験すると、高次の脳は、なぜこんなことになったのか納得したいと考え、もっともらしい理屈をつけます。しばしば、「自分は自信がないからこんなことになる」と考えてしまうのですが、こうした生理学的反応は、自尊心とは無関係です。こうした反応は、「拘束」または「孤立」など、環境的要因によって誘発された可能性が高いのです。(後略)

注:引用中の「ニューロセプション」についてはここを参照して下さい。

ここにおける引用中の「神経生理学的な反応」に関連する《洞察力に優れたトラウマ治療の臨床家たちが、「『ポリヴェーガル理論』は自分たちのやっていることを神経生物学的に説明している」と見抜いた》ことについて、同の 第5章 安全の合図、健康および「ポリヴェーガル理論」 の「今後のトラウマ治療」における記述の一部(P198~P199)を次に引用(【 】内)します。 【ポージェス:これからは、さらに身体志向が強まるでしょう。今の臨床家の動向からみても、それは明らかです。私は臨床家ではないので、非常に興味深い立ち位置にいるのです。私は臨床家ではなく科学者ですが、臨床家がしていることの原理を説明しようとしています。ですから、ピーター・ラヴィーンによるSE™(ソマティック・エクスペリエンシング)、パット・オグデンによるセンサリーモーター・サイコセラピー(sensorimotor psychotherapy)、ベッセル・ヴァン・デア・コークの業績など、トラウマ治療についての多様なモデルと関わることができました。こうした洞察力に優れた臨床家たちが、「『ポリヴェーガル理論』は自分たちのやっていることを神経生物学的に説明している」と見抜いたのです。】(注:引用中の「ソマティック・エクスペリエンシング」については拙エントリのここを参照して下さい)

ポリヴェーガル理論の視点からの様々な精神疾患に関連する迷走神経バランスの障害ついて、論文(全文)「Autonomic Nervous System Development and its' Impact on Neuropsychiatric Outcome[拙訳]自律神経系の発達及びその精神神経学的転帰への影響」の「Polyvagal Theory and Impaired Vagal Balance」項における記述の一部を次に引用します。

Polyvagal Theory and Impaired Vagal Balance
The Polyvagal Theory was first proposed by Porges in 1995 and relates the development of the vagal system to social/emotional development.(2, 17, 26) The theory focuses on the role of the two main branches of the vagal nerve (cranial nerve X). The older branch arises from the unmyelinated dorsal motor nucleus of the vagus, and the newer branch from the myelinated, nucleus ambiguus (Figure 2). The social responses to our environment are mediated either by vagal input or vagal withdrawal through the components of the limbic system.(41) At six months of age and older, vagal development begins to influence social behavior and mood regulation of behavioral state.(2) The infant develops a 'face-heart' connection or Social Engagement System, whereby he/she engages muscle activity of the face/neck to communicate feelings and behavioral reactions, in concert with brainstem mediated responses in cardiovascular function.(2) These muscles are innervated by special visceral efferent pathways associated with the myelinated vagus and enable the infant to display social cues and build parental/care-giver attachment. It is the step-wise maturation of the both the cerebral cortical structures and of the ANS that enables the development of the individuals' Social Engagement System.

As discussed above, a broad range of neuropsychiatric disorders may be influenced by impairment in vagal balance, with either deficient vagal tone or excessive vagal reactivity.(41) Autonomic imbalance and in particular decreased parasympathetic tone is implicated in anxiety, depression, post-traumatic stress disorder, and schizophrenia.(6) In these conditions, the sympathetic-mediated responses to stressors/fear by the amygdala and pre-frontal cortex may be under-opposed by the parasympathetic system.(6) In ex-prematurely born infants, immaturity of the Social Engagement System from lower vagal activity may cause a lack of proper social cues to trigger normal co-regulation with the parents/care-giver.(2)(後略)


[拙訳]
ポリヴェーガル理論及び迷走神経バランスの障害
ポリヴェーガル理論は1995年にポージェスによって最初に提案され、迷走神経系の発達を社会的/情動的発達に関連づけている(2, 17, 26)。本理論は、迷走神経(第X脳神経)の二つの主要な枝に焦点を当てる。古い枝は無髄の迷走神経で背側運動核から発し、新しい枝は有髄で疑核から発する(図2)。我々の環境に対する社会的応答は、大脳辺縁系の構成要素を介した迷走神経の入力又は迷走神経の撤退のいずれかによってメディエイトされる(41)。誕生6か月の時点以降で、迷走神経の発達は社会的行動及び行動状態の気分調節に影響を及ぼし始める(2)。乳児は「顔と心臓」のつながり、つまり社会的関わりシステムを発達させ、それにより、心血管機能における脳幹をメディエイトした応答と協調して、感情及び行動反応を伝えるために顔/首の筋肉活動に関わる。有髄な迷走神経に関連する特別な内臓遠心性経路によってこれらの筋肉は神経支配されており、そして乳児が社会的な合図を示し、親/介護者との愛着を築くことができる。大脳皮質構造と自律神経系(ANS)の両方の段階的な成熟が、個々人の社会的関わりシステムの発展を可能にする。

上記のように、広範な神経精神障害は、迷走神経の緊張の欠如又は過剰な迷走神経反応性を伴う迷走神経の均衡における障害の影響を受けるかもしれない(41)。自律神経の不均衡及び特に副交感神経の緊張の低下は、不安、抑うつ心的外傷後ストレス障害及び統合失調症に関与している(6)。これらの状態においては、扁桃体及び前頭前皮質によるストレッサー/恐怖に対する交感神経にメディエイトされた応答への副交感神経系による対抗が過少になっているかもしれない(6)。早産児における、より低い迷走神経活動からの社会的関与システムの未熟性は、両親/介護者との通常の共調整の誘因となる適切な社会的な合図の欠如を引き起こすかもしれない(2)。

注:i) 拙訳中の「図2」の引用は省略します。 ii) 拙訳中の文献番号「2」は次の論文です。 「The Early Development of the Autonomic Nervous System Provides a Neural Platform for Social Behavior: A Polyvagal Perspective.」 iii) 拙訳中の文献番号「6」は次の論文です。 「Psychosomatics and psychopathology: looking up and down from the brain.」 iv) 拙訳中の文献番号「17」は次の論文です。 「Infant regulation of the vagal "brake" predicts child behavior problems: a psychobiological model of social behavior.」 v) 拙訳中の文献番号「26」は次の本です。 「Porges SW. The Polyvagal Theory. 1 ed. Schore AN, editor. New York: W. W. Norton & Company; 2011. 347 p.」 vi) 拙訳中の文献番号「41」は次の論文です。 「Polyvagal Theory and developmental psychopathology: emotion dysregulation and conduct problems from preschool to adolescence.」 vii) 拙訳中の「大脳辺縁系」についてはトラウマの視点から他の拙エントリのここを参照して下さい。  viii) 拙訳中の「心的外傷後ストレス障害」と「統合失調症」については共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。

これら以外にも、上記「麻痺」や「フリーズ」(共にここを参照)にも関連する自閉スペクトラム症ASD)者におけるカタトニア(症状群)の例について、中村敬、本田秀夫、吉川徹、米田衆介編の本、「日常診療における成人発達障害の支援 10分間で何ができるか」(2020年発行)の 第12章 外来診療場面における成人の自閉スペクトラム症者への対応 ――理論と一医師の実践―― の Ⅲ.日常診療で出会う患者の苦悩(状態)と対応のポイント の 「2.カタト二アが見られた場合」における記述(P176~P177)を以下に引用します。加えて、Wing らが提唱する「ASDのカタトニアの基本症状」については次の資料を参照して下さい。 「自閉症スペクトラム障害のカタトニアに対する電気けいれん療法」の「2.ASD のカタトニア」項 その上に拙訳はありませんが、ASDにおけるカタトニアについての次の資料もあります。ただし、この資料は PubMed では検索できませんでした。 「Catatonia in Autism Spectrum Disorders: Diagnosis, Therapy, and Clinical Science」 ちなみに、 a) 精神障害の入院青少年におけるACE(逆境的小児期体験、他の拙エントリのここを参照)と双極Ⅰ型障害又はカタトニアとの関連については論文「Adverse Childhood Experiences Among Inpatient Youths with Severe and Early-Onset Psychiatric Disorders: Prevalence and Clinical Correlates[拙訳]重症及び早期発症精神障害の入院青少年における逆境的小児期体験:有病割合及び臨床的相関」(要旨はここを、全文はここをそれぞれ参照)を参照して下さい。 b) カタトニアの恐怖モデル(Fear Model)と上記ポリヴェーガル理論を含む迷走神経モデル(Vagal Nerve Model)については論文「Vagal Intimations for Catatonia and Electroconvulsive Therapy[拙訳]緊張病及び電気けいれん療法のための迷走神経刺激」(要旨はここを、全文はここをそれぞれ参照)のそれぞれ「Fear Model」項、「Vagal Nerve Model」項を参照して下さい。 c) 自閉症におけるカタトニアの上記ポリヴェーガル理論を含む迷走神経理論については資料「Autonomic Dysfunction in Catatonia in Autism: Implications of a Vagal Theory[拙訳]自閉症のカタトニアにおける自律神経機能障害:迷走神経理論の含意」[注:この資料は PubMed では検索できませんでした]の「Autonomic Dysfunction in Catatonia」、「A Vagal Theory of Catatonia in Autism」及び「Implications of a Vagal Theory for Catatonia in Autism」項を参照して下さい。なお、上記 a) ~ c) 項で紹介した論文、資料の拙訳は共にタイトルを除きありません。 d) 上記カタトニアに関連するかもしれない解離性障害における「昏迷」については、「意識消失」を含めてここここを参照して下さい。

カタトニア(緊張病)は,歴史的に統合失調症の緊張型に見られ,精神病理学的に最も深い病態と解釈されてきた。しかしDSM-5では,以前ほど疾患特異性が強調されなくなり,症状レベルでは幅広い疾患で観察され得るという見解が示された。たしかにASD者にも当症状群は少なからず認められ.臨床場面でその対応に迫られることが少なくない9)。
ところで成人の高機能ASD者のカタトニアは,「言葉が出てこない」「身体が思うように動かず動作が遅くなる」「別の行動に移れなくなる」といった自覚症状を伴いやすい13)。しかもいったんカタトニアが生じると,少なくとも数分以上持続し,それが1日に何回も生じることもある9)。場合によっては本人が外来受診できず,家族から対応のアドバイスを求められることもあろう。
筆者はカタトニアを,自己機能(ASD者であればASD型自己の機能)全体の停止状態(ないしは麻痺状態)と理解している2)。生物学的には原始反応(自己危急反応8))に相当するし,タッチパネルに例えれば画面全体のフリーズ現象に例えられよう。したがってカタトニアに対しては,パソコン画面のリセットに準じた作業を思い描くと,対応しやすくなる。つまり機能停止に陥っている自己機能のリセット,具体的にはフリーズを起こした環境からの撤退(場面の転換)を試みるのがよいと思われる。ちなみにカタトニアの誘因となる場面とは,矢継ぎ早の情報流入,突然のアクシデント(予期されぬ計画変更など),著しい心的エネルギーの低下状態(うつ状態や過度の疲労状態)などであることが多い。したがって静かな小部屋など,刺激の少ない空間を提供することが効果的と考える。また回復後の対応としては,カタトニアを誘発した類似の場面(環境)の回避や,その揚面の転換を許容してもらえるような周囲への働きかけが挙げられよう。

注:i) この引用部の著者は広沢正孝です。 ii) 引用中の文献番号「2)」は次に示す本です。 「広沢正孝:成人の高機能広汎性発達障害アスペルガー症候群-社会に生きる彼らの精神行動特性.医学書院,東京.2010.」 iii) 引用中の文献番号「8)」は次に示す資料です。 「中安信夫,関由賀子:自己危急反応の症状スペクトラム-運動爆発,擬死反射,転換症,解離症,離人症の統合的理解.精神科治療学,10(2);143-148.」 iv) 引用中の文献番号「9)」は次に示す資料です。 「太田昌孝自閉症と緊張病(カタトニア).臨床精神医学,38(6);805-811,2009.」 v) 引用中の文献番号「13)」は次に示す資料です。 「高岡健,関正樹:自閉症スペクトラムの1症例にみられた気分障害とカタトニー.臨床精神医学.34(9);1157-1162,2005.」 vi) 引用中の「タッチパネル」については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「常に"発達"の視点を持って患者さんを診ることが,広汎性発達障害の正しい診断につながる」の「自己イメージからPDDを読み解く」項 vii) 標記「カタトニア」は引用中の「自己危急反応」としてのものよりももっと幅が広い症候群のようです。その例として次の資料や YouTube を参照すると良いかもしれません。 「統合失調症の治療中に悪性カタトニアを来たした1例」(注:この資料中の「カタトニアの概念・診断」項には引用中の「DSM-5」についての簡単な説明もあります)、「緊張病[基本]カタトニア、統合失調症などで生じる症候群 精神科・精神医学のWeb講義」 viii) 『沖田×華氏(注:小学4年生のときにLD[学習障害]及びADHDと、中学生のときにアスペルガー症候群と、それぞれ医師により診断されています)が小学校3年生のときに緘黙症になったことがあり、この状態を「カタトニア」と呼ぶ』ことについて、岩波明著の本、「医者も親も気づかない女子の発達障害 ――家庭・職場でどう対応すれば良いか――」(2020年発行)の 1章 《対談①》「なんで普通にできないの?」は“発達女子”には暴力です! の 嫌われまくっても「?」だった子供時代 の『◆「沖田はたまにいなくなる」』における記述の一部(P23~P24)を次に引用します。

(前略)沖田 責められると、言葉が出てこなくなるんです。
小学校3年生のときに緘黙症になったことがあります。1対1でしゃべられると体が固まって言葉が出てこなくなる。頭の中では謝らなきゃとか、いろいろ考えてるんですけど。
岩波 それは「カタトニア」と呼ばれています。
統合失調症に出現する「緊張病」と似ていますが異なるもので、ASDの方に見られることがあります。静止したまま、コチーンとまったく動かなくなってしまい、30分以上もそのままの姿勢でいることもあります。
沖田 そう。いきなり石になってしまう感じ。
私が何も反応しないでいると、相手がどんどんヒートアップしてくるんですよ。私は表情に出ないだけで内心はどうしよう、どうしようって焦りまくってる。まずい、まずい、ここでしゃべらないと先生が怒る。親が怒る。
最終的にボコボコにされて泣くんです。一応泣いて気持ちが切り替わると、ちょっと言葉が出るようになります。だから、先生も手が出るようになっちゃうんですね。
緘黙の治し方ってないんですか?
岩波 緘黙まで行ってしまうと、対応が難しいですよね。周囲が一生懸命働きかけたり、怒ったりしても、逆効果で。むしろいったん場所を変えないといけない。
沖田 そのままリアカーに乗せられて、一番落ち着く場所だった図書室に置いてきてもらうのがいいです(笑)。
岩波 そう、保健室がどこかにちょっと放置してあげて、「ゆっくりしてください」というふうにしないとダメでしょうね。
緘黙というのは、本人の頭の中がフリーズしている状態です。
でもまわりにはわからない。まず、そういう現象があることを、教師が知ることが必要ですね。知らないと、反抗してだんまりを決め込んでいると思って、自分がバカにされているようでイライラしてしまうことになります。
沖田 私は普段はよくしゃべるだけに、不利になるからわざとしゃべらないんだろう、と見られていました。

注:引用中の「ASD」は「自閉スペクトラム症」のことです。上記「アスペルガー症候群」を含めて他の拙エントリのここを参照して下さい。

また、「複雑性トラウマへのポリヴェーガル理論によるアプローチ」の例について、「ポリヴェーガルのレンズを通して」を含めて、デブ・デイナ著、ステファン・W・ポージェス序文、花丘ちぐさ訳の本、「セラピーのためのポリヴェーガル理論 調整のリズムとあそぶ」(2021年発行)の 結論 の「複雑性トラウマへのポリヴェーガル理論によるアプローチ」における記述の一部及び「複雑性トラウマへのポリヴェーガル理論によるアプローチ」における記述(P275~P283)を次に引用します。

複雑性トラウマへのポリヴェーガル理論によるアプローチ(中略)

これは、複雑性トラウマを持つクライアントとの四年にわたる物語です。このクライアントは、すでにさまざまなセラピストから、多様な方法論に基づくセッションを複数受けていました。彼女は、そのセッションのたびに、誰よりもがんばったと思うのですが、はかばかしい結果が出ず、なぜなのかいぶかしく思っていました。彼女は、底なしの無力感と怖れと不安の中で生きている、と語りました。彼女の苦しみを終わらせる治療には、出会うことができなかった、と私に言いました。彼女には、自分の苦しみについて話す言葉はたくさんありましたが、そこから安心を見つける能力はありませんでした。瞑想と心理療法は、ただ、彼女の苦しみをさらに深くし、恥をいっそう掻き立て、絶望を深くするだけでした。少しでもトラウマの歴史を探求しようとすると、それは彼女を 「トラウマの再体験へと真っ逆さまに突き落とし」ました。彼女は、安定にあこがれていましたが、決して見つけられませんでした。他者と一緒でも、自分ひとりでも、身体の中にも、それを見つけることはできませんでした。日々の暮らしの中に、安全は存在しませんでした。私がポリヴェーガル理論を紹介したとき、彼女は、またこれもうまくいかなかったらどうしようと不安を持ったようでしたが、それでも、彼女の「治りたい」という不屈の闘志が不安に打ち勝ちました。
セッションという共同作業のはじめから、このクライアントは、「起こらなかったこと」を特定することがプロセスの重要な部分になる、ということを発見しました。私は、幼いときに協働調整を体験すると、人とつながる神経系が育っていくというポリヴェーガル理論の基礎について教え、こうした体験を持つことができると、自分を許し、いつくしむことができるようになるということを説明しました。さらに、彼女にはその人生の初期の協働調整が欠けていたのだ、ということを伝えました。
彼女は、協働調整についてさっぱり学んでいなかったので、調整するのは簡単ではないということを理解しました。ポリヴェーガル理論によると、子ども時代に協働調整を学び、その後自己調整を学ぶ機会があれば理想的だったわけですが、彼女はそうではなかったこと、しかし、まだ神経系は組み替えが可能であることを伝えました。
セッションで私たちは、協働調整を積極的に試すことにしました。彼女は、子どものときには協働調整できなかったが、今、目の前にいる、よく調整のとれた信頼できる人とのつながりの中で、再度協働調整を体験することで、得られなかったことを得ることができるということを理解してくれました。彼女には、一貫性と継続性が最も重要だということがわかりました。私は、彼女に予測可能で、安定した腹側迷走神経系の協働調整の機会を提供しました。数カ月たつと、かつてはすぐに過敏に反応していた彼女の神経系は、セッションの間静かになり始め、さらに好奇心が現れてきました。こうしたやり取りの中で、私自身も、調整不全を感じたことがありました。そこで私は、クライアントのために、自分が何を体験しているかを明らかにし、言語化しました。これはとても重要でした。私自身の神経系を追跡し、私自身の調整不全の瞬間を明らかにすることは、彼女の役に立ちました。そうすることで彼女は、自分が感じているもの、自分のニューロセプションは正しく、自分は安全であると確信を持つことができたのです。
こうして私たちは、彼女に起こらなかったこと、つまり、協働調整がなかったことを通して、セッションを進めていきました。これにはもう一つよいことがありました。彼女は、さまざまな辛い体験の物語を持っていましたが、神経系として理解しようとすれば、こうした物語に深入りしなくて済んだということです。ポリヴェーガルの概念を使って、私たちは、物語ではない、もう一つの道筋をたどりました。彼女は、自分の自律神経系の反応を、彼女の辛い物語と切り離すことを学びました。彼女は、気づき、言語化し、自分の反応に向きあうことを実践しました。彼女は、「奈落の底へと落ちていく体験」を繰り返す傾向がありましたが、それは、適応的な生き残り反応で、基本的な性格の欠陥ではないということを理解し、自分を尊重することを学びました。彼女は、「奈落の底へと落ちていく」ことが繰り返しあっても、それは恥ではないということを理解しました。恥の感覚を蓄積していくことから離れて、彼女は、こうした反応は、かつては生き残るために絶対的に必要だったことを理解し、さらに、今やそうした反応がどれだけ生きることを難しくしているかを認識しました。
トラウマから生き残った多くの人たちと同様、このクライアントは、彼女がいうところの「希望アレルギー」を持っていました。彼女は、ポリヴェーガル理論が、ただ盲目的に希望を持つことに頼らず、科学に基づいているところを気に入りました。彼女はポリヴェーガル理論の基礎を学び、自分にもちゃんと自律神経系の階層があることを知り、自分のシステムは調整に向かうはしごを上に向かって上っていく力を備えていることを理解しました。子ども時代のトラウマのために、彼女の神経系には異なった軌道ができていました。さらに、大人になってからのトラウマ的な出来事によって、防衛パターンが固められていきました。しかし彼女は、ポリヴェーガル理論によれば、自分の神経系も、ちゃんと機会を与えられれば、新しい作用を学習することができると信じる意志がありました。
彼女は私たちの共同作業を、「腹側迷走神経系に向かう微光を堅実に味わうこと」と表現しました。私たちは、この作業を一緒に紡いでいるのでした。腹側迷走神経系優位の安全な時間が、ほんの一瞬立ち現れるのに気づくようになっていきました。このわずかな時間は、今までの彼女の生き残りをかけた古い反応とは一致しません。こうして、わずかな微光を味わうことで、彼女の物語はほんの少しずつ変化し始めました。彼女は、安全の可能性と新しい物語を少しずつ体験し始めました。取り散らかった時間を、前よりひるまないで受け入れられるようになりました。そして、かつて自分は本質的に防衛的なのだと思っていたが、これは自分の本性の問題ではなく、誰もが同じ状況に置かれたら当然示す自律神経系の反応だったのだ、と理解できるようになっていきました。
自身の自律神経系の状態を、マッピングし、トラッキングして、人と一緒に、あるいは自分ひとりで調整を試すことができるようになると、彼女はついに、身体に落とし込んだ安全の感覚を味わうことができるようになりました。信頼とは、世話されることを切望し、依存するという意味ではなくて、レジリエンスを意味するのだ、ということがはっきりわかったと彼女は言いました。ポリヴェーガル理論は、彼女に調整段階をトラッキングする技術を与えました。それは正しいか間違いかではなく、生き残りと希望の二者択一でもないのだということを、彼女ははっきり理解しました。
セッションでは、彼女は自分のことをいろいろと話します。かつては周期的に自殺願望がありましたが、それがなくなり、身体で安全を感じるようになってきたといいます。自律神経系の状態移行をトラッキングすることができるようになったからといって、永遠の平安が約束されるわけではありません。しかし、彼女は言います。「これは、調整不全に耐える間違いない方法です。私の強烈な時間を生き、気づき、言語化し、そして、私のシステムはやがてちゃんと調整を取るだろう、と確信することができます」。
彼女は、最近になって、今まで受けてきたセラピーについても振り返るようになりました。彼女は、ありとあらゆることを試したといいます。これらの方法論は効果的だったかもしれないが、ポリヴェーガルの基盤がなくては、どれも治癒をもたらさなかったといいます。私と彼女の間には、安全な基盤ができあがりました。このおかげで、未解決のトラウマに働きかけるほかの方法論を安全にセッションで試すことができるのです。何かほかのトラウマ療法を使うときも、彼女の自律神経系の状態につねに気を配り、ちょうどよい量の神経的な刺激に留めるようにしています。そうすることで、彼女のポリヴェーガル的な神経系の基盤の上で最大限の成果を生み出すことができます。彼女は、協働調整と自己調整の力を持ち、神経系についてのポリヴェーガル的な理解を持っているので、トラウマを処理していくうえで欠かせない安全のニューロセプションを獲得することができました。

ポリヴェーガルのレンズを通して

私は可能性の中に住む。――エミリー・ディキンソン

ポリヴェーガルの概念を通したトラウマへのアプローチは、まず神経系と仲良くなることから始まります。クライアントはしばしば、自身の自律神経系と闘っているように感じ、自身の調整不全のパターンに裏切られたと感じています。臨床的な診断を超えて自分の状態を理解することで、クライアントは、自分が取っている行動や信念を、生き残りに貢献する適応的な反応として見ることができるようになっていきます。ポリヴェーガルのアプローチは、クライアントを恥の苦しみから解放します。
クライアントは、マッピングを通して、まず人間の普遍的な自律神経系の反応について理解し、さらに、それに基づいて自分のユニークな反応を理解します。そうすることで、つねに「到底自分には扱いきれない」と感じることから解放されます。とても人恋しくて狂おしいとか、感情が高ぶっているとか、不安定で、不安で、じっとしていられない、といった感覚を持つのではなく、自分の中には、とても敏感な危険探知機があるのだ、という見方をするようになります。気づき、言語化し、恥じることなく自身の反応に向き合うことで、新しい方法でナビゲートするための学びのプロセスを始めます。クライアントが内なる世界を認識するにつれ、彼らは、より微細な状態移行に気づくようになります。そして新しい調整方法を身に着け、柔軟な尺度で自律神経系のトリガーを管理し始めます。
私たちは、協働調整する必要と能力によって定義されます。「『ポリヴェーガル理論』は……個人から文脈の中での個人へと注意を移させる」とあります(Porges, 2016, p.5)。セラピーにおけるポリヴェーガル理論は、協働調整が自己調整に先立って必要であり、トラウマの歴史は、安全体験の欠如と、予測可能な協働調整の体験の喪失と共に神経系に埋め込まれている、ということを明らかにしています。協働調整は、依存関係を作り出しません。むしろクライアントの自己調整とレジリエンスを築く基礎になります。私たちはこれを心に留めて、セッションでは協働調整のための予測可能な機会を頻繁に提供するように心がけます。
ニューロセプションは、絶えず情報をキャッチし続けます。この合図は、この人とのつながりが安全だと伝えていますか? あるいは、危険の合図があるので、つながりを絶つ必要がありますか? 私たちが自分の反応に気づくずっと前から、私たちの自律神経系は反応してきました。そして、それが繰り返されるにつれて、習慣的な反応パターンが形作られます。私たちは、ポリヴェーガルのレンズを通して、これらの生理学的状態が心理的物語を作り出す、ということを理解しています。自分自身について、他者について、関係性についてのクライアントの物語は、彼らの自律神経系の状態に支えられます。自律神経系の状態の調整が取れているとき初めて、クライアントは、柔軟で壮大で、創造的で、スピリチュアルな思考を持つことができます(Porges, 2016)。
クライアントがトラウマの歴史を通って、幸福な人生へと入っていくのに役立つポリヴェーガル理論が約束していることは、自律神経系の科学に根差しています。セラピーの中にポリヴェーガル理論を持ち込むことは、芸術的な作業です。この芸術とは、自律神経系の内なる叡智に敬意を払い、防衛パターンを作り直し、つながりのパターンをリソースとして再形成するのにちょうどよい量の神経系への刺激を与える方法を探すことです。
腹側迷走神経系による安全とつながりの状態こそが、変化を可能にします。私たちはセラピストとして、まず自分がその状態に入り、次にクライアントがその安全の場所に入るのを助けることが必要です。クライアントの防衛パターンの下には、つながりのパターンがあり、表に出たがっています。「この瞬間、安全へとはしごを上るために、自律神経系は何を必要としているか?」という質問が、私たちの仕事を導きます。
クライアントが、取り散らかった状態がずっと続いていると話すとき、私は彼らに、「まだ」を付け加えられることを思い出させ、調整に向かう道を進み続けるよう、自律神経系に誘いの言葉をかけます。「つながりの中の安全を見つけられないのです」「まだ見つけられないのですね」「うまく調整できないのです」「まだ調整できないのですね」「協働調整できるような信頼できる相手を見つけられないのです」「まだ見つけられないのですね」といった具合です。「まだ」は、腹側迷走神経系の力強い言葉であり、変化の先触れです。
この本は、自律神経系をマップ化し、ナビゲートし、再形成するたくさんの道を提供するとともに、創造性への招待状でもあります。ポリヴェーガル理論を、認知的に頭で理解することから一歩進んで、身体に落とし込むと、調整のリズムとあそぶ方法は無限に広がることでしょう。

注:i) 引用中の「Porges, 2016」は次の資料です。 「Stephen Porges: Co-regulation」 ii) 引用中の「マッピング」、「トラッキング」(追跡)、「ナビゲート」については共に同を参照して下さい。加えて上記「追跡」に関連する「トラウマに働きかける生物生理学的方法として一般的なものに、クライアントに自身の感覚を追跡させる方法がある」ことについて、キャシー・L・ケイン、ステファン・J・テレール著、花丘ちぐさ、浅井咲子の訳の本、「レジリエンスを育む ポリヴェーガル理論による発達性トラウマの治癒」(2019年発行)の 第7章 「耐性の窓」と「偽りの耐性の窓」 の「さらに正確な内受容感覚を築く」における記述の一部(P225)を次に引用(『 』内)します。 『トラウマに働きかける生物生理学的方法として一般的なものに、クライアントに自身の感覚を追跡させる方法がある。臨床家としては、クライアントが様々な感覚を味わい、自身が気づいている感覚を正確に報告するのは、当たり前のことだと考えるだろう。しかし、こうした明らかに簡単な課題も、早期トラウマを持つクライアントにはできないかもしれない。』 その上に、上記「トラッキング」に関連するかもしれない「Pain Reprocessing Therapy」における「ソマティック・トラッキング」については次のエントリを参照して下さい。 「Pain Reprocessing Therapy」の「3)安全性のレンズを通じて疼痛を評価する」項 iii) 引用中の「はしご」に関連する「Autonomic Ladder」については拙訳はありませんが次の資料を参照して下さい。 「A BEGINNER'S GUIDE TO POLYVAGAL THEORY」の「The Autonomic Ladder」項 また、これらの用語に関連するかもしれない「パーツアプローチ」の視点からの『自動的に起こる否定的な解釈ではなくて、それをマインドフルに観察する力をつけていきます。そして、刺激に触発された時のパーツの思考、感情、内臓の反応、動きの衝動などを「追跡」し、どのように生存のための反応をしているかをみていきます。』については他の拙エントリのここを参照して下さい。 iv) 引用中の「協働調整」についてはここを参照して下さい。 v) 引用中の「腹側迷走神経系に向かう微光を堅実に味わうこと」に関連する「腹側迷走神経系が働き出すと、その兆候はおぼろげな光として体験される」ことについて、同の 第Ⅱ部 神経系をマッピングする の 第5章 トリガーと微光のマップ の「微光」における記述の一部(P90)を次に引用(【 】内)します。 【腹側迷走神経系が働き出すと、その兆候はおぼろげな光として体験されます。安全であるというニューロセプションは、自分自身や他者や環境とのつながりを持とうと思えるようなリラックスした状態を作り出します。すると、安全の合図とともに腹側迷走神経系が活性化するほんのわずかな瞬間に、微光がきらめきます。微光は、生き残りモードにある神経系をなだめ、自律神経系による調整を取り戻すのに役に立ちます。】 vi) 引用中の「ポリヴェーガル理論を、認知的に頭で理解することから一歩進んで、身体に落とし込む」ことに関連するかもしれない「辺縁系セラピー」についてはここを参照して下さい。 vii) 引用中の「自身の自律神経系の状態を、マッピングし、トラッキングして、人と一緒に、あるいは自分ひとりで調整を試すことができるようになる」ことに関連するかもしれない(自律)「神経系と仲良くなる」ためには「セルフ・コンパッション」が必要なことについて、同の「第Ⅲ部 まとめ」における記述の一部(P163~P164)を次に引用します。

(前略)自律神経系と仲良くなり、寄り添う能力を獲得すると、クライアントは自律神経系の状態が絶え間なく変化していることがわかるようになります。神経系と仲良くなるためにはセルフ・コンパッションが必要です。しかし、クライアントにとって、これは難しいかもしれません。なぜなら、クライアントはつねに自己批判を続けてきたからです。自己批判は習慣化しています。誰もが、生き残りの追求を至上命題としている共通の自律神経系というシステムに沿って生きており、ある特定の状況では、誰でも、自分がしてきたような反応をしてしまうのだということを、クライアントが理解できるようになると、自分に共感する余地が生まれてきます。あるクライアントがこんなことを言ってくれました。長い間、自分は壊れていると思ってきたが、自分の自律神経系が人類共通の反応をしていただけなのだとわかったので、自分を責める気持ちが和らいできた、とのことでした。(後略)

注:引用中の「セルフ・コンパッション」については引用はありませんがツイートを、上記「セルフ・コンパッション」に関連する「コンパッション・フォーカスト・セラピー」については他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。

