krns-linkのブログ

まだ仮公開で、今後も本公開までドタバタします。コメント欄は有りません。ちなみに、拙ブログ作者は医療関係者ではありません。拙ブログは訪問者の方々がお読みになるためのものですが、鵜呑みにしない等、自己責任でお読み下さい(念のため記述)。

一部拙エントリの補足説明について(その5)

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前書き

本エントリは過日に公開されたエントリ「一部拙エントリの補足説明について(その4)」に続くもので、社会的な視点を含む記事を集めている傾向があると考えます。

≪主な改訂の履歴≫
主な改訂の履歴はありません。

補足説明(その5)についての概要

本エントリは社会的な問題を含む記事を引用します。

【1】老子の視点からの思い込みをやめる「ジャッジフリー」の考え方及び様々な思考について、その他

標記老子の視点からの思い込みをやめる「ジャッジフリー」の考え方について、野村総一郎著の本、「人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える労使の言葉」(2019年発行)の『思い込みをやめる「ジャッジフリー」の考え方』における記述及び「2500年以上の時を超えてきた、老子の言葉」における記述(P010~P016)を以下に引用します。なお、標記「老子」に関連する「老子哲学療法」については次のWEBページを参照して下さい。 『野村総一郎さんの「老子哲学療法」① /西洋発セラピーを東洋的に改良』、『野村総一郎さんの「老子哲学療法」②/あえて「弱く生きる」ことの意味』、『野村総一郎さんの「老子哲学療法」③/心が楽になる「ジャッジフリー」

思い込みをやめる「ジャッジフリー」の考え方

はじめまして。野村総一郎と申します。くわしい経歴はあとがきにゆずるとして、私は精神科医として、45年間、延べ10万人以上の患者さんと向き合ってきました。そのなかには、

・自分は能力が低く、誰にも評価されない
・あの人はズルくて要領がいいのに、自分は不器用で損ばかりしている
・友人たちは、充実した生活を送っていて妬ましい

という思いを抱えた人たちがたくさんいました。

そういった悩みや不安の根本的な原因は、どこにあるのでしょう?

大きな理由の一つは「いつも他人と比べてしまっている」というところにあると、私は考えています。「他人と自分」という関係に悩み、過分に苦しめられているのです。

この悩みに対して、とても有効な方法が一つあります。
それは「ジャッジフリー」という思考を取り入れることです。

「ジャッジフリー」ってどういうこと? と思われる方も多いでしょう。
「ジャッジ」とは「判定する」「判断を下す」という意味の言葉。さらに言うなら。「何が正しいのかを決める」という意味合いを含んでいます。

この「ジャッジすることを、意識的にやめる」というのか「ジャッジフリー」という思考です。

じつは、私たちはさまざまな局面で、この「ジャッジ」というものをほとんど無意識にしてしまっています。優劣をつけ、勝ち負けを意識し、上に見たり、下に見たりしているということです。

・お金がある人は幸せ。ない人は不幸。
・顔がいい人は幸せ。そうでない人は不幸。
・仕事で評価されている人は偉い。されていない人はダメ。
・友人が多い人は素敵。少ない人は寂しい。
・話が上手な人はかっこいい。口べたな人はかっこ悪い。

こんな、ふうに、数え上げればキリかないほど、世の中は「ジャッジ」にあふれています。
精神科のクリニックにも、こうした「ジャッジ」に苦しんでいる人がたくさん訪れます。
そんなとき私は患者さんたちに「自分で勝手に優劣をつけてしまっているだけではありませんか?」と問いかけ、「その行為をしている事実」をまず理解してもらうよう努めます。
そして「ジャッジしないことの大切さ」をていねいにお話ししていきます。

ジャッジフリーという言葉は私の造語なのですが、ストレスのない生活を「ストレスフリー」なんて言うでしょう。そのストレスを生み出している原因の一つが「ジャッジ」にあります。ですから、ストレスフリーを目指すなら、まず「ジャッジフリー」から始めてみてほしいのです。

ただ、この考え方は、私のオリジナルではありません。
じつはこれ、古代中国の思想家・老子のメッセージなのです。

2500年以上の時を超えてきた、老子の言葉

老子と聞くと「昔のすごい人? 名前くらいは知ってるけど」という方が多いのではないでしょうか。
老子は、紀元前8世紀ごろの中国の春秋戦国時代と呼ばれる動乱期に活躍したと言われる思想家。しかし、その出生も、実在したかどうかさえ謎に包まれているという、とても神秘的な存在です。

そんなふしぎな人物の言葉が、2500年以上の時を超え、国をも超えて、今なお多くの人の心に影響を与え続けている。これは、考えてみるととてもすごいことです。
それだけ各時代の人たちが 「これをまとめて、後世に伝えなければ!」という強い思いを持ち、継承されてきたわけです。
ある意味「真理」である証拠とも言えるでしょう。

では、老子という人は、どのような言葉を残しているのでしょう?

たとえば、こんな一節があります。?

琭琭として玉のごとく、珞珞として石のごときを欲せず。

これは、こういった意味の言葉です。

ダイヤモンドのような存在になったらなったで、それもいい。
石ころのような存在になったのなら、それもまたいい。
それが自然の姿なら、受け入れて、ただ生きていくだけ。

そもそも何かになりたいとかなりたくないとかではなく、自然のままでいいじゃないか。ダイヤモンドと石ころに優劣をつけて、ジャッジしたりはしないよ、というスタンスを老子は説いています。

老子に言わせれば、世の中にある物事について、いちいち「よい、悪い」「偉い、偉くない」「すごい、すごくない」というジャッジをすること自体がおかしい。

これを老子は「無為」という概念で説明していますが、どんな存在でも、自然のままにいれば、ただそれだけでいい、わざとらしいことをせず、自然に振る舞え、ということなのです。
これこそ「ジャッジフリー」の思想です。

注:引用中の「ジャッジフリー」に関連するマインドフルネスの視点からの「評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」については次のWEBページを参照して下さい。 「日本マインドフルネス学会」の「設立趣旨」項