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以下の【9】【14】では、解離性障害(又は解離症)に関する様々な紹介をしています。上記「解離性障害(又は解離症)」については他の拙エントリのリンク集(用語:「解離(解離性障害、解離症)」)を参照して下さい。なお、 (a) 解離性障害(解離症)において、病気と健常との境目もはっきりしていないことについてはここを、 (b) 「解離は、引き金を引かれたとき無意識で不随意に稼働する場合にのみ、病的だとされる」ことついては他の拙エントリのここここを、加えて解離のメリットとデメリットについては他の拙エントリのここを、 (c) 解離は(背側迷走神経を過剰使用した)凍りつきの心理的側面であることについてはここここを、 (d) 解離における「没入」、すなわち「想像の世界への没入」及び「現実の対象への没入」について、加えて解離性障害における「意識消失と昏迷」については共にここを、 (e) 「解離性の方には、物事をいい加減にできない、真面目にとらえてしまい、自分に100%責任を感じてしまって、というようなことがある」ことについてはWEBページ『「自分が自分でなくなっちゃう!?」解離性障害』の「■解離性障害の方へのアドバイス」項を それぞれ参照して下さい。 (f) 『解離を「自分が何者なのかわからなくなった状態」と考えるにあたって、理解しておくべきこと」について、「こころの科学 221号(2022年1月)」中の野間俊一著の文書「解離の治療とは何か――日常的な精神科臨床の現場から」(P68~P73)の「私は何者なのか」及び「命の危険を回避する」における記述の一部(P68~P69)を一つずつ次に引用(それぞれ『 』内)します。 『自分でも何が起こっているのかよくわからず、自分が真実を述べているのか否かも不確かなまま、記憶が飛び、子ども返りをし、現実感を失い、怒りが噴出し、声がかすれるのである。すなわち、自分が何者なのかが曖昧になっているのである。』、『解離を「自分が何者なのかわからなくなった状態」と考えるにあたって、理解しておくべきなのは、「ポリヴェーガル理論」と「構造的解離理論」である。』(注:引用中の「ポリヴェーガル理論」についてはのここの「最初に」を、「構造的解離」については他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい) (g) 「解離性健忘」の例については次のWEBページを参照して下さい。 「【4286】虐待された時の記憶が曖昧です」(注:HOME はここを参照して下さい) (h) 子どもにおける「解離症状の理解」については、pdfファイル「子どもの虹情報研修センター 日本虐待・思春期問題情報研修センター 紀要 No.15 (2017)」中の古田洋子著の文書『講義「解離症状の理解」』(P50~P63)を参照して下さい。 (i) 主に女性における「解離型自閉症スペクトラム障害」(解離型ASD)については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (j) 「解離はメンタルヘルス領域全般にかかわる根本的な問題なのである」ことについて、「こころの科学 221号(2022年1月)」中の王百慧、黒木俊著の文書「解離って何だろう?――こころのパラレルワールドの謎」(P16~P21)の「こころのパラレルワールドの統合と解離」における記述の一部(P20)を次に引用(【 】内)します。 【また、解離症状は解離症やPTSD以外にも境界性パーソナリティ障害アルコール依存症ギャンブル依存症統合失調症、不安症、うつ病など、ほとんどすべての精神疾患に認められる(5)。解離はメンタルヘルス領域全般にかかわる根本的な問題なのである。】(注:引用中の文献番号「(5)」は次の論文です。 「Dissociation in Psychiatric Disorders: A Meta-Analysis of Studies Using the Dissociative Experiences Scale」) (k) 「長い闘病生活に苦しむとき,ストレスに対する耐性が低下して,比較的わずかな刺激で解離症状をしめすこともある」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 (l) これら以外にも、「防衛・適応としての解離・転換」について、亀岡智美著の本、「子ども虐待とトラウマケア 再トラウマ化を防ぐトラウマインフォームドケア」(2020年発行)の 第Ⅱ部 子ども虐待とケア の 児童期における解離・転換性障害 の Ⅰ 正常発達段階で認められる解離・転換 の「2. 防衛・適応としての解離・転換」における記述(P113)を次に引用します。 『これまで,さまざまな民族や宗教・文化において,神がかり的な変性意識状態・憑依・擬死反射やけいれんなど,解離や転換症状にきわめて類似した現象が報告されている。これらの現象は,「弱者から強者に対する異議申し立てと困難の超越」(田中,2007)としても解釈されており,心理的葛藤や過度のストレスへの「防衛」あるいは「適応」としての側面を持つと考えられている。』(注:1) 引用中の「田中,2007」は次の文書です。 「田中究(2007)解離をめぐって考えていること.こころの科学,136 (11) ; 102-108.」 2) 引用中の「転換症状」に関連する「転換性障害(変換症)」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 3) 引用中の「変性意識状態」に関連する「解離性意識変容」についてはここを参照して下さい。 4) 引用中の「擬死反射」に類似する「擬死」についてはここ、他の拙エントリのここ及びここを参照して下さい。 5) また、上記「トラウマインフォームドケア」については次の資料、WEBページや YouTube を参照して下さい。 「精神科医療におけるトラウマインフォームドケア」、「【第Ⅰ部】トラウマインフォームド・ケアを学ぶ ~トラウマのメガネでみてみよう~」、「精神科救急医療ガイドライン2015年版」の 第3章 興奮・攻撃性への対応 の Ⅱ.興奮・攻撃性への対応に関する基本的な考え方 の「1.トラウマインフォームドケア」項)、「Trauma Lens こころのケガに配慮するケア」、「トラウマ・インフォームド・ケア(TIC)パート1

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【9】解離の心的体験における舞台を用いた比喩的な表現及び解離の病因論としての諸要因について

前者について柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 3 解離の舞台 の「2 意識の舞台」における記述の一部(P053~P055)を次に引用します。

(前略)あらためて解離の心的体験について舞台を用いて比喩的に表現してみよう(1)。自分の人生、主観的体験世界があたかも舞台の上での出来事のように感じられることが、ここでいう「舞台体験」である。世界は狭まったものとして体験され、見通しが悪くなっている。世界はその地平から切り離されたものとして、浮き上がった舞台、劇場として体験される。広大な世界のなかの自分に「私」が同一化、一体化、没入できないでいる。患者は現実と空想の狭間に漂っている。
舞台の上のスポットライトは、舞台の上の自分自身への同一化を促す。そういった意味で、スポットライトは現実あるいは空想の世界へと導く通路である。そうした世界のなかの自分に同一化すれば、舞台という感覚は消失する。しかし、舞台体験とはあくまでそうした同一化ができない状態であり、そのとき「私」はスポットライトを浴びている「私」、そこから少し離れてその「私」を(背後から)見ている「私」、舞台の外から舞台の上の「私」を見ている「私」に分離している。それぞれの「私」は視点の位置が異なっており、かつ視野が狭まっている。
ジャネ(1974)はヒステリーについての記述のなかで、「一瞬ごとに結び合わすことのできる単純な、あるいは比較的単純な現象の数多くのもの、つまり、われわれ白身の人格に一度の人格的認知によって結びつけられ得るようなもの」を意識野と呼び、「ひとつの人格的意識に同時に結びつけられ得る心的現象の数が減少することから成る衰弱」を意識野の狭窄とし、さまざまな観念や機能の結びつきが人格的意識を構成していると考えた。
意識野の狭窄と人格的意識の解離は表裏の関係にあるという。つまり「ヒステリー=解離」の心的体験には意識の狭窄と分離がある。ジャネのヒステリーについてのこうした記載は解離の体験にも当てはまる。
解離の症状構造(柴山 2007, 2010b)から捉えると、解離の「私」は基本的に、舞台でふるまい演じている「存在者としての私」とそこから離れて浮遊する「眼差しとしての私」という二つの「私」に分離する。「存在者としての私」は舞台の上の人間関係から逃れることができない舞台の上の「私」としてある。もうひとつの「眼差しとしての私」は舞台の上の「私」から離れて、その「私」を離れた位置から見ている。「眼差しとしての私」は舞台の上の「存在者としての私」という器を離れて定点なく漂い、時に自分の背後を漂い、あるときは舞台の上の「私」に眼差しを向ける観客に重ね合わされる。このとき「存在者としての私」は舞台に偏在する「眼差しとしての私」の気配や眼差しに対して過敏になっている。
解離の患者は時に自分のことを、しばしば次のように表現する。「自分がいて、それを見ている自分がいる。そしてその全体を見ている自分がいる」。ここに見られるのは「存在者としての私」「眼差しとしての私」「全体を俯瞰する私」(「観客としての私」)という三つの「私」である。「眼差しとしての私」を夢のなかの自分とすれば、「全体を俯瞰する私」は夢のなかで夢を見ている自分にたとえることもできる。そういった意味で、「全体を俯瞰する私」は「眼差しとしての私」の延長上にあるとも言えよう。これらの「私」は通常統合されているが、解離においてはそれらが容易に分離して体験され、境界を失って拡散していくかのように感じられている。
覚醒した意識は、世界のなかで「ここ」と「そこ」を、自己と他者を、さらに知覚と表象をそれぞれ区別することができ、境界づけ、それらを自己の体験世界のなかに統合的に位置づけることができる。しかし解離ではこうした覚醒機能は減弱している。「ここ」は「そこ」となり、「そこ」は「ここ」となる。自己は他者になり、他者は自己になる。知覚は表象のようにぼんやりと把握しづらく、表象は知覚のように生々しく体験される。

注:i) 引用中の註「(1)」の記述(P060)を以下に引用(『 』内)します。 『岡野(2007)もまた解離性障害における舞台とスポットライトについて述べている。』〔注:引用中の「岡野(2007)」は次の本です。 【岡野憲一郎(2007)『解離性障害――多重人格の理解と治療』岩崎学術出版社】〕 ii) 引用中の「ジャネ(1974)」は次の資料です。 【ピエール・ジャネ[高橋 徹=訳](1974)『神経症医学書院】 iii) 引用中の「柴山 2007」は次の資料です。 【柴山雅俊(2007)『解離性障害――「うしろに誰かいる」の精神病理』ちくま新書】 iv) 引用中の(柴山)「2010b」は次の本です。 【柴山雅俊(2010b)『解離の構造――私の変容と〈むすび〉の治療論』岩崎学術出版社】 v) 引用中の「ヒステリー」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 vi) 引用中の「没入」についてはここを参照して下さい。 vii) 引用中の「知覚」については次のWEBページを参照して下さい。 「知覚 - 脳科学辞典」 viii) 引用中の「表象」についてはメンタライジングの視点から拙エントリのここを参照して下さい。

一方、後者について柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 9 解離の病因論 の「1 解離の諸要因」における記述(P135~P137)を次に引用します。

1 解離の諸要因

従来、解離性障害の病因としてはさまざまな要因が報告されてきた。なかでもクラフト(Kluft 1984)による解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder : DID)が生じる四因子説は有名である。彼が提示したのは、①被催眠性などの解離能力、②子どもの自我の適応能力を圧倒するような外傷体験、③解離的防衛という型を決定し病像を形成する外的影響や個体側の生来的素質、④重要な他者からの刺激防御や修復経験が供給されないこと、という四因子である。ちなみに、②には性的虐待、身体的虐待などの代表的な外傷体験に加え、重要な他者の死、疼痛や病気、先天的奇形、原光景への曝露などが挙げられている。③には自己催眠、イマジナリーコンパニオン、メディアや文学、さらには面接技法の誤りなどが挙げられている。
こうしたクラフトの四因子は、大きく個体側の要因と環境側の要因に分けられる。個体側の要因としては被催眠性が重要である。一般に解離性と被催眠性との相関自体はそれほど高くないが、早期に多数の加害者による外傷を受けた人たちにおいては解離性も被催眠性も高いと言われており、パトナム(2001)はこういった人々を二重解離者(double dissociations)と呼んだ。
被催眠性との関係で言えば、空想傾向(fantasy-proneness)もまた解離との関係が示唆されている。空想傾向とは、ウィルソンとバーバー(Wilson and Barber 1983)が催眠にかかりやすい人々の特徴として挙げた特徴であるが、空想傾向が認められた群の多くの人々は、幼少時に遊んでいた人形や動物の玩具が実際に生きており、独自の人格をもっていると信じていたと報告する。また小さな妖精や守護天使、木の精などが実在しているものと信じ、想像上の友人と遊び、時に彼/彼女らを実在の人や動物のようにはっきりと見、聴き、触れたと振り返る。
また環境側の要因としては性的虐待や身体的虐待などが挙げられる。一九八〇年代になって、解離性障害摂食障害自傷行為や危険な行動、物質乱用などの要因として、幼少期の外傷体験(性的虐待、身体的ないしは心理的虐待、ネグレクト)が関係していると認識されるようになった。欧米ではDIDの約七〇-九〇%に幼少期の性的虐待や身体的虐待が見られたという報告もある。幼少期の外傷体験が重なる場合を除いて、成人期における外傷体験はあまり解離促進的ではないとも言われる。自然災害や戦争などが直接的に解離性障害の要因となることは稀である。自然災害や戦争が影響を与えるのは、それらによって重要な養育者の喪失や家族という場に変化がもたらされたときである。
問題となるのは個人に向けられた外傷ストレスであり、個人を取り巻く場の変容である。家族内の要因としては、性的および心理的・身体的虐待などとともに、家庭という場におけるストレスがある。家庭外についてはいじめ、差別、虐待などの要因が挙げられる。
そこには愛着対象との関係、予測不能性、意味把握の困難、反倫理性、秘匿性などさまざまな要素が含まれていることが多い。なかでも愛着対象との関係、受動性、予測不能性と意味把握の困難については幼少期において、秘匿性については思春期においてより外傷的になる。こういった意味で最も外傷的となるのは幼少期における家庭内の近親者による性的虐待であることは間違いない。家庭外の外傷であっても、それが家庭内で癒されることはしばしばある。しかし性的外傷はなかなか親に訴えられずひとりで抱え込み、心の奥底に消化されることなくそのままの形で隠されてしまう。口に出して表現されることがなく封印された体験ほど解離の要因となる。

注:i) 引用中の「Kluft 1984」は次の論文です。 「Treatment of multiple personality disorder. A study of 33 cases.」 ii) 引用中の「パトナム(2001)」は次の本です。 【フランク・パトナム[中井久夫=訳](2001)『解離 若年期における病理と治療』みすず書房】 iii) 引用中の「(Wilson and Barber 1983)」は次の資料です。 【Wilson, S.C. and Barber, T.X. (1983) The Fantasy-prone personality : Implications for understanding imagery, hypnosis and parapsychological phenomena. In : A.A. Sheikh (Ed.) Imagery : Current Theory, Reaserch, and Application. New York : John Wiley, pp. 340-387.】 iv) 引用中の「摂食障害」については、他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iv) 引用中の「解離性同一性障害」に相当する「解離性同一症」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「解離症 - 脳科学辞典」の「診断と分類」項 一方、引用中の「解離性障害の病因」に関連するかもしれない、解離の病態メカニズムとしての副交感神経優位の「低覚醒状態」については同WEBページの「病態メカニズム」項を参照して下さい。 v) 引用中の「物質乱用」に関連する「物質依存」については、他の拙エントリのリンク集(用語:「物質依存(薬物など)」)を参照して下さい。 vi) 引用中の「イマジナリーコンパニオン」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 vii) 引用中の「外傷体験」に関連する「トラウマ」については、他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。

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【10】解離性障害の初発症状について

標記について柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 4 怯えと過敏 の「3 解離のはじまり」における記述の一部(P066~P067)を次に引用します。

3 解離のはじまり

次に解離性障害の初発症状を取り上げ、解離症状がどのような領域からはじまり、そこにはどのような構造が見られるのかという点について考察したい。これらのことについて把握しておくことは、解離の病態理解とともに、診断、経過の予測の見通しをつけることを容易にするからである。(中略)

解離性障害の患者は、友人関係がうまくいかなくなったり、恋愛関係が破綻したり、ストーカー被害、性的外傷体験などを契機に発症することが多い。つまり、自分の願望が挫折したり、人に裏切られたり、恐怖の体験をするなどといった状況で発症する。これらは人間関係における広い意味での挫折体験であり、気分障害統合失調症の発症状況とは異なっている。
離人症や健忘、人格交代など解離性障害に典型的に見られる症状は、初発症状としてはそれほど多くない。最も多い訴えは身体症状である(表参照)。たとえば動悸、頭痛、動悸、過呼吸、吐き気、失声、めまい、頭痛、意識消失などといった多彩な身体症状である。身体症状には不安が伴っており、時に典型的な不安発作が現われる。そのため初診時には不安障害やパニック障害、社交不安障害などと診断されることが多い。またそこから派生する抑うつ感のために、うつ病と診断されていることも多い。
多彩な身体症状と不安の次に、初発時に多い症状は対人過敏症状である。患者は「電車に乗ることが怖い」「人が大勢いるところが怖い」「外出が怖い」「周りから変な人のように思われている」などさまざまに訴える。こうした対人過敏症状は従来あまり知られてこなかったが、実際には解離性障害の初発当時から身体症状や不安とともに出現していることが多い。
対人過敏症状は広場恐怖と一見似ているが、実際にはそれと異なっているところもある。通常の広場恐怖のように、予期せぬ不安発作が起こるのが怖くて人が大勢いるところや閉じ込められた状況を避けるというのではなく、漠然と大勢の人がいるところや乗り物を避けるのである。対人過敏症状には、「自分がどうにかなってしまうのではないか」という内からの不安ではなく、基本的に外の刺激に圧倒されるのではないかという不安が見られ、時に 「自分が人から傷つけられるのではないか」といった外への恐怖を伴うことがある。かつての対人恐怖の特徴である漏洩性や加害性が見られることはまずない。このような特徴は西田(1968)が指摘した「周囲に対するおびえの意識」と共通している。
離人症や健忘、人格交代、幻覚などといった典型的な解離症状が初発時に見られる場合は病像がすでに完成していることが多い。こういった典型的な解離症状は通常、発症後しばらく経過してから見られる。
以上のように、初発症状は、多彩な身体症状と不安、さらに対人過敏症状が主たる症状である。このことは発症時の状態が、緊張・過敏・過覚醒へと偏っていることを示している。離人症や健忘、失立失歩や運動麻痺などといった弛緩的な症状は、経過のなかで後に現われることになる。緊張と弛緩といった関係からすれば、初発症状は緊張方向へと偏っていると言えよう。(後略)

注:i) 引用中の「表参照」に対し、表そのものの引用は省略しますが、表の内容については形式を変えて次に示します。すなわち、解離性障害の初発症状として、(1) 多彩な身体症状と不安、(2) 過敏症状(対人過敏・気配過敏)、(3) 健忘、(4) 離人症、(5) 過食・拒食、(6) 幻覚、(7) 抑うつ、(8) その他(人格交代、自傷など) がリストアップされています。 ii) 引用中の「西田(1968)」は次の資料です。 【西田博文(1968)「青年期神経症の時代的変遷――心因と病像に関して」『児童精神医学とその近接領域』9; 225-252】 iii) 引用中の身体症状に関する記述における用語「動悸」及び「頭痛」は、ダブっているようですが、そのまま引用しています。 iv) 引用中の「気分障害」に関連する「うつ病」及び「双極性障害」については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 v) 引用中の「統合失調症」については、他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iv) 引用中の「不安障害やパニック障害、社交不安障害」に関連する、「不安障害(不安症)、「パニック障害」及び「強迫性障害強迫症)、社交不安障害」については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 v) 引用中の「離人症」に関連する「解離性離人症」についてはここを参照して下さい。

加えて解離性離人症について、柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 6 想像的没入と眼差し の「2 解離性離人症」における記述(P091~P093)を次に引用します。

2 解離性離人症

離人症をすべて解離性離人症とみなすことはもちろんできない。一般に、離人症は共通してさまざまな「実感のなさ」を訴える症候群である。現在のような解離性離人症が臨床でしばしば見られるようになったのはおそらく一九七〇年代からであり、その頃から「実感のなさ」を主症状とする離人症の病像が変化してきているように思われる。解離性離人症を「離人症様」の症状とみなして離人症には含めない立場(安永 1987a)もあるが、私自身は解離性離人症離人症に含めたほうが生産的であると考えている。ただし離人症は「実感のなさ」など多くの共通した部分をもちながら、解離性と非解離性のあいだには微妙な色合いの違いがあることもたしかである。
非解離性離人症では、「実感がない」という感覚に加えて、「自分がいるという実感がなくなってしまった」「自分の感情がなくなってしまった」「考えることができなくなってしまった」など、以前には自然に存在していたものがなくなってしまったという喪失感や脱落感が目立つ。「実感がない」という訴えに加え、「自分が変わってしまった」「実感がなくなってしまった」という苦悩に重点が置かれる。自己と世界とのあいだのみならず、現在の自分と過去の自分とのあいだなど、自己のなかの「ずれ」「裂隙」「断層」(安永 1987a)などの不連続性が顕著である。
それに対して解離性離人症では、「地面から浮いている」「自分から離れているようだ」「現実から離れている」「夢のなかにいるようだ」といった表現をすることが多い。先の喪失感や脱落感、不連続性などを思わせる言述もないわけではないが、それ以上に自分自身から離れているという感覚、夢と現実、表象と知覚とのあいだの区別のつかなさ、境界のなさを特徴とする。
このように解離性離人症と非解離性離人症との最も大きな違いは意識変容の有無にある。解離性離人症には意識変容があり、非解離性離人症にはそれが認められない。空間的変容に見られる「眼差しとしての私」は現実の世界のなかにいる「私」が見る夢のようなものである。解離性の離人症状は意識状態の変化によって大きく影響を受けるが、非解離性離人症ではそういうことはまずない。解離性離人症では軽い暗示や催眠によって覚醒度を上げると、「周囲が明るく感じる」「視野が広がって見える」「さっきまでと全然違う見え方」などと述べることが多い。
さらに解離性離人症では、解離性健忘や交代人格との関連が示唆される離人感が含まれていることが特徴的である。すなわち「自分の過去なのに自分の過去のような気がしない」「自分の過去や記憶がぼんやりとして、それが自分のものである感じがしない」など健忘の一歩手前のような離人感を訴えたり、あるいは「自分の今の体験がまるで他人のもののような感覚がする」など交代人格への移行を思わせる離人感を訴えたりする。

注:i) 引用中の「安永 1987a」は次の本です。 【安永 浩(1987a)「離人症土居健郎ほか=編『異常心理学講座 第4巻』みすず書房 pp. 213-253】 ii) 引用中の「表象」についてはメンタライジングの視点から他の拙エントリのここを参照して下さい。 iii) 引用中の「知覚」については次のWEBページを参照して下さい。 「知覚 - 脳科学辞典

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【11】解離性障害における過敏症状の詳細について

標記について柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 4 怯えと過敏 の「4 過敏症状」における記述の一部(P068~P070)を次に引用します。

4 過敏症状

次に過敏症状について詳しく見てみよう。「電車に乗るのが怖い」「人込みが怖い」などといった対人過敏症状は、過剰同調性に見られる目の前の「人に対する怯えの意識」と同じ系列の症状であり、その発展形とみなすことができる。患者は「電車に乗ると人の目が怖い」「人が大勢いるだけで怖い」「横断歩道で人がこっちに向かって歩いてくるのが怖い」などと訴えるが、これらは怯えの対象が自分のほうへと迫ってくるという特徴がある。
対象が背後から迫ってくることもある。たとえば「誰かに刃物で後ろから傷つけられそうで怖い」とか「誰かが後ろからつけてくる」と言う。またプラットホームで、線路から数メートル離れているにもかかわらず、背後から誰かに押されるのではないかといった怯えを感じていることもある(1)。階段やエスカレーターでも、背後に同様の怯えを感じるため、降りるときが怖いと訴える。
対人過敏症状を訴える時期には、すでに家のなかでも同様の過敏症状が見られることが多い。たとえば「部屋のなかにいても、どこかから誰かに見られているようで怖い」「カーテンの隙間が怖いので、カーテンを隙間のないように閉めている」「窓ガラスに誰かの影が映っているのが見えた」「部屋の隅がなんとなく怖い」「ドアの隙間から誰かが覗いているような気がする」「背後に誰かがいる気配がする。私を見ているようで怖い」などと訴える。風呂(とりわけ洗髪時)やトイレに入っているときなど無防備な状態にこういったことを感じやすい。
対人過敏症状が家の外で見られる症状であるのに対して、家の内で見られるこのような過敏症状を気配過敏症状と呼ぶ(2)。気配過敏症状は家のなかでの症状であるため日常生活に大きな支障を生じることは少なく、対人過敏症状に見られるような「外出恐怖」などの病理性は目立たない。しかし、昼間でも自室のカーテンを閉め切ったり、強い不安と恐怖が見られたりする場合には注意が必要である。これら対人過敏症状と気配過敏症状、視覚、聴覚、触覚などの知覚過敏を合わせて空間的変容における過敏とする。
気配過敏症状は、対人過敏症状のような現実の人に限定された過敏性ではなく、「漠然と人を超えた存在」に対して過敏になる要素を含んでいる。このような対象の曖昧さは日本語の気配という言葉によく表われている。(中略)

過敏症状は対人過敏や気配過敏に限らない。それはモノとの関係を巻き込むことがある。次の症例はこうした過敏症状の特徴をよく表わしている。

●症例I[女性・二〇代後半・解離性同一性障害
さっきまではモノが自分とつながって、意味で溢れていた。モノが心をもっていて、自分に対して要望や要求を突きつけてくる。自分はモノとの関係のなかにいる。あらゆる関係が自分に迫ってくるので、目を閉じてしまう。カードやティッシュからさえも情報が来る。ティッシュも自分に要求してくる。それがどこで作られているとか、物語が自分に伝わってくる。「大事に使ってね」などというメッセージが来る。絵を見るも、「それを描いているときに赤ちゃんが泣いていてね」とかメッセージがモノから来る。モノがただのモノだとありがたいですね。人だとすごいことになる。音や映像、ストーリーが入ってきてしまう。私は私、あなたはあなたという関係にならない。

周囲の刺激が自分のほうへと迫ってきたり、さまざまな情報が自分に迫ってきたりする。そのことと連動して、頭のなかが思考や表象、感覚でいっぱいになる。こうした思考や表象関係の過剰性(思考促迫)などもまた過敏症状に伴うことが多い(柴山 2010a)。そこから回復すると霧が晴れたように、そうした状態から抜け出すことができる。症例Iも面接が終了したときには、こうした意識変容状態はまったくなくなっていた。

注:i) 引用中の註「(1)」の記述(P074)を以下に引用(『 』内)します。ただし、註「(2)」の記述の引用は省略します。 『線路に落ちてしまいそうで怖いという「線路恐怖」は、このような背後から押される恐怖のほかに、線路に吸い込まれてしまうという恐怖を伴っていることが多い。これは通常ある境界や歯止めの実感ではなく、容易に「いま・ここ」から漂い離れ、境界を乗り越えてしまうという意識を含んでおり、過敏の裏には離隔が、離隔の裏には過敏があることを示している。』(注:引用中の「離隔」については次のWEBページを参照して下さい。 「解離症 - 脳科学辞典」の「離隔」項) 加えて「離隔と過敏は状況によって交代してあらわれるのが解離症の特徴である」ことについて、「こころの科学 221号(2022年1月)」中の柴山雅俊著の文書「解離症のこころとからだ」(P22~P27)の 解離症のこころ の「(1) 空間的変容に基づく症状」における記述の一部(P23)を次に引用(【 】内)します。 【離隔と過敏は状況によって交代してあらわれるのが解離症の特徴であり、多くの場合、離人症がみられるなかで、ときおり対人過敏や聴覚過敏など過敏症状が出現する。】(注:引用中の「離人症」に関連する「解離性離人症」についてはここを参照して下さい) ii) 引用中の「柴山 2010a」は次の資料です。 【柴山雅俊(2010a)「解離と不安」『臨床精神医学』39 ; 411-414】 iii) 引用中の「過剰同調性」についてはここを参照して下さい。 iv) 引用中の「知覚過敏」に関連する「知覚」については次のWEBページを参照して下さい。 「知覚 - 脳科学辞典」 v) 引用中の「表象」についてはメンタライジングの視点から他の拙エントリのここを参照して下さい。 vi) 引用中の「思考促迫」についてのWEBページ「解離症 - 脳科学辞典」の「精神病様症状」項における次に引用(《 》内)する記述があります。 《「頭の中がゴチャゴチャして混乱している(思考促迫)」》 加えて、上記「解離症のこころの「(1) 空間的変容に基づく症状」において次に引用(『 』内)する「思考促迫」についての記述(P24)があります。 『思考促迫は、さまざまな断片化した表象が(あたかも知覚のように)頭の中にひしめき、思考の脈絡がみられない体験であり、身体の緊張を伴うことが多い。統合失調症の自生思考に類似しており、鑑別は困難である。診断は全体の病像から行う必要がある。』(注:引用中の「統合失調症」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい)

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【12】解離性障害において触覚や皮膚感覚、体内の深部感覚に違和感や異常が現れることもあることについて

標記について柴山雅俊監修の本、「解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病」(2012年発行)の「感覚の異常 体の中を虫がはい上がってくる」における記述の一部(P30~P31)を次に引用します。

(前略)痛み、疼き、違和感がある
解離のある人は、頭や体の中の異常な感覚にひどく悩まされていることがあります。このような感覚の異常を「体感異常(セネストパチー)」といいます。
感覚の異常は、主に頭の中に固まりがあるとか、頭の中に小さな虫がいる感じがすると訴えます。脳をかきまぜられているとか、むずがゆい感じがするという人もいます。手足に虫がはっているとか、皮膚のすぐ下を虫がはい回っていると言うこともあります。
しかし、解離ではあくまで感じがするというレベルで、確信しているわけではありません。確信している場合は、統合失調症うつ病など、別の病気を考えます。(中略)

体のどこに?
感覚の異常は、主に頭部や脳、皮膚、手足の指などに感じることが多いといえます。体の深部、内臓に異常を感じることもあります。(中略)

どんなふうに?
感覚はさまざまです。むずむず動く感じや引っ張られる感じ、つまっている感じ、かきまぜられる感じなどで、不快な感覚に悩まされます。(後略)

注:i) 引用中の「セネストパチー」に関連する、自閉スペクトラム症における「セネストパチー」については、他の拙エントリのここを参照して下さい。 ii) 引用中の「統合失調症」及び「うつ病」については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。

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【13】解離性意識変容について

多彩な解離性症状が見られた症例を含む標記解離性意識変容について、柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 7 時間的変容の諸相 の「5 解離性意識変容」における記述の一部(P110~P114)を次に引用します。

5 解離性意識変容

次に提示するのは解離性意識変容を呈した症例であるが、多彩な解離性症状が見られたことで参考になる(柴山 2000, 2010b)。解離性意識変容は、「まえがき」でも述べたように、解離の病態理解にとって不可欠な要素となっている。

●症例W[女性・二〇代半ば・特定不能解離性障害
幼少時は海外で過ごす。小学校低学年で帰国し、小学校のときは周囲からいじめられることが多かったという。大学二年のときにレイプ事件の被害者となり、そのため人工妊娠中絶を経験している。その後、失神発作が見られるようになった。そのときはまず頭痛から始まり、そのうち意識が朦朧としてきて、動悸、めまい、吐き気、全身の硬直、振戦、手指硬直、呼吸困難などの身体症状が現われ、最後に崩れるように倒れる。覚醒するとケロッとして明るくなる。夕方から夜にかけて散歩に出かけたりすると、「ぼーっとしてきて、自分が呪われているんじゃないかと感じた。ゴミ袋を見ると人に見える。塀の上に誰かが座っている感じがする」と言う。
二〇代前半、食事中に恋人と喧嘩して路上に飛び出そうとするなど衝動的な行動が目立つようになったため、精神科を受診した。面接では、「頭のなかの脳が震えるようで。心と体と頭がばらばら。何が何だかよくわからない。釣り糸のように頭が絡まっている感じ……。言っていることがよくわからない。頭の半分が寝ていて、頭の半分がこんがらがっている」「時々自分の名前を呼ぶ声や泣き声が聞こえる」と言う。「どこへ行けばいいのかわかりません。居場所がない。死にたくなる」と視線が定まらずうつろな表情である。支えないと立っていられない状態であったため入院することになった。
入院後の面接では、「この数日間は中絶のことを想い出して怖い。赤ん坊の声が実際に聞こえてくる。脳味噌が半分寝ている。時々喋りたくなくなる。声が出ない。喉が詰まる感じ。無言になっちゃう」と言う。そのうち体全体に振戦が見られ、ふらふらしながら面接室を出ていく。過呼吸になって床にしゃがみこんで、ぼーっとした表情で壁を見つめている。周囲の問いかけにも応答しない。そのうち頚や手が震えてくる。丸めたティッシュペーパーに何かを書こうとする。「私は今死んでいるんです。火星から来た宇宙人みたい。魂が飛んでいって抜け殻のよう」と言い、しばらくしてから我に返る。その間のことを覚えていない。面接中に急に笑い出すこともあった。面接で次のように語った。
「時々現実感がなくなる。人が一杯いると、一人だけ宙に浮いている感じになる。周りが異常に気になる。人が多いと恐くなる。人を見ていると何か自分だけが違和感があって、気がおかしくなりそうで恐い。自分だけが同じ血が流れていない感じ。死に対する不安がなくなって、ロボットみたいになる。周りが映画のセットみたいで、作られた物のような気がする。時々自分の体重が変わるというか、フワッとなる。方向感覚がわからない。そういうときはどこから来たのかわからなくなる。何か魂が抜けた感じ。どんどん忘れてしまう。人が言っていることもわからない。表面的に流れてしまう。芯がない。体は固まるけど中身が空洞。自分で人間なのかなぁと思う。指が五本あるのが恐い。物が恐い。椅子が恐い。自分が生きているのか死んでいるのか。彼も母親も何か変な物体が動いている感じがする」。
「急に手が震えてきて、まずいと思って布団に入るけど、急に意識が遠のく。物ががーっと迫ってきて、鮮明になる。いろんなことを思いついたり想い出したりするため、頭のなかがパニック状態になって混乱する。頭にいろんなシーンがパッパッと出てきては消える。自分で考えようとしているんじゃなくて、支離滅裂に浮かんでくる。すると何かをせずにいられない。水風呂に頭をつっこんだりする。頭に画鋲を刺したらどうなるかとか、血管をえぐり取るとどうなるかとか、包丁で手に線を入れたり、切り落としたりするとどうなるのか、といったことが頭に浮かぶ。前だったらそれで過呼吸で倒れたり、髪の毛を抜いたり、カッターを手に突き刺したりしていた。感情をコントロールできないから体に痛みを与えるんです」。
「周りが恐いと思ったときは音に敏感になる。誰かがうしろにいるようで恐い。人の気配がする、水のぽたぽた落ちる音が異常に大きく聞こえる。人間が気持ち悪い。異様に感じる。手が動いて、首があって、口がパクパクして気持ち悪い。なんでこういう固まりなんだろう。なんでこういう形をしているんだろうと思う。夕方、気を抜いた時間に多い。そんなときは部屋の隅っこにうずくまって、カーテンで囲んで、親や人が恐いので近寄るなと言う。虫が湧いているようでムズムズしたりするので、水をかけたり足を叩いたりすることもある」。
廊下で倒れ込んでベッドに戻るが、急に表情が変わり、裸足で歩きはじめる。面接室に入ってしゃがみ込む。棚にあるものを取り出したりする。まとまりなく引き出しを開けたり、器具をつかんだりしている。イライラして周囲の人に絡んだりする。
家族によると、家では周囲が抑えられないほど興奮することがある。暴れて頭を叩いたり、家のなかを走り回ったりする。所かまわずスプレーをまき散らしたり、物を投げたり、物で頭を叩いたりする。表情は険しく、火をつけようとすることもあった。父親が抑えようとすると「痴漢」「レイプ」と叫ぶ。突然に我に返り、その後は健忘を残す。
約三カ月半で退院し、外来通院となった。外来治療を継続し、翌年には服薬を終了することができた。その後、それまで交際していた男性と結婚した。以後、落ち着いた状態にある。

この症例は意識消失発作から始まり、朦朧状態、錯乱状態、幻視、幻聴、錯覚、体感異常、健忘、昏迷、興奮、思考促迫、離人症状、対人過敏、気配過敏、自傷行為、知覚過敏、身体症状など、人格交代を除いた解離のほとんどすべての症状を呈している。(中略)

症例に見られた解離性意識変容を検討してみよう。軽度の場合、朦朧状態は必ずしも明確ではなく記憶が保たれていることも多い。そうしたとき体験は空間的変容として現われる。つまり離隔と過敏が特徴的である。時間的非連続性はさして目立たないが、こうした矛盾する要素を含むため、それらが交代する時間的変容の可能性を内蔵している。意識変容が中等度以上になると朦朧状態がはっきりと見られるようになる。朦朧状態は急に始まり突然に終わり、その後に健忘を残す意識野が狭窄した状態である。その点で時間的変容に含めることもできる。それまでの離隔や過敏は遠隔化や近接化(柴山 2010)の傾向を強め、周囲世界は不気味に遠ざかったり迫ってきたりする。人の言っていることもわからなくなり、記憶もどんどんなくなる。あるいはフラッシュバックに悩まされ、不安と恐怖のなかで頭が混乱する。意識変容が重度になると激しい興奮状態へと至ることもある。
解離性意識変容は、空間的変容から朦朧状態つまり時間的変容まで幅広い状態を含んでいる。交代人格が見られる状態を意識変容状態と捉えるか否かに関しては意見が分かれるであろうが、少なくとも意識変容を基盤として発展した症状と考えられる。(後略)

注:i) 引用中の「柴山 2000」は次の資料です。 【柴山雅俊(2000)「意識変容を呈した解離性障害の一症例――解離性意識変容の病態構造について」『臨床精神医学』29 ; 1385-1392】 ii) 引用中の(柴山)「2010b」は次の本です。 【柴山雅俊(2010b)『解離の構造――私の変容と〈むすび〉の治療論』岩崎学術出版社】 iii) 引用中の「体感異常」についてはここを参照して下さい。 iv) 引用中の「思考促迫」についてはここを参照して下さい。 v) 引用中の「対人過敏」や「気配過敏」を含む「過敏症状」についてはここを参照して下さい。 vi) 引用中の「フラッシュバック」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 vii) 引用中の「離人症状」に関連する「解離性離人症」についてはここを参照して下さい。 vii) 引用中の「昏迷」についてはここここを参照して下さい。加えて、引用中の(解離性)「昏迷」と「擬死反射」との関係については他の拙エントリのここを参照して下さい。 viii) 引用中の「体感異常」についてはここを参照して下さい。 ix) 引用中の「離隔」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「解離症 - 脳科学辞典」の「離隔」項 x) 引用中の「身体症状」に関連する「解離性身体症状」については他の拙エントリのここここを参照して下さい。 xi) 引用中の「知覚過敏」に関連する「知覚」については次のWEBページを参照して下さい。 「知覚 - 脳科学辞典

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【14】解離性障害における過剰同調性と居場所について

最初に標記過剰同調性について、柴山雅俊監修の本、「解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病」(2012年発行)の「気質的要因 他人に合わせすぎて、自分を見失う」における記述の一部(P68)を次に引用します。

(前略)幼い頃から「いい子」だった
解離のある人には、「いつも相手に合わせようとしていた」という人が多くみられます。「過剰同調性」といいます。
背景には「相手を怒らせたくない」「相手に嫌われるのではないか」といった他者に対する不信や不安、おびえがあるといえます。虐待やいじめを受けた場合は、特に顕著になります。抵抗や反撃をすることができず、ひたすら相手に合わせるしかないのです。
そうした行動は本心ではなく、自分が望んでいることでもありません。「自分がどういう存在か、わからない」といった感覚を抱え込んでしまうのです。(後略)

さらに詳細には、柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 9 解離の因果論 の「4 過剰同調性」における記述の一部(P142~P145)を次に引用します。

4 過剰同調性

解離性障害の患者には発病以前から認められる対人関係の特徴がある(柴山 2010a, 2010b)。目の前の相手や周囲の人に対して、過剰に気を遣って、合わせてしまう過剰同調性のことである。周囲に対して自己主張することがなく、その場その場で周囲の他者に合わせるのである。それが苦痛を伴って意識されていることもあれば、さして意識されていないこともある。
こうした対人関係の特徴は、気分障害、パーソナリティ障害、対人恐怖などに限らず、現代の若い女性たちにも見られる一般的な傾向である。しかし、もう少し細かく見ていくと、そこには微妙な違いがあることがわかる。
内海(2006)は双極Ⅱ型障害(BP-Ⅱ)に見られる対人過敏性について指摘している。それはつねに他者の評価を気にし、その顔色を窺い、自分の気持ちがおろそかになる心性であり、双極Ⅱ型障害若い女性ではほぼ必発であるという。こうしたBP-Ⅱの他者配慮はメランコリー型でいう対他配慮に対応するものであるが、そのつどの他者に対して敏感であるという点で、メランコリー型の没個性的な対他配慮とは決定的に違っているという。こういった点に関しては、内海の言う対人過敏性はわれわれの言う過剰同調性と共通しているし、現代の若者に見られる一般的傾向とも似ている。
ただし、そこには解離性障害の過剰同調性(柴山 2010a)との若干の差異も見てとれる。内海の対人過敏性についての記載を見てみよう。

相手の意向を逐一気にして振り回され、頭の中が一杯になる。顔色をうかがう。健康なときなら機転も利こうが、読みが空転してどうしたよいか混乱する。卑屈な自分に嫌気がさす。それでもやはり人に気を遣ってしまう。そして他者のために空っぽになってしまった自分。時としてそんな他者に対する恨みが表出されるが、他罰一辺倒になることは稀である。早晩、人を責めている自分への自責、自罰へと転ずる。こうした他罰-目罰の手のひらを返したような往還や、空虚感への直面は危険な徴候である。

双極Ⅱ型に見られる対人過敏では不安、混乱、嫌気、怨み、自罰、他罰など苦悩の色彩が概して強い。そしてそれらですぐに自分が一杯になる。それに対して解離性の過剰同調性においては、こうした感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない。また必ずしも周囲に同調していることを意識しておらず、気づいたときにはすでに「自分が目の前の相手に合わせてしまっている」ことが多い。症例を挙げてみよう。

●症例Y[女性・二〇代前半・解離性同一性障害
いつも私は周りに怒りの感情を出さない。自分で抑えちゃう。怒るのは面倒なので押し込んで相手に合わせる。面と向かって思ったことを言うと、がっかりされて嫌われるんじゃないかと思う。意識的にも無意識的にも合わせる。相手の感情の変化に敏感で、相手が言ってほしいことを言ってあげる。相手に合わせるというよりも、そういった自分が出てくる。相手によって色が変わる。コアは変わらないが、それを覆う膜が変わる。それがいつか破綻する不安がある。読書をすると、その世界に入ってしまう。夢にも影響を受ける。さまざまな状況に合わせることがそれなりにできてしまう。合わせることに疲れるということはない。いろんな人の気持ちがわかる。裏表ではなくサイコロです。どの面が出ても私。犯罪者の気持ちもシャットダウンできなくて、わかるところもある。私にとってはありえないということがない。

内海のいう対人過敏性の記載との違いは明らかであろう。解離の患者は目の前の他者によって色を変えるヴェールをまとい、他者の欲望に合わせる。相手の気持ちに没入するその姿はある意味では空想的であり、現実に縛りつけられたかのような内海の対人過敏性とは異なっている。
「序章」でも取り上げたブロイラーの同調性(Syntonie)と過剰同調性では、同じ同調性という言葉を使っているがその意味するところが異なっている。同調性(Syntonie)は循環気質に見られるところの、他者たちとできる限り同調しようとし、また自分自身とも調和しようとする態度である。しかし、過剰同調性では他者や周囲と同調しようとするが、自分自身のなかに「切り離し」があることが特徴である。つまり循環気質のような「自分自身との同調」や「統一的な人格」(クラウス 1983)が見られない。目の前の相手に同調している自分がいるが、それと同時に、その背後でまったく別なことを空想したり感じたりしている自分がいる。
解離に見られる過剰同調性には「人に対する怯えの意識」「同一性の希薄さの意識」「自他混乱の意識」などの諸特徴が見出される。「人に対する怯えの意識」とは、人から見捨てられる、嫌われる、傷つけられることに怯える意識である。「同一性の希薄さの意識」とは、自分の感情、思考、意志などが一定のまとまりを獲得できず、自分から離れて実感がないと感じることである。「自他混乱の意識」とは、自分の思考、感情、意志などが目前の他者のそれと自動的に重なってしまい、区別がはっきりしなくなる感覚である。これは症例が語っているように想像への没入性とも関係しているであろう。こうした意識は解離としてはかなり特異的であるように思われる。
これら三つの「意識」は解離における過剰同調性の構成要素であるが、それぞれは解離の症候とも関連している。つまり、「同一性の希薄さの意識」と「人に対する怯えの意識」は、それぞれ解離の空間的変容における離隔と過敏に相当する。そして「自他混乱の意識」は解離の時間的変容における人格交代に関係していると言ってよいだろう。つまり解離に見られる過剰同調性は解離の症候の軽微な状態と考えることもできる。
また、虐待やいじめなどさまざまな外傷体験が過去に存在すれば、こうした過剰同調性はより顕著に現われるであろう。外傷体験における他者の攻撃性や衝動性に対して、患者はただひたすらそれに合わせることしかできなかった。それは現実世界に縛られながらも、何とか生き延びようとする自己犠牲的で他者本位な試みである。こうした体験が後の過剰同調性を準備するであろうことは十分に考えられる。また幼少時から母親のイライラや愚痴を聞くことによって母親を支えてきた子どもたちや、周りの空気を読んでいわゆる「いい子」を演じる子どもたちもまた、身近な他者が押しつける自己像や役割に同一化することによって自己の存在を確認する点で過剰同調性に類似している。岡野(2007)は、こうした母子関係を中心とするあり方を「関係性のストレス」と呼び、そこに見られる投影や外在化の抑制が解離の病理を生むものと考えている。
このように過剰同調性が、解離の症候の軽微な状態であり、また解離を生み出す背景となっているならば、これらは悪循環を形成していると考えることもでき、過剰同調性が悪循環的に解離の病理を引き寄せる働きをしている可能性がある。その場合、目の前の他者に合わない自己部分は、切り離されて現実の世界に投影されたり自分の感情を吐き出したりするのではなく、背方の隠蔽空間へと放擲される。
ところで、解離性障害の患者にはこのような過剰同調性が見られる一方、それとはまったく逆の、自己中心的で衝動的な行動が見られることもある。たいていの場合は解離の発症後のことであるが、身近な異性や家族に対して激しい攻撃性が向けられる。交際している異性に対して激しい暴力をふるうこともしばしばである。しかし、治療者のように一定の距離がある者に対して攻撃性が向けられることはまずない。この点は境界性パーソナリティ障害に見られる脱価値化(devaluation)を特徴とする攻撃性とは大きく異なっている。(後略)

注:i) 引用中の「内海(2006)」は次の本です。【内海 健(2006)『うつ病新時代――双極Ⅱ型障害という病』勉誠出版】 ii) 引用中の「柴山 2010a」は次の資料です。 【柴山雅俊(2010a)「解離と不安」『臨床精神医学』39 ; 411-414】 iii) 引用中の(柴山)「2010b」は次の本です。 【柴山雅俊(2010b)『解離の構造――私の変容と〈むすび〉の治療論』岩崎学術出版社】 iv) 引用中の「クラウス 1983」は次の本です。 【アルフレート・クラウス[岡本 進=訳(1983)『躁うつ病と対人行動――実存分析と役割分析』みすず書房】 v) 引用中の「岡野(2007)」は次の本です。 【岡野憲一郎(2007)『解離性障害――多重人格の理解と治療』岩崎学術出版社】 vi) 引用中の「気分障害」に関連する「うつ病」及び「双極性障害」(後者は引用中の「双極Ⅱ型障害」を含みます)については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 v) 引用中の「統合失調症」及び「境界性パーソナリティ障害」については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 vii) 引用中の「対人恐怖」に関連するかもしれない「社交不安障害」(又は社交不安症)については、他の拙エントリのリンク集(用語:「強迫性障害強迫症)、社交不安障害」)を参照して下さい。 viii) 引用中の「外傷体験」に関連する「トラウマ」については、他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 ix) 引用中の「没入」についてはここを参照して下さい。 x) 引用中の「虐待やいじめなどさまざまな外傷体験が過去に存在すれば、こうした過剰同調性はより顕著に現われるであろう」に関連するかもしれない「相手に合わせるということばかりを続けてきた」ことについては、他の拙エントリのここを参照して下さい。 xi) 引用中の「投影」については、例えば次の資料を参照すれば良いかもしれません。 「心的状態の推測方略:投影とステレオタイプ化」 xii) 引用中の「脱価値化」に関連する「理想化とこきおろし」については、他の拙エントリのここを参照して下さい。 xiii) 引用中の「過剰同調性」にも関連するかもしれない女性における「解離と居場所」について、同の 9 解離の病因論 の「5 解離と居場所」における記述の一部(P146~P148)を以下に引用します。 xiv) 引用中の「同調性」に関連する双極Ⅱ型障害における「同調性に芽生える病理」について、内海健著の本、「双極Ⅱ型障害という病 改訂版 うつ病新時代」(2013年発行)の 第五章 同調性の苦悩 の「同調性に芽生える病理」における記述(P139~P140)を以下に引用します。

5 解離と居場所

次の症例は虐待も性的外傷体験もなかったが、幼少時にいじめられることがあった。発症後は、一過性に人格交代を示すこともあった。

●症例K[女性・二〇代前半・特定不能解離性障害
男性は私にとって居場所なんです。それは家族とか友達とかでは捕えない。私は素でいられることを求めている。普段は素ではいられない。自分に欠点があると思っている。男性よりも女友達に嫌われたほうが傷つく。男性のほうが素でいられる。言いたいことを言える。女性の友達と一緒のときは、素ではなくて偽りの自分なんです。目の前の相手に無理に合わせてしまう。嫌われたくない。女友達は合わせないと冷たくされる。合わせない人は距離を置かれる。空気を読みなさいみたいな。自己主張できない。女性の親友はいない。女の子の言葉は言葉通りに受けてはいけないんです。

この症例の過剰同調性は、多くの女性症例がそうであるように、明らかに同性である女性へと向けられている。女性の前では素の自分を出すことができない。嫌われたり排除されたりする怯えが意識されやすい。ここには同性の母親に対する愛着外傷の痕跡を窺うことができるかもしれない。それに対して、異性である男性の前では素でいられるという。彼女たちにとって男性は自分を救済してくれると期待された存在である。解離性障害と診断される多くの女性は、異性である男性との関係に救済を求める。そこに居場所を見つけられればよいが、不幸にもそういった異性との関係で(ふたたび)愛着欲求が裏切られると、しばしば解離発症へと向かう。
内は自分と同質の、類似した環境・関係であり、外は内とは異なった環境・関係である。そういった意味で内は同性や家のなかの人間関係を、外は異性や家の外の人間関係を指し示している。内は外に出て行けるための基盤となる。解離の病態では、内が安定して形成される以前に何らかの要因によって内が阻害され、その修復を外に求めるが、それもまた挫折するというストーリーが繰り返されることが多い。多くの症例は家庭という内を緊張に満ちた場として感じており、外へと早く抜け出し、自らを癒そうとしているように見える。解離性障害の患者は安心できる居場所を求めて内から遊離して、外をさまよい、そしてそこでも絶望する宙吊りの状態にある(柴山 2012a)。
症例Kの語るところをさらに見てみよう。

母親との関係に大きな問題はなかったが、家のローンがあったので母親はずっと仕事をしていて家にいなかった。両親からの虐待も性的外傷体験もなかった。しかし、小学校から高校まではいじめがあった。そのため泣きながら帰ったことがよくある。家の内にも外にも居場所はなかった。家から早く出たかった。いじめられていた記憶がよく想い出される。辛い思い出しか出てこないので、誰とも関係ない場所でやり直そうと思っていた。幼稚園から小学生までは、辛くなると話しかける友達がいた。見えないけど頭のなかにいる。まるで現実であるかのように話すことが多い。物心ついたときから幽霊や青い服を着たお姉さんを見たりしていた。家庭というのは無理矢理そこにいさせられた場所で、そこにいないと生活ができない場所だった。しっかりして何でもできる子どもとして見られていた。そうした周りの視線が嫌だった。頑張らなきゃいけない、努力しなくてはいけない、親の期待にも応えないといけないけど、それが嫌だと言えない。嫌だと言って悪い子だと言われたくなかった。そうしているうちに自分の居場所がわからなくなった。ここにいていいのかなと思っていた。読書をしていると物語のなかに入り込んでしまい、そのときはそのなかに自分がいる感じになる。だけど、それが終わると自分の居場所がない感じがする。

Kの家庭は母親が仕事で忙しく、家にはあまりいなかった。彼女は親の期待に無理矢理合わせてきたと振り返る。家庭は素の自分を出せる場所ではなく、無理強いをさせられた場所であった。学校ではいじめがあった。解離性障害の患者の多くは、幼少時から安心して素の自分を表現できる機会がなかったという。そのような状況に対して拒絶することもできない。そんな彼女を支えていたのが、イマジナリーコンパニオンの存在や空想や物語の世界であった。これらはもうひとつの現実の世界であったが、それが機能するのはそこに没入しているときだけであり、現実の世界での居場所は次第になくなっていった。(後略)

注:i) 引用中の「柴山 2012a」は次の本です。 【柴山雅俊(2012a)「現代社会と解離の病態」柴山雅俊=編『解離の病理――自己・世界・時代』岩崎学術出版社】 ii) 引用中の「イマジナリーコンパニオン」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 iii) 引用中の「没入」についてはここを参照して下さい。

同調性に芽生える病理

では、あらためて双極Ⅱ型障害の心理を考える際に、基本とすべきものは何であろうか。それは「同調性」にほかならない。
すでに示したように、この原理は、たしかに素朴に過ぎるきらいがある。だが、それは気分障害全般に妥当するものであり、病型を問わず、罹患した個体には、おおむね「同調性>分裂性」のパターンが見出される。これは臨床に際して、しっかり押さえておくべき気分障害の心性の基礎である。
端的に言うなら、同調性とは、環界と共振・共鳴する原理である。先述したように、それ自体において、病理性が希薄である。分裂性が、のちにミンコフスキーに引き継がれ、「現実との生ける接触の障害」という形で、統合失調症分裂病)の基本障害として結実したのに比べれば、はるかに健全な原理であるようにみえる。
しかし、同調性も、行き過ぎれば病的なものとなりうる。前章でみたように、ミンコフスキーは、同調性格者は「波にさらわれる結果、自我を確立し、進歩するための地歩を固めることができない」と指摘している。実に正鵠を得た見解である。だが、いささか不思議なことなのだが、これ以外に、過剰なる同調性の病理について論じたものは、筆者の知るかぎり見当たらない。
ここに示された、自己をめぐる同調性の病理は、双極性障害の心性をとらえる際に、基本となる。
すなわち、同調性とは、自己が世界と関わりをもつための不可欠の原理であるが、その一方で、自己そのものを押し流し、拡散する危険を孕んでいるのである。

注:i) 引用中の「気分障害」に関連する「うつ病」及び「双極性障害」(後者は引用中の「双極Ⅱ型障害」を含みます)については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 ii) 引用中の「同調性」と「分裂性」の関係について、同章の「双極性障害病前性格」における記述の一部(P129~P131)を次に引用します。

(前略)ブロイラーによれば、分裂性と同調性は、人、事物、出来事を含む広い意味での「環境」というものに対する、われわれの行動を調整する二つの生命機能、生命原理である。両者は相補的であり、各人の中で種々の割合で結合して、性格特性を構成している。
ミンコフスキーは、この二つの概念の心理学的意義を論じた。その際、次のようなたとえを用いている。

二人の青年が日曜日に山登りをしようと計画した。第一の青年は、都会の喧騒から離れて一日を過ごすことを楽しみにしている。山の頂に立ち、麗しい自然の景観を楽しむ自分を想像する。だが、新聞の気象欄は、午後から霧雨になると予報している。しかしこの一日を樹木や岩の間で過ごしたいという願望を抑えることができず、天気予報が誤りであることを願う。彼は出かけるが、案の定、雨に降られる。見えるものはただ霧と雨ばかり。しょげ返って帰路についた彼は、この山登りは失敗だったと残念がる。
第二の青年も、同じように気象欄を読んで、雨の予報を知った。しかしこのために予定を変更しようとは夢にも思わない。あるのは、ただただ登山するという行為である。いったん決心した以上は、まっしぐらに目標に向かう。雨も霧も彼を驚かすほどのものではない。天気予報が的中したまでのことである。彼は山頂に立ち、そして満足して帰路につく。

第一の青年が示す環界との強い交感や共振が同調性に、第二の青年が示す環界からの自律性や突出性が分裂性に対応する。
ミンコフスキーによれば、同調性と分裂性は単なる性格標識ではなく、むしろ個々の特徴の間隙に位置して、それぞれの特徴に独特の色彩を与え、環境に対する個体の態度を規定するものである。次の一節は、この二つの生の原理を対比して妙である。

これを要するに、人生において、分裂性性格の過度の鋭角を和らげるものが同調性格であり、また同調性格の過度の表面性と拡散性を深めるものが分裂性性格である。同調性性格にとって困難なことは、絶えず逸し去ろうとする自我を捉えることである。彼はあまりにも環境の中に生きる。分裂性性格者にとって困難なことは、現実への通路を見出すことであり、この通路の開鑿は必ずしも成功しない。(『精神分裂病』村上仁訳)(後略)

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これら以外にも、 a) 解離における「没入」、すなわち「想像の世界への没入」及び「現実の対象への没入」についての引用が以下にあります。最初に前者について、柴山雅俊著の本、「解離の舞台 症状構造と治療」(2017発行)の 6 想像的没入と眼差し の「4 想像の世界への没入」における記述の一部(P094~P096)を以下に引用します。 b) 加えて、解離性障害における「意識消失と昏迷」について、同本の 7 時間的変容の諸相 の「4 意識消失と昏迷」における記述の一部(P094~P096)を以下に引用します。

4 想像の世界への没入

解離性障害の患者の多くは物心ついたときから空想に没入していることが多い。あたかも現実であるかのように空想がありありと頭に浮かび、それが実際に見えるかのように体験している。さらにその空想世界のなかへと入り込んで、そこでの視点を獲得し、周囲世界を見渡すのである。そこでの感覚もありありとしている。しかもいったんそうした世界に入ると、すぐには抜け出すことができない。
こういった「想像の世界への没入」の傾向は幼少時から見られることが多く、病理現象としての意義はそれほど大きいわけではないが、解離性障害の患者に圧倒的に高頻度に見られることはたしかである。実際の症例が語るところを見てみよう。

●症例P[男性・三〇代半ば・解離性同一性障害
本を読んでいるときでも、まるで映画を観ているようです。映像がはっきりと浮かんできて、そのなかに自分がいるかのように感じる。それが普通のことだと思っていた。そのなかの登場人物になったり、その登場人物の傍らにいたりする。物心ついたときから空想のなかで遊ぶのが一番楽しかった。空想のなかで遊ぶことを自分の居場所にしてきた。部屋でテレビ映画を観ているとき、自分はその部屋にはいない。ストーリーの展開にしたがって、その映画の空間全体のなかに入っていく。映画を観ると登場人物の影響が一、二週間も続いてしまう。

これは想像の世界への没入の典型例である。現実の場所から離れて想像の世界へと深く没入していく。こうしたことは読書や映画、テレビだけではなく、音楽の世界にも当てはまる。音楽の世界にどっぷりと浸かり、音楽に強く影響される。いったん入り込むと、なかなかその世界から抜け出すことができない。
想像(表象)の世界と現実世界についてここで少し考えてみよう。想像の世界は限定された空間性をもっている。想像の世界はあたかもテレビや映画のように平面的で奥行きを欠き、空間的に限定され、周辺へと伸び広がってはいない。想像の世界と自己とのあいだには、さまざまな感覚による直接的な触れ合いはなく、スクリーンや画面のような膜、あるいはそれに類似したものによって隔てられている。感覚的要素があったとしても視覚や聴覚などに限られていることが多く、多くの感覚様式を伴うことはまずない。それに対して現実世界ではそのような限定する空間的な枠はなく、周囲は自己を取り囲むように際限なく広がり、奥行きがある。自己と対象世界とのあいだに膜は一切存在せず、さまざまな感覚様式によって直接的に触れ合っている。(後略)

注:引用中の『「想像の世界への没入」の傾向は幼少時から見られることが多く』に関連する「幼少期体験と空想傾向」について、「催眠反応性」や「深い意識変容」を含めて同の 10 解離の幼少期体験 の「2 空想傾向」と「3 幼少期体験と空想傾向」における記述の一部(P156~P162)を次に引用します。

2 空想傾向

ウィルソンとバーバー(Wilson and Barber 1983)は、催眠反応性の高い女性群二七名と対照群の女性二五名、計五二名(平均年齢二八歳)に対して詳細な面接をし、催眠反応性の高い群のほとんどに見られる記憶、空想、精神的体験などの特徴を描き出し、そこに生き生きとした空想にもとづいた体験を見出し、それらを空想傾向(fantasy-proneness)と名づけた。ここでは空想傾向の概略について説明しておきたい。
空想傾向は一般人口の四%に見られると推定されている。その基本特徴は空想に対して広く深く没入することであるが、同時に創造的な才能でもあるとされる。空想傾向をもつ者は特別な促しがなくても、トランス状態のような深い意識変容を経験する。
幼少期の多くの時間、彼女たちは架空の世界に住んでおり、人形や動物の玩具が実際に生きているものと信じ、妖精、守護天使、木の精などが実在するものと信じていた。半数以上が幼少期に空想上の人や動物であるICと一緒に遊んだりして、多くの時間を過ごしていた。実際に彼女たちは、ICをはっきりと見たり、聴いたり、触れたりしたと報告する。
また孤児や王女、動物などになりきることも多く、自分は普通の少女のふりをしているが実際は王女であると思っている場合もある。また物語の世界に没入して、そのなかの登場人物になりきり、その世界で見たり、聞いたり、感じたりする。本のなかの登場人物がICになることもある。小学生頃になると、周りから嘘をついていると言われたり、からかわれたりするため、そうした空想を人には言わなくなることが多い。
幼少期に空想傾向をもつ者は成人になっても空想が少なくなることはない。人との会話の内容を想起するとき、その場でありありと知覚しているように感じる。特定の刺激がそれに関連する空想を引き起こす。鳥や木を見れば、突然に体の感覚を失って自分が鳥や木になる。日常的な仕事をしているときに、あたかも別のところで別のことをしているように空想する。不快なときにはありありとした性的空想をすることもある。空想があまりに現実的であるため、八五%の人が空想の記憶と実際の出来事の記憶を混同しがちであると報告している。
空想傾向者は幼少時から感覚体験に深く没入し、それに集中していることが多い。そういった体験は生まれつき快感を伴っており、楽しい体験だからである。幼少時の生き生きとした記憶をもっていることが多く、過去をあたかも現在であるかのように想起する。また空想、記憶、思考が直接的に身体に影響を与えることもあり、テレビや映画で暴力を観たときに具合が悪くなったり、熱さや冷たさを想像するだけで実際にそのように感じてしまったりする。
また彼女たちの大半が、千里眼、テレパシー、予知などの超感覚的な体験を報告している。遠くに離れた友人や身近な人に起こっていること、彼女たちの考えていることや感じていることを知ることができるという。そして、ほとんどすべての人が予知夢などの予知的体験をしていた。人の過去生を読んだり、オーラを見たり、頭の上に浮かぶイメージとして人の思考を読んだりする。瞑想していたり空想したりしているときや夢のなかでも、体外離脱体験が見られる。また自動書記、宗教的幻視、心霊治療などを経験していることもある。精霊や幽霊、死者の霊、影のような存在、グロテスクな怪物などを見たりすることもあるが、これらを入出眠時に体験している。
以上のように空想傾向は、空想への没入、幻覚能力(とりわけ視覚的幻覚能力)、生き生きとした記憶、催眠反応性、超感覚的能力などによって特徴づけられる。(中略)

またウィルソンとバーバー(Wilson and Barber 1983)は空想傾向へと導く要因を四つ挙げている。①大人が子どもに空想を促したこと、②孤独な状況、③困難でストレスの大きい環境からの逃避、④幼少時からの芸術領域の過剰な練習である。空想傾向にはこれらの要因が二つ以上見られることが多いという。家族からの身体的虐待、母親の重度の情緒障害、ネグレクト、里親を転々とするなどの不安定な住居状況は空想傾向者の三分の一に見られたという。後にリュとリン(Rhue and Lynn 1987)は、空想傾向者二一名中六名が幼少期に激しい身体的虐待を受けていたが、対照群ではそういったことがなかったと報告している。
幼少期のこうした状況や環境以前に空想傾向がすでに見られていたのか、あるいはそれらを背景として空想傾向が発展することになったのかは定かではない。空想傾向が素因的に認められることもあれば、それが認められないこともあるであろう。しかし、いずれの場合でも外傷体験が空想傾向を促進させることはたしかであろう。

3 幼少期体験と空想傾向

幼少期の空想傾向とは、空想の世界を思い描き、それにどっぷりと没入し、あたかも現実であるかのように感じることである。そういった傾向は成人期でも衰えることなく持続し、成長するとともに、認知、記憶、身体感覚、夢の領域に影響を及ぼし、幻覚の内容も多彩になっていく。
ここでいう幼少期体験と空想傾向は、空想への没入、ICの出現、超感覚的体験などの点で共通しているが、若干の差異もある。幼少期の空想傾向の多くは願望充足的でファンタジーの要素が大きく、素朴でポジティヴであり、より素因的なようにも思える。それと比較すると、われわれが言う幼少期体験は、幽霊や人影などの幻視、気配過敏、被注察感、さらには入眠時幻覚に見られる人の気配など、不安や恐怖、緊張を掻き立てるような過敏的側面が散見される。ここには周囲に対する不安や怯え、過敏性といった要素が含み込まれており、環境側の要因が大きいように思われる。次に解離の症例を見てみよう。

●症例Z[女性・二〇代後半・特定不能解離性障害
幼少時から母親からの虐待がひどかっだという。物差しが折れるほど叩かれたり、裸で家の外に出されたり、走っている車から追い出されたりしていた。食事を作ってくれなかったこともしばしばであった。小学校低学年のときには一時的に叔母の家に預けられた。小学校高学年になると母親からの虐待はなくなった。昔から家族のなかで居場所はなかった。空想はいつもしていた。小さい頃から頭のなかに映像が浮かんで、まるで見えるようだった。
幼稚園から小学校中学年にかけて、オレンジっほいピンクの洋服を着た人間に近い人形みたいな子がいた。声も聞こえていた。一緒に遊んだり、話を聞いてくれたり、一緒に寝てくれたりする。学校にも一緒に行って、遊んだりしてくれた。それが空想なのか現実なのか当時もわからなかったが、今でもわからない。
小学校のときから誰かの気配を感じていた。視線を感じたり、笑っている声が聴こえてきたりする。幽霊が見えることもあった。はっきりと見えることもある。さまざまなところに人影が見える。妖精ともお話をしていた。今でもそうです。妖精が自分の周りを飛んでいるのが見える。半透明できらきらしている。一五センチくらいの存在。辛いときによく出てきて踊っている。一八歳の頃、友人に「妖精なんていない」と言われてすごくびっくりしたことがある。あと小汚いおじさんが風呂にいて、親父ギャグ的なことを言う。とにかくいるのが当たり前という感覚。トイレのなかに立っている女の子もいる。引っ越しをするたびに違う子が家にいる。悪いことはしてこない。ただ立っているだけ。話はしない。怖くないです。もう慣れました、こういった存在は小さい頃から現在までずっといる。
歩いている皆に自分が本当に思っていることを知られていると小さい頃から感じていた。自分の考えが声になって、話している相手や石や砂に聴こえているように感じる。だから考えないようにしている。自分のことをコメントする声が聴こえる。頭の周辺から「走っています」「靴を履いています」とか聴こえる。その声が周りにも聴こえている感じがする。

●症例a[女性・三〇代半ば・解離性同一性障害
幼少時から乗り物に乗ると、めまい、冷汗、動悸などが見られた。小学校一年のとき、祖母が死亡した。当時、祖母が窓辺に立っていたのを見たけど、すぐに消えてしまった。その頃から夜になると金縛りが多くなった。小学校二年生のときは何も食べられなくなり、自家中毒の診断で入院したことがある。その後も、動悸や食事が摂れないなどの症状が続いた。病院を受診しても自律神経失調症と言われるだけであった。小学校低学年のときに性的外傷体験があった。小学三年生のときにいじめがあった。荷物を持たされたり、言葉でひどくいじめられたりした。自殺しようかと思ったこともある。
小学校時代から人影を見ていたという。自分と重なって、すぐうしろに誰かがいる気配がしていた。それが自分を見ている感じがしていた。そのためうしろを振り返ることもよくあった。小学校や中学校のときは特にそれが強かっだ。ベランダや天井、壁から何かが出てくるとか、部屋の隅に誰かが座っている感じがしていた。
中学になっていじめはなくなった。トイレに入っていると夢のなかにいるような感じになる。中学時代はほぼ毎日金縛りがあった。金縛りのときには、トイレでパリーンパリーンという音がしたり、人の気配を感じたりしていた。誰かに見られている感じがする。部屋の隅に光がパッパッと見え、同時に音が聞える。お化けや女の人を見えたり、天井に上半身だけの男の人がへばりついたりしていた。怖かっだ。