加えて老子の視点からの終わりが見えずに苦しくなった時の「傘の思考」について、野村総一郎著の本、「人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える労使の言葉」(2019年発行)の「終わりが見えずに苦しくなったら 傘の思考」における記述の一部(P106~P109)を形式を変更して次に引用します。

この雨だって、いつかはやむさ

学校でずっと友だちができない。
職場で嫌な上司に当たってしまい、嫌がらせを受けている。
こんな自分のひどい境遇はいつまで続くのだろうか…‥。
こうした悩みもよく聞きます。
どんな人にも「辛い状況」というのは多かれ少なかれあるものですが、それが「続いている」というのは人の心をざらに追い詰めるものです。
「辛いことに直面した」という事実そのものより「それがいつ終わるのかわからない」という、先の見えない不安や絶望感がより苦しいのです。
そんなとさは「傘」のことを考えてみてください。(中略)

「やまない雨はない」「明けない夜はない」といった言葉は、みなさんも聞いたことがあると思います。それを聞いて「そうは言っても今が辛いんだよ」と反発したくなる気持ちもわかります。
しかしこれば「だから、ずっと耐えていろ」「我慢が大事」というような忍耐を強要するメッセージではありません。
もしあなたが、降り続く雨のようなとめどない不安を抱えているとしたら、その不安をひとまずやりすごすための「傘」のような言葉が必要だと私は捉えています。
ほんとうに辛いときは「少しだけじっとして、嵐がすぎるのを待とう」「そうすれば、いつかは必ず終わる」ということです。(後略)

注:引用中の『「やまない雨はない」「明けない夜はない」』に関連する仏教思想又はマインドフルネスの視点からの無常については例えば次の資料を参照して下さい。 「マインドフルネスの理解と実践」の「法則性: 無常・苦・無我ということ」及び「マインドフルネスと無常の力」項

その上に老子の視点からの絶望した時の「塩むすびの思考」について、野村総一郎著の本、「人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える労使の言葉」(2019年発行)の「絶望したら 塩むすびの思考」における記述の一部(P148~P153)を形式を変更して次に引用します。

ほんとうは十分なのに、自分で「足りない」って思い込んでるだけかもしれない。

自分の人生はいつも運が悪くて、不幸な境遇で育ってきた。
家庭は貧しく、両親も、親戚も、友人も誰も助けてくれない。
会社に入っても上司に恵まれず、気づくといじめられている。
これまで必死で努力してきたけれど、一向に報われない。
そうした人たちが辛い境遇にあるのは事実でしょうし、がんばっても報われないということが何度も続くと、「希望を持て!」「前向きに生きていこう!」と言われたところで、なかなかそんな気分にはなれないと思います。
そんなとさは、「塩むすび」のことを考えてみてください。(中略)

以前、都内の高級マンションに住み、年収が五〇〇〇万円を超えるという人があるクリニックを訪れたという話を聞さました。その人は、そんな裕福な状態でも「足りない、足りない」「自分は不幸だ、不運だ」と嘆き、苦しんでいたそうです。経済的な面だけを見れば、十分に満たされ、恵まれているはずなのですが、(経済的な面を含めて)本人は不足を感じているのです。
何をもって満足とするのか。何をもって、幸せや幸運を感じるのか。
ここで大事なのは、幸せや満足というのはそもそも絶対的なものではなく、すべて相対的なものにすぎないということです。
もしあなたが今「私には、他の人よりも幸せが足らない」と思っているなら、「はて、ほんとうに足りていないのかな?」と確認してみるタイミングなのかもしれません。なぜなら、「幸せと不幸」というように、相対的なものというのは、立ち位置によってずいぶん解釈が変わってくるからです。
たとえば、長期の入院生活が続き、なかなか外に出ることができなかった人がいたとします。その人が、ある夏の日にやっと退院できた。輝く太陽の光を浴び、大空の下を散歩したとしたら、このうえない幸せを感じるでしょう。
しかし、毎日暑い中、長袖で仕事をして.いる工事現場の人からすれば「今日は太陽が照っていて暑いなぁ。ついてないなぁ」と不幸の理由にすることもできるわけです。
結局、人生とは、その「感じ方」によって決まるもの。現実そのものではなく、「どう感じるか」が現実を作っているといっても、ある意味過言ではないでしょう。
たとえば塩むすびを食べたとき「なんて質素で、味気ないおむすびなんだ……」と嘆かず、「ごはんの甘みが感じられる」「シンプルなおむすびがいちばんおいしい!」と冗談めかしながらでも、その小さな幸せを感じられる。するとその人にとって塩むすびは幸せな現実を作ってくれるものになります。
パナソニックを一代で築き上げた松下幸之助さんの有名なエピソードに、採用面接のとき「これまでの人生、あなたは幸運でしたか? 不幸でしたか?」と質問するというものがあります。
「幸運だった」と答えた人を採用し、「不幸だ」という人は不採用にしたという話です。
もちろん「幸運」「不幸」という事実が大事なのではなく、あくまでもその人が「どう感じて生きてきたのか」を松下幸之助さんは知りたがったのです。
足るを知り、「自分の人生は自分をここまで生かしてくれて幸運に満ちている」と感じる人は、やはり謙虚になれますし、一生懸命働き、他人への感謝も忘れません。
日常の中にある「小さな幸せ」を感じて生きる。そうして「私は今、十分満足している」とわかることが、「不幸」を増幅させるのをストップでさる、自分で実践可能な唯一の方法かもしれません。(後略)

他にも老子の視点からの思い通りにいかなかった時の「てるてる坊主の思考」について、野村総一郎著の本、「人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える労使の言葉」(2019年発行)の「思い通りにいかなかったら てるてる坊主の思考」における記述の一部(P186~P191)を形式を変更して次に引用します。