これらの症例では、幼少時から幽霊幻視、人影幻視、人物幻視、IC、気配過敏、被注察感、要素的幻聴、持続的空想、表象幻覚(柴山 2007, 2009b)、入眠時幻覚、考想伝播様体験など多彩な体験が語られている。空想傾向と比較すると、願望的ファンタジーの要素は少なく、幻覚の生々しさに不安や恐怖といった要素が含まれているのがわかる。もちろん空想傾向にもこういった要素が含まれていないわけではない。空想傾向者も亡霊や死んだ人などを見ることはあるが、こうした体験の多くは成人になってからとされている。(中略)

解離性障害に見られる幼少期体験について、空想傾向と比較しながら検討した。解離の幼少期体験には、予知感、過敏、幻覚など外界を過敏に感知する過敏系列と、既視感、離隔、持続的空想など外界から離れて空想などへと没入する離隔系列が特徴的に見出された。
空想傾向ではこの過敏系列の体験は比較的少なく、健康でより願望充足的ファンタジーへの没入傾向が見られた。解離における幼少時体験は、空想傾向と解離症状の中間的位置にあるものと考えられる。空想傾向-解離の幼少期体験-解離症状というスペクトラムのなかで、解離の方向へと向かうにしたがって、次第に過敏の要素が強くなっていくとともに、空想への没入は背景化していくように思われる。

注:i) 引用中の「Wilson and Barber 1983」は次の資料です。 「Wilson, S.C. and Barber, T.X. (1983) The fantasy-prone personality : Implication for understanding imagery, hypnosis and parapsychological phenomena. In : A.A. (ed.) Imagery : Current Theory, Research, and Application. New York : John Wiley, pp.340-387.」 ii) 引用中の「Rhue and Lynn 1987」は次の論文です。 「Fantasy proneness: Developmental antecedents.」 iii) 引用中の(柴山)「2007」、「2009b」はそれぞれ次の本と資料です。 【柴山雅俊(2007)『解離性障害――「うしろに誰かいる」の精神病理』ちくま新書】、【柴山雅俊(2009b)「解離性障害と Schneider の一級症状」『臨床精神医学』38 ; 1477-1483】 iv) 引用中の「IC」すなわち「イマジナリーコンパニオン」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 v) 引用中の「過敏」や「気配過敏」については共にここを参照して下さい。 vi) 引用中の「離隔」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「解離症 - 脳科学辞典」の「離隔」項

次に後者について、同6 想像的没入と眼差しの「5 世界への想像的没入と眼差し」における記述の一部(P097)を次に引用します。

5 世界への想像的没入と眼差し

では次のような、想像の世界ではなく現実の対象へと没入しているような症例はどのように考えればいいだろうか。先ほどの症例Jである。

●症例J[男性・四〇代前半・特定不能解離性障害
白昼夢に集中しているとそれが意識の全体になる。身体意識が希薄になる。抜け出て上のほうから見ている。想像の視点のほうが現実の身体感覚よりも強くなる。そういったときに向こう側にある対象に視点を想像して、その視点に自分がなる。動物や植物の視点にもなれる。以前に目の前で人が線路に落ちて死んだのを見たことがある。その線路に落ちた人の視点になってしまう。そこから見ている。その人に一体化してしまう。椅子や机や花にもなれる。それらの感覚を自分でもありありと感じることができる。

この症例は白昼夢を経て体外離脱を体験しながら、物体、植物、動物、さらには人間などさまざまな現実の対象へと自分の視点を重ねる。さらにはその対象がもつとされる感覚さえも感じているかのようである。なかには木に一体化すると、そのなかで水が流れているのをありありと感じる人もいる。こういった体験は想像の世界へと没入していくのではなく、現実の対象へと想像的に没入していると表現できよう。(後略)

4 意識消失と昏迷

先の症例Uのように解離性障害の患者が意識を失って倒れるということはよくある。それとともに多いのが昏迷状態である。次の症例は昏迷と意識消失を呈した女性である。

●症例V[女性・四〇代前半・特定不能解離性障害
三〇歳頃に言葉が出なくなった。「あれ、あれ」としか言えなくなった。言いたい言葉が頭のなかにぼんやりとあっても、それが言葉として出てこない。そういうときは意識が朦朧として、周囲の見え方もぼやけている。そのときの記憶はかろうじて保たれている。意識が途切れてしまうときにはどうやら動きが止まっているらしい。周囲には反応しない。数分間にわたって不動状態になるが、その間の記憶はほとんどない。時々抑うつ気分に陥り、薬物の大量服薬をすることがあるが、自分でもどうしてそうしたのか覚えていない。突然、過呼吸、構音障害、手指振戦、歩行困難な状態になることもある。診察室にいたはずが、急に無言になって反応しなくなって、気づいたら待合室にいたこともある。その間の記憶は途切れている。夜に突然不安になり、泣き出してしまう。理由がまったくわからない恐怖感が襲ってくることがある(最近になって、発作のときには「体から離れるような感じがあった。思っているのと違って手が勝手に動いているように感じる」と述べるようになった。てんかんが疑われ脳波検査を数回行ったが、今まで異常所見が確認されたことはない)。

この症例は 「言葉が出ない」という症状で始まっている。これは単に声が出ない失声ではなく、言葉そのものが浮かんでこない昏迷状態である。その程度がひどくなれば、「頭のなかが真っ白になる」「空白になる」などの体験を経て最終的に意識消失へと至るが、倒れることはない。また彼女の言う「体から離れるような感じがあった。思っているのと違って手が勝手に動いているように感じる」という言葉からは空間的変容の離隔が窺われる。このように昏迷状態が主症状であるが、離隔、健忘、小遁走などを広く伴っている。大量服薬のときのエピソードからは人格交代が疑われるものの、明確ではない。

注:i) 引用中の「意識消失」に関連するポリヴェーガル理論の視点からの「血管迷走神経反射」についてはここを参照して下さい。 ii) 引用中の「昏迷」に関連する「解離性昏迷」については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて上記「昏迷」関連するかもしれない自閉スペクトラム症ASD)者におけるカタトニア(症状群)の例についてはここを参照して下さい。

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【15】双極Ⅱ型障害において軽躁のプラス・マイナスの計算をきちんとすることについて

標記について、青木省三著の本、「精神科治療の進め方」(2014年発行)の 第9章 躁うつと人生 の「1 頑張ろうという気持ちが気分をもちあげる」における記述の一部(P121~P122)を次に引用します。

1 頑張ろうという気持ちが気分をもちあげる

頑張ろうと思う気持ちをもったり、仕事が忙しくなり集中したりすると、気分が高揚し躁状態になる人がいる。頑張りや集中が気分をもちあげるのである。

〔症例1〕エンジニアの中年男性
ある40代の男性エンジニアは、期限の区切られた注文が入り、「よし頑張るぞ」と気合いを入れて張り切って仕事に臨むと、気分が高揚し、仕事のスピードと質も上がるのだが、同僚や家族に対して怒りっぽくもなるのであった。仕事が終わった後に、やって来る抑うつ状態は苦しいものであるが、その時期に仕事が入っていなければ何とかしのいでいくことができるということであった。

〔症例2〕管理職の中年男性
ある50代後半の男性は、外洋船舶による貨物輸送の準備や調整をする仕事をしていた。嵐や台風などで、積荷の到着時間が遅れることがあると、大量の貨物の遅延の連絡や国内での配送の手配などで忙しくなる。その時、「これは大変」と連絡や手配を頑張り始めると、気分が高揚し、その期間が過ぎた後しばらく高揚が続き、毎晩、飲み屋に出かけ高額なお金を使うことが続くのであった。

このようなタイプの躁うつの波をもつ人は、軽躁状態がなくなると仕事ができなくなる。あるいは、軽躁状態が抑えられると不全感が強く、抑うつ状態が強くなることが多い。前述した2人の場合は、「あなたの仕事では、短期間に集中しなければならないのはしょうがない。その時、気分がいくらか高揚するのもしょうがないでしょう。だから、気分の高揚をうまく利用しながら、職場でのトラブルや浪費などをいかに少なくしていくかが課題ですね」などと助言した。なお、二人の男性には、ともに気分安定薬を処方している。
このように仕事が忙しくなり、その際の頑張りや集中が気分を持ち上げる人の場合には、頑張りや集中とその結果の軽躁状態について話し合う必要がある。頑張りや集中が質の高い仕事というプラスになって現われている場合には、仕事以外の面に軽躁状態の及ぼすマイナスや、その後に来る抑うつ状態のマイナスなどを含めて、プラス・マイナスの計算をきちんとする。マイナスの方ばかりに目を向けて治療を開始すると、プラスを失う結果を招くことがある。マイナスが抑えられないだけでなく、プラスも失うという、結果としてマイナスを増やしてしまう治療となることもある。(中略)

加藤敏が職場結合性気分障害と言うように、このような軽躁状態は私たちの社会が求めているものと言うことができるかもしれない。このようなケースの場合も、神田橋條治が言うように、うまく「波にのる」ことのほうが、躁うつの波をおだやかなものにすると、私も考えている。双極性障害を躁うつ的な「生き方」の失調と考え、発症した双極性障害を躁うつ的な「生き方」に変えていくことはできないかと考えている。

注:標記「双極Ⅱ型障害」については、例えば次の資料を参照して下さい。 「双極性障害(躁うつ病)とつきあうために

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【16】「新型うつ病」(又は新型うつ)について、その他

最初に標記「新型うつ病」(又は新型うつ)については、例えば次のWEBページや資料をそれぞれ参照して下さい。 「うつ病Q&A」の「Q4. 新型うつ病が増えていると聞きます。新型うつ病とはどのようなものでしょうか?」項、「臨床現場における「新型うつ病」について」、「“新型うつ”に関する国内文献レビュー」、『臨床社会心理学における“自己”:「新型うつ」への考察を通して』、『「新型うつ」への心理学アプローチ』、『なぜ「新型うつ」は周囲から援助されにくいのか ―援助行動生起プロセスの検討―』、「若手社員の「新型うつ」は単なるうつ病ではない! パニック障害の権威が職場の偏見と治療の誤解に警鐘」 ちなみに、自閉症スペクトラム障害(ASD)における二次障害としての「新型うつ」については、他の拙エントリのここを参照して下さい。 加えて、傅田による標記「新型うつ病」という言葉が流行していると指摘について、下山晴彦監修、中野美奈著の本、『ストレスチェック時代の職場の「新型うつ」対策 理解・予防・支援のために』の 第Ⅰ部 職場のメンタルヘルスと「新型うつ」 の 第1章 職場のメンタルヘルスの現状 の 4 「新型うつ」への注目 の「産業領域において広まってきた社会現象」における記述の一部(P10)を以下に引用します。一方、同本における「新型うつ」の概念的な定義について、同部の『第2章 「新型うつ」とはどのような現象か』における記述の一部(P16)を次に引用(『 』内)します。 『本書では、「新型うつ」 の概念的な定義を「気分反応性を有し、職場など場面限定的なうつ症状を呈すること」としています。もちろん、他の何らかの医学的疾患によるものは含みません。』 加えて、傅田及び倉成による標記「新型うつ病」の特徴について、同部の 第2章 「新型うつ」とはどのような現象か の「1 新型うつ病」における記述の一部(P17~P19)を以下に引用します。なお、以下の両引用における「傅田(二〇〇九)」は次の本です。 【傅田健三(二〇〇九)若者の「うつ」――「新型うつ病」とは何か 筑摩書房

(前略)傅田(二〇〇九)も、「新型うつ病」という言葉が流行していると指摘し、その特徴を、「若い人に多い」「仕事や勉強のときだけ調子が悪くなる」「うつで休むことにあまり抵抗がない」「自責感に乏しく他責的である」などと挙げています。明確な定義や診断基準はありませんが、これまでの一般的な従来型の「うつ病」のイメージに当てはまらない事例を総称して「新型うつ」と呼ばれるようになったと思われます。(後略)

(前略)傅田(二〇〇九)は、新型うつ病の特徴を以下の八項目にまとめています。
①若い人に多い
メランコリー型うつ病は中高年に多いが、新型うつ病は若い人に多いことが特徴。
②こだわりがあり、負けず嫌いで、自己中心的に見える
独特の趣味やこだわりの世界があり、それに固執する傾向がある。趣味の分野では際立った才能を発揮することもある。しかし、自負心が強く負けず嫌いなところがあり、周囲と衝突することもある。周囲からは自己中心的、わがままと思われがち。
③自分の好ぎな活動のときは元気になる
うつ状態で仕事を休んでいても、自分の好きな活動のときは元気になる。すなわち「状況依存性」があり、状況によって好不調の差がある。また、自分に好ましい出来事があるとうつが軽くなるという「気分反応性」も特徴。
④仕事や勉学になると調子が悪くなる
一見すると怠けているように見られたり、未熟な性格のように思われたりする。
⑤うつで休むことにあまり抵抗がなく、逆に利用する傾向がある
周囲へ迷惑がかかるのではという配慮はあまり見られず、有給休暇や病体期間も最大限に取って周囲からひんしゅくを買うことも。
疲労感や不調感を訴えることが多い
自分に都合の悪いことや辛いことに反応して気分が落ち込み、それと同時に身体が重くなって行動ができなくなる。このような状態は周囲から見ると、怠けているのではないか、わざとやっているのではないか、と思われがち。
⑦自責感に乏しく他罰的で、会社や上司・同僚のせいにしがち
メランコリー親和型うつ病の人は、自責的で、何でも自分の責任と考えてしまう傾向がある。しかし新型うつ病の人は、他罰的で、会社(学校)や上司・同僚(教師・友人)のせいにしがち。未熟、わがまま、自己中心的な面はあるものの、その主張の筋は通っていることが多い。ただ、その場の状況や自分の置かれている立場に対する客観的な視点が欠けているのが特徴。
⑧不安障害(パニック障害社会不安障害強迫性障害など)を合併することが多い
傅田(二〇〇九)によると、新型うつ病は不安障害を合併することが少なくありません。不安障害が先行し、しばらくしてうつ病が発症する場合や、ほぼ同時にうつ病と不安障害が発症する場合がほとんどです。
女性の場合は摂食障害と合併することもあります。
倉成(二〇一〇)は上記に加えて、
⑨本人が「うつ病である」ということを自覚し、自ら受診する
⑲衝動的な自殺願望がある
⑪規則や納期などに強いストレスを感じる
⑫やるべきことに対する回避傾向がある
⑬投薬治療や休養であまり効果が出ず、慢性化することが多い
⑭自分を第一優先に考え、行動する
という特徴を挙げています。さらに、メランコリー親和型うつ病(従来型のうつ病)と「新型うつ」の病前性格の比較を表2-2のようにまとめています。(後略)

注:i) 引用中の「倉成(二〇一〇)」は次の本です。 【倉成央(二〇一〇)あなたの身近な人が「新型うつ」かなと思ったとき読む本 すばる舎】 ii) 引用中の「メランコリー親和型うつ病」に関連する「メランコリー親和型」については Tellenbach の視点から次の資料を参照すると良いかもしれません。 「うつ病患者の気質・発病状況・発症・症状形成を包括的に説明する Tellenbach」の特に「2. メランコリー親和型について」項 iii) 引用中の「不安障害」(又は不安症)については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「不安症 - 脳科学辞典」 iv) 引用中の「表2-2」について、形式を変更して次に引用します。

表2-2 従来型のうつ病新型うつ病病前性格の比較

従来型のうつ病になりやすい人
・仕事熱心
・完璧主義
・真面目で几帳面な性格
・協調性があり,他人に気を遣う
・頼みごとをされたら,イヤと言えない

「新型うつ」になりやすい人
・自分は特別だと思っている(漠然とした万能感)
・人から認められたいという強い願望がある
・「その気になればできるんだ」という根拠のない自信がある
・期限に終わらせなければいけないことに強いストレスを感じる
・協調性に欠ける
・決まりごとや暗黙のルールなどに対する反発感・嫌悪感がある
・仕事熱心なほうではない
・イヤなことを避ける傾向がある
・自分ができないこと・納得がいかないことを他人や周囲のせいにする傾向がある(他責傾向)

出所:倉成(2010)

注:引用中の「従来型のうつ病新型うつ病病前性格の比較」に関連する(かもしれない)、 a) 『従来型のうつ病と「新型うつ」の相違点および共通点』については、例えば次の資料を参照して下さい。 「対人過敏・自己優先尺度の作成――「新型うつ」の心理学的特徴の測定――」の Table 1 b) メランコリー親和型及びディスチミア親和型のうつ病については、例えば次の資料を参照して下さい。 「現代社会とうつ病 連載開始にあたり

さらに、「新型うつ」又は「非定型うつ病」に関連して、本エントリ作者にとって興味深い複数の記述を以下に紹介します。すなわち、 i) 福西勇夫、福西朱美監修の本、「新型うつを知る本」(2013年発行)の 2章 従来のうつとは、ここが違う の「過去の辛い体験を抱え込む人、表に出す人」における記述の一部(P52)を、 ii) 林公一著の本、「擬態うつ病新型うつ病 実例からみる対応法」(2011年発行)の 四章 新型うつ病 の『Case 11 解説 「新型うつ病」は、うつ病でない』における記述の一部(P100~P102)を それぞれ以下に引用します。

過去の辛い体験を抱え込む人、表に出す人(中略)

従来型のうつの人は、たとえ大きなトラウマとなるような体験を抱えていても、それを表に出すようなことはなかなかありません。自分の記憶の奥底に封じ込めて抑圧し、その体験に触れることもせずにいます。
これは、このタイプが自罰的で、どんなことでも「自分のせいで起こったことだから」と考えてしまう傾向があるためです。
たとえば職場の皆の前で上司にパワハラまがいの暴言を吐かれたとしても、「自分が失敗したから、上司を怒らせてしまったのだ」と考え、いくら傷ついていても、それを表に出さずじっと耐え忍びます。
これに対して新型うつの人は、心に傷が残るような体験をするとトラウマから突然フラッシュバックを起こして苦しんだりします。いきなり涙が止まらなくなったり、息苦しくなったりなど、わかりやすい症状として、苦しさが外に表れてくるのです。男性の上司にひどくののしられしたり大声で怒鳴られたりした人は、同じような年代の男性が大きな声で話すのを聞いただけで、震えや呼吸困難になることもあります。(後略)

注:i) 次のWEBページにも「新型うつ」におけるフラッシュバックについての記述があります。 「若手社員の「新型うつ」は単なるうつ病ではない! パニック障害の権威が職場の偏見と治療の誤解に警鐘(P3)」 一方、「新型うつ」に関連する『「非定型うつ病」のサインの一つに「過去の情景がフラッシュバックする」といものがあり、こうなると、非定型うつ病は、感情障害ではなく、不安障害またはトラウマ反応の系列ではないかと疑いたくなる』ことについて、蟻塚亮二著の本、「沖縄戦と心の傷 トラウマ診療の現場から」(2014年発行)の 2章 トラウマ私論 の「心理的閉鎖空間や花火が怖い――トラウマ反応やパニック障害」における記述の一部(P102)を二分割して次に引用(それぞれ【 】内)します。 【※若者のうつ病とは、たいていが非定型うつ病である。】、【しかし非定型うつ病のサインのひとつに「過去の情景がフラッシュバックする」といものがある。こうなると、非定型うつ病は、感情障害ではなく、不安障害またはトラウマ反応の系列ではないかと疑いたくなる。】(注:引用中の「不安障害」(又は不安症)については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「不安症 - 脳科学辞典」) ii) この引用は、本エントリ作者にとって、自閉スペクトラム症圏特有の病理とされる「タイムスリップ現象」を説明しているように見えてしまいます。ちなみに、この「タイムスリップ現象」及び引用中の「フラッシュバック」については、共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。なお、タイムスリップ現象はフラッシュバックと類似した現象です(他の拙エントリのここを参照)。

Case 11 解説 「新型うつ病」は、うつ病でない

最近、「新型うつ病」という病名が急激に広まってきました。マスコミにもよく登場しています。ある記事によれば、新型うつ病は次のように紹介されています。

新型うつ病」の特徴
1.「私はうつ病です」と自分から言う。自己主張が強い。
2.自己中心的で、他罰的傾向がある。自分は周囲から理不尽な目に遭っている被害者であると主張する。
3.休日は元気である。休職ともなれば、趣味に興じたり、海外旅行に出かけたりと、自分の生活を謳歌している。
4.しかし医師を受診した時にはうつ病の症状が見られる。
5.周囲の人はその言動に困惑し、対応に苦慮することが多い。(中略)

100ページの囲みの中にあるような特徴の人々、「逃避型抑うつ」「未熟型うつ病」「ディスチミア親和型うつ病」など、専門家が研究段階の名前として提唱した病名が適合する人々が、「うつ病の一種、しかし従来のうつ病とは違う」という意味で、「新型うつ病」と呼ばれるようになった。(後略)

>注:(i) 表示形式を変更して引用しています。 (ii) 引用中の「100ページの囲みの中」とは引用中の「新型うつ病」の特徴の5項目を指します。 iii) ちなみに、 a) 一般メディアが使用する新型うつ病については、野村総一郎著の本、「新版 うつ病をなおす」(2017年発行)の 3章 現代うつ病 の「表2」における記述の一部(P55)を以下に引用します。 b) 「新型うつ」にありがちな身体症状について、福西勇夫、福西朱美監修の本、「新型うつを知る本」(2013年発行)の巻頭カラーにおける記述の一部を以下に引用します。 c) うつ病患者に占める「新型うつ」「プチうつ」などの非定型うつ病の範疇とされる人の割合について、同本の 1章 「ワガママ」と新型うつはどう違う? の「従来のうつ病基準に当てはまりにくい」における記述の一部(P10)を次に引用(『 』内)します。 『けれど最近では、日本のうつ病患者のうち、7割近くが「新型うつ」「プチうつ」など、非定型うつ病の範疇とされる人だと言われています。』 (注:引用中の「プチうつ」については、例えば次のWEBページを参照して下さい) 「プチうつ気分解消法」 なお、 1) このWEBページによると「プチ」というのは、病気が軽いからではなく、うつの時間が短いということのようです。 2) うつの時間が短いに関連する時間単位又は数日単位の気分変動については、他の拙エントリのここを参照して下さい。 3) 引用はしませんが「新型うつ」において、「生活リズムの乱れは悪化につながる」ことについての記述が、福西勇夫、福西朱美監修の本、「新型うつを知る本」(2013年発行)の P132~P133 にあります。この生活リズムの乱れに対する健康な生活については他の拙エントリのここを参照して下さい。

表2 一般メディアが使用する新型うつ病

・若年者に多く、軽症
・仕事のストレス状況が発病の引き金
・ただし、ストレスと言っても激烈なものではなく、周りから見て、その程度なら何とかこなせる通常業務じゃないかと思えることが多い
抑うつのために仕事はできないが、余暇や趣味の時間は楽しく過ごしているように見える
・自分を責めることは少なく、職場、同僚、上司のせいでこうなっていると非難したり、愚痴を言うことが多い
・病休を長く続けることにあまり抵抗がない
抗うつ薬を始め、薬物療法はほとんど効果がない
・主治医との関係は険悪ではないものの、信頼はしていない様子
・稀ならず、親が職場環境に口出ししてくる

注:i) 形式及び一部の引用の順序を変更して引用しています。 ii) 引用中の「薬物療法はほとんど効果がない」に関連するひと言アドバイスについて、野村総一郎監修の本、「うつ病のことが正しくわかる本」(2016年)の 第2章 うつ病の基本を正しく知る の「現状2 うつ病は多様化している」における記述の一部(P29)を次に引用(『 』内)します。 『「新型うつ病」と呼ばれるケースは、抗うつ薬などの薬物療法が効かないことが多いのも特徴です。体力をつけたり、乱れている生活リズムを整えたりすることに力点を置きつつ、ストレスに強くなる方法を探ることが大切です。』

(前略)ありがちな身体症状

鉛様疲労
体に鉛が入ったように重い

過眠
一日に10時間以上眠り続ける

過食
お菓子などをどか食い、自宅にある食べ物を一気に食べ尽すなど

自律神経系統の乱れ
頭痛、めまい、吐き気、動悸、呼吸困難、胃痛、下痢や便秘、微熱など(後略)

注:形式を変更して引用しています。

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【17】双極性障害統合失調症における 「生き方」と精神的な失調の関連について

標記関連について、青木省三著の本、「精神科治療の進め方」(2014発行)の 第8章 双極性障害 の『2 躁うつ的な「生き方」と考えてみる』における記述の一部(P116~P117)を次に引用します。

神田橋條治が、双極性障害の人の精神療法のコツは、「気分屋的に生きれば、気分は安定する」「小さな気分屋的生活は大きな波を予防する」と指摘しているが、双極性障害を気分屋的生活にしていくことはとても大切である。(中略)

統合失調症うつ病として失調しやすい人が、人類の歴史のある時代には適応的、時にはエースであった可能性については、すでに中井久夫によって指摘されている。統合失調症をもつ人の「生き方」(たとえば中井の「世に棲む患者」)、双極性障害をもつ人の「生き方」(たとえば上述の「気分屋的な生き方」)、自閉症スペクトラムをもつ人の「生き方」、注意欠如・多動傾向をもつ人の「生き方」など、その人に合った「生き方」を考えることは、治療や支援をする際に有益である。

また、その人なりの「生き方」が妨げられた時に失調し、疾患や障害として顕在化してくると考えたほうが適切に理解できる場合が少なくない。人と距離を置いて生きていた統合失調症の人が、近くに接近してくる人との出会いの中で混乱し、急性の興奮状態に陥ることがある。頑張る時もあれば調子の出ないときもあるという、ムラのある仕事ぶりながら、自分のペースでなら仕事できる人が、大きな組織に就職し規則的な仕事を求められたり、結婚をして配偶者に合わせた生活を求められた時に失調し、双極性障害として破綻する場合もある。慎重に一つひとつを丁寧に確かめながら生きてきた自閉症スペクトラムの人が、慌ただしく急かされて、混乱する場合や、自分なりの切り替え方法が使えなくなって抑うつ状態となる場合がある。
このように考えると、治療や支援は、その人なりの「生き方」を取り戻し、その人なりの「生き方」が一番良い形で現われるのを目指すことではないかと思う。たくさんの現実的な制約と折り合いながら、その人の良さを生かすことを目指すのである。双極性障害的な生き方、自閉症スペクトラム的な生き方などが実現されている時は、障害として失調する危険性は減ってくるのではないかと考えているのである。

注:i) 引用中の『中井の「世に棲む患者」』は、中井久夫著の本、「中井久夫コレクション 世に棲む患者」(2011年発行)のことです。ちなみに、この本についてのエントリ例を次に紹介します。 「精神科臨床のための宝石箱 『世に棲む患者 中井久夫コレクション1巻』」 ii) 引用中の「統合失調症」、「うつ病」、「双極性障害」については共に他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。 iii) 引用中の「自閉症スペクトラム」については他の拙エントリを参照して下さい。 iv) 引用中の「注意欠如・多動傾向」に関連する「ADHD」ついては他の拙エントリのここを参照して下さい。 v) 引用中の「自閉症スペクトラム的な生き方」に関連するかもしれない「知的テーマの追求」については、他の拙エントリのここを参照して下さい。

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【18】自己愛、妄想及び演技に関するパーソナリティの問題について

最初にナルシシストを含む自己愛に関連する資料、WEBページや YouTube の例を以下に紹介します。加えて、自己愛又はナルシシストに関連する記事例として下記を参照して下さい。

・「Kohutの自己愛性パーソナリティ障害論の批判的検討
・「青年期の自己愛的脆弱性に関する研究の動向と展望
・「自己愛に関する研究の概観
・「自己愛をめぐる実践研究と実証研究の交差 ――理解と支援のための仮説モデル構築について――
・「H.コフートの自己愛論 ―自己心理学への展開―
・「対人恐怖傾向の要因としての自己愛的脆弱性,自己不一致,自尊感情の関連性
・「過敏性自己愛傾向が現代青年のふれ合い恐怖心性に及ぼす影響について ―自己愛的脆弱性尺度を用いた検討
・『「過敏型」自己愛傾向と自己不全感および空虚感との関連
・『学位論文 自己愛的脆弱性の心理療法と査定に関する自己心理学的研究
・「【3574】華美で、仕事もできる人にみえていた女性」、「【3642】嘘つきで無責任な教授」、「【3656】彼氏が過呼吸を起こし、口調が幼くなり、その間の記憶をなくす」(注:HOME はここを参照して下さい)
・pdfファイル「甲子園大学紀要 No.38」中の文書「精神療法における自己愛と甘えの問題について」(P183~P192) ちなみに、この文書に関連するかもしれない、例えば、① pdfファイル「甲子園大学紀要 No.34」中の文書「臨床場面における治療的相互交流の共同構築について」(P191~P202)、② pdfファイル「甲子園大学紀要 No.35」中の文書「間主観的アプローチから見た治療的やり取りの検討」(P203~P218)、③ pdfファイル「甲子園大学紀要 No.39」中の文書『「悲劇人間」の精神分析 -ハインツ・コフート自己心理学』(P141~P156)、④ pdfファイル「甲子園大学紀要 No.40」中の文書『現代自己心理学における「共感」の探求』(P43~P58)、⑤ pdfファイル「甲子園大学紀要 No.41」中の文書「心理療法における自己体験の治療的変容について」(P59~P70) がそれぞれあります。上記文書の著者は全て安村直己です。
・報告書「青年期・成人期発達障害の対応困難ケースへの危機介入と治療・支援に関する研究報告書」(WEBページ「報告書」から pdfファイルがダウンロードできます)中の報告「精神科臨床症例において、発達障害に併存する、精神障害の病態の解明と診断方法に関する精神病理学的研究に関する研究」の C.結果 および 考察 の「2)症例調査」項には、長期経過の分かる ASD 患者における、抽出されたパーソナリティ障害併存の有る 4 例についての記述があります。
YouTube自己愛性パーソナリティ障害[臨床]自分に価値があると思いたがる傷つきやすい人たち

※:上記文書の「2.精神分析的精神療法における自己体験の治療的変容」において「フラッシュバック」(例えば他の拙エントリのリンク集を参照)にも関連するかもしれない次に引用(『 』内)する記述の一部(P62)があります。 『過去にそうした偏った見方をしていた自己を、現在の自己が愛おしく思うような自己受容や自己肯定、自己への共感といった健康な自己愛が、過去の自己体験を俯瞰している現在の自己体験のあり方に静かに充当されていることが、治療的に重要なのである。このことは、多層的な自己体験が分裂することなく、逆にそれらが確固とした自己感に統一され、まとまっていくためには、どうしても自己愛が必要となることを示しているものと思われる。』(注:引用中の「自己受容」に類似するクライエント中心療法における「自己の受容」について、引用中の「健康な自己愛」を含めて上記文書の「3.クライエント中心療法における自己体験の治療的変容」における記述の一部(P64~P65)を次に引用(【 】内)します。 【ロジャースは、クライエント中心療法において強調されてきた「自己の受容」についても、それが真の目的ではなく、最終の目標は「本当に自分自身が好きになる」ことであると明言している。また、それは誇張的で、自己主張的な自己愛ではなく、「自分自身になることの静かな喜び」であるとしている。これはまさにコフートが指摘した、より成熟した健康な自己愛を示しているものと思われる。】

ちなみに、a) 「自己愛的怒り」については、他の拙エントリのここを、パーソナリティ障害については、他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。 b) 自己愛に関連するスキーマモード(これに関連するスキーマ療法における「モードモデル」については他の拙エントリのここを参照)の一種である「自己誇大化モード」について、編者、監訳者及び訳者は他の拙エントリの※※に示す本、「スキーマ療法最前線 第三世代CBTとの統合から理論と実践の拡大まで」(2017年発行)の 第2章 スキーマ,コーピングスタイル,そしてモード の表 2.2 における記述の一部(P51)を形式を変更して次にそれぞれ引用(『 』内)します。 『自己誇大化モード:このモードにある人は,自分は他者より優れており特権が与えられていると信じている。他者の考えにはおかまいなしにに,自分だけはやりたいことができ,ほしいものを手に入れるべきだと主張する。自尊心の増大のために,自分を誇示したり他者を中傷したりする。』(注:この部分の著者はハニー・ヴァン・ジェンダレン,マーリーン・レーケボア,アーノウド・アーンツです。) c) スキーマ療法の治療的ターゲットとして、NPD(自己愛性パーソナリティ障害)が注目されていることについては、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた。」の 序文 の「BPDの次はNPD」項 加えて、精神医学的には「自己愛性パーソナリティ障害 Narcissistic Personality Disorder :NPD」と診断される可能性があるヨウスケさん(同WEBページの「つらいと言えない“オレ様”、医師のヨウスケさん」項を参照)に対する、マインドフルネスのワーク及びスキーマ療法への取り組み(同WEBページの「上から目線のややこしい人」項を参照)については、引用はしませんが、伊藤絵美著の本、「つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた。」(2017年発行)の第1章及び第2章を参照して下さい。

加えて、自己愛性パーソナリティ障害の克服について、岡田尊司著の本、『パーソナリティ障害がわかる本 「障害」を「個性」に変えるために』(2014年発行)の 第2編 パーソナリティ障害のタイプ 特徴、診断、背景、対処と克服など の治療と克服 の (2)自己愛性パーソナリティ障害 の「目先の利益より、長く大きな視野を」における記述及び「自分にとらわれを脱する」における記述の一部(P175~P177)を次に引用します。