1+1=2。だけど、方程式って成立することばかりじゃない。
とくに自然の中ではね。

自分なりに一生懸命準備して、完壁だと思っていたのに、成果がついてこない。
ついてこないどころか、散々な結果になってしまった。
そんな経験をしたことがある人も多いはずです。
人間関係においでも、相手のことをしっかり考え、よかれと思って行動したのに、かえって恨みを買ってしまう。
こちらにしてみれば「そんなつもりじゃなかっなのに……」「相手のことを思ってやったのに……」と落胆してしまいます。
一言で言うならば、世の中うまくいかないことだらけです。
そんなときは、「てるてる坊主」のことを考えてみてください。(中略)

晴れを願って、てるてる坊主をつるしたところで、翌日に雨が降ってしまうことはあります。でも、それが自然というものでしょう。
つい人間は「こうしたから、こんな結果であってほしい」と願いますし、執着の強い人になると「こんなにがんばったんだから、こんな結果でなければならない」「これだけ相手に尽くしたのだから、感謝されて当たり前だ」と思うようになってしまいます。
しかし現実というのは、よくも悪くも予想や期待を裏切ってくるもの。
相手には、相手の感情や事情がありますから、こちらの期待通りの反応を示してくれるとは限りません。
そんなとさはもちろんがっかりしますし、落ち込みますが、そういうときこそ一息入れて「そんなに、正しい因果関係ばかりではないよね」「ちょっと期待しすぎちゃったなぁ」と軽やかにやりすごせるようになりないものです。
てるてる坊主というのは、もちろん方程式通りに、願いを必ず叶えてくれるものではありません。自然というのはそれほどまでにコントロールできないものですから。
しかし、一生懸命願いを込めててるてる坊主を作る、つまり「今の自分にできること」を懸命にがんばる。それ自体が美しいし、その時間が尊い
そんな考え方もできるのではないでしょうか。(後略)

注:引用中の「しかし現実というのは、よくも悪くも予想や期待を裏切ってくるもの」に関連するかもしれない「私たちのこれからの時間、将来の人生に起こることは、すべて想定外のこと」については他の拙エントリの[ここにおける引用の「想定外に向き合う知力」項を参照して下さい。

さらに老子の視点からの挫折した時の「塩大福の思考」について、野村総一郎著の本、「人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える労使の言葉」(2019年発行)の「挫折したら 塩大福の思考」における記述の一部(P180~P185)を形式を変更して次に引用します。

甘いだけだとだんだんうんざりしてくるでしょ。
だから塩っ気があったほうがおいしいよね。

かつて自分は会社を興し、大成功して大金持ちになったのに、不況がやってきて会社は倒産してしまった。
過去の栄光と比べると、今の自分の境遇が辛く、情けない。
そんなふうに、過去の成功と現在の挫折を対比して、思い悩んでいる人も少なくありません。
定年後、リタイアした人がうつになるのもこうしたケースの一つです。
なまじ栄光を経験しているからこそ、今の自分が受け入れられない。
情けなくで、みじめで辛い。そんなふうに思ってしまうのです。
そんなときは、「塩大福」のことを考えてみてください。(中略)

栄光を知っていることはもちろんすばらしいことです。
しかし、栄光だけを知っている人生よりも、挫折や屈辱を味わった人生のほうがより価値がある。そんなメッセージです。
もちろん挫折や屈辱は辛いものですが、この老子の言葉は人生とか、人間性というものの価値を表す一つの本質だと感じます。
別に慰めや励ましで言っているのではなく、もしあなたが人生に迷ったとき「成功しか知らない人」と「成功と挫折の両方を味わった人」のどちらに相談したいと思うでしょうか?
やはりそれは後者だと思います。
たとえば失恋したとき、若いころから人気者で、いつも人に好かれ、誰からもフラれたことがない人に、恋愛相談をするでしょうか。
白分が精神的に苦しんでいるときには、同じような苦しみを経験し、それを乗り越えた人にこそ、話を聞いてみたいと思うのではないでしょうか。
以前、『しくじり先生』という、自分の失敗談を語り、そこから何を学んだのかを紹介するテレビ番組がありましたが、失敗をしたからこそ見える景色がありますし、そんな体験談を多くの人が求めることも事実なのです。
世界的に有名な「ケンタッキーフライドチキン」の生みの親、カーネル・サンダースも、鉄道会社の社員、弁護士、セールスマン、ガソリンスタンドの店長など、さまざまな仕事を経て、何度となく失敗し、彼が「ケンタッキーフライドチキン」を作ったのは、なんと65歳のときでした。
言ってみれば、人生の多くを失敗に費やしてきたわけですが、でもそんな失敗の積み重ねこそが、その後の彼の大きな成功を支えていることは間違いありません。
もし、あなたが今、人生の挫折や屈辱を味わっているとしたら「ああ、これで少しは厚みのある人生になっていくなぁ……」「大きな成功に向かうプロセスなのかもしれない」「ここで人間性が一つ上がるチャンスだ」と達観してみてはどうでしょうか。
直面している挫折が大きければ大きいほど、屈辱が辛ければ辛いほど、その人生の意味は深まっていくというものです。塩大福だって、少しばかり塩っ気があるからこそ、より甘さが際立つというものです。ずーっと甘いばかりでは、最後には食べ飽きて、おいしくなくなってしまいます。
私たちの人生にも、多かれ少なかれ塩っ気があったほうが、より味わいは豊かに、おもしろくなります。
ほんとうに強い人というのは、辛い境遇にあるときでも、どんなに落ちぶれていでも、自分を見失う乙となく、自然のままに生きていける人です。他人を妬んだう、うらやんだりせず、自分の境遇を嘆くでも、腐るでもなく、淡々とナチュラルに生きていける。そんな人がほんとうの強さを備えているのです。(後略)

一方、双極性障害に関連するかもしれない「そわそわしたら木の根っこの思考」について、野村総一郎著の本、「人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える労使の言葉」(2019年発行)の「挫折したら 塩大福の思考」における記述の一部(P124~P129)を形式を変更して次に引用します。

風にはしゃぐ葉っぱは、元気そうに見えるけれど、季節がめぐれば散ってしまう。

浮かれすぎて、つい羽目を外してしまう。
いいことがあって、ついはしゃぎすぎてしまう。
人間ですから、誰にだってこんな失敗はあるでしょう。
いいことがあれば、浮かれたくなるのもわかります。
楽しい体験をすれば、「すごいでしょ」と言いたくなるのもわかります。
しかし、調子に乗ってはしゃいだり、自分の仕事がちょっとうまくいったからといって、まわりの人に過剰にアドバイスしたりすると、大きなしっぺ返しを食うこともあります。
そんなとさは「木の根っこ」のことを考えてみてください。(中略)

浮かれて、騒いでいるときというのは、たいていまわりが見えていません。自分一人がはしゃいでいて、まわりは引いている。そんなこともよくあります。
SNSでも、つい「こんないいことがあった!」「最高にうれしい!」なんて軽々しく投稿をして、ひんしゅくを買うというケースはよくあります。本人にしてみれば、「こんなすばらしい体験をさせてくれて、ありがとう」と感謝の気持ちを込めているつもりなのかもしれませんが、無関係な第三者から見れば「自慢」にしか映らないのも当然です。
そういうときほど「いやいや、ちょっと待て」「はしゃいでるのは自分だけ」と思い直すことが大切です。
自分ではなかなか気づけないかもしれません。しかし、やたらと機嫌がよすぎたり、ふわふわと地に足がついていない感じがするときは、なんとなく外の木を眺めてみてください。
風が吹けば、葉っぱは「わしゃわしゃ」と若々しく騒ぎ立てるものですが、根っこはどんなときも、静かに、土の中でじっとしています。
生きるためのエネルギーを大地から吸収しているのも根っこですし、大木を支え、森の地盤を守っているのも根っこです。
そもそも「根」という字は、「性根」「根本」など、ものの本質を言い表す場合によく使われます。
上辺にとらわれるのではなく、もっと本質的なことを大事に生きていく。
これももまた「木の根っこの思考」ではないでしょうか。
あなたにとって「いい風」が吹いているときこそ、葉っぱのように騒ぎ立てるのではなく、根っこのように落ち着いて振る舞う。そんな思考が大切なのだと思います。

余談ながら、私は精神科医ですから、老子のこんな言葉を読むとつい双極性障害の患者さんのことを考えてしまいます。
双極性障害とは、躁状態うつ状態の両方があって、躁のときはとにかくテンションが高く、高価な買い物をバンバンしてしまったり、分不相応な行動を取ってしまったりします。だからまわりから「いい加減にしておきなさい」と言われるけれど、自分は調子がいいから、耳を貸さない。
しかし、その反動のうつ状態がやってくると、「あのときの私は、なんであんな高いものを買ってしまったのか」というふうに、そのときのことを反省してものすごく落ち込んでしまう。それが自殺につながるケースもある危険な病気です。
老子の言葉を伝えることで、双極性障害がすぐによくなるというわけではありませんが、実際に患者さんと老子について話すことはよくあります。
自分の気分が高揚しているときほど、一度落ち着いて、まわりを見渡す。
とても大事な心がけだと思います。(後略)

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【2】社会変化と広汎性発達障害(又は自閉スペクトラム症、ASD)の関係及び発達障害の方に適した職業について、その他

最初に主に広汎性発達障害(又は自閉スペクトラム症、ASD、他の拙エントリを参照)にも関連する「スーパー労働者にしか給与や地位を約束しない社会」については、次のWEBページを参照して下さい。 「スーパー労働者にしか給与や地位を約束しない社会はどこかおかしい」 次に、前者の関係について、以下に複数引用をします。先ず「発達障害として浮き上がる」ことについて①青木省三著の本、「ぼくらの中の発達障害」(2012年発行)の 第五章 「発達障害」を考える の「◆発達障害として浮き上がる」における記述(P132~P134)を次に引用します。

発達障害として浮き上がる
今の社会だからこそ、発達障害というものが、増えてきているのではないかと、僕は感じている。二、三〇年前までであれば、真面目だが、無口で不愛想な人たちが、農業、漁業、工業などの幅広い領域で、自分の場所を見つけて働いていた。僕が子供の頃にも、町の中に真面目で無口な人はたくさんいた。けれども、この人たちが活躍できる場所は、今の時代、非常に少なくなっていると感じている。自分の感覚と技術を磨いて仕事する「職人」という仕事(大工さん、家具屋さん、自転車屋さん、など)があったが、これも今の時代には、活躍できる場所がなくなってきている(清水將之、『子どもの精神医学ハンドブック 第二版』日本評論社、二〇一〇年)。
二〇世紀の科学の進歩を担ってきた研究者や学者の中にも、大学や研究所がコンスタントな成果を期待するようになって、研究する場所を失ってきた人達がいる。特に、自分独自の発想から出発して、時に大きな成果を出すかどうか、というような研究をしてきた人の多くが、自分らしく仕事をする場を失ってきた。大学や研究所は、コンスタントな成果という意味では生産的ではないが、時に一発、大ホームランまたは特大ファールという人を大切に抱えてくれる場であった。大学や研究所という場は、一見「無為」に見える人の秘めた力と価値を引き出してくれる可能性があることを再認識する必要がある。
このように一時代前だと、少しユニークで変わった人ではあるが、その人なりの場を得て働いていた人が、現代においでは、広汎性発達障害という形となって、社会の中に浮かび上がってきているのではないか、僕にはそのように思えてならない。
効率とスピードを求める職場、コミュニケーション能力を過度に求める職場、年功序列という秩序の崩壊した職場、いずれも広汎性発達障害の傾向を持つ人を生きづらくさせる職場である。学校も然りである。広汎性発達障害の有病率の増加は、このような社会・文化的要因が大きく影響しているのではないかと、僕は想像している。