目先の利益より、長く大きな視野を

自己愛性パーソナリティ障害と成熟した自己愛性パーソナリティ・スタイルの本質的な違いは何でしょうか。
自己変性パーソナリティ障害として行き詰まるのではなく、パーソナリティ・スタィル、個性として開花するためには何が必要なのでしょうか。両者を比べてみると、その答えがおぼろげながら見えてきます。
まず一つは、自己愛性パーソナリティ障害の人は自分しか見えていないということです。相手の立場や気持ちに配慮が及んでいないのです。自分のことを自慢し、偉く見せ、賞賛やお世辞の言葉を聞くことは心地よいことでしょう。
しかし、その心地よさだけにとらわれ、相手がどう思っているかに注意が及ばないのです。相手は興味深そうに相づちを打ち、賞賛の言葉を並べながらも、心の中では「また、自慢話か。もう聞き飽きた。何て幼稚な人なんだろう」と思っているかもしれません。
成熟した自己愛性パーソナリティ・スタイルの人は、自分の思いや都合だけでなく、相手がどう思うかを同時に考えることができます。そうすることで、自ずと行動に一定のブレーキがかかってくるのです。
また、自己変性パーソナリティ障害の人は短いスパンや狭い視野でしか、満足や利益を考えられない傾向があります。すべてのパーソナリティ障害に共通することですが、自己愛性パーソナリティ障害の人も、今この瞬間の満足・不満足というものにとらわれてしまうのです。
それに対して、成熟した自己愛性パーソナリティ・スタイルの人では、この瞬間の損得だけでなく、長期的な損得を計算することができます。今この瞬間の満足を我慢しても、あとでもっと大きな満足を得られれば、そちらを選択できるのです。
それによって周囲との余分な摩擦を避けることができますし、人望が高まり尊敬や信頼を勝ち取ることもできます。長期的に見れば、ずっと大きな利得が得られるのです。

自分へのとらわれを脱する

自己愛性パーソナリティ障害の克服は、結局、自分にとらわれない大きな視野を持てる人間になるということに行き着きます。これはまさに、多くの宗教や思想がテーマとしてきた課題でもあります。(後略)

注:引用中の「自分にとらわれない大きな視野を持てる」に関連するかもしれないマインドフルネスの視点からの「自分が望むようにではなく、あるがままに物事を見ること」については他の拙エントリのここを、仏教思想の視点からの「如実知見」については他の拙エントリのここを、それぞれ参照して下さい。

加えて、大学生おける特に誇大性に偏る自己愛の障害と自閉スペクトラム症自閉症スペクトラム障害)との関連については、上地雄一郎著の本、「メンタライジング・アプローチ入門 愛着理論を生かす心理療法」(2015年発行)の「第7章 自己愛の障への対応モデル 大学生の事例における試論」における記述の一部(P247)を次に引用します。

(前略)なお,本章で「自己愛の障害」(disorders of narcissism)という包括語を使用するのはなぜかというと,DSM-Ⅲ,DSM-Ⅳ,DSM-5 の診断基準から思い浮かぶ自己愛性パーソナリティ障害の臨床像との相違を強調したいからです。本章で念頭においているパーソナリティは,仮に誇大性が見られるとしても,それと同時に対人的に過敏で傷つきやすいという特徴を持ち,むしろ後者が優位なパーソナリティです。これは,Gabbard が「周囲を過剰に気にするナルシスト」(hypervigilant narcissist)と呼ぶタイプ,つまり,わが国では「過敏型」という通称で呼ばれるタイプの人たちを指しています。筆者が臨床場面で出会うことが多いのは,このような過敏性・脆弱性が優位な人たちです。特徴が誇大性に偏る人たちには同時に顕著なマインドブラインドネス(mindblindness)〔第2章で解説〕が見られることから,この人たちを自閉症スペクトラム障害の軽症例とみなす見解がありますが(Bleiberg, 2001),筆者もこれと似た印象も持っています。

注:i) 引用中の「周囲を過剰に気にするナルシスト」については次の資料を参照して下さい。 「Kohutの自己愛性パーソナリティ障害論の批判的検討」の「4. 自己愛性パーソナリティ障害の二類型論とKohutの見解」項 ii) 引用中の「誇大性」については次の資料を参照して下さい。 「Kohutの自己愛性パーソナリティ障害論の批判的検討」の「(2)自己愛性パーソナリティ障害についてのKernbergの見解」項 iii) 引用中の「マインドブラインドネス」については、拙エントリのここを参照して下さい。一方、引用中の〔第2章で解説〕において、この解説のための引用は省略します。 iv) 標記「自閉スペクトラム症」については拙エントリを参照して下さい。 v) 引用中の「DSM-Ⅳ」に関連して、自己愛性パーソナリティ障害の DSM-Ⅳ による診断基準については次の資料を参照して下さい。 「Kohutの自己愛性パーソナリティ障害論の批判的検討」の表1 ちなみに、DSM-Ⅲはこの DSM-Ⅳ の前バージョンであり、DSM-5 はこの DSM-Ⅳ の改訂版です。 vi) 引用中の「この人たちを自閉症スペクトラム障害の軽症例とみなす見解」(注:この人たちは引用中の「過敏型」の人たちのことです)に関連する、「自己愛性パーソナリティ障害は診断基準を満たさない程度のごく軽度の自閉スペクトラム症と合併していることが少なくない」ことについては、市橋秀夫監修の本、「パーソナリティ障害 正しい知識と治し方」(2017年発行)の 2 パーソナリティ障害の要因は何か の「背景にあるもの③ 発達障害が隠れている場合も」における記述の一部(P35)を次に引用(『 』内)します。 『自己愛性パーソナリティ障害 診断基準を満たさない程度のごく軽度の自閉スペクトラム症と合併していることが少なくない』

自己愛性パーソナリティ障害における特徴、背景、治療、周囲のサポート等について、林直樹監修の本、「ウルトラ図解 パーソナリティ障害」(2018年発行)の 第2章 タイプ別にみるパーソナリティ障害 ~特徴、背景、対処について の「自己愛性パーソナリティ障害」における記述の一部(P70~P72)を次に引用します。

自己愛性パーソナリティ障害

特徴と背景にあるものは
自分を特別な存在だという意識が強く、尊大・傲慢な態度を取り、ほかの人への思いやりや共感する態度が欠如しているのが、自己愛性パーソナリティ障害の人の特徴です。
誰もが、自分自身を大切に思う「自己愛」を持っているものです。健全な自己愛があるからこそ、困難に立ち向かうこと、ほかの人を尊重することができるのです。しかし、自己愛性パーソナリティ障害の人にとっては、自分が稀有な存在であり、ほかの人は劣った存在なのです。強い特権意識から、常に賞賛と高い評価を得られることを期待します。
また、他人の感情を気にせず、都合よく利用しようとします。友人や恋人も、損得勘定や自尊心を満足させられるかどうかで選ぶところがあります。
しかしその背景にあるのは、強いコンプレックス(劣等感)です。心の中にある劣等感を打ち消すために、あるべき万能の自己像を作り、それを守るためにほかの人からの賞賛が必要となるのです。そのため、思ったような成果が上げられず、人に負けたり、批判を受けたり、無視されたりすると、激しい怒りを感じます(自己愛的怒り)。周囲に暴言を吐いたり、物を壊したり、暴力をふるったりすることもあります。
逆に、自己愛性パーソナリティ障害で、見かけ上非常に謙虚、消極的な人もいます。「あるべき自己像」と現実の自分とのギャップから、他人の評価を過剰に気にするためです。自分が予想する評価が得られないと「傷つけられた」と感じることもあります。それらの症状が強くなると、抑うつ症状、引きこもりや自傷行為、薬物依存*などの問題につながります。(中略)

●有病率は 1.0~6.2 % 男性に多い *有病率の数字は、「最近の疫学研究における DSM-IV パーソナリティ障害の頻度」(Trull et al, 2010)より(中略)

診断と治療方針、そして周囲のサポート
自己愛性パーソナリティ障害の治療では、ずっととらわれてきた万能な自己像から離れ、等身大の自己像を受け入れられるようになることを目指します。
自己愛性パーソナリティ障害の人の持っている強い劣等感は、あるべき自己像と、あるがままの自己像のギャップを無意識のうちに感じ、受け入れられないことから生まれます。それを改善するためには、自己愛性パーソナリティ障害の人が心の底に持っているコンプレックスを解きほぐすことが役立ちます。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、成長過程で否定されたり、蔑まれた経験があり、コンプレックスを抱えています。そのため、傷つくことに非常に敏感で、それを防御するために万能な自己像を必要としているところがあります。誰もが、自分自身を評価し大切に思う気持ちを持っているものですが、自分に自信があるからこそ、困難に立ち向かうことや、ほかの人を尊重することができるのです。
周囲の人は、傷つくことに敏感な自己愛性パーソナリティ障害の人の特徴を理解し、非難や批判をせず、共感の態度をもって見守ります。ただし、その人の要求やわがままを受け入れるということではありません。本人のするべきことを指摘したり、本人のものと異なる見解を示すことはします。一定の距離を保ち、冷静に対応することが重要です。自己愛性パーソナリティ障害の人は、親しい人には激しい感情をぶつけがちです。
なお、自己愛性パーソナリティ障害は、中高年期になると落ちついてきて、人のために尽くせるようになるケースもあります。「晩熟現象」といいますが、この加齢による性格の変化が、自己愛性パーソナリティ障害の人の回復に大きな役割を果たすことがあります。(後略)

注:引用中の「薬物依存*」の脚注(P70)における内容は次に引用(『 』内)します。 『薬物依存 特定の薬物の摂取への要求を抑えられなくなり、くり返しその薬物を使用する状態。やめようと思ってもやめられず、日常生活に支障をきたす。』

加えて、自己愛性パーソナリティ障害では、自己が二つに分裂していることについて、市橋秀夫監修の本、「パーソナリティ障害 正しい知識と治し方」(2017年発行)の 4 自己愛性パーソナリティ障害 の「特徴① 強い自尊心の陰に弱い自分が隠れている」における記述の一部(P68)を以下に引用します。加えて、自己愛性パーソナリティ障害の人には「等身大の自分」がないことについて、市橋秀夫監修の本、「心のお医者さんに聞いてみよう 自己愛性パーソナリティ障害 正しい理解と治療法」(2018年発行)の Part2 障害のしくみ 「いつも自分以上でなければならない」強迫観念が引き起こす の『病理の構造① 「思い描く自分」と「とりえのない自分」』における記述の一部(P24)を以下に引用します。さらに、『「等身大の自分」という着陸装置がないために、軌道修正ができず、墜落してしまう』ことについて、同 Part の「病理の構造② 強迫観念が行動の引き金。挫折に弱く、立ち直れない」における記述の一部(P26)を以下に引用します。

特徴① 強い自尊心の陰に弱い自分が隠れている(中略)

自己が二つに分裂している

自己愛性パーソナリティ障害では、自己が「思い描いている自分」と「とりえのない自分」の二つに分裂しています。思い描いているのですから、これは偽の自分。とりえのない自分は、思い描いている自分と対象関係ですから、やはり偽の自分です。一方で、等身大の自分は育っていません。
そのため、うまくいっているときは万能感にあふれますが、少しの失敗に過剰に反応して極端に落ち込むという問題が出てきます。(後略)

病理の構造① 「思い描く自分」と「とりえのない自分」

病理的な自分しかいない

健全な人の心のなかには、誰の目を気にすることもなくいられるありのままの「等身大の自分」が存在します。ところが、自己愛性パーソナリティ障害の人にはそれがありません。「思い描く自分」と「とりえのない自分」という、ふたつの病理的な自分しか存在しないのです。(後略)

病理の構造② 強迫観念が行動の引き金。挫折に弱く、立ち直れない

着陸装置のないジェット機のような自分

自己愛性パーソナリティ障害の人は着陸装置のないジェット機。つねに自分以上でなければならないという強迫観念に駆られ、行動します。人から認められているうちは、高みに向けて突き進みます。ひとたび失敗し、挫折すると、機体は急降下。「等身大の自分」という着陸装置がないために、軌道修正できず、墜落してしまうのです。(後略)

自己愛性パーソナリティ障害について、市橋秀夫監修の本、「心のお医者さんに聞いてみよう 自己愛性パーソナリティ障害 正しい理解と治療法」(2018年発行)から様々な記述を以下に引用します。これら以外にも同本からの引用があり、ここを参照して下さい。

(a) 自己愛性パーソナリティ障害の特性について、同本の Part1 自尊心の病 傷つきやすく、本当の自分を好きになれない の「障害の特性 一見、うぬぼれが強いと思われるが、本人は自分を好きになれない」項における記述の一部(P10)を次に引用します。

周囲の印象とは異なる特性をもつ
自己愛性パーソナリティ障害の人は、感情コントロールが苦手で、すぐに激しい怒りを見せます。高圧的なふるまいをすることが多いため、うぬぼれが強く、自分が大好きな人だと思われがちです。じつは、肥大した自尊心にふりまわされ、自分を好きになれない人で、以下のような特性を持っています。(後略)

注:引用中の「特性」について、同項における記述の一部(P10~P11)を次に形式を変更して引用します。

□他人を信用することができない。
□自分のことが好きになれない。
□人間関係はつねに勝ち負けの関係になってしまう。
□自分が自分以上でないといけないという強迫観念をもっている。
□他人の成功に対して、嫉妬と羨望の感情がおさまらない。
□自分が特別な存在であることをさりげなく、あるいはあからさまに示したがる。
□うまくいっているときにはがんばれるが、思い通りにいかなくなると努力を続けられなくなる。
□挫折に弱く、立ち直ることが困難。
□批判されたり叱責されたりすることが極度に苦手。
□自分がどう見られているかばかり気にしてしまう。。
□自分が賞賛されているイメージに沈溺する。(中略)

最終的に、人間関係がうまくいかなくなる
成長し、社会に出るようになると、障害の特性が他人とのあいだにあつれきを生む。最終的に、人が離れていき、孤立するなどのトラブルに陥りやすい。(後略)

注:引用中の「強迫観念」に関連する強迫性障害における「強迫観念」については例えば他の拙エントリのここを参照して下さい。

(b) 自己愛性パーソナリティ障害における「障害特有の考え方」について、同 Part の「障害特有の考え方 傷ついた自尊心が痛まないように行動するのが最優先事項になる」項における記述の一部(P12~P13)を次に引用します。

挫折を回避することを最優先する
自尊心が傷つきやすく、挫折しやすいという特徴があります。心の奥底に、誰かに否定されるのでは? 失敗するのでは? というおびえがあり、「幸せに生きよう」などとは思えません。それよりも、自尊心が傷つくのを最小限に抑えることが、生きるうえでのコンセプトになり、最優先事項になります。(中略)

傷つきやすく生きづらさを抱えている
高圧的で横柄に見えるが、自尊心が高いぶん、繊細で傷つきやすく、生きづらさを抱えている。ガラスのような心を守る防衛反応として、この障害特有の思いや考えを持つようになる。

加えて、自己愛性パーソナリティ障害における「挫折のときの徴候」について、同 Part の『挫折のときの徴候 自尊心が損なわれると「怒り」「落ち込み」「現実からの撤退」が起こる』項における記述の一部(P14)を次に引用します。

思い通りにならないときの3つの徴候
人はおとなになるにつれて、世のなかには自分よりすごい人がいることや、自分の思い通りにならない場合もあることを学んでいきます。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、自尊心が損なわれるようなことがあると、大きな挫折感を味わい、乗り越えられません。自己愛が壊れるとき、「自己愛の三徴」という3つの兆候が現れます。(後略)

注:引用中の「自己愛の三徴」について、次に形式を変更して引用します。

徴候1 怒り
相手が思い通りに動かないと、自尊心が傷つけられ、感情を爆発させる。相手を無能と決めつけて罵倒したり、パワハラまがいの言動で、激しく攻撃したりすることもある。(中略)

徴候2 落ち込み
ものごとがうまくいかなかったり、人間関係で孤立したりすると、挫折から立ち直れずに落ち込み、抑うつ状態になる。投げやりになり、食欲不振や不眠になることも。(中略)

徴候3 現実からの撤退
自尊心を守るため、現実から撤退し引きこもる。失敗するなら、やらないほうがマシだと考える。人に傷つけられないために、相手をさげすんだり、無関心を装ったりして、逃避する。(中略)

(c) 自己愛性パーソナリティ障害は「自尊心の病」であることについて、同 Part の「障害の原因 正常な自己愛を獲得しそこねた。自分では障害の存在に気づけない」項における記述の一部(P16)を次に引用します。

自己愛性パーソナリティ障害は、自尊心の病です。自尊心が肥大しすぎて、傷つきやすいのが特徴です。傷つくのを回避しようとして周囲に高圧的にふるまったり、完璧さを求めたりします。障害が重い場合には、拒食症(摂食障害)や強迫性障害、DVなどを引き起こします。病気の根本に障害があることには、自分では気づくことができません。(中略)

注:i) 引用中の「拒食症(摂食障害)」については他の拙エントリのリンク集(用語:「摂食障害」)を参照して下さい。 ii) 引用中の「強迫性障害」については他の拙エントリのリンク集[用語:「強迫性障害強迫症)」]を参照して下さい。 iii) 引用中の「DV」は「ドメスティック・バイオレンス」のことであり、次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「ドメスティック・バイオレンス(DV)とは - 配偶者からの暴力被害者支援情報

加えて、同では、自己愛性パーソナリティ障害における次に示すトラブル(問題)が5つリストアップされています(P17、市橋クリニック調べ)。 ①非定型うつ ②強迫性障害 ③対人関係困難 ④引きこもり・不登校 ⑤DV ちなみに、同 Part において、 i) 上記「非定型うつ」についての説明が同頁と P8 にあり、次に引用(それぞれ【 】内)します。 【もっともよく起こるのが非定型うつ 自己愛性パーソナリティ障害では、障害そのもので受診するケースはなく、別のトラブルで病院を訪れる。もっとも多いのが非定型うつ。ちょっとした失敗でも抑うつ状態に陥りやすい。】、【非定型うつ ふつうのうつのように一切の活動ができなくなるのではなく、楽しいことなどがあると活動することができる。】 加えて、上記「非定型うつ」に関連するかもしれない、「新型うつ」としての「対人過敏・自己優先抑うつ」については、次の資料を参照して下さい。 「臨床社会心理学における“自己”:「新型うつ」への考察を通して」(特に『4. 「新型うつ」への臨床社会心理学的アプローチ』項以降[P410~])、「Features of Interpersonal Cognition in People with High Interpersonal Sensitivity and Privileged Self: Personality Features of "Modern-Type" Depression」(英文、拙訳はありません。ちなみに、上記「"Modern-Type" Depression」は「新型うつ」の英訳のようです。) ii) 上記「強迫性障害」についての説明が P9 にあり、次に引用(【 】内)します。 【強迫性障害 この障害がある人の特性のひとつが完璧主義。不潔恐怖や醜形恐怖といった強迫性障害を起こしやすい。一般的な強迫性障害の場合、本人は過度なくり返し行動をバカバカしいと自覚しているが、この障害の人は完璧主義ゆえに、こうした思考に陥る。】(注:引用中の「不潔恐怖」については他の拙エントリのここを参照して下さい) iii) 引用はしませんが、上記「DV」(ドメスティック・バイオレンス)についての説明が P9 にあります。 iv) 上記リストアップ外ですが、「クレーマー」についての説明が同 P9 にあり、これを次に引用(【 】内)します。 【特定の企業や団体に抗議し続け、自分の優位性を確認する。】 v) 上記トラブルに関連する、「自己愛性パーソナリティ障害の人が医療機関を訪ねるきっかけは、ほとんどが非定型うつや不眠、強迫性障害や引きこもりといった、別の心の病の発症」であることについてはここを、そして思い通りの結果が得られないと、すぐに絶望して一切の努力を止めてしまい、それが引きこもりや突発的な怒り、強迫性障害などで現れることについてはここを それぞれ参照して下さい。

さらに、自己愛性パーソナリティ障害において、「期待に応えられなかったら生きる価値がないと思う」ことについて、同項における記述の一部(P17)を次に引用します。

(前略)期待に応えられなかったら生きる価値がないと思う

本来、正常な自己愛というものは、幼少期に親(とくに母親)と愛し愛される体験を通じて、心に内在化され育っていくものです。正常な自己愛があって、はじめて自分というものができ、自分への信頼や自尊心も生まれます。それらは人が、生きるうえで欠かせない感覚です。
ところが、自己愛性パーソナリティ障害の人には、これらの感覚が欠如しています。無条件に愛された記憶がなく、いつも母親(おとなになってからは他人も含む)の期待に応えようとして生きてきました。それに応えられなかったら生きる価値がないとすら、思ってしまうのです。
そのため、つねに「スペシャルな存在として他人に認められなければ」「他人に必要とされる自分でいなければ」という強迫観念をもちます。生きるには条件が必要だと感じ、漫然と生きることに罪悪感を覚えます。
心の奥底には、できなかったらどうしようという不安が渦巻き、自己防衛から、自尊心を肥大させてしまうのです。人を信用できず、自分も好きになれない、つねに他人の目が気になる、挫折に弱いなどの特性は、幼少期に正常な自己愛を獲得できなかったことが関係しているのです。(後略)

一方、自己愛性パーソナリティ障害が見過ごされることが多いことについて、同 Part の「障害の現状 別の問題で受診するが、見過ごされることが多い」項における記述の一部(P20~P21)を次に引用します。

自己愛性パーソナリティ障害の人が医療機関を訪ねるきっかけは、ほとんどが非定型うつや不眠、強迫性障害や引きこもりといった、別の心の病の発症です。医師は、患者さんの話を聞きながら、症状の背後にどんな病理が隠れているのかを探り、立体的に診断を下します。

尊大な態度をとりがちで、本質の問題が隠されてしまう

ところが、自己愛性パーソナリティ障害の場合、治療を行うことのできる医師はかぎられています。そのうえ、この障害は自尊心にかかわる病なので、本人は他人に決して弱みを見せようとしません。医師を前にしても強気で尊大な態度をとり、自分の病的な部分を隠そうとするのです。このため、よほどこの障害についての造詣が深くないと、精神科の医師でも障害を見抜くことは難しいでしょう。また精神科には、DSMという、国際的に用いられるアメリカ精神医学会の精神障害の診断マニュアルがあります。ただ、自己愛性パーソナリティ障害には、実情に即さない点もあり、DSMだけで診断できないところがあります。
こうしたことから、ほとんどのケースで、非定型うつ病や不眠といった表面的な症状に対して、薬物療法が行われます。薬は症状を緩和する効果はありますが、根本にある障害に気づかないかぎり、問題が解決することはありません。同じ症状がくり返され、問題が長期化していきます。(後略)

また、自己愛性パーソナリティ障害の人は、ものの捉え方や考え方に強い偏りがあることについて、同の Part2 障害のしくみ 「いつも自分以上でなければならない」強迫観念が引き起こす の「思考パターン 目に見える価値しか信じない。結果が得られないと意味がない」における記述の一部(P32)を以下に引用します。

自己愛性パーソナリティ障害の人は、ものの捉え方や考え方に強い偏りがあります。なかでも特徴的なのが、価値観です。

他人が見てわかる価値以外は意味がないと感じる

一般に価値観とは、人が人生で大切と感じるもの。それがよいと信じ、自分もそれに近づこうと努力することで、生きる原動力にもなります。
価値には大きく分けて「内的価値」と「外的価値」があります。
内的価値とは、自分で評価し、自分にしか見えない価値。勤勉さや誠実さ、やさしさなど、客観的評価が難しく、人と共有できない信念や美学に近いものです。一方外的価値とは、学歴や収入、外見など、他人が評価する価値。人から「すごい」と言われることが価値基準になります。
誰でも、自分はこうありたいという内的価値をもちながら、人からどう思われるがという外的価値も無視できず、多くはふたつの価値観のバランスをとりながら人生を送っています。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、内的価値が存在せず、外的価値しか信じることができません。このため自分の価値を自分で評価できず、他人が評価してくれないと、自信をもつことができないのです。

いつもオール・オア・ナッシングの考え方になる

ところが、他人の評価は、つねに結果に左右されます。どんなに勉強しても、いい大学に受からなければ、周囲の賞賛は得られません。目標に向かって重ねた努力や、試行錯誤したプロセスの楽しみも、結果がわるければ、価値は無になってしまいます。外的価値の基準は結果主義で、「できたか、できないか」ということだけが重要になります。
外的価値しが存在しない自己愛性パーソナリティ障害の人は、結果だけを気にする「オール・オア・ナッシング」の考え方に陥りがちです。
よい結果が得られているあいだはいいのですが、思い通りの結果が得られないと、すぐに絶望し、一切の努力を止めてしまいます。それが引きこもりや突発的な怒り、強迫性障害などで現れます。また、ポジティブな結果が得られない場合、ネガティブでもいいから人が驚くような行為で万能感を維持しようとし、反社会的行為に走る場合もあります。(後略)

注:i) 引用中の「強迫性障害」については他の拙エントリのリンク集[用語:「強迫性障害強迫症)」]を参照して下さい。 ii) 引用中の「思い通りの結果が得られない」と関連する『「思うようにはいかない」という不安が強迫観念を生む』ことについて、同 Part の「空想の自分 思い描いている自分にはなれないことがわかっている」における記述の一部(P39)を次に引用します。

(前略)「思うようにはいかない」という不安が強迫観念を生む

この障害の人は、理想の自分を思い描いているあいだは、それにふさわしい尊大な態度をとり続けます。けれども、心の奥底ではそれが虚構だとわかっていて、実現不可能だと気づいているため、不安があります。
つねに自分以上でなければならないという思いは、強迫観念となって心をおびやかし、他人に対する過剰な要求や極端な言動を生み出します。「もっとやらなければならない」という思いにつきまとわれ、いつもなにかに駆り立てられていて、気が休まることはありません。
そして、思ったような結果が得られず、理想の自分になれない現実をつきつけられると、大きな挫折感に打ちのめされ、最終的に、うつや拒食症などの心の病を発症させてしまうのです。(後略)

なお、自己愛性パーソナリティ障害の背景にあるのは、結果至上主義の競争社会であることについて、同の P44 の『「自分探し」「価値ある自分」 時代が生んだ病でもある』項における記述の一部を次に引用します。

(前略)障害の背景にあるのは、結果至上主義の競争社会

現在、企業は成果主義を掲げ、家庭では学歴という究極の結果主義が教育の柱となっています。
極端な結果主義の行きつく先には、結果が得られずに傷つく人たちの苦しむ姿があります。
一時流行した「自分探しの旅」などは、いまいる自分は仮の姿で、理想の自分が未来のどこかにいるはずだ、と考える結果主義の姿が見えてきます。そのため、いまの自分に身が入らなくなるのです。
今後、社会の結果主義がさらに色濃くなれば、この障害に悩む人は増える一方でしょう。私たちはいま一度、内的価値について考え、結果だけでなくプロセスに意義や喜びを見出す価値観に、立ち戻る必要があるのかもしれません。

注:引用中の「学歴という究極の結果主義」に関連する「メリトクラシー(業績主義)」については他の拙エントリのここを参照して下さい。

一方、「等身大の自分」をつくる8つのレッスンについて、同の Part3 気づきのレッスン 価値観を見直し、「等身大の自分」をつくり、生きづらさをとり除く の「自分への気づき 価値観をかえられれば、生きづらさも消えていく」項における記述の一部(P46~P47)を以下に引用します。

「等身大の自分」が自分を守る(中略)

「等身大の自分」をつくらないかぎり、人生のイベントや対人関係で挫折すればたちまち「とりえのない自分」が現れ、落ち込むことになります。(中略)

8つのレッスンでものの見方をかえていく(中略)

「等身大の自分」をつくるには、まず自分がとらわれている偏った価値観に気づくことが大切です。Part3 では、8つの気づきのレッスンを通して、これまでの自分の考え方を改めて見直していきます。大事なのは答えの中身ではなく、考えるプロセス。正直に自分をふり返り、いまの価値観を少しだけ調整すれば、「等身大の自分」が現れてきます。(後略)

注:引用中の「8つの気づきのレッスン」については引用しませんが、それぞれのレッスンでの疑問形の手がかり(左側)と解説(右側)における見出しを以下に記述します。ちなみに、前者の手がかりは同本の表紙裏面に記述されています。ただし[ ]内は本エントリ作者による追記です。

レッスン1:「ありのままの自分」をイメージできますか? ふたつの偽の自分を自覚し、「等身大の自分」の不在に気づく
レッスン2:「完璧な自分」が傷つくことへの恐怖がありませんか? 完璧さを求める自分を認め、できない自分を受け入れていく[※1
レッスン3:「特別であること」だけに、価値を求めていませんか? スペシャルではなく、ユニークを目指す
レッスン4:「自分がどう思われるか」ばかりを気にしていませんか? 他人ではなく自分で、自分の価値を決めていく
レッスン5:「自分のことを大切にしてこなかった」のではないですか? 自分にもっとやさしく接し、自分のことを信じてみる
レッスン6:「ステージを上げること」への強いあこがれを抱いていませんか? 上昇ではなく、前進する生き方にかえる[※2
レッスン7:「家族は同じ物語をもっている」と思っていませんか? 家族それぞれの立場や事情をイメージし、違いがあることを認める
レッスン8:「誰かの役に立たなければ、生きる価値がない」と思っていませんか? 自分が存在することに特別な理由などいらないことを知る

※1:標記「完璧さを求める」ことについて、同本の「Lesson② 解説 完璧さを求める自分を認め、できない自分を受け入れていく」における記述の一部(P54)を次に引用(【 】内)します。 【ふだん現れている「思い描く自分」は、自分自身に「完璧であること」を求めていませんか? 理想の自分は、ミスをしない、パーフェクトな自分。この自分像が、わずかな失敗も許さないという息苦しさや、失敗し、転落することへの恐怖を与えています。】

※2:一方、標記「ステージを上げること」や「上昇」とは異なる「プロセス主義」について、同本の「Lesson⑥ 解説 上昇ではなく、前進する生き方にかえる」における記述の一部(P71)を2つ次に引用(それぞれ【 】内)します。 【英国のバイオリン職人の話です。「人生最高の楽器ができたら、あなたは売りますか。手元に置きますか」という質問に、彼はこう答えます。「大切なのは、制作の過程。つくったモノの評価に関心はありません」。もちろん、いい楽器ができればうれしいのでしょうが、彼はそれよりも、楽器をつくる工程自体を楽しんでいたのです。このプロセス主義こそが、人生に本来の豊かさを与えてくれるのです。】、【山登りは、登っているあいだのプロセスが楽しいのです。鳥のさえずりを聞いたり、傍らに咲く花を楽しんだり。一歩一歩がすべて、豊かな人生へとかわっていきます。たとえ頂上までたどり着けなかったとしても、山に登ること自体が人生を彩り、心を満たしてくれます。】 なお、コツコツやる上記「プロセス」には価値を見出すことができない場合のデメリットについて、同本の Part2 障害のしくみ 「いつも自分以上でなければならない」強迫観念が引き起こす の「行動パターン プロセスに価値はない。コツコツ続ける意味がない」における記述の一部(P34~P35)を次に引用します。

(前略)また、自分でものごとを評価する内的価値が存在せず、他人に評価されることしか意味がないと感じ、コツコツやるプロセスには価値を見出すことができません。能力や要領で、ラクに成果が出ているあいだは、自信に満ち、高い自尊心も守られます。自分は特別な人間で、コツコツ努力するのは凡人のやることだと思い込んでいます。しかし、結果が出そうにないと、ますます努力することができなくなります。最終的に、残る選択肢はどんどん失われていくという生き方に陥ってしまいます。(中略)

一方で、努力をしている友人などを見ると、「もしかしたら、自分が努力しても、彼らにかなわないかもしれない」という不安が心をよぎります。いままで見下していた友人から見下される自分の姿を思い描き、高い自尊心が傷つくことを極度に恐れます。このようなときに自己愛性パーソナリティ障害の人がとりがちな行動は、努力ではなく「不戦勝」。地道な努力をして負けるよりも、あえて努力せず、戦わないことを選びます。周囲から見ると引きこもりでも、本人の心のなかでは「栄光ある撤退」。万能感を守るための選択なのです。「不戦勝」でなくて「不戦敗」だということには、治療が進まなければ気づくことができません。(後略)

なお、自己愛性パーソナリティ障害に対する治療の方針としての「本人の内にある病理をとり出し、自分自身で扱えるようにする」ことについて、同の Part4 治療と周囲の対応 医療機関だから、周囲の人だから、手助けできることがある の「治療の方針 本人の内にある病理をとり出し、自分自身で扱えるようにする」項における記述の一部(P88~P89)を次に引用します。

治療では、人格の障害を治すというより、本人のもつ「自己愛の構造」を本人の手で修正していく必要があります。そのために治療者は、本人が自分の病理に気づき、自分の手で扱えるように手助けをします。

治療は、病気のしくみを知ることから始める

本人を苦しめている病理は、自分の思考パターンです。けれども、現実の世界をコントロールしているのが自分の内面であることに、本人は気づかず、もがき続けています。
この思考パターンをかえるには、本人に共感しひたすら話を傾聴するタイプの一般的なカウンセリングは役に立ちません。たとえ一時的に気分がよくなっても、すぐにつらさや苦しさを感じるようになります。
必要なのは、自分で自分の精神病理の構造に気づくこと。病理をはっきり自覚することができれば、自ら治したいと考え、自分の手で病理を扱えるようになります。医師のカウンセリングは、あくまでそのサポートです。

つねに「いま、ここ」について考える

自己愛性パーソナリティ障害の場合、病気のしくみの原型は幼児期につくられます。幼児期と同じような構造をもつできごとに触れると、くり返し自動的にしくみが再現し、強化されていきます。それによって、ゆがめられた現実に支配されていくのです。
大事なのは 「いま、ここ」に焦点を当て、眼の前の現実に直面し、適切な選択をしていくこと。いまさらどうすることもできない過去について考えることは、マイナスにこそなれ、プラスにはなりません。
例えば母親が、一瞬子どもの手を放したすきに、子どもが交通事故に遭いケガをしたとしましょう。どんなに悔やみ、または、手を握っていれば……と考えたところで、事故の前に戻ることはできません。
いますべきことは、ケガを治し、リハビリをすること。そして今後は気をつけようと心に刻むことです。
治療においても同様です。過去を引きずらず、つねに「いま、ここ」を見ることが、気持ちを前向きにし、治療の効果を上げます。(後略)