注:(i) 引用中の「コミュニケーション能力」に関連するかもしれない、 a) 「サイコロジカルな対人能力」について、『第三次産業を中心に社会が回るにつれて、これまでは大きな問題とはならなかった「関係の障害」が、支障や困難をもたらすものとして浮かび上がってきた』ことを含めてそだちの科学「2019年4月号」中の滝川一廣著の文書「発達障害の五〇〇年」(P116~P120)における記述の一部(P119)を以下に引用します。 b) 「社会性の問題やコミュニケーションの困難という、ASDの特性をそのままにして、社会活動を行っていくことは極めて難しい」ことについて、加藤進昌著の本、「ここは、日本でいちばん患者が訪れる大人の発達障害診療科」(2023年発行)の 第2章 発達障害をめぐって何が起きているのか の 成人の発達障害とは の「子どものASDと大人のASDの違い」における記述(P78~P81)を以下に引用します。 (ii) 引用中の「職人」を含む「短所を長所に反転させる生き方,長所を活かしていく生き方」の一例について、本田秀夫監修、大島郁葉編の本、「おとなの自閉スペクトラム メンタルヘルスケアガイド」(2022年発行) の 第Ⅱ部 ASを理解する の 自閉スペクトラムのパーソナリティ の 「こだわりを活かす 趣味人的,職人的な生き方のすすめ」における記述の一部(P025)を以下に引用します。

(前略)八〇年代に入ると第三次産業(消費産業)の就業人口の比率が日本では六〇%を、米国では七〇%を超す。第三次産業を基幹とする高度消費社会が生まれたのである(現在日本は七〇%)。第三次産業は「自然」や「もの」ではなく、「ひと」(ひとの欲求や欲望)に働きかける労働である。この労働には何が求められるかは言うまでもない。サイコロジカルな対人能力である。空気をすばやく察知したり相手の視点に立つことができなくてはならない。
そのため、第三次産業を中心に社会が回るにつれて、これまでは大きな問題とはならなかった「関係の障害」が、支障や困難をもたらすものとして浮かび上がってきたのである。「成人の発達障害」のクローズアップが、その端的な現れだろう。第三次産業人口が全体の六割七割を占めるようになれば、そこで必要とされる対人スキルや対人マナーは産業の領域を超えて、広く社会生活全般で求められるものへ汎化される。それが「社会性」と呼ばれるものである。(後略)

注:引用中の「八〇年代に入ると第三次産業(消費産業)の就業人口の比率が日本では六〇%を、米国では七〇%を超す。第三次産業を基幹とする高度消費社会が生まれたのである(現在日本は七〇%)」ことに関連する「1975年以降の第三次産業の台頭は、社会が個人に要求するスキルを大きく変えた」ことについてのツイートがあります。

子どものASDと大人のASDの違い

アスベルガー症候群の特性をもった子どもは昔からいました。「妙に大人びていて、ちょっと変わった子だな」と周りから思われるような子どもです。しかし、そうした子どもたちが、重い知的障害を伴う自閉症と同じ仲間の障害であるとは、自閉症の専門家でも思っていませんでした。それどころか、「障害」であるという認識もされていなかったでしょう。なぜなら、彼らは、知的レベルが高く、記憶力にすぐれていて、テストでは高得点をマークし、学校での成績が優秀であることが多いからです。
本の学校教育では、成績が芳しくない子どもは問題視されますが、成績が良い子は「問題がない」ととらえられがちです。たとえ、その子が集団活動になじまなくても、友だちとの関わりが少なくても、大きなトラブルさえ生じなければスルーされてしまうのが常です。
一方、その子自身は学校の集団生活のなかで、なんらかの違和感や居心地の悪さを覚えているに違いありません。ところが、ASDの子どもは、その違和感や居心地の悪い状況を自分で客観的に認識したり、誰かにどうにかしてもらおうと思ったりすることができません。そして、理由もわからず叱られたり、自分の居場所がないと感じたりしながらも、思春期を経て、大人になっていきます。
子ども時代には、周囲の人との関わり方につまずきがあったり、人間関係がうまく築けなかったりしたとしても、あまり大きな問題になることはありません。内気で自分から積極的に他者と関わりをもたない子や、一人でいることが好きで友だちと遊ばない子は、ASDに限らず一定数いて、それはその子の性格の問題だと片づけられるからです。
しかし、思春期になり、同年代の仲間との人間関係が多様化してくると、しだいに他者との違いが際立ち、問題が表面化してきます。周りから、「場の空気を読まない」、「つきあいが悪い」、「マイペースすぎる」といった評価を受けるようになり、グループや集団から弾かれていくようになるのです。
当人も、そもそも人と交わったり、人に合わせたりすることが得意ではないので、孤立しているだけではそれほどつらいとは感じないでしょう。大学生くらいまでは、「人づきあいの悪いちょっと変わった人」という立ち位置で、やり過ごしていくことができてしまうのです。
ところが、就職し、社会に出るとそうはいきません。仕事上の連絡や報告をやらずに済ませることはできませんし、上司や取引先とのコミュニケーションも、無愛想のままでよいわけではありません。職場の同僚との話の輪にも加わらない、一緒に食事にも行かない、飲み会にも参加しないという頑なを態度でいれば、仲間からの親近感や信頼も得られないでしょう。そうなると、組織やチームの一員として認めてもらえなくなり、果たすべき役割も与えられなくなるのです。
社会性の問題やコミュニケーションの困難という、ASDの特性をそのままにして、社会活動を行っていくことは極めて難しいということです。子どものASDと大人のASDの大きな違いはそこにあるのです。大人は、社会の一員として、他の人たちとコミュニケーションをとりながら仕事や活動をスムーズに進めなければならないため、子ども時代にはスルーされていた問題が否応なしに浮き彫りになってくるということです。

注:i) 引用中の「ASD」は自閉スペクトラム症の略です。 ii) 引用中の「仕事上の連絡や報告をやらずに済ませることはできませんし、上司や取引先とのコミュニケーションも、無愛想のままでよいわけではありません。職場の同僚との話の輪にも加わらない、一緒に食事にも行かない、飲み会にも参加しないという頑なを態度でいれば、仲間からの親近感や信頼も得られないでしょう。」に関連するかもしれない『特殊な業務を除けば,どのような仕事においても,同僚,上司,会社の取引先の人たちを相手として,様々な報告や相談が必要となります.そこでは「阿吽の呼吸」を求められることもあれば,「いわずもがな」のことを察してほしいといわれることも珍しくありません.』について、岩波明編の本、「これ一冊で大人の発達障害がわかる本」(2023年発行)の はじめに の 「ADHD および ASD の問題点」における記述の一部(Pvi)を次に引用します。

(前略)ADHD の場合と同様に,正常以上の知能を持ち,問題行動のみられないアスペルガー症候群などの ASD の当事者たちは,学校時代までは不適応が生じないことも珍しくありません.友達は少ないけれども,穏やかでおとなしい人物と思われている例もみられます.
ただし,就職し実社会で生活するようになると,状況は大きく変化します.特殊な業務を除けば,どのような仕事においても,同僚,上司,会社の取引先の人たちを相手として,様々な報告や相談が必要となります.そこでは「阿吽の呼吸」を求められることもあれば,「いわずもがな」のことを察してほしいといわれることも珍しくありません.
こうした対人場面はアスペルガー症候群の人にとってはむずかしい局面で,状況の意味がわからず大きな失敗をしてしまいやすく,繰り返して叱責されてしまった結果,不適応を生じることがみられるのです.(後略)

注:i) この引用部の著者は岩波明です。 ii) 引用中の「ADHD の場合と同様」、すなわち「学校時代までは不適応が生じないことも珍しくありません」や(就職し実社会で生活するようになると,状況は大きく変化し)「不適応を生じることがみられる」に関連するかもしれない、(ADHD の当事者において)「学校時代までは,このような対応で不適応が生じないことが多いようです」や(就職した後の)「不注意でケアレスミスが多く,上司の指示を聞きもらすことがしばしばおこりやすくなる」不適応について、同「はじめに」の「なぜ大人の発達障害が増えたのか?」における記述の一部(Piv)を次に引用します。

(前略)発達障害は大人になったからといって,症状が軽減するわけではありません.改善しているようにみえる例では,本人が自分の特性を理解し,不得意な状況になんとか対応していたり,そういった状況をうまく避けていたりするのです.学生時代までは,このような対応で大きな問題は生じないことが多いようです.
けれども就職して,仕事の量が多い,上司のプレッシャーが強いなどの悪条件が重なってしまうと,本来の症状が顕在化して,仕事や生活に支障が出てしまうことになりかねません.たとえば ADHD の当事者においては,不注意でケアレスミスが多く,上司の指示を聞きもらすことがしばしば起こりやすくなります.学生時代であれば,ゼミの課題を忘れても指導教官に謝ればすんだかもしれませんが,仕事の取引であれば重大なミスとして叱責されかねません.
このような失敗が続いてしまうと,「仕事を任せられない社員」として周囲の信頼を失い,対人関係も悪化します.本人も気分的に落ち込み,その結果,仕事に行くこともできなくなってしまうことにも至るのです.つまり成人においては,発達障害に伴う不適応によって,うつ状態などの二次的な症状をきたしやすい点にも注意をする必要があるのです.(後略)

注:この引用部の著者は岩波明です。

こだわりを活かす 趣味人的,職人的な生き方のすすめ(中略)

短所を長所に反転させる生き方,長所を活かしていく生き方とはどのようなものであろうか。筆者が考えるものの1つは,好きなことを追求する趣味人的な生き方,もう1つはよい作品を追求していく職人的な生き方である。趣味人的な生き方には,いろいろなものを蒐集する,コレクターという生き方もある。さらに,公正で公平を追求するという規範を護るような生き方もある。
筆者は「仕事は飯の種,こつこつと働こう。趣味を大切にして趣味人として生きよう」とか,「自分の仕事にこだわって,職人っぽく生きていこう」などと話すことがある。職人,趣味人のすすめである。地域には,ASの特性を活かして,職人として生きている人が少なくない。彼らは,同時に趣味人でもある。それも私などの想像を超えた,深い趣味の領域をもっている。本稿では触れなかったが,歴史,天文,鉄道などという趣味の王道から,料理,編み物,折紙,紙飛行機など,幅広い趣味がある。「仕事は職人,余暇は趣味人」として生きていけないか。一芸に秀でるとまではいかなくても,自分の仕事や趣味を大切にして,誇りを持って生きること。筆者は,若い年代のASの人たちと出会う時に,彼らが年を重ねるうちに職人・趣味人となり,特性が個性として輝くことはできないかと思い願うのである。

注:i) この引用部の著者は青木省三です。 ii) 引用中の「AS」は自閉スペクトラムの略です。 iii) 引用中の「職人的な生き方」に関連するかもしれない「昨今、町工場が少なくなり、職人の受け皿が少なくなったことも、人よりもモノとの関係に近しさを感じるASDの人たちにとっては、社会適応の門を狭めているに違いない」について(高学歴、高機能のASDの青年女子が)「人との関係ではなく、職人的な世界で生きていく道を見出した」ことを含めて、上田勝久、筒井亮太編の本、「トラウマとの対話 精神分析的臨床家によるトラウマ理解」(2023年発行)の 第八章 芸術とトラウマ――三島由紀夫と虐待後遺症 の 3 三島由紀夫と虐待後遺症 の「死の世界からの回帰のために①――パーソナルな人間関係には限らない親密性の在り処」における記述及び「死の世界からの回帰のために②――ハードルの高いパーソナルな人間関係における親密性」における記述の一部(P202~P204)を次に引用します。