ただし、「発達障害がある場合には、治療の方針をかえることもある」ことについて、同における記述の一部(P89)を次に引用します。

(前略)発達障害がある場合は、方針をかえることもある

自己愛性パーソナリティ障害は、よく発達障害と合併します。とくにアスベルガー症候群や自閉症があると、想像力や共感性に欠けることが多いため、カウンセリングのなかで本人に気づきを求める方法での治療は困難です。結論を先に示し、より具体的な説明が必要です。

注:引用中の「発達障害」については他の拙エントリを参照して下さい。

一方、バランスの悪い自己愛と騙されやすさとの関連について、岡田尊司著の本、「マインド・コントロール 増補改訂版」(2016年発行)の 第三章 なぜ、あなたは騙されやすいのか の「③バランスの悪い自己愛」における記述(P85~P88)を次に引用します。

③バランスの悪い自己愛
パーソナリティの特性として、近年重要性を増しているのか、自己愛の問題である。不安定で歪に肥大した自己愛は、マインド・コントロールする側の問題として指摘したが、実は、マインド・コントロールされる側の問題としても関与が深まっている。かつて、強力な存在感を放つ他者に従属することで安心感を抱く人が多数を占めた時代には、他者本位で人に影響されやすい依存性パーソナリティの人が、マインド・コントロールの餌食となりやすい典型的なタイプであった。ところが、一見するとまったく逆に、非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケースが増えている。
そうしたケースで認められるのは、自己愛のバランスが悪いということである。彼らは、一方では、心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に、他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な理想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。現実生活の中で、ある程度の成功をおさめ、輝いていられるうちは、そうしたバランスの悪さもあまり顕在化しないが、現実の暮らしかうまくいかなくなるにつれ、両者のギャップが急速に目立ち始める。
儒教的社会や伝統的なイスラム社会もそうであったが、忍耐と従属を重視する旧来の社会においては、自己というものは、それほど大きな存在感をもたなかった。日本を含めた東洋の封建的社会や伝統的なカトリック社会と同様、イスラム社会でも、定められた運命という考え方が大きな支配力をもつ。個人は、神や天が定めた運命に従うべきものであった。
ところが、プロテスタンティズムと結びついた個人主義では、個人の意思や主体性に重きを置く。運命さえも、その人の意思と努力によって左右できるものという考え方が生まれたのだ。こうした個人主義が、伝統的社会にも波及するにつれて、いわゆる「社会の近代化」と呼ばれる状況がもたらされた。それは、社会の成員が、自分の意思をもった個人として覚醒することでもあった。かくして、自己に重きを置く価値観が、伝統的社会をも浸食し始めたのである。
二つの価値観のギャップを、もっとも強烈な形で味わうことになったのは、両方の社会の狭間に身を置いた者たちだ。田舎から大都会に出てきた若者も、移民のイスラム教徒も、伝統的な価値観を背負いながら、同時に、個人主義的な価値観と接触することで、痛みを伴った自己の目覚めを味わうこととなった。
もはや彼らは、伝統的な価値観に、ただ忍従するだけでは、心のバランスをとれなくなったのである。もっと自己の価値を追求し、華々しく活躍し、輝くことを願望せずにはいられなくなった。そんな彼らに、自分たちを取り巻く現実はさらに冷たく不当に感じられ、自分がないがしろにされている状況を、これまで以上に強く意識するようになる。彼らは、そうした現実を真っ向から否定する、もっと偉大な目的に身を捧げることで、自己の存在価値を取り戻そうとする。
そこで掲げられるスローガンは、近代的な欧米型社会の否定としての理想郷の建設であったり、伝統的な社会の復活であったりする。つまり、西欧的な個人主義社会へのアンチテーゼが基調にあるのだが、皮肉にも、彼らを根底で衝き動かしているものは、敬虔な信仰や伝統的価値観に従うことではなく、むしろ自己に目覚めたがゆえに、平凡で、控えめな生き方では満たされない、肥大化した自己愛の願望なのである。
精神医学者のハインツ・コフートが指摘した通り、自己愛には二つの様相がある。一つは、自らが神のような偉大な存在でありたいという願望であり、幼く未熟な自己顕示性や万能感を特徴とし、誇大自己と呼ばれる。グルやカリスマと呼ばれる人たちは、この誇大自己が現人神のごとく顕現したものだと言えるだろう。
だが、自己愛にはもう一つの様相があり、コフートは、「理想化された親のイマーゴ」と呼んだ。つまり、自らが神のような存在となることはできないが、神のような偉大な存在を崇拝し、その存在に自らの偉大な存在でありたいという願望を投影することで、間接的に満たされる自己愛の形である。歪な自己愛を抱え、自分を評価してくれない不当な現実に、憤りや不満を感じている存在にとって、理想化された存在に対する絶対的な崇拝は、生きる意味を与え、救いとなるのである。一見強制されたわけでもなく、自ら進んでカリスマ指導者や組織に身をささげようとする場合、こうした自己愛の病理が絡んでいることが多い。
優れた知力や批判能力を備えていても、自己愛にバランスの悪さを抱えていると、知らずしらず理想化された存在を求めようとし、いかがわしいリーダーさえも、理想の存在に祭り上げてしまう。自らマインド・コントロールを求めているようなものであり、こうした存在を取り込み、操ることは容易だと言えるだろう。知的能力や弁舌に自信がある人ほど、論理的に説得されてしまうと、もはや抗えないということも起きる。現実の生活に不満を抱え、同時に、偉大な目的を求めているという心理構造を抱えている限り、自分にも聖なる使命が与えられるという誘いは、強力な殺し文句となる。
こうした歪で未熟な自己愛を抱えている人の特徴は、どこか子どものような幼さである。それは、純粋さや理想主義的な形でも現れるし、極端さや過激さともなって表れる。テロリストやカルトの信者たちに、観察された特徴は、彼らがバランスの悪い自己愛を抱えていることを、まさに示していると言えるだろう。

ナルシシストに典型的なスキーマのリストについて、スキーマ理論におけるコーピングスキル反応を含めて、ウェンディ・ビヘイリー著、伊藤絵美、吉村由未監訳の本、「病的な自己愛者を身近にもつ人のために あなたを困らせるナルシシストとのつき合い方」(2018年発行)の 第2章 パーソナリティ構造を理解する の「ナルシシストによって活性化される典型的なスキーマ」における記述の一部、「ナルシシストに関連する典型的なスキーマ」における記述、「ナルシシストのもつスキーマの起源」における記述及び「スキーマ理論におけるコーピング反応について」における記述の一部(P62~P66)をまとめて次に引用します。

(前略)それでは次に、ナルシシストに典型的なスキーマのリストを提示します。読者の皆さんはリストを読みながら、ナルシシストがいかに自らのスキーマと闘ったり過剰補償したりしているか、ということについて考えてみましょう。ナルシシストは、自らのスキーマが喚起する感情に屈するのではなく、その感情を感じること自体を避けようとします。

ナルシシストに関連する典型的なスキーマ
●情緒的剥奪スキーマ:このスキーマをもつナルシシストは、誰かが自分の欲求を満たしてくれたり、自分のことを愛してくれたりすることはないだろうと信じています。ゆえに彼は、誰も必要としません。彼は自分自身が完璧であること、自分自身が成功すること、そして自分が誰にも邪魔されないことを求めてひたすら努力を続けます。
●不信/虐待スキーマ:このスキーマをもつナルシシストは、他人が自分に対してよくしてくれるのは、自分から何かを得ようとしているからに違いないと信じています。彼は他者と親密になることを避けています。そして他者の動機について常に疑いの目を向けています。
●欠陥/恥スキーマ:このスキーマをもつナルシシストは、心の中の中核的かつ無意識的な部分において、「自分は愛されない存在だ」と感じ、そのような自分を恥じています。しかし彼はその思いを自らが感じることがないように、自己鎮静的な嗜癖行動(ワーカホリックを含む)に没頭したり、自身の業績を誇示して周囲に称賛を求めたり、特権が与えられた人間として尊大な振る舞いを示したりし続けます。
服従スキーマ:このスキーマをもつナルシシストは、対人関係を「支配するかされるか」という視点からとらえており、かつ他者を支配し続けようとします。
●厳密な基準スキーマ:このスキーマをもつナルシシストは、自然体で気楽に過ごすことができません。なぜなら、そのような状態になると、無意識の領域に隠されている「自分はダメな人間である」という感覚が生じそうになるからです。彼は喜びや楽しさを犠牲にして、物事を完璧にこなし、何事に対してもきわめて厳格であろうとします。彼は動き回り、常に何かをしていないといけません。そうでないと落ち着かないのです。
●権利要求/尊大スキーマナルシシストを最も特徴づけるのがこのスキーマです。このスキーマをもつナルシシストは、特別扱いを受けることによって、自分が他者とは異なる特別な存在であることを感じます。彼だけは、他者が従うべき種々のルールに従う必要がありません。壮大な夢と強列なうぬぼれをもっていますが、実はそれらが彼がもっている欠陥や恥の感覚を隠してくれているのです。
●自制と自律の欠如スキーマ:このスキーマをもつナルシシストは、我慢ができず、不快を耐えられません。彼は自分の欲しいものを、欲しいときに要求し、その要求を断られたり、我慢させられたりすることに耐えられないのです。
●評価と承認の希求スキーマ:このスキーマをもつナルシシストは、高い評価を受けることや高い地位を得ること、そして他者から注目を集めることを常に求めています。通常これらは、彼の孤独感や恥辱感の過剰補償であると考えられています。

ナルシシストのもつスキーマの起源
ナルシシストのもつスキーマは、次に挙げるような筋書きによって形成されます。たとえば、家庭の中で、常に非難され、ダメ出しばかりされて育った子どもを思い浮かべてみましょう。彼はそのような体験を通じて、「自分は愛されたり注目されたりするほどの価値がない人間だ」と感じるようになり、それが「欠陥/恥スキーマ」の形成へと至ります。あるいは、養育者から十分な愛情や理解や保護を与えてもらえなかった子どもをイメージしてみましょう。その結果、その子どもには「情緒的剥奪スキーマ」が形成されることでしょう。両親に支配されたり操作されたりして育った子どもの場合、「不信スキーマ」や「服従スキーマ」が形成されるかもしれません。このような両親は、親の設定した基準を満たすことを子どもに求め、子ども自身の重要な欲求を犠牲にして、親自身の自尊心を満たそうとします。こうした状況を埋め合わせてくれるような重要他者が他にいない場合、あるいは両親による情緒的剥奪や非難によるダメージを修復するような状況が得られない場合、子どもは、「誰も自分の感情欲求を満たしてくれない」「自分は誰からも愛されないダメ人間だ」という感覚を強くもつようになり、心の奥底に孤独感や恥辱感を大きく抱えることになります。こうした思いは子どもの心の中に強固に内在化され、それが歪んだ信念による強固なスキーマとなり、あたかも「歌詞」のように繰り返されることになるのです。
幼少期のこれらの体験において繰り返される苦痛な感覚は、やがて子どもの脳内のフォルダに「情報ファイル」のように格納されていきます。このファイルには、自分自身について、将来について、そして自分を取り巻く世界について、子どもなりの「真実」が含まれています。そしてこのファイル(すなわちスキーマ)は、子どもの感情的な体験の枠組みを規定する「青写真」として機能します。そのような子どもが成人期を迎える頃には、見知らぬ人ばかりがいる部屋に入るといった、比較的シンプルな行為であっても、それがスキーマを活性化することになってしまうでしょう。そうした状況において、彼のファイルは簡単に開いてしまいます。そしてファイルの中身(スキーマ)に基づき、彼は、「自分は皆から非難され、無視され、拒絶されるだろう」と思ってしまうのです。
このような子どもは同時に、幼少期において、苦痛を与える環境から逃れるためのコーピングスキルを身につけます。これらのコーピングスキルは、彼が自身の孤独感や空虚感を紛らわすためには役に立ちますが、健全な対人関係の形成を阻害します。以下の三つの「仮面」が、典型的なナルシシストの、自分を守ろうとするコーピングスキルです。

●完璧主義者:「厳密な基準スキーマ」の特徴を顕著にもつ仮面
●仕返しするいじめっ子:「権利要求スキーマ」の特徴を顕著にもつ仮面
●負けず嫌いの自慢好き:「承認の希求スキーマ」の特徴を顕著にもつ仮面

スキーマ理論におけるコーピング反応について
人間の本質として、私たちの脳は、危険を知らせる脅威に対し、「闘争-逃走反応」によって応じるように配線されています。ただしこの呼び方は正確ではなく、脅威に対する反応には、実際には以下の三種類が挙げられます。一つ目は「闘争」で、これは闘ったり反撃したりすることです。二つ目は「逃走」で、危険から逃げるか、さもなければ危険を回避しようとします。三つ目は「麻痺」で、脅威に屈したり服従したりすることを言います。通常スキーマが活性化すると、強烈な感情や思考、そして身体反応が生じ、それがその人にとって大きな脅威となります。同時に人生早期の不適応的な体験によって形成された自己破壊的な行動が生じます。スキーマに埋め込まれた記憶と類似する現在の状況が、脳と身体に対して強烈なメッセージを伝えます。脳は脅威を認識し、スキーマと闘うか、スキーマから逃げるか、あるいはスキーマ服従するか、そのどれかの方法で反応しようとします。どの反応であっても、それはスキーマが私たちを支配する力を維持する方向に機能します。それは「内なる怪人」のようなものです。怪人との闘いは泥沼化する一方です。先にも述べたように、スキーマはあなた自身がその背景に気づかないまま、半ば無意識的に活性化します。あなたが気づくのは、目の前の「意味ありげな状況刺激」から自分が何らかの危険や脅威を読み取って、自らが反応してしまっているということだけです。(後略)

注:引用中の「スキーマ」の簡単な紹介は他の拙エントリのここを、上記「スキーマ」に関連する「スキーマ療法」については他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。

また、自分を外から見る力が乏しいと自己愛的な印象を与えることについて、岡野憲一郎著の本、「自己愛的な人たち」(2017年発行)の 第5章 アスペルガー的な自己愛者 の「◇自分を外から見る力が乏しい人」における記述の一部(P94~P99)を次に引用します。

◇自分を外から見る力が乏しい人(中略)

この面談は彼女の体験する職場での理不尽さを辛抱強く受身的に聞くことの繰り返しとなったが、私にとってかなり辛い体験だった。「Jさん、でもそれは……」と相手方に少しでも理解を示すようなことを私が言おうものなら、Jさんは烈火のごとく怒るのである。「先生の意見なんか聞いていません! 余計な口は挟まないでください」。
やがて私はJさんにぞんざいに扱われているという感じがしてきた。Jさんの一週間の予定表のひとコマにされたという感じである。Jさんの不満を吐き出すゴミ箱にでもなったかのような気持ちにもなった。彼女は面接時間の開始が少しでも遅れると私を糾弾し、また私に書かせた診断書の文言の細かい点について、何度も訂正を要求した。私の英語の問題もあり、これには相当苦労した。(中略)

私はあれほど面接の際に緊張し、ヘビに睨まれたカエルのような心境になったことはない。そしてやはりJさんはある意味でナルシシストだったと感じるのだ。

それ以来、私はアスペルガー傾向のある人たちに何人も出会ったが、みなある特徴を持っていた。彼らはある種独特の世界観を有していて、そこから物事を見る。そこには一種の達観があり、「人はこのようなものだ」という開き直りがある。でもそれが一方的であり、物事の一面しか見ていないという印象を与える。周囲はそれを伝えようとするのだが、彼らは動じない。むしろ「どうしてこんなこともわからないのか?」という視線を一般人に向ける。それが時にはひどく傲慢な、あるいは自己愛的な印象を与えるのである。
もちろん彼らとて苦しさを抱え、満たされない愛情欲求を持つことがある。彼らだって人とわいわい騒いだり、友達や恋人と楽しいときを過ごしたい。しかし人といてどうしようもない壁を感じる。自分を異質と感じ、それ以上に周囲が自分を異質に感じていると感じる。どのように異質なのかはわからない。彼らには「周囲に引かれている、遠ざけられている」という感覚しかない。自分たちの振る舞いが、他人のように「自然」ではないということは感じる。しかし、どのように振る舞ったら「自然」になれるのかは見当がつかない。彼らは「ふつう」になりたいと思う。自分を「異星人」のように感じる人たちもいる。
見方によっては、アスペルガーの人たちは気が弱く、臆病なのだ。事実、非常に引っ込み思案でいつも隅っこにいる人たちもいる。しかし、中にはある一芸に秀で、それを通して自分が優れているという感覚を過剰に持つ人もいる。すると変な目信がついて傲慢に振る舞うようになる。彼らの能力からすれば、周囲はあまりに平凡でバカみたいに見えるのかもしれない。そのような一部の人たちが、確かにナルシシストの一部を形成しているのである。
アスペルガーの当事者は、どのようなことを思っているのか。権田真吾『ぼくはアスペルガー症候群』(彩図社、二〇一四年)は、機能が高く社会適応を果たしている当事者が内側からアスペルガーの世界を描いた著作であるが、とても参考になる。そこにはアスペルガー型自己愛を理解する上でのヒントが多く書かれている。
著者は同僚の高機能自閉症と思われる女性社員Iさんについて描く。

Iさんは仕事の腕は確かなのだが、言動に少々問題がある。会社が推奨している目標管理について「気に入らない」といった発言を社内で平気でするのだ。本人に悪気はないらしく、言った後もあっけらかんとしている。
ある日、ぼくがトラブル対応で他部署に行ったときのことだ。そこの部署の女性社員からこんなことを言われた。
「Iさんっておたくの社員? ちょっと気にさわる発言があったのだけど……」

こんなエピソードを語りつつ、権田さんは自分の体験に触れる。

かく言うぼくも、暴言を吐いてしまって苦い思いをした経験がある。
ある日、ぼくは業務が立て込んでいて不機嫌だった。そこへ、他拠点から業務依頼があり、ぼくは「まあいいけど、なんでそんなこと引き受けなあかんの?」と文句を言ってしまったのだ。すぐに「しまった!」と思ったが、後の祭り。上司に呼び出されてこっぴどく叱られた。
たとえ虫の居所が悪かったとしても暴言はいただけない。ビジネスマンなら感情のコントロールを的確に行う必要がある。

権田さんもIさんも、これらのエピソードを通して会社で相手に「なんて傲慢で自己チューなナルなんだろう?」と思われている可能性がある。人の評価は恐ろしい。一度出会っただけでも、あるいはそれだからこそ、そこでの一言、態度は決定的な印象を与え、周囲にも伝わる。
もちろんこれだけで両者をアルペルガー的なナルシシストと決めつけるつもりはない。しかし彼らは時に自己愛的と思われる際の一つの特徴を表している。それは自分の姿を外側から見る力が、最初から、つまり生まれつき乏しいということだ。(後略)

注:i) 引用中の「この面談」とは「著者のクライアントであったJさんとの面談」のことです。 ii) 引用中の「彼らはある種独特の世界観を有していて、そこから物事を見る。(中略)でもそれが一方的であり、物事の一面しか見ていないという印象を与える。周囲はそれを伝えようとするのだが、彼らは動じない。」に関連するかもしれない、「自分と環境の関連に対する理解が決定的に不得手な患者の場合、本人の中で本人なりの理解が強固に作り上げられている」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。

境界例のほとんどは、自己愛傾向がかなり強い」ことについて、平井孝男著の本、「境界例の治療ポイント」(2002年発行)の 第二部 境界例の治療ポイント の「第一三章 境界例治療事例集」における記述の一部(P292)を次に引用します。

(前略)境界例のほとんどは、自己愛傾向がかなり強いのです。自己愛とは読んで字のごとく「自己を愛する」ことです。「自己を大切にするし、他者との調和にも配慮する」健康な自己愛であれば、問題はありません。しかし、境界例の自己愛はかなり程度が強く、一方的です。つねに過剰な賞賛を求め、かぎりない欲求実現を空想し、自分が特別だと思いこみ、他者との優劣に非常に過敏で、他者を自分の目的のためとしか考えず、また他者への劣等感を感じるとひどく落ちこんでしまう、といったいささか病的な自己愛なのです。(後略)

注:引用中の「境界例のほとんどは、自己愛傾向がかなり強い」ことに関連する、 a) 「境界例が治ると自己愛人格障害に移行する」ことについては、同本の 第二部 境界例の治療ポイント の 第七章 境界例の主要特徴 6 境界例と他の人格障害 の「●自己愛人格障害との比較」における記述の一部(P149)を次に引用(【 】内)します。 【境界例患者がなんとか衝動をコントロールでき、誇大的な自己同一性をもてるようになったら、自己愛人格障害になるように思われますが。――そうでしょうね。実際の臨床でも境界例が治ると自己愛人格障害に移行するといわれているぐらいですから。】 b)『「境界性パーソナリティ障害」と「自己愛性パーソナリティ障害」とを厳密に分類することは容易ではない』ことについては、市橋秀夫監修の本、「心のお医者さんに聞いてみよう 自己愛性パーソナリティ障害 正しい理解と治療法」(2018年発行)の P80 の「境界性パーソナリティ障害と合併していることもある」項における記述の一部を次に引用(【 】内)します。 【境界性パーソナリティ障害は、自己愛性パーソナリティ障害とともに、乳幼児期の母子(父子)関係が大きく影響しており、厳密に分類することは容易ではありません。両者が混在することもあり、境界性の症状が落ち着いた後、自己愛性の症状が現れることもあります。】(注:引用中の「境界性パーソナリティ障害」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい)

一方、妄想性(猜疑性)パーソナリティ障害における特徴、背景、治療、周囲のサポート等について、林直樹監修の本、「ウルトラ図解 パーソナリティ障害」(2018年発行)の 第2章 タイプ別にみるパーソナリティ障害 ~特徴、背景、対処について の「妄想性(猜疑性)パーソナリティ障害」における記述の一部(P82~P84)を次に引用します。

妄想性(猜疑性)パーソナリティ障害

特徴と背景にあるものは
異常に疑い深くなり、自分が悪意や敵意にさらされ、攻撃されていると思い込んでしまうことが起きやすいのが、妄想性パーソナリティ障害の特徴です。
自分以外の人を信用することができず、ほかの人の言動を、自分を陥れるため、あるいは自分の権利を侵害するためだと解釈します。
たとえば、職場の人が自分の職務を果たすためにしている行為やちょっとした善意も、「だまされているのでは」「裏の目的があるのではないか」と考えます。ほかの人が誤りを指摘しても、かえって被害者意識を強め、孤立してしまいます。
恋人や配偶者であっても信じられず、相手が裏切っているのではないかと疑います。
猜疑心から、周囲の人々に攻撃的になることも珍しくありません。恋人や配偶者に対してDV(ドメスティックバイオレンス家庭内暴力)をふるうこともあります。恨みを持った相手を訴えようとすることもあります。このような場合、筋が通らない主張でも、本人は自分の正当性を疑うことがないので、周囲は困惑してしまいます。
このような人では、育った家庭が、失敗を許されなかったり、常に非を責められる雰囲気であったことが見られます。
また、ほかのパーソナリティ障害があり、さらにストレスなどがかかることで妄想性パーソナリティ障害を発症するケースも少なくありません。
妄想性パーソナリティ障害の人は、その障害のせいで常に、不安にかられ、緊張状態にいるのです。彼ら自身が安らぐことがなくつらい日々を過ごしているといえます。(中略)

●有病率は 0.6~3.1 % 男性に多い *有病率の数字は、「最近の疫学研究における DSM-IV パーソナリティ障害の頻度」(Trull et al, 2010)より

小児期や青年期に変わった言動が始まる。妄想性障害、妄想型統合失調症を発症することがある。(中略)

診断と治療方針、そして周囲のサポート
妄想性パーソナリティ障害の治療では、いかに治療者を含めた周囲の人が患者さんと信頼関係を結び、患者さんの緊張や不安を減らせるかが重要です。
そのために、まず妄想性パーソナリティ障害の人の考えを否定したり、非難しないことです。
妄想性パーソナリティ障害の人は自分の意見にしがみついて他の人の意見を受け入れようとしないことがしばしばあります。どんなに理路整然とその思い込みが現実的でないことを説明しても、それを受け入れることができず、かえって自分を攻撃されたり否定されたと感じて頑なになってしまいます。
妄想性パーソナリティ障害の人は自分の考えに捕われている一方で、自分の主張の論理的な破綻や世界観のもろさに不安を感じています。頑なさや攻撃的な態度の底には、不安や助けを求める気持ちがあることを理解し、少しずつ誤った思い込みを解きほぐし、事実をありのままに受け止められる手助けをします。
周囲の人は、妄想性パーソナリティ障害の人の妄想に巻き込まれないよう、冷静かつ中立でいられるように距離感を保ちましょう。
妄想的な考えに対しては、頭から否定や批判をしないようにします。しかし妄想的な考えを受け入れたり、意見に迎合したりしてはいけません。患者さんの思いや不安に共感しつつ、別の見方や解釈があることを伝えていきます。
妄想性パーソナリティ障害の人は、自分の築いてきた約束や秩序を破られることに敏感です。本人の思い込みに対して、その場をごまかそうとする態度はかえって状況を悪くします。
妄想性パーソナリティ障害の人が妄想的な考えを発展させやすくなるのは、精神的余裕がなく、ストレスや不安が強いときです。生活での負担がかかりすぎないよう配慮することも大切です。(後略)

注:i) 引用中の「妄想性障害」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 ii) 引用中の「妄想型統合失調症」に関連する「統合失調症」については他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。なお上記「妄想型」は、幻覚や妄想が中心的な症状の病型のようです。

加えて、演技性パーソナリティ障害における特徴、背景、治療、周囲のサポート等について、林直樹監修の本、「ウルトラ図解 パーソナリティ障害」(2018年発行)の 第2章 タイプ別にみるパーソナリティ障害 ~特徴、背景、対処について の「演技性パーソナリティ障害」における記述の一部(P74~P77)を次に引用します。

演技性パーソナリティ障害

特徴と背景にあるものは
派手な外見や大げさなふるまいで、ほかの人、特に異性の注目や関心を集めることに、エネルギーを傾けてしまうのが、演技性パーソナリティ障害です。
たいていは、外見を美しく華やかに保つ努力をし、自分の異性(多くが女性)としての魅力を最大限にアピールします。人を惹きつけるために、芝居がかった話し方をしたり、思わせぶりな態度も取ります。
最初は非常に強い印象を与えるのですが、付き合っていくうちに内面的な深みに乏しいことに気づくかもしれません。個性が強いのではなく、相手」の気をひくために、「自分」を変えているので、流行や人の意見の影響を受けやすく、言動に一貫性がないからです。気分も変わりやすく何かに夢中になっても、すぐに冷めてしまうことも珍しくありません。そのため、信用を失ったり、軽んじられることも多いのですが、本人はそのような言動をやめられないのです。
男女間でもトラブルを起こしがちです。
異性から見て思わせぶりな態度を取ることが多いため、相手は「自分に気があるのだ」と勘違いし、思いを募らせてしまうのですが、本人にはその意図や自覚がありません。そのため、複数の人の片思いを誘発して、トラブルになることも珍しくないのです。
演技性パーソナリティ障害の人は、意識して人を惹き付けようとしてふるまっているわけではありません。
また、何か目立つ行動をしていても、その意味を自分自身で考えることもほとんどありません。それらが周囲との軋轢につながりやすいのです。(中略)

●有病率は 0.3~1.6 % 女性に多い *有病率の数字は、「最近の疫学研究における DSM-IV パーソナリティ障害の頻度」(Trull et al, 2010)より

診断と治療方針、そして周囲のサポート
演技性パーソナリティ障害の人の治療では、その行動の背後に「注目や関心を浴びていないと、自分に価値が感じられない」という考え方があることに自覚を促していきます。
常に、派手な服装やふるまいをするということは、そうしないと関心をもってもらえない、自分に価値がないと感じる心の裏返しでもあります。
治療では、この問題を本人に自覚してもらい、周囲の注目や賞賛がなくとも自分自身に価値があることを確認しつつ、ほかの人の評価に自分自身が支配されている状態を改めるための行動を積み重ねる作業が進められます。
つまり、自分の価値を人からの賞賛などではなく、自分自身に求めること、ほかの人からの愛情や信頼を注目や関心で測らないことを学ぶのです。
演技性パーソナリティ障害の人は、その特徴である誇張を、純粋に信じてしまうような人を恋人や配偶者としやすいのです。
さらに、演技性パーソナリティ障害の人は、しばしば過呼吸などの身体症状を持っているため、恋人や配偶者は“面倒を見る”ことで、離れられなくなっていることが多いのです。
しかし、患者さんの言動を非難したり批判することは治療の助けにはなりません。
演技性パーソナリティ障害の人にとって、ありのままの自分を受け入れてもらっていると実感できることは、助けになります。恋人や配偶者は、批判せず、冷静に適度な距離を保ちつつ、本人が努力を重ねることを見守ることが大切です。
演技性パーソナリティの傾向は、うまく使えれば、自己アピールや表現のうまさという“個性”にもつながります。パーソナリティを変えるのではなく、その特徴を上手にコントロールできる状態を目指します。(後略)

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【19】「アルプスの少女ハイジ」における「クララが立った」を連想させる治療例について、その他

最初に標記治療例について、青木省三編著の本、「精神科臨床を学ぶ 症例集」(2018年発行)の ●精神療法 における山下陽子、村上伸治、青木省三著の文書「めまいに対して過度の恐怖心を抱き、3年間寝たきりになった症例に対する精神療法」の「症例報告(山下陽子)」及び「全体へのコメント(青木省三)」におけるそれぞれ記述の一部(P206~P220)を以下に引用します。なお、 a) 標記「クララが立った」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「クララが立った」 b) 以下では引用はしていませんが、同文書の P219 において次に引用(『 』内)する記述が有ります。 『そしてクララのように立ち上がったのだ。』 c) 標記治療例は(恐怖や強い不安が見られるものの)複雑性トラウマを負っていないものとしてここに採用しました。一方、複雑性トラウマを負った場合のアプローチの例についてはここを、加えて「タイトレーション」として他の拙エントリのここにおける引用の「タイトレーション(Titration)」を それぞれ参照して下さい。

症例報告(山下陽子)

症例の概要
症例:Aさん 女性 28歳
家族背景:会社員の父とパート勤めの母の3人暮らし。
生活歴、現病歴:在胎中・出生時、言語・運動発達に問題はなかった。3歳時に喘息となり、父親が過剰に心配し、走らせない、外出をひかえさせるなどの運動制限を受けた。小学校、中学校ともに目立たない存在であったが、部活に参加するなど問題なく過ごしていた。中学3年生の時(16歳時)、臥床中に突然、のめまいを感じ、翌日当院耳鼻科を受診。遅発性リンパ水腫と診断され、その後近医で4種類の利尿薬やビタミン剤などの薬物治療を継続していたが、数年に1回のめまいを認めていた。高校に進学したが、中学の友人と別れ、新しい人間関係に馴染めず高校2年で中退。その後は、車の部品などの細部検査の工場に勤務していたが、徐々にめまいの頻度が増え、出勤困難となったため20歳で退職。この頃は、動くとめまいが悪化すると感じ、一日中ベッド上で過ごし、臥床している時間がほとんどであった。
X-3年(25歳時)、大きなめまいを感じ、総合病院の耳鼻科を受診するも異常なしと診断され、同病院の心療内科を紹介され受診。心因性と判断され抗うつ薬抗不安薬が処方されるも嘔気にて内服できず、少量の抗不安薬のみ毎食後に継続していた。しかし症状は悪化し、頭部を動かすことでめまいが生じると感じ、極度の恐怖心から首を動かさず常に正面を向いた姿勢で固定するため、入浴は週に1回、トイレや入浴の衣類の着脱は母親による全介助となった。X-2年頃より、発声によりめまいが生じるように感じはじめ、両親との会話が筆談となり一切発語がなくなった。X-1年に心療内科でカウンセリングが始まり徐々に短時間のささやくような発語は可能となった。しかし開眼時の景色の動きでめまいを感じ一日中閉眼するようになった。X年2月、1年で、体重が45kgから35kgに減少し、活動性が極端に乏しくなったことから、同年3月当院を紹介され受診し、X年4月に本人の同意のもと入院となった。
入院時現症:160cm、35kg。青白くやせており、頬がこけ、手足には筋肉がなく棒のよう。頭髪は額に張り付き不潔な印象。開眼したままゆっくりとすり足で診察室へ入る。時にうっすらと眼を開けるが、めまいを感じるようで苦悶様の表情となる。着席するにも頭部を動かさないよう、顔は正面を向いたまま慎重に座る。質問には閉眼したまま、ささやくような声で返答。途中、震える手で顔を覆ったり、胸の前で手を組んだり下ろしたりと、不安というより恐怖心から居ても立ってもいられない様子であった。任意入院同意書のサインの際には、下を向くことができないため、ボードを敷き垂直に立てた状態で目前でサインを行ったが、筆圧は乏しく小刻みに震えた文字となった。

治療経過
①X年4月~6月(治療停滞期)
入院時より筆者が主治医となった。(中略)