死の世界からの回帰のために①――パーソナルな人間関係には限らない親密性の在り処
まず、前提として、親密性といっても、人と人との関係だけに限られるわけではないことを押さえておきたい。今日では、ペットが家族同然の存在となり、場合によっては家族以上に親密な関係が築かれる。ペットロスに陥る人も少なくないのは周知のところだ。
ペットでなくとも、モノとの関係で親密性を築く人たちも、昔から知られたところである。建築・機械・工芸などでの、手先の器用さが求められる職人の世界では、モノとの丹念な関係での愛着が、仕事のベースを成しているのだろう。昨今、町工場が少なくなり、職人の受け皿が少なくなったことも、人よりもモノとの関係に近しさを感じるASDの人たちにとっては、社会適応の門を狭めているに違いない。
さらに、高機能のASDの人たちが、サバン症候群とまではいかないにしろ、その能力の高さによって、専門職に就くことも珍しくはない。研究者、大学教員、医師たちのなかには、昔から人間関係はからきしだが、研究やオペの腕は一流とか、そういう人たちが珍しくはなかった。今日のIT社会でいえば、人間関係が苦手な人たちが、そうしたコンピュータ関連分野に多く居場所を見つけていることもあるのだろう。
このように、親密性を人との関係以外で見出せる愛着障害の人たちは、ある意味幸運だろう。何も人間関係がすべてではないからだ。だが、そこに収まりきらず、あるいはそこに居場所を見出せず、人間界での親密性を求めるとなると、途端に困難が浮き彫りになってくる。

死の世界からの回帰のために②――ハードルの高いパーソナルな人間関係における親密性
「私は人間に向いていない」
彼女は高学歴、高機能のASDの青年女子である。幼い頃から、両親によって教育テレビの世界で育てられ、彼女もそれが苦にならず、超一流大学に進学した。彼女は、勉強して優秀な成績さえ収めていれば、幸せが手に入ると思い、何の疑問もなくそれまで生きてきたのだ。だが、大学に入って気づかされたのは、成績の良さが何の幸せにも繋がらないことだった。しかも、周囲を見渡せば、超一流の頭の良い学生には独創性があり、発想も豊かだった。それに比べ、彼女は与えられた問いに正解を出すことだけが面白くて勉強してきたので、自ら興味関心のある研究テーマも見出せなかった。さらに、ふと気づげは、彼女には親しい友達もおらず、しかも人間関係自体が煩わしいものだった。彼女は、自分のペースを乱されたくないので、一人で食事するほうが好きだし、女子同士の会話にも何の興味も持てなかった。愛想笑いしているだけの関係は、疲れるだけだった。             .
彼女は絶望した。幸せは、彼女の生き方の先には待っていないことに気づいたのだ。願ったことは、ただ存在を消すことだった。「空気になりたい」「植物になりたい」「壁になりたい」と、彼女は言った。
結局のところ、彼女は人との関係ではなく、職人的な世界で生きていく道を見出した。だが、それが彼女にとって安住の棲み処になるのか、それとも人との関係性の裂け目から耐えがたい孤独をいずれ感じるようになるのか、それは誰にもわからない。いずれにしろ、ASDにとって、人との関係でのパーソナルな親密性は、ハードルが高いのである。(後略)

注:i) この引用部の著者は祖父江典人です。 ii) 引用中の「サバン症候群」については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「サバン事始め

加えて、企業をはじめとして中学や高校でもコミュニケーション・スキルを重視することについて、②内海健、神庭重信編の本、『「うつ」の舞台』(2018年発行)の Ⅰ.社会の中のうつ の 第1章 現代の「若者心性」から見た「うつ」の構造 の『「生存の不安」から「承認の不安」へ』における記述の一部(P13)を次に引用します。

(前略)企業などが採用の場面において「コミュニケーション・スキル」を重視し始めたのも最近の傾向である。社会教育学者の本田由紀は,この傾向をハイパー・メリトクラシーと呼んで批判した3)。かつて日本におけるメリトクラシー(業績主義)は,学歴社会や偏差値至上主義として批判された。現代におけるハイパー・メリトクラシーとは,学校の成績以上にコミュニケーション・スキル(曖昧に「人間力」などと呼ばれる場合もある)を重視する風潮を指している。現代の日本社会においては,勉強ができる以上に,対人関係を円滑に進める能力が重視される。つまり,個人のコミュニケーション能力は就職活動や職場においても不断に評価の対象となるのである。この風潮は,必ずしも企業に限った話ではない。今や全国の中学や高校に浸透している「スクールカースト(教室内身分制)」において,生徒の階層を決定づける最重要要因はコミュニケーション・スキル(「コミュ力」)であるとされる24)。筆者の臨床経験からも,コミュ力が低いとみなされてカースト下位に転落し,そこから不登校やひきこもりに至ったケースが少なくない。(後略)