臥床時は、腕時計を見ながら、安心ための彼女独自のルールに沿って寝返りを繰り返していた。右向き20分、左向き40分、右向き10分、左向き10分、右向き5分、左向き5分を繰り返し、合計90分の臥床が終わると20分ベッド上で座位になるというこだわりがあり、途中にトイレや食事など別の動作を入れることは不可能であった。また、独自の呼吸法があり、日中は「テ」「夕」と頭でカナを浮かべながら息を吸い、「サ」「ハ」で息をはく、夜間(18:30~)は、「ス」「フ」で息を吸い、「サ」「ハ」で息をはく、というルールを覚醒時に続けており、常に頭が休まらない状態であると述べた。
食事においては、硬いものを噛む音でめまいが誘発されるように感じ、キュウリや菓子類など歯ごたえのあるものは食べられず、少量の摂取であった。
彼女は動くことでめまいが生じるという恐怖が中心症状であり、不安障害(恐怖症)と考えられたが、めまいに対する強迫観念に近い柔軟性の乏しい思考形式や、一連の儀式行為などから、発達障害圏も疑われた。
治療として、まず主治医は彼女と話し合い、彼女にとって一番苦痛が少なく課題として取り組みやすい動作をテーマとした。(中略)

入院1ヵ月は、行動観察を含め本人の動ける範囲で課題を提示していたが、トイレへは車椅子利用が続き、看護者の介助量もほぼ変わらない状態であった。なかなか前進がみられないため、2ヵ月目に入り恐怖心から避けていた動きに頑張ってチャレンジしていくことを提案した。彼女も了承していたが、「今日は体調が悪いから無理」「動くとよけいしんどくなった」など、回避的な言動が多く、大きな進展がないまま2ヵ月が経過した。
そこで、主治医、看護者全体で今後の治療について検討した結果、現在の病棟での生活は入院前の自宅と同じ状況であり、母親の介助の代わりに看護者が付き添うという代替的な形になっていた。そのため、本人にできそうなものだけを治療課題として提示するだけでは、進展が見込めないのではないかと考えた。そこで今後の治療としては、めまいに関することを避けるのではなく、積極的に課題として動いてもらう方針とした。
彼女と彼女の両親に対して、めまいに関連する言動を避けることで、症状を悪化させているという悪循環の経緯を説明し、このまま苦痛の少ない課題を行っても症状は一進一退であること、今までのように「今日は調子が悪いからできない」などと回避するのではなく、苦痛を伴う課題にどんどん取り組まないと症状改善は期待できない旨を説明した。はじめは、急に動くことでより症状が悪化しないかと強い不安を訴えていたが、「何とか以前のような自由に動ける状態に戻りたい」と、積極的な行動療法に同意した。治療としては、恐怖心を抱いている動作に正面から取り組んでもらい、“めまい”につながるような動作をどんどんしてもらうため、彼女にとって苦しいものとなることを伝えた上で決心を固めてもらった。
②X年6月~8月(積極的な行動療法に取り組み、治療が進展した時期)
説明を行った翌週より、早速“動ぎ”に慣れてもらうため、毎日の課題として午前と午後に1時間ずつ彼女を車椅子に乗せ、しっかり動かすことで振動に慣らすこととした。6月より、研修医2名(男女1名ずつ)が彼女の担当となり、治療に加わることとなった。まず、主治医、研修医が車椅子を押し、精神科病棟から他の病棟の廊下を動くようにした。今までは曲がり角や段差はめまいが誘発されるからと避けていたが、「チャレンジすればするほど、どんどん症状はなくなる」と繰り返し伝え、挑戦した。はじめはまったく開眼できず、恐怖から耳を塞いたり、車椅子にしがみつくなどの行動が見受けられたが、意識が車椅子の動きに集中しないように軽い雑談を交え話しかけながら繰り返したところ、徐々にうっすらと開眼でき、時折会話に笑って応じることができるようになった。また、課題施行数日後には、病棟に帰った際、「ただいま」と、か細い声ではあったが挨拶ができるようになった。しかしたびたび「めまいは起こりませんか?」と保証を求めたり、首の前後左右の動きや視線移動は依然できないままであった。
車椅子移動に対して、「だいぶ慣れた。眼を開けて周りを見たい気持ちも出始めた」との発言も聞かれ、舗装の悪い外の道や、上下に動く際の宙に浮く感覚が恐いと乗れなかったエレベーターに挑戦した。研修医が常に付き添い、「今日は、眼を開けたまま耳を塞がずにエレベーターにチャレンジ!」など、明るい雰囲気を常に保ちながら、冗談も交えてつぎつぎと課題を与えた。時には、横断歩道を渡る際に信号が点滅しはじめると、急に車椅子のスピードを上げて走って渡り、彼女は「ぎゃあー!」と大声をあげる一面もあった。しかし数年ぶりに大きな声を出せたこと、体が大きく揺れた後でもめまいが起こらなかったことなどを体験し、恐怖心以上に達成を感じたようであった。徐々に車椅子利用から歩行へと移行させる際には、歩行距離を数メートルから始め、次に目的地を定めて距離を延ばしていく方法をとった。ひとつひとつの課題が、彼女にとっては緊張と恐怖の連続であったが、厳しい課題が与えられながらも“課題”としてではなく“ゲーム感覚のチャレンジ”として、常に明るい雰囲気で研修医とともに取り組めたことがプラスに働いているようであった。また、数年来家族はもとより他人と会話を楽しむことから遠ざかっていたこともあり、新鮮に感じているようでもあった。そして「めまいが起こりませんか?」という発言から、「めまいは起こりませんよね」という肯定的な質問に変わっていき、以前はめまいや不安の訴えが会話の中心であったが、徐々に高校時代の話や洋服などのオシャレが好きであることなどが語られるようになった。
積極的な行動療法開始後2週間ほどで、車椅子での移動の際の“動ぎ”に関しては、苦痛を訴えることが少なくなったが、課題はすべて受動的であり、病棟に帰ると再び呼吸法や寝返りにとらわれた臥床生活に戻った。また。かろうじて開眼が可能となったものの、臥床中も歩行時も首を動かせないため、正面の一点しか見られずまったく下を向けない状態であった。たとえば廊下の角を自然に曲がれず、恐怖心から開眼し首を正面に向けたまま体を徐々に回転させ方向転換するという、奇妙な動作となった。ベッド横の床頭台に物を取りに行く際も、ベッドを1周しなければならず、ベッド角を曲がる時には閉眼し慎重に移動していた。そこで このように日常生活において一番苦痛となっている視線移動の課題を検討した。彼女だけが治療課題として苦痛に感じないよう、研修医を含めた数人が一緒になってできる課題を考えた。そして午前、午後の歩行練習に加えて、病院内のリハビリセンターを利用し、本人、主治医、研修医2人の4人で四角に座り、ボールを床に転がしながら順番に回していく課題を取り入れた。ボールを受け取る際と相手に転がす際に、左右の首の動きと視謙移動があり、また終始開眼していないといけないという彼女にとっては苦しい課題となった。しかし、ここでもゲーム感覚でボールのスピードを変えたり、急に対角線上に転がしたりと、治療という感覚ではなく遊びとして楽しめるように工夫をした。何度か「めまいがしそう、止めたい」との発言も聞かれたが、「苦痛に感じることを避けていては治らない」と繰り返し伝え、数日後には「首を動かすことに抵抗がなくなった」「勝手に視線が下を向いてしまうけれどめまいは起こらない」と自信のある明るい表情に変化した。その後から、歩行中も自然に視線を動かすようになり、売店などでは商品を見ることの楽しみを感じるようになった。
次に課題を決めるにあたって、本人にとって現在困っていることに加え、頻回に行えるもの、また治療成果が得やすいものを考えた。そこで、日常生活の中で介助が必要となっている動作を考えたところ、下を向く動作がある洗顔が依然できず、毎朝夕に看護者が準備したホットタオルで顔を拭き、歯磨きも同様に下を向けないため、膿盆を看護者に準備してもらい、顔を正面に向けたまま出し、顎をつたって膿盆で受けているところに注目した。行動すべてをベッド上で行っていたため、まず洗面、歯磨きを部屋の洗面台の前で行うように決め、はじめはイスに座った状態で行い、数日後には立位で行ってもらった。この日常生活動作を課題とすることで、課題を毎日こなしながら一日一日効果を実感でき、短期間で洗顔と歯磨きが1人で行えるようになった。この頃には、主治医がベッドサイドに行くと、ゆっくりではあるが自ら臥位から座位に姿勢を変え、座ったまま話をすることができるようになった。
次に、視線移動には慣れはじめたが、「カラフルな色を見るとめまいが起こりそう」と短時間ですぐに閉眼してしまうため、新しい課題としてリハビリセンターにある小児用ボールプールの利用を考えた。ボールプールには直径3mほどのビニールプールの中にカラフルな小さなボールが大量に入れられており、そこに入ることで体のバランスを保ちにくく、また視覚的な色の刺激もあり治療に使えると考えた。はじめは、中に入っても閉眼したまままったく動けなかったが、徐々に不安定な感覚を楽しむようになり、鮮やかな色にも抵抗がなくなっていった。同時に、リハビリセンターにある平衡感覚を養うシーソー型の平衡板を利用し、急に大きく揺らす体験をさせるなど、いろいろな器具をゲームの一環のようなかたちで取り入れた。体が揺れてもめまいは起こらないことを実感すると2回、3回目の課題は比較的スムーズに行え、繰り返すことで「なぜこんなことが怖かったのだろう」と客観的に受け止めることができるようになった。
6月末には毎日の午前午後の散歩は自立し、リハビリセンターを利用しての課題も怖がることなくクリアすることができるようになった。しかし自室に帰ると臥床がちとなるため、就寝以外にベッドで過ごすことを禁止し、デイルームでイスに座って過ごすよう提案した。また就寝時には呼吸法と慎重な寝返りは続き、入眠まで2時間を要しており、体位変換から起こるめまいに対する恐怖心がなかなかぬぐえないようであるため、新たな課題を検討した。今までは視線移動や首の移動など間接的な課題を行っていたが、今回は直接めまいが起こる課題に挑戦することとした。まずマット上で寝転び、そのまま横に転がる運動を毎日の課題として提案した。しかし今までと違った直接的な回転運動に対する恐怖心から、長時間マットを見つめたまま躊躇し、なかなか行動に移せなかった。そこで主治医と研修医も横に並び、川の字の状態で同時に回転するよう提案したところ、あきらめたように承諾し全員の掛け声を後押しに勢いをつけて回転した。初回は不安と恐怖のため、終了後に流涙し、全身が震えていたが、回数を重ねるごとに躊躇することなく長い距離を回転することが可能となった。回転後のめまいは正常であり、時間とともに消失することを体験し、“めまい”が恐いものではないことが体感できたようであった。その後、前転の提案にも果敢に挑戦するなど、実際のめまいへの抵抗が明らかに軽減していた。十分活動性も上がり自信がついたところで、十数年のみ続けていためまいに対する薬を止めるよう提案したところ了承。耳鼻科受診にて、現在リンパ水腫の存在は認めず、内服薬の必要性がないことを診断してもらった後、すべての耳鼻科薬を中止した。その後もめまいは起こらず、あらゆる課題に挑戦しても症状が起こらないことで自信を強めていった。就寝まで2時間かかっていたものが、マットの課題を始めた頃より30分以内で寝付くことができ、中途覚醒があると以前は呼吸法に集中して寝付けなかったものが、“バカバカしく感じた”と何も考えずスムーズに再入眠もできたと、呼吸法、体位変換へのこだわりはきれいに消失したようであった。
病棟内では、彼女にとって大きな不安材料がなくなってきたため、7月より外出練習を行った。自転車や電車など、揺れるために数年来乗っていなかったものにも挑戦し、つぎつぎに克服していった。自転車がなかったため、主治医が自分の自転車を貸すことにした。彼女も「山下先生の自転車なら乗りたい」と言って積極的に挑戦することができた。
めまいが激しかった頃に付き合っていた友人に会うことや、その頃見ていた好きな雑誌を見ることで再びめまいが起こるのではないかという不安を語ったため、それを課題に追加した。外出中に友人と会い、また避けていた雑誌を見ることを繰り返したところ、どんどん残存していた症状が消失し、以前のように楽しみが増えたと喜びを語るようになった。外泊練習では、自宅での臥床時間を最小限にしようと、自転車での外出を増やすなど、自分なりに症状が出現しにくいような環境を考え、実行するようになった。自宅での生活にも自信がつき、「退院後は自宅にこもらずバイトをしたい」と意欲を語り、それまで当院の精神科作業療法に通うこととし、8月初旬に退院となった。
③退院後経過
退院後は、常に声をかけ励ましていた病院スタッフがいないことで、再び“めまい”に対する恐怖心が出現しそうになったが、その時は自宅や作業療法室で入院中に課題となっていた“前転”を行うよう提案した。それにより、実際のめまいは時間とともに消失すること、恐怖心だけでめまいは起こらないこと、また入院中に養った自信を取り戻すことができ、一時的な不安は解消した。彼女自身、暇な時間は自分を“めまい”という不安材料に近づけると考え、積極的にアルバイトを探し、2ヵ月後にはパン屋のバイトを開始した。外来では、めまいに対する不安な訴えから、バイト先の上司のことやパン焼きの大変さなど、現実的な悩みや楽しみを語るようになった。現在では忙しいパン屋のレジからパン焼きまでこなし、お店でも頼られる存在となっている。
今回、本稿を報告するに当たり、彼女に同意を求めたところ、彼女はしばらくは渋っていた。「名前は知られなくても、私のことが他の人に知れることで、まためまいが起こらないか心配だから」と言っていた。だが、その後、彼女は「覚悟」を決め、「ここで決心することが、恐いけれど私の治療にもつながるんですよね」と言って同意してくれた。そして、「私のことが他の患者さんの治療に役立つならよいのですが、私の場合がうまくいったのは、自分で言うのも何なんですけど、私が感受性が強くて影響されやすい性格だったから、こんな病気にもなったけど、必死で頑張ってくれる先生方にも影響されてよくなったのだと思います。だから、誰にでも合うとは思いません」とも言われた。(中略)

全体へのコメント(青木省三)

主治医は、当初、狭義の行動療法に近いものを、すなわち症状を具体的に捉え、その症状を軽減させていくような計画をたて、患者の治療意欲を大切にしなから、成功体験によって自信を積み上げ、症状の改善を図っていくというものを、治療として考えていた。しかし、それは、予想以上に強い抵抗にあった。患者の変化に対する不安と恐怖が、成功体験による自信よりもはるかに強かったからである。症状は一進一退というかほぼ固定し、家とほとんど同じような状態になった。
それまでじっと成り行きを見ていた指導医は、そこでひとつの勝負に出た。「積極的行動療法」(そんな言葉を私は今まで聞いたことがないが)、患者に思い切って行動する決心を求め、それまでの計画よりもはるかに大変な行動を患者に提案し促した。患者は予想外の提案に動揺し混乱しながらも、崖っぷちに立った心境で同意する。これを指導医が言うように森田療法の恐怖突入と言うこともできるであろう。ミルトン・エリクソンであれば、フェニックスのスコーピークに登るのを求めたように(エリクソンが時に患者に出した課題)、ある覚悟(Commitment)を患者に求めたと言ってもよい。
患者の不安と恐怖によって固定したように見えた症状に対して、半分、混乱した中で、大胆な行動が促され、それが患者の予想を超えて、やってみたらできた……。そして、その混乱の中で、長年、しっかりと握りしめたような「思い込み」を手放すことができた。
これを要約すると、
①患者がぎりぎりの、崖っぷちで、混乱し、覚悟をする。
②その結果、予想外のよい体験をする。
③そして、長年の症状や思いこみが変化する。
ということになるだろうか。
しかし、このような治療が実を結んだのは、実は2ヵ月にわたる主治医・研修医と患者の間に築かれた信頼がベースにあるのは言うまでもない。主治医の誠実で粘り強い態度こそが、患者の信頼を築いた。この信頼なしに、この治療はありえない。もし、入院当初に、このような治療を始めたとしたとしたら、患者にとって外傷的な体験となり、ますますの症状の悪化という結果を招くだけになったであろう。積極的な治療の導入は、充分な信頼という下地があって初めて可能になる。
指導医は、当初から積極的な治療をねらっていたのではない。主治医の当初の治療計画の進展を見、そして、主治医と患者の関係をしっかりと見た上で、入院が残り1ヵ月というぎりぎりの時に、勝負に出た。それは、計画されたものではなく、患者も治療者も後がなく、「もう。これしかないよね」というように、皆が、大胆だけれど、納得するしかない提案をした。
さらにこの治療を成功させたのは、主治医と研修医が患者に対して提案した治療プランを、自分たちが一緒に行うように、まさに寄り添うように行ったことである。そこで、患者は自分のために一緒に身体を動かし汗を流してくれる人がいることを知る。そして、それが何よりも効果的だったのは、患者が涙を半分流しながらも、思わず笑ってしまうような、主治医や研修医の話かけや振る舞いであっただろう。「明るい雰囲気」と主治医は述べるが、それは、たわいのない些細なことでもおもしろい、健康な仲間集団の雰囲気と言えばよいのだろうか。彼女はそれまでに、そのような仲間体験をしたことがなかった。だから、この混乱はどこかお祭りの時のような、わくわくするような混乱でもある。そう、指導医はどこかお祭りの時出てくる、「鬼」のように見えなくもない。
わーきゃーっと言って、子どもたちが半分怖がりながら、でも半分楽しみながら、追われて逃げていく、あの「鬼」である。主治医も研修医も患者も、「鬼」から、一緒に逃げようとした。逃げる中で仲間になったのだ。
治療要因として、前述したものに付け加えれば、
④変化の下地として、主治医・研修医と患者の間の充分な信頼関係が築かれていた。
⑤主治医・研修医が患者と一緒に汗を流した。
⑥思春期の健康な楽しい仲間という雰囲気ができていた。(中略)

圧巻は、主治医と研修医と患者が横に並び、川の字の状態で同時に回転したところである。一緒に怖いところに飛び込んでくれる人がいたから、患者は、回転し、そして「前転」し、自信をつけた。
患者は退院後も「前転」を行い、めまいの不安を振り払うことができた。おそらくそれは、単に「前転」をしてもめまいは大丈夫ということを実感しただけでなく、自分のために一緒に川の字になって回転し、そして「前転」をしてくれた、そんな不思議なお姉さんやお兄さんがいたことを、患者は思い出したからではないか。それは世の中には信頼できる人がいるということを思い出す作業でもあったのであろう。
精神療法は、診察室の中でこころの奥を見つめていくところにもあるが、このように共に汗を流し、涙と笑いが混じった中にも、確実にあるのだと思う。(後略)

注:(i) 引用中の「恐怖突入」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「森田療法を理解するためのキーワード」の「恐怖突入」項 加えて引用中の「恐怖突入」に関連する「思い切って飛び込めば恐怖は薄れていく」ことについては次のエントリを参照して下さい。 「思い切って飛び込めば恐怖は薄れていく」(注:これに関連して下記の (iv) 2) 項も参照して下さい) さらに、(不安や恐怖感を)「あるがままに受け入れる」ことについては、次のエントリを参照して下さい。 「あるがままに受け入れる」 (ii) 引用中の「積極的行動療法」及び(その実行への)引用中の「覚悟(Commitment)」に関連するかもしれない『「パニック障害に対する暴露療法」の実行には「“清水の舞台から飛び降りる”ような勇気が必要となる」』ことについては、次のWEBページを参照して下さい。 『塩入俊樹先生に「パニック障害/パニック症」を訊く』の「④どのような治療法があるのでしょうか?」項*8 また、「自閉スペクトラム症傾向を認める強迫症者への介入」や「強迫症に対する治療には ExRP を中心とした CBT の有効性は確立している。しかし発達障害を伴う強迫症の治療においては、治療を困難にする以下のような問題点をよく経験する。」ことについては共に他の拙エントリのここの iv) 項を参照して下さい。一方、「経験的に,自閉スペクトラム症強迫症状を呈した人に曝露療法的なアプローチをすると大体悪くなる」ことについては他の拙エントリのここの v) 項を参照して下さい。 (iii) 引用中の「積極的行動療法」に関連するかもしれない、強迫性障害強迫症)における「考え方を変える前に行動パターンを変えてみる」ことについて、原井宏明監修の本、「強迫性障害に悩む人の気持ちがわかる本」(2013年発行)の 4 普通に暮らせるってすばらしい の 考え方 悪いことは起こってから考えよう の「考え方が大きく変わった」における記述の一部(P79)を次に引用(『 』内)します。 『OCDは強迫観念が強迫行為を生み、強迫行為が強迫観念に拍車をかける悪循環です。合理的思考や常識や科学的なデータを示すことでは、なにも解決しないばかりか、症状の悪化につながります。考え方を変える前に行動パターンを変えてみることが、治療のコツといえます。経験してみて初めて考え方が大きく変わる瞬間が訪れます。回復した人が、「どうしてこんなことで悩んでいたのかと思う」というように、とらわれた考えから解き放たれていくのです。』(注: a) 引用中の「OCD」は「強迫性障害」のことです。 b) 引用中の「強迫行為」及び「強迫観念」については共に例えば次のWEBページを参照して下さい。 「強迫症 - 脳科学辞典」) (iv) 加えて引用中の「積極的行動療法」及び「不安を振り払う」に関連するかもしれない、 1) 「レスポンデント学習が消去される」ことについては、他の拙エントリのここを、 2) 一方、高所恐怖症の曝露療法において、「当初の恐怖反応が落ち着く」ことについてはここここを それぞれ参照して下さい。加えて、不安障害(不安症)における「エクスポージャーを実施する留意点」については、次の資料を参照して下さい。 「不安障害に対する認知行動療法 ――エクスポージャー法をどのように導入するか,そのコツを探る――」(注:同資料の図1[P423]も含めて参照して下さい) また、 a) 上記パニック障害において、「診断がされず治療が遅くなるほど、パニック障害は慢性化する」ことについてはここを参照して下さい。 b) 加えて、上記「強迫性障害」を放置すれば、人生の大半が強迫の餌食になることについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 (v) 引用中の「不安障害(恐怖症)」に関連する不安症群の一部については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、上記「不安障害(恐怖症)」を含む神経症と学習との関連について、岩波明著の本、「どこからが心の病ですか?」(2011年発行)の 第五章 不安障害神経症(1) の「神経症」における記述の一部(P81~P82)を次に引用します。

神経症
最近の精神医学の診断基準において「神経症」という病名は、曖昧さがみられるために使用されない傾向にあります。以前の「神経症」は、いくつかのカテゴリに細分化されています。しかしながらこのことは、神経症の持つ重要性が減じたということではありません。単に精神疾患の一つを学ぶというだけでなく、ヒトの「心」の働きの基本的なパターンを理解する上で、「神経症」は格好の題材となります。
まず第一に、ヒトの精神は「悪い」学習の効果を受けやすくできています。この点は神経症の症状の中によく表れています。ここで言う「学習」は、実験心理学的な学習であり、古典的な例としては、「パブロフの犬」に関する研究が有名です。この実験においでは、えさを与えると同時にブザーを鳴らし続けると、ブザーを鳴らしただけで犬はえさをもらえると思いこみ唾液を垂れ流します。
これは「学習」によって、ブザーという聴覚刺激と唾液腺という本来は関連のないシステムに新しい「回路」が生じたことを意味しています。
神経症では、これと同様な現象がみられています。通勤中にたまたま電車の中で、動悸、息苦しさ、不安感などがみられる「パニック発作」が出現した場合について考えてみます。この人はその後電車に乗ったとき、あるいは駅の近くにいくだけで、同様の症状を出現しやすくなります。これが「悪い」学習です。つまり本来は無関係である電車とパニック発作が、頭の中で結びついてしまったわけです。(後略)

注:i) 引用中の「神経症」については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、「化学物質過敏症精神疾患との境界線」の視点からは他の拙エントリのここを参照すると良いかもしれません。 ii) 引用中の『「悪い」学習』の大いに関連する「条件づけ」又は「恐怖条件づけ」については、例えば他の拙エントリ及び次のWEBページを参照して下さい。「恐怖条件づけ - 脳科学辞典」、「情動系神経回路 - 脳科学辞典」の「後天的に獲得された情動系神経回路」項 加えて特にMCSやシックハウス症候群の文脈における「条件付け」については、他の拙エントリのここ及びここを参照して下さい。

加えて、ひきこもりの青年が足を一歩踏み出すときについて、青木省三編著の本、「精神科臨床を学ぶ 症例集」(2018年発行)の ●思春期・青年期 における和迩健太、三浦恭子、青木省三著の文書「ひきこもり―― 一歩足を踏み出すのを援助する」の「青年が足を一歩踏み出すとき」における記述(P8~P10)を次に引用します。

青年が足を一歩踏み出すとき

〔事例4〕32歳の男性(和迩担当ケース)
幼小児期はいわゆる明朗活発で友人も多い子であったという。勉強は好きなほうではないと言いつつも成績優秀で要領はよい子であった。自己主張はあまりせず、「仲のいい友達に誘われたから」といった理由で短期間猛勉強し難関国立大学に入学。大学生時代は「特にこれといってない」と言うように淡々とした生活を送る。就職も「先輩に誘われた」と、これまた単純な理由で厳しい競争をくぐり抜け有数の大手企業に入社。入社しても特に希望部署を主張せず、配属された営業職では「営業の頑張りが直接結果に反映されるのが楽しかった」と新人ながら好成績を収めていた。ところが入社2年日頃に上司に頼まれていた仕事を忘れており、気付いたのが前日であった。とても徹夜しても間に合うような内容ではなく、「大変なことをしてしまった」「責任をとるしかない」とそのまま辞表を机に置き、姿をくらませてしまった。しばらく周囲は騒然とし続けたが本人はそんな中実家にふらりと戻ってきた。有休などを消化した後に退職、そして、ひきこもりとなった。
ひきこもって3年ほどして両親の勧めもあり精神科受診をした。27歳のときであった。明らかな幻覚妄想も認めず気分の変動などもなく積極的に精神疾患と診断する症状はみられなかった。彼の希望もあり月1回程度の外来受診が続いた。就学や就労したい意思はみせるものの実際に行動することはなく、また、ハローワークに行くことやデイケア、サークル活動など外出のきっかけなどは幾度となく提案したが「やってみます」とそれなりの意思を見せながら帰っていくものの、実際に行動に移すことはなかった。そのようなやり取りが2年ほど続く中、ある面接の話題で「前はよく自転車に乗っていました。調子に乗ると結構な距離を乗ったものです。気持ちよかったですよ」と自転車の話題を生き生きと語った。初めて見せる生き生きとした表情にやや戸惑いながらも「自転車で外出してみたら……」と言いかけてふと考えた。このパターンはいつものことで、それが達成されることはなかったのではないか。しばらく考えた後に、仕事の合間に待ち合わせをしてみようと思い、待ち合わせ時間、場所などを書いた紙を渡した。約束の場所は彼の自宅から自転車で1時間はかかるところであった。それから数週後の約束の時間。彼は時間通りに自転車でやってきた。軽く息を切らせ、少し照れくさそうに近寄ってきて、開口一番「先生は本当に来ると、思っていましたか?」と一言言った。
彼はこれを機に自転車で外出するようになり、旅先でさまざまな人に出会うことに喜びを覚え、それが面接の話題の中心となった。今は専門学校に通うようになっている。

○一歩を踏み出すには、人への信頼がいる
発達障害精神疾患の可能性も当初は考えたが、少なくとも彼の言動と家族の話からは、疑わしいものは認められなかった。彼の内面に立ち入り話を聞き過ぎると、ひきこもりを強めるように感じたので、診察では彼の内面にあまり立ち入らないように心がけた。ただそれまでの情報を総合すると、彼は幼小児期から失敗することを避けるように生きてきたが、職場での彼にとっては「大きな失敗」から、彼の心に「失敗することへの恐怖」のようなものが強まっていた可能性があると考えた。だから、さまざまな提案に賛成はするものの、直前になると不安が強まり、一歩足が踏み出せなかったのではないかと思うのである。治療者との「待ち合わせ」という提案は少しリスクのあるものであった。治療者が診察室から外に出ることは治療者が一歩彼の現実世界に近づくことであり、また彼からしてみれば彼自身の決心を迫られることであった。おそらく「待ち合わせ」そのものに意味があったのではなく、いくらか治療者との関係が確かなものになっていたからこそ、「主治医との約束を果たそう」と思うようになったのではないかと思う。

注:引用中の「発達障害」については、例えば拙エントリを参照して下さい。

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【20】精神科臨床では「診立て=ケースフォーミュレーション」との主張について

標記について、内海健、神庭重信編の本、『「うつ」の舞台』(2018年発行)の Ⅳ.文化と精神 の 第7章 「新しい精神の科学」で語る「うつの起源と未来社会の物語」 の 1. 伝統精神医学における診断単位設定の方法論 の「B. 基礎概念・診断単位はどうやって指定されてきたか」における記述の一部(P156~P157)を次に引用します。

(前略)[4] 診立て
精神科臨床では,患者の「診立て」21)22)が立てられる。「診立て」は単に病名を付けることではない。病態構造を読んで 病態の成り立ちから治療転帰までの全体について仮説を立てることである。患者の一連の体験・言動について,了解可能な部分と了解不能な部分がそれぞれ明らかとなると,了解不能な部分を説明できるような病的実体が探索される。探索しても実体が見いだせない場合も多いが,想定される諸病因を組み合わせて,まるでジグソーパズルを解くように,病態構造全体を洞察する仮説が浮かんでくる。この仮説を組み立てる作業が「診立て」(英語ではケースフォーミュレーション)である。(後略)

注:(i) この引用部の著者は豊嶋良一です。 (ii) 引用中の文献番号「21)」は次の資料です。 【中安信夫:「診立て」とは成因を考慮した病名の暫定的付与であり,それは終わりのない動的なプロセスである-山本周五郎著『赤ひげ診療譚』を取り上げて.臨床精神医学 43 (2) : 159-170, 2014.】 (iii) 引用中の文献番号「22)」は次の本です。 「中安信夫:反面教師としての DSM -精神科臨床診断の方法をめぐって.星和書店.2015.」 (iv) 引用中の「フォーミュレーション」(formulation)に関連する、「diagnosis」(診断)と「formulation」との違い及び「どれだけ深く formulation できるかで,支援が違ってくる」ことについては、次のWEBページを参照して下さい。 「診断に頼らない診かた 精神科診療に欠かせない発達と生活の視点」の「本人はどう体験しているのか」項(注:上記『「diagnosis」(診断)と「formulation」との違い』に関連する『病名診断作業と「ケースフォーミュレーション」作業の乖離』についてはここを参照して下さい。 (v) 引用中の「ケースフォーミュレーション」に関連してここ以外にも、 a) 認知行動療法における「ケースフォーミュレーション」の説明について、マイケル・ブルック、フランク・W・ボンド編著、下山晴彦編訳の本、「認知行動療法 ケースフォーミュレーション入門」(2006年発行)の 第1章 ケースフォーミュレーションの成立と発展 の 4 米国におけるケースフォーミュレーションの展開 の「ケースフォーミュレーションの概念の確定」項における記述の一部(P25)を次に引用します。 『ケースフォーミュレーションは,介入の手続きではない。それは,患者と,患者が直面している問題を理解するための方法である。ケースフォーミュレーションをすることで,事例を理解し,事例に適した介入の手続きと段取りを組むことが可能となるのである。』 b) 認知行動療法及びその発展型であるスキーマ療法でも上記「ケースフォーミュレーション」が不可欠であることについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 c) 上記「ケースフォーミュレーション」の別名である漢字を使用した用語「事例定式化」は認知療法にとっても非常に重要なことについて、ジュディス・S・ベック著、伊藤絵美佐藤美奈子訳の本、「認知療法実践ガイド:困難事例編 続ジュディス・ベックの認知療法テキスト」(2007年発行) の 第1章 治療中に生じる諸問題を同定する の V 治療上の問題を回避する の「1 診断と定式化」における記述の一部(P20)を次に引用(『 』内)します。 『正確な事例定式化を行うこともまた,非常に重要である。』 d) 認知行動療法における「症例の概念化-3つのレベル」については次の資料を参照して下さい。 「こころのスキルアップ・プログラム 認知療法・認知行動療法の視点からの「症例の概念化-3つのレベル」シート e) そして自閉症スペクトラム障害の成人患者における認知行動療法のモデルで外在化する形での上記「ケースフォーミュレーション」については、例えば次の資料を参照して下さい。 「自閉症スペクトラム障害の成人患者に対する認知行動療法の試み」 e) なお、認知行動療法における「みたて」の治療的意義については次の資料を参照して下さい。 「認知行動療法の視点と実践的工夫」の『「みたて」の治療的意義』項

一方、治療の出発点として利用される患者の個別性を重視した把握の様式、もしくはそれに基づいて行われるアセスメントである「問題の現実に即したオーダーメイドのケースフォーミュレーション」を含む「精神療法におけるケースフォーミュレーション」の可能性については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えてケースフォーミュレーションにおける(疾病の)診断を超えて臨床的見解を形成するための資料提供の役割について、同本中の下山晴彦著の文書「心理療法(精神療法)におけるケース・フォーミュレーションの役割」の Ⅳ 診断を超えて生活機能に基づく問題理解と問題改善の支援を促す役割 の「1. 診断を超えて臨床的見解を形成するための資料提供の役割」における記述の一部(P18)を以下に それぞれ引用します。

1. 診断を超えて臨床的見解を形成するための資料提供の役割
上述したようにアセスメントにおいては,複雑な問題状況を理論モデルで割り切ってしまう危険性がある。精神医学的診断は,そのような理論モデルの一つと言える。そこで,ケース・フォーミュレーションと診断の違いを確認していくこととする。DSM や ICD といった一般的診断分類基準に従って患者の病気を客観的(操作的)に判断し,分類する。それに対してケース・フォーミュレーションは,病気を含む患者の問題が成立し,維持されている状況に関する仮説となる。診断では症状の客観的評価に基づき,病気の確定が目指される。それに対してケース・フォーミュレーションは,病気を含む患者の問題が成立し,維持されている状況に関する仮説となる。診断では症状の客観的評価に基づき,病気の確定が目指される。それに対してケース・フォーミュレーションは,病気という一般的分類ではなく,問題の個別状況に即して問題の成り立ちを探り,介入方針を定めるための仮説となるこ。患者の主観的見解を含めた多面的要因が絡み合いながら時間経過とともに変更されることが前提となる。
さらに診断との違いとして,ケース・フォーミュレーションはクライアントと協働して作成するということがある。診断は,原則として医師が患者を問診し,診断分野や診断マニュアルにしたがって判断をする。それに対してケース・フォーミュレーションは,ある程度ケース・フォーミュレーションのアイデアができてきたらセラピストは,クライアントに対してそれを仮説として提示し,説明をして意見を出してもらい,修正し,より現実に即したものにしていく。
医学的診断体系では,医学(あるいは病理)モデルに従って(想定される)生物学的病因→疾病診断→医学的治療という枠組みが前提となる。クライアントの問題を疾病の症状とみなし,薬物療法を始めとする生物学的な介入が行われる。問題の成立についても,症状を問題とみなし,その成立は疾病が原因になって起きたという医学(病理)モデルを前提とした問題理解がなされる。
しかし,メンタルヘルスの問題にあっては,生物学的要因だけではなく,心理学的要因や社会的要因が複雑に絡み合って成立している。心理的要因としては,クライアントの主観的な意見も重要となる。この点で診断を超え,生物学的要因,心理的要因,社会的要因に関連する情報を総合して問題の成り立ちについての臨床的見解を形成する必要がある。ケース・フォーミュレーションは,診断を超えて総合的な臨床的見解を形成する資料を提供する役割がある。(後略)

注:i) 引用中の「介入方針を定めるための仮説となるこ。」は「介入方針を定めるための仮説となる。」の誤字かもしれません。 ii) 引用中の「DSM-5」については、例えば次の資料を参照して下さい。 「DSM-5 病名・用語翻訳ガイドライン(初版)」 加えて引用中の「ICD」に関連する改訂された「ICD-11」(参照)における精神的、行動的、神経発達的障害群の病名リストについては例えば次のエントリ「2018/06/19:ICD-11日本語版06精神的、行動的、神経発達的障害群(目次と説明部分)」を参照して下さい。)

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【21】精神科医における診断と治療の範囲について

最初に精神科医の「診断基準」について、坂元薫著の本、「うつ病の誤解と偏見を斬る」(2014年発行)の 第10章 名医・ヤブ医者をめぐる誤解と偏見を斬る② の「良医・悪意とは」における記述の一部(P181~P182)を次に引用します。

良医・悪意とは(中略)

かかってはいけないヤブな精神科医の「診断基準」を挙げてみた(表12)。みずからの反省点もかなり含んでいることに改めて気づき、忸怩たる思いであることを告白したい。
それでは、良医、かかりたい精神科医の「診断基準」とはどのようなものか。こういう精神科医でありたい、そして、自分がうつ病になったら、こんな精神科医に診てもらいたいと思うものを挙げてみた。現在の筆者は、かろうじて数個を満たすだけなのが悔しい(表13)。

注:引用中の「表12」及び「表13」について、共に以下に形式を変更して引用します。

表12 かかってはいけない精神科医の「診断基準」

1.患者や家族の質問に丁寧に答えてくれない
2.患者や家族の目を見て話さない、電子カルテばかり見ている
3.横柄な言葉遣いや態度が眼にあまり、まるで患者を見下しているよう
4.患者のつらさに対する共感に乏しい、つらいこころのうちを理解しようとしない
5.患者の感情に巻き込まれすぎて、冷静さを失ってしまうことがよくある
6.十分な説明もなしに、いきなり数種類の薬を処方する
7.多剤併用大量投与に疑問をもたない
8.物事を決めつけてかかる
9.自分の人生観を押しつける
10.短気でイライラしやすい
11.自信がなさそうで頼りない
12.勉強不足で治療に関する最新知識を得ようとしない

表13 かかりたい精神科医の「診断基準」
1.優しく、何でも話せる雰囲気をいつも醸し出している
2.一貫して親身な診療姿勢がみられる
3.診たてが適切である
4.納得のいく説明をしてくれる
5.患者本人だけでなく、家族への適切な対応をしてくれる
6.辛抱強い、長い目で回復を見守ってくれる
7.勉強家、最新の知識をいつもアップデートしている
8.患者の自己治癒力を引き出す能力がある
9.適切な薬物療法が行える
10.薬物療法だけでなく、精神療法も重視している
11.病気を寛解に導いてくれる
12.精神科医療の限界をわきまえている

加えて、精神科における治療で近道をとることのデメリットについて、べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、杉山登志郎解説の本、「身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法」(2016年発行)の「エピローグ 選ぶべき道」における記述の一部(P585)を次に引用します。

(前略)すでに見たとおり、私自身の職業は、問題を軽減するどころか深めることが多い。今日、多くの精神科医の仕事は製造ラインの流れ作業のようなものだ。ろくに知らない患者と診察室で一五分ぱかり会って、苦痛、あるいは不安、抑うつ状態を緩和する薬を処方する。彼らが伝えるメッセージは、「私たちにまかせておけば、治してあげます。黙って言われたとおりに、これらの薬を服用して、三ヶ月後にまた来てください。ただし、アルコールや(違法な)薬物に頼って自分の問題を解決しようなどとは、けっしてしては駄目ですよ」といったところだろう。治療でこのような近道をとれば、自ら健康を管理する能力や、「セルフ(自分そのもの)」によるリーダーシップを育むことはできない。治療におけるこの指向性が表れている悲劇的な例の一つが、鎮痛剤の処方の蔓延で、毎年アメリカでは、銃や自動車事故よりも鎮痛剤のほうが多くの命を奪っている。(後略)

加えて「精神科医は薬のソムリエにあらず」の視点から、井原裕著の本、「激励禁忌神話の終焉」(2009年発行)の 第7章 精神科医は薬のソムリエにあらず の「薬を出す以外に能がない!」における記述及び『「薬のソムリエ」をあえて求める患者』における記述の一部(P133~P134)を次に引用します。

「薬を出す以外に能がない!」

インターネットの掲示板では、「薬を出す以外に能がない!」が、精神科医批判の代表である。掲示板は、自制が利かない世界であり、過激なコメントがさらに過激なコメントを誘う。批判される医者の立場からすれば、血も凍るような辛らつな表現が並ぶ。
掲示板などジャンク情報だけなのだから黙殺して差し支えない」、そう言い切ってもいいのかもしれない。実際、掲示板ぐらい、われわれ精神科医にとってメンタルヘルスに悪いところはない。掲示板の指摘をすべて真剣にとらえていては、制縛状態に陥って、仕事にならない。
しかし、それにしても、精神科医が「薬を出す以外に能がない」とすると、それは誇れることではない。掲示板の書き込みのなかでも、この指摘は、今日の精神科医に対する批判として的確であるように思える。
精神科医が「薬のソムリエ」と化す背景には、精神科医の側の現実逃避はないか。薬物療法依存となって、職業人として本来とりくむべき使命から逃げ出していないか。精神科医は、患者が何を求のているか知っている。しかし知ったうえで、あえてその話題を避けようとしているのではないか。面倒なことにならないように、「君子あやうきに近寄らず」に徹しているのではないか。
西園は、薬物順法への精神科医の過度の依存を戒め、次のように述べている。

「考えられる可能性としては、薬物療法精神科医も患者も依存してしまい、治療に対する意欲、態度、行動を阻害してしまう。さらに、医学的モデルにとらわれ、処方する精神科医を権威的存在にしてしまい、患者の心理の解明を妨げる」
「深いパーソナリティの問題の解明や行動変化への患者の意欲を妨げ、治療中断を起こすことがある」
「もともと精神療法を期待している患者が薬物療法を施行されることで、精神科医が関心がないと判断してしまう*7-05」

「薬のソムリエ」は、患者に益するところがあるのなら、意味をなす。しかし、実際には、患者は診療時間のすべてを薬の品定めに費やしてほしいとは希望していない。とりわけ、本書で問題にしているうつ病圏の患者は薬の出し入れだけでは満足しない。「うつ病」の保険病名をつけても、実質的には適応の問題や対人葛藤を抱えている。これらを話題にしないかぎり、患者は満足しない。「抗うつ薬を出しておけばいつのまにか治っている」患者は、いない。
都市部の精神科外来を訪れる患者たちは、「舌の肥えたお客」である。しかし、その舌の肥え方は、けっして「薬のグルメ」などではない。自分の抱える未解決の精神的な問題について、どれだけ真剣に相談にのってくれるかが関心事である。患者の眼は節穴ではない。人を見る眼はもっている。治療者の力量を見通す眼力は、おそるべきものがある。
「今日は、このことを相談してみたい」と内心思いつつ外来を受診する。担当医は、開口一番、「どうですか、あの薬飲んでみて?」と聞いてくる。こうして「やれやれ、またか」と失望する患者も少なくない。「この医者は、薬で私をあしらおうとしている」ことにはすぐ気づく。「大事な問題を打ち明けたのに、ていよくごまかされた」との印象を残すだけである。

「薬のソムリエ」をあえて求める患者
薬オタクは、外来で自分の内面を語らない。ただ、薬だけを要求する。「薬のソムリエ」にとっては、またとないお客である。が、そこには都会ならではの暗い一面がある。夜の大都市の迷宮には、ドラッグ・カルチャーというものがある。(後略)

注:i) 引用中の文献番号「*7-05」は次の資料です。 【西園昌久「精神療法-薬物療法との関連」西園昌久、山口成良、岩崎徹也、三好功峰編集『専門医のための精神医学』二〇九-二一二頁、医学書院、一九九八年】 ii) 引用中の「薬のソムリエ」及び『「薬のソムリエ」をあえて求める患者』に関連するかもしれない「向精神薬ソムリエ」については、次の資料を参照して下さい。 「自殺総合対策における精神科医療の課題 ――総合的な精神保健的対策を目指して――」の「Ⅲ.『南条あや』が精神科医療に投げかけた問い」項

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【22】トラウマ、PTSD、複雑性PTSD又はストレス関連障害と他の疾患との関連を示す論文(要旨)の紹介について

標記論文又は論文要旨を次に紹介します。

[A]論文要旨「Stress related disorders and subsequent risk of life threatening infections: population based sibling controlled cohort study.[拙訳]ストレス関連障害及びその後の生命を脅かす感染症のリスク:人口ベースの兄弟対照コホート研究」(論文要旨[注:本文も示されています])及び「Posttraumatic Stress Disorder and Incident Infections: A Nationwide Cohort Study.[拙訳]心的外傷後ストレス障害とありがちな感染:全国コホート研究」(論文要旨)をそれぞれ次に引用(前者後者)します。その後に脚注がそれぞれあります。

前者の論文要旨を引用します。

OBJECTIVE:
To assess whether severe psychiatric reactions to trauma and other adversities are associated with subsequent risk of life threatening infections.

DESIGN:
Population and sibling matched cohort study.

SETTING:
Swedish population.

PARTICIPANTS:
144 919 individuals with stress related disorders (post-traumatic stress disorder (PTSD), acute stress reaction, adjustment disorder, and other stress reactions) identified from 1987 to 2013 compared with 184 612 full siblings of individuals with a diagnosed stress related disorder and 1 449 190 matched individuals without such a diagnosis from the general population.

MAIN OUTCOME MEASURES:
A first inpatient or outpatient visit with a primary diagnosis of severe infections with high mortality rates (ie, sepsis, endocarditis, and meningitis or other central nervous system infections) from the Swedish National Patient Register, and deaths from these infections or infections of any origin from the Cause of Death Register. After controlling for multiple confounders, Cox models were used to estimate hazard ratios of these life threatening infections.

RESULTS:
The average age at diagnosis of a stress related disorder was 37 years (55 541, 38.3% men). During a mean follow-up of eight years, the incidence of life threatening infections per 1000 person years was 2.9 in individuals with a stress related disorder, 1.7 in siblings without a diagnosis, and 1.3 in matched individuals without a diagnosis. Compared with full siblings without a diagnosis of a stress related disorder, individuals with such a diagnosis were at increased risk of life threatening infections (hazard ratio for any stress related disorder was 1.47 (95% confidence intervals1.37 to 1.58) and for PTSD was 1.92 (1.46 to 2.52)). Corresponding estimates in the population based analysis were similar (1.58 (1.51 to 1.65) for any stress related disorder, P=0.09 for difference between sibling and population based comparison, and 1.95 (1.66 to 2.28) for PTSD, P=0.92 for difference). Stress related disorders were associated with all studied life threatening infections, with the highest relative risk observed for meningitis (sibling based analysis 1.63 (1.23 to 2.16)) and endocarditis (1.57 (1.08 to 2.30)). Younger age at diagnosis of a stress related disorder and the presence of psychiatric comorbidity, especially substance use disorders, were associated with higher hazard ratios, whereas use of selective serotonin reuptake inhibitors in the first year after diagnosis of a stress related disorder was associated with attenuated hazard ratios.

CONCLUSION:
In the Swedish population, stress related disorders were associated with a subsequent risk of life threatening infections, after controlling for familial background and physical or psychiatric comorbidities.


[拙訳]
目的
トラウマ及びその他の逆境に対する重度の精神医学的反応が、生命を脅かす感染症のその後のリスクと関連しているかどうかを評価する。

デザイン
集団及び兄弟姉妹が一致したコホート研究。

セッティング
スウェーデンの集団。

参加者
1987年から2013年までに同定されたストレス関連障害(心的外傷後ストレス障害PTSD)、急性ストレス反応適応障害、及びその他のストレス反応)を伴う個々人144,919人は、ストレス関連障害と診断された個々人の同じ両親から生まれた兄弟姉妹の184,612人、そして一般集団からのそのような診断のない個々人とマッチした1,449,190人と比較した。

主要なアウトカムの尺度
スウェーデン国立患者登録簿からの高い死亡率を有する重篤感染症(すなわち、敗血症、心内膜炎、髄膜炎、又は他の中枢神経系感染症)の初期診断を伴う初めての入院又は外来患者、そして死因登録簿からの感染症又は感染症を起源とするものからの死亡。複数の交絡因子を統制した後に、Coxモデルを使用して、これらの生命を脅かす感染症のハザード比を推定した。

結果
ストレス関連障害の診断時の平均年齢は37歳(55,541, 38.3%は男性)であった。平均8年間の追跡期間中、1000人年当たりの生命を脅かす感染症の発生率は、ストレス関連障害を伴う個々人で2.9、診断のない兄弟姉妹で1.7、診断のないマッチした個々人で1.3であった。ストレス関連障害と診断されていない同じ両親から生まれた兄弟姉妹と比較して、そのような診断を伴う個々人は生命を脅かす感染症のリスクが高くなっている(ストレス関連障害のハザード比は1.47(95%信頼区間 1.37~1.58)、そしてPTSDでは1.92(1.46~2.52))。人口ベースの分析における対応する推定値は類似していた(ストレス関連障害では 1.58(1.51~1.65)、兄弟姉妹と人口ベースとの比較の差に対し P = 0.09、そして PTSD では 1.95(1.66~2.28)、差に対し P = 0.92)。ストレス関連障害は、研究した全ての生命を脅かす感染症に関連しており、髄膜炎(兄弟姉妹ベースの分析 1.63(1.23~2.16))及び心内膜炎(1.57(1.08~2.30))で最も高い相対リスクが観察された。ストレス関連障害の診断時が若年
、及び精神医学的併存疾患特に物質使用障害の存在は、より高いハザード比と関連していたが、ストレス関連障害の診断後1年目における選択的セロトニン再取り込み阻害薬の使用はハザード比の減少に関連した。

結論
スウェーデンの集団においては、ストレス関連障害は、家族の背景及び身体的又は精神的な併存疾患を統制した後の、その後の生命を脅かす感染症のリスクと関連した。

注:i) 拙訳中の「Coxモデル」及び「ハザード比」に関連する「Cox比例ハザードモデル」については例えば次の参照すると良いかもしれません。 「医学統計勉強会」の特に「生存時間解析生存曲線,Cox比例ハザードモデル」シート[P2]

後者の論文要旨を引用します。

BACKGROUND:
It is unknown whether posttraumatic stress disorder (PTSD) is associated with incident infections. This study's objectives were to examine (1) the association between PTSD diagnosis and 28 types of infections and (2) the interaction between PTSD diagnosis and sex on the rate of infections.

METHODS:
The study population consisted of a longitudinal nationwide cohort of all residents of Denmark who received a PTSD diagnosis between 1995 and 2011, and an age- and sex-matched general population comparison cohort. We fit Cox proportional hazards regression models to examine associations between PTSD diagnosis and infections. To account for multiple estimation, we adjusted the hazard ratios (HRs) using semi-Bayes shrinkage. We calculated interaction contrasts to assess the presence of interaction between PTSD diagnosis and sex.

RESULTS:
After semi-Bayes shrinkage, the HR for any type of infection was 1.8 (95% confidence interval: 1.6, 2.0), adjusting for marital status, non-psychiatric comorbidity, and diagnoses of substance abuse, substance dependence, and depression. The association between PTSD diagnosis and some infections (e.g., urinary tract infections) were stronger among women, whereas other associations were stronger among men (e.g., skin infections).

CONCLUSIONS:
This study's findings suggest that PTSD diagnosis is a risk factor for numerous infection types and that the associations between PTSD diagnosis and infections are modified by sex.


[拙訳]
背景:
心的外傷後ストレス障害PTSD)がありがちな感染(incident infections)に関連づけられているかどうかは不明である。この研究の目的は、(1) PTSD 診断と28種類の感染との関連性、及び (2) 感染割合に関する PTSD 診断と性別との相互作用 を調査することであった。

方法:
研究集団は、1995年から2011年の間に PTSD 診断を受けたデンマークの全住民の縦断的全国コホート、そして年齢及び性別が一致した一般集団比較コホートで構成されていた。Cox比例ハザード回帰モデルを当てはめて、PTSD診断と感染との関連を、我々は調査した。多重推定を説明するために、我々はセミベイズシュリンケージを使用してハザード比(HR)を調整した。我々は相互作用の対比を計算して、PTSD 診断と性別との相互作用の存在を評価した。

結果:
セミベイズシュリンケージ後、あらゆるタイプの感染の HR は1.8(95%信頼区間:1.6, 2.0)であり、結婚歴、非精神医学的な併存疾患、薬物乱用、薬物依存及びうつ病の診断を調整した。PTSD 診断と一部の感染症(例:尿路感染症)との関連性は女性でより強く、一方、他の関連性は男性(例:皮膚感染症)でより強かった。

結論:
PTSD 診断が多くの感染タイプの危険因子であり、PTSD 診断と感染との関連が性別によって調整されることを、この研究の結果は示唆する。

注:i) 引用中の「Cox比例ハザード回帰モデル」に関連する「Cox比例ハザードモデル」については例えば次の資料を参照すると良いかもしれません。 「医学統計勉強会」の特に「生存時間解析生存曲線,Cox比例ハザードモデル」シート[P2]

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【30】短い診察時間で精神療法を行うための提案について

最初に、問題提起としての短い診察時間等により「保険診療のなかでやろうと思うと、非常に貧しい治療しかできない」ことについては、岡田尊司、咲セリ著の本、「絆の病 境界性パーソナリティ障害の克服」(2016年発行)の 第2章 精神科の医師にかかる の「心理療法と医療経済」における記述の一部(P65~P66)を次に引用します。

心理療法と医療経済(中略)

岡田 (中略)やはり、心理的なケアがものすごく大事ですし、あとは家族とかパートナーへの働きかけが、とても重要です。なので、私のところでは、薬での治療が全体に占める割合は、せいぜい三分の一か、それ以下くらいで、後は心理療法と家族へのサポートに力をおいていますね。
咲 心理療法というと、カウンセリングのことでしょうか? 私の行った病院って、どこもやってくれるところがなくって。私もできるならカウンセリングで治っていけたらって思っていたんですけれども、そういうとき、どういうところに行ったらいいんでしょう?
岡田 そうですね、そこはちょっと問題があるんですね。いまの保険制度は混合診療を禁止しています。保険診療保険外診療の両方をいっしょに受けることができないんですね。保険外診療を受けようと思ったら、ぜんぶ保険外になってしまうんですね。
咲 え! 薬を出すのも保険外?
岡田 はい。いまの制度だと、それが原則なんですね。そういう縛りがある。ですから、けっきょく保険診療のなかでやろうと思うと、なんといいますか、非常に貧しい治療しかできないのが現状です。そのなかで、やる場合もありますよ、経済的に余裕がないかたとか、そういう場合に。ほんとうはせめて五〇分とか、六〇分とか時間をとってあげたい、でもそれをやっていたら経営が成り立たないという問題があるんですね。私のところなんかでは、混合診療を避けるために、カウンセリングセンターを別につくっています。そこへ依頼して、連携しながらやるっていうことですね。情報共有しながら。そうすることで、混合診療を避けてやれるわけですね。(後略)

注:引用中の「保険診療のなかでやろうと思うと(中略)、非常に貧しい治療しかできないのが現状です」に関連するかもしれない、「ひとりにかけられる時間というのは、五分から一〇分の間、そんな感じになる」ことについて、同章の「医師の診察とカウンセリング」における記述の一部(P72~P74)を次に引用(『 』内)します。 『岡田 そもそも日本の場合、ひとりひとりの保険点数というのが限られているんですね。ドクターが一日で診なければいけない人数ということでいえば、心療内科なんかでも、多いところでは一日五〇人以上診ていると思います。割り算するとわかりますが、ひとりにかけられる時間というのは、五分から一〇分の間、そんな感じになりますよね。そういうなかで、ちゃんとしたカウンセリングはなかなか難しい。』

一方、上記「非常に貧しい治療の改善」にむけての一提案として、井原裕著の本、「うつの8割に薬は無意味」(2015年発行)の 第6章 大事なのは治療の優先順位 の「精神療法的に思考するとは、優先順位を考えること」及び「治療とはPDCAサイクルを回すこと」における記述(P189~P196)を次に引用します。

精神療法的に思考するとは、優先順位を考えること
学会や研究会などで、ある症例をめぐって精神療法が議論になると、私はしばしば絶望的な気分になります。この精神療法にはエビデンスがあるとか、あの技法に関しては最新の研究がどのジャーナルに載っていたなどといった、学術的な知識を披露して、それで精神療法について何かを論じたつもりになっている人がいるのです。
ここには大きな問題があります。精神療法というものについての、とてつもない誤解があります。どの精神療法技法が有効であるかとか、どの精神療法技法には統計学的にエビデンスレベルの高い論文が出ているかとか、どのジャーナルに最近どんな論文が出ていたかなどは、個人の治療にとってはまったく些末なことにすぎません。無益なおしゃべりに時間を浪費することなく、今必要なことにストレートにアプローチしていかなければなりません。
精神療法的に思考するとは、個々の症例に即して、治療の優先順位を考えることです。現在、この患者において何が一番の問題になっているのか、今日の診察ではどのようなことが面接の話題になりそうか、あるいは、どのような話題には今深入りすべきではないか、さらには、患者があえて今深入りすべきことに触れたときに、それに対して、どのように言葉を返していくか。そういった「今、ここで」必要なことを考えることが、精神療法的に思考するということなのです。ナントカ精神療法一般とか、カントカ技法一般を論じても意味がありません。「この患者の、今、ここ」をこそ徹底的に考えなければいけません。
テニスの錦織圭は、2014年にマイケル・チャンコーチにつくようになってから急速に力をつけてきました。チャンコーチが錦織に指導したことは、テニス技術一般ではなく、むしろ、錦織の体型に合った技術であり、それを可能ならしめるトレーニングでした。チャンコーチは、欧米の選手と比べれば腕の短い錦織が左右に振り回されることなく戦うために、思い切ってベースライン近くに立つように指導しました。打点が近くなると、ライジング・ボールの威力が増し、左右に振られることも少なくなります。もちろん、技術的に困難なところはありますが、それを克服するための練習計画を作ることもまた、チャンコーチの仕事であるわけです。
チャンコーチは、錦織に今必要なことは何かを考えました。精神科医の精神療法も、まったくこれと同じです。「この患者に今必要なことは何か」、それを考えることこそ精神療法的に思考するという意味です。
ひとりの患者さんが、同時に多数のテーマを抱えています。短時間睡眠やアルコール乱用などの生活習慣の問題に加え、過重労働、超過勤務、派遣切りなどの労務関係、失業、多重債務、相続問題などの経済問題、上司部下関係、嫁姑の葛藤等々。
精神科医として最悪なのはこれらの問題に日をつぶって、薬を出して強引に治そうとすること。これが一番いけない。しかし、次にいけないのは、これらの問題のすべてを等価に扱って、優先順位をつけないことです。
精神療法的に思考するとは、優先順位をつけることです。そして、患者さんと話し合って、「できることから始めましょう」と提案することです。問題は錯綜しています。患者さんは混乱しておられます。でも、順を追って解きほぐせるところから解きほぐしていけばいいのです。寝不足の人は十分眠っていただく。その場合、「6時起床、23時就床」などと具体的に目標を決めたほうがいいでしょう。酒を飲みすぎている人は、量を半分にする、1日おきにする、あるいは、いっそのこと断酒していただく。最初の数日はただ生活習慣の是正だけを行う。それだけで疲労はとれ、脳はクリアになります。そうなったところで、うつをもたらした事情をひとつずつ解決していけばいいのです。
事情はさまざまです。過重労働、多重債務、人間関係など。これらは、混乱した頭では解決策が浮かびません。しかし、脳を休めた後であれば、「あの人に頼もう」とか、「弁護士に相談しよう」などといったいい知恵が浮かんできます。
結局、精神療法とは個々の患者に即して、今、彼、彼女がどのような状況に置かれているか、彼、彼女がどのような健康状態・生活習慣の状態にあるか、彼、彼女が利用できる資源、つまり人的資源、経済的余裕、時間などがあるかを総合的に判断して、瞬時に優先順位を考え、後回しにしていいことと、すぐ着手すべきこととを明確に区別して、患者に対して今なすべきことをストレートに示し、次回までの課題を具体的に伝えることなのです。
大切なことを繰り返します。精神療法とは、個々の患者に応じて、優先順位を考えていくこと。患者さんの個別性を等閑視して、どの精神療法技法が有効であるかとか、どのジャーナルにエビデンスレベルの高い論文が出ているかなどの無駄話にうつつを抜かすことではないのです。

治療とはPDCAサイクルを回すこと
私の友人で優れた精神科医の一人に姜昌勲先生という人がいて、この人がPDCAサイクルということをしばしば言っています(たとえば、「おとなのADHDの治療は、どう進めるか?」精神科治療学28:267-272頁、2013年)。
PDCAは、精神医学・精神療法学のなかから出てきた概念ではなく、むしろ、経営学における生産管理や品質管理などの管理業務の方法論として出てきたものです。
糖神科臨床に応用すると、Plan、Do、Check、Actのサイクルを外来ないし入院の診察ごとに回していき、全体の流れを上向きのスパイラルにして、継続的に状態の改善へと向かわせようとするというイメージです。
私も姜先生の考え方を参考にして、PDCAということを常に意識しています。この方法は、毎回の診察を目標をもって行い、かつ、診察を単発ではなくシリーズにしていくことで、治療の流れを作ることができ、きわめて有力な方法であると思います。
すなわち、初回診察の最後に、次回までの目標を設定します(Plan)。そして、初診後、患者さんに試みてもらいます(Do)。第2回診察の最初に、その達成状況を確認します(Check)。そして、出来なかったら目標を再検討します(Act)。そして、第2回診察の最後に次回までの目標を設定します(Plan)。そして、患者さんに試みていただきます(Do)。このサイクルを回していくのです。
うつ病双極性障害の治療においては、課題につねに睡眠・覚醒リズムの安定があり、それを実現するための具体的な方法を話し合うことが毎回の診察のテーマとなるでしょう。特にI型の場合、本人ひとりでは無理であり、ご家族にも関わってもらって、次回の外来までどう過ごすかを話し合います。目標については、診察のたびに達成状況を見て上方修正・下方修正していかなければなりません。
精神療法については、多くの人が誤解し、特にそれを自分では行っていない精神科医たちは、とてつもなく誤解していますが、ある技法を処方すれば、そのプロトコール(実行手順)に従って着々と治っていくようなものではありません。精神療法のプロセスというものは、行きつ戻りつ、三歩歩いて二歩下がるような、らせん状の進行をするものです。
診療報酬上の「通院精神療法」に関しては、定義上「医師が一定の治療計画のもとに危機介入、対人関係の改善、社会適応能力の向上を図るための指示、助言等の働きかけを継続的に行う治療方法」とされています。これを読めば、最初にある「一定の治療計画」を立てて、それを実行していくようなものに見えますが、実際には、計画は診察のたびに修正しなければなりません。そして、診察のたびに適切な危機介入、指示、助言を行うこととなります。
「働きかけを継続的に行う」ために必要なことは、診察のたびに目的を明確にすること、そして、診察のたびに次回診察までの課題を患者さんに提示することです。前回の診察を踏まえて、今回の診察を始めていき、次回の診察につながるように今回の診察を終え、診察後、カルテに次回の診察の最初に確認すべきことを記す。こういうことを繰り返していけば、診察が連続ドラマになります。
逆に、下手な治療者というものは、毎回の診察で何を話題にしたらいいかわかっていません。だから、診察を「最近調子はどうですか?」というような間が抜けた大雑把な質問で始めることになります。前回の診察で患者さんに課題を提示することができていれば、当然、今回の診察ではその達成状況を聴くところから始めなければなりません。しかし、そもそも前回に具体的に何をせよと言っていない、だから、前回の診察を踏まえて今回の診察を始めるということができない。結果として、診察が1回ごとの単発に終わり、連続ドラマになっていかないのです。これでは、「働きかけを継続的に行う」ことはできません。
PDCAサイクルを回すとは、診察をシリーズにすることです。担当医と患者とで目標を共有し、診察のたびに確認し、次の診察につなげていく。こうして、ひとつの物語を患者と医師とで共同して展開させていこうとするわけです。

注:引用中の「PDCAサイクル」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「PDCAサイクル」、「まちづくりのPDCAサイクル」 加えて次の資料もあります。 「自律的にP-D-C-Aサイクルを廻そう ~経験を通して学ぶ力を身につけよう~

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注:本エントリは仮公開です。予告のない改訂(削除、修正、追加、公開日や修飾の変更等)を行うことがあります。

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*1:注:「診断見逃し」(過小診断)や「過剰診断」の問題点[ここを参照]、発達障害の予後を決めるのは障害の重さではなく,「助けてもらうパターンを身につけたかどうか」である[ここここを参照]、「解説者」[ここここ、及びここを参照]、そして『ASDとは「ASD特性+こじれ(トラウマ累積)」だと考えている』、『知的障害のないASDにも対処困難な課題がある。それは端的に言えば、「発達障害+トラウマ」の問題である。』[共にここを参照]ことを含みます。

*2:注:発達性トラウマ症候群又は発達性トラウマ障害を含みます

*3:注:PTSD(他の拙エントリのリンク集を参照)は心的外傷後ストレス障害の略語です

*4:上記「ニューロセプション(神経知覚)」についてはここを、味覚嫌悪に関連する「単一試行学習」についてはここを、「血管迷走神経反射」についてはここを それぞれ参照して下さい。また、上記ポリヴェーガル理論の神髄が「安全を求めることこそが、私たちが成功裏に人生を生きていくための土台である」ことについてはここを参照して下さい。加えて「安全の合図がトラウマに対する効率的かつ深遠な対抗手段であることをポリヴェーガル理論は提案する」ことについてはここを参照して下さい。一方、ポリヴェーガル理論における「麻痺」や「フリーズ」にも関連する主に自閉スペクトラム症者におけるカタトニア(症状群)の例についてはここを参照して下さい。これら以外にも「複雑性トラウマへのポリヴェーガル理論によるアプローチ」の例についてはここを参照して下さい。

*5:注:引用において「人格交代を除いた解離のほとんどすべての症状を呈している」との記述があります

*6:本田秀夫著の本、「自閉スペクトラム症の理解と支援」(2017年発行)の 第6章 生来性の「変異」として理解できる自閉スペクトラム の「★非障害自閉スペクトラム」において、次に引用(『 』内)する非障害自閉スペクトラムを説明する記述(P89)があります。 『私は,このように自閉スペクトラムの症状は残っているけれども,社会適応は悪くない人たちや,一部社会適応の良好な人たちさえいるということに気づきました。そして,こういう人たちのことを「非障害自閉スペクトラム」と呼ぶことにしています。』 加えて、次の資料にも「非障害自閉スペクトラム」についての説明があります。 「大人の発達障害」の「Ⅰ.特性と診断との関係」項

*7:ちなみに愛着障害については、他の拙エントリのリンク集を参照して下さい。

*8:なお、パニック症への森田療法については次のエントリを参照して下さい。 「パニック症への森田療法」 一方、引用はしませんが、原井宏明監修・著、岡嶋美代著の本「図解 やさしくわかる強迫症」(2022年発行)によると強迫症強迫性障害)に対する曝露療法の一種である ERP(例えばマニュアル「強迫性障害(強迫症)の認知行動療法マニュアル (治療者用)」を参照)を実行することは「バンジージャンプ」(ただし、ツイート[その1その2]を参照して下さい。加えてWEBページ「まるで電車に乗る感覚…ベテランカウンセラーが富士急ハイランドの絶叫マシーンに10回以上乗った驚きの結果」もあります。)又は「強迫プールに飛び込むこと」に喩えられています(前者は同本の P104、P128、P133 を、後者は P127 をそれぞれ参照)。また、原井宏明監修の本「図解 やさしくわかる強迫性障害に悩む人の気持ちがわかる本」(2013年発行)の「解説 強迫性障害の治療法は薬物療法認知行動療法」(P62)において、上記ERPには確かな動機づけが必要なことについての次に引用(『 』内)する記述が有ります。 『ERPは患者さん本人が大きな恐怖に向き合い苦痛を伴う治療法です。それを知ったうえで、本人の「治りたい」という希望と「将来の目標」という確かな動機づけが必要です。』 一方、OCD(強迫性障害)としての加害恐怖・確認強迫を23年間も患って寝たきりにもなった方が、上記ERPにより回復した例については他の拙エントリのここここを参照して下さい。