注:(i) この引用部の著者は斎藤環です。 (ii) 引用中の文献番号「3)」は次の本です。 『本田由紀:若者と仕事――「学校経由の就職」を超えて.東京大学出版会,2005.』 (iii) 引用中の文献番号「24)」は次の本です。 「鈴木翔:教室内カースト光文社新書,2012.」 (iv) 引用中の「スクールカースト」については次の資料を参照して下さい。 『仲間関係研究における「スクールカースト」の位置づけと展望』、『「スクールカースト」における中学生の対人関係といじめ現象』、「中学生のスクールカーストにおけるグループ内地位と学校適応感との関連」、「青年の抱くスクールカーストの認知度、印象および偏見の検討 ―過去のグループ間地位、現在の社会的支配志向性との関連―」、「児童生徒の視点から見たスクールカーストという体験とその影響に関する研究 ―かつての当事者である女子大学生へのインタビューから―」、「友だちグループといじめの関連 グループの有無,グループ内の関係性・スクールカーストの着目して」 加えて、上記「スクールカースト」の上位、中位、下位の割合について、「このカーストは誰でもない、空気が決めているので、誰も逆らえません」ことや「いちど下位層に入ってしまうと、なかなか抜け出すことができない」ことを含めて、斎藤環著の本、『「自傷的自己愛」の精神分析』(2022年発行)の 第二章 自分探しから「いいね」探しへ の『「キャラ化」で救われる七割、割りを食う3割』における記述の一部(P143~P146)を以下に引用します。ちなみに、上記「自傷的自己愛」については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「友だちは作っちゃいけない!?(後編) 精神科医とアイドルプロデューサーが『友だち幻想』を読む」 (v) 引用中の「ハイパー・メリトクラシー」については上記「スクールカースト」を含めて、次のWEBページも参照して下さい。 『「勉強ができる」「絵が上手い」「文才がある」ことはほとんど無意味…!? 現代のスクールカーストを決定づける“意外な要素”とは(ページ2)』の『「承認依存」と「コミュ力偏重」の関係性』項 加えて、上記「ハイパー・メリトクラシー」に関連する「コミュニケーション至上主義」については例えば次のWEBページやエントリを参照して下さい。 『なぜ日本人は「コミュニケーション能力至上主義」に陥ったのか』、「コミュニケーションがボトルネックとなった社会 - シロクマの屑籠」 その上に、ひょっとして上記「ハイパー・メリトクラシー」に関連するかもしれない『「以心伝心」を重んじ、共通言語、共通認識が土台となるハイコンテクスト文化』について、宮尾益知監修の本、『対人関係がうまくいく「大人の自閉スペクトラム症」の本 正しい理解と生きづらさの克服法』(2020年発行)の Part1 自閉スペクトラム症と生きづらさ 生きづらさの原因を知り、傷つかないですむ方法を見つける の ASDを襲うトラブル の『職場で「常識がない」と批判されることも』における記述(P18~P19)を以下に引用します。 (v) 引用中の『企業などが採用の場面において「コミュニケーション・スキル」を重視し始めた』ことに関連する、 a) 新卒採用の選考にあたって特に重視した点としての「コミュニケーション能力」については、例えば次の資料を参照して下さい。 「2018 年度 新卒採用に関するアンケート調査結果」の「(4) 選考にあたって特に重視した点」項[P2] b) 『大学生の就職活動という、まさに学生が社会人の仲間入りをしていく場面でも、粒ぞろいなクオリティが問われている」や(新卒採用において)『選考の対象となっているのは、第一に「コミュニケーション能力」である』ことについて、熊代亨著の本、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」(2020年発行)の 第一章 快適な社会の新たな不自由 の「コミュニケーション能力の低い人は求められない国」における記述の一部(P26~P29)を以下に引用します。 (vi) 引用中の「個人のコミュニケーション能力は就職活動や職場においても不断に評価の対象となる」ことに関連するかもしれない「むしろ成人以降、複雑化した社会で仕事をしていく際に、〝普通の人のふり〟を求められ、さらに将来にわたり、この問題に悩み続けなければならない」ことについて、林寧哲監修の本、「心のお医者さんに聞いてみよう 発達障害の人が“普通”でいることに疲れたときに読む本 “過剰適応”からラクになるヒント」(2023年発行)の Part1 他人に合わせようとがんばりすぎていませんか? の 過剰適応の背景① 過去の疎外体験から、「絶対に失敗できない」と思う の「将来にわたり過剰適応に悩み続けなければならない」における記述(P21)を以下に引用します。

「キャラ化」で救われる七割、割りを食う三割
森口朗氏は、先述の著書で、スクールカースト上位は十パーセント、中位は六十パーセント、下位は三十パーセントとみなしています。これは多くの人の実感に即した割合ではないかと思います。上位と中位を合わせた約七十パーセントの若者は、比較的生活満足度が高い。下位層は承認弱者ですから、非常に幸福度が低い。ここに格差があるわけです。
推測するに現代の学校空間は、おそらく七割の生徒にとっては快適かつ幸福な空間で、三割の生徒にとっては、他者からの承認不全に苦しむ構造になっているのでしょう。この三割の中に、将来のひきこもり当事者たちが多く含まれているのではないかと懸念されます。彼らは学校というコミュニティのなかでキャラとしての承認を周囲から得られず、スクールカーストの下位層に入れられてしまう。このカーストは誰でもない、空気が決めているので、誰も逆らえません。そして、いちど下位層に入ってしまうと、なかなか抜け出すことができません。私はこうした構造が、もはや学校時代に限定されないと考えています。学校でも職場でも、こうした階層が温存されているように思われてなりません。(後略)

注:i) 引用中の「先述の著書」とは次の引用にもあるように次の本です。 「『いじめの構造』新潮新書、二〇〇七年」 ii) 引用中の(スクールカーストにおける)「上位と中位を合わせた約七十パーセントの若者は、比較的生活満足度が高い。下位層は承認弱者ですから、非常に幸福度が低い。」ことに類似する「カーストというのは僕の考えでは七割がハッピーになるかわりに三割が不幸になるというシステムなんです。」については次のWEBページを参照して下さい。 「友だちは作っちゃいけない!?(前編) 精神科医とアイドルプロデューサーが『友だち幻想』を読む(ページ2)」 iii) 引用中の「キャラ化」について、上記『第二章 自分探しから「いいね」探しへ』の「キャラ化とスクールカースト」における記述(P115~P118)を次に引用します。

キャラ化とスクールカースト
「キャラ」とはもはや日常語なので、いまさら定義や解説などは野暮な気もしますが、私はかつて『キャラクター精神分析』(ちくま文庫、二〇一四年)という著作で、いわば究極のキャラの定義をしておいた経緯があり、それについて少し述べておきたいと思います。
キャラとは何か。それは、「それ自身と同一であり、それ自体を再帰的に指し示す記号」のことです。これは、生徒のキャラから芸能人のキャラ、あるいはアニメや漫画のキャラという多種多様なキャラのありようを串刺しにすることができる定義です。その意味で「究極」と考えています。詳細はぜひ拙著をお読みください。
これだけではわかりにくいでしょうから、もう少し噛み砕いて説明します。キャラとは、ある個人における一つの特徴を戯画的に誇張した記号のことであり、いったんキャラとして認識された個人は、以後はずっと「キャラとしての同一性」を獲得する/させられることになります。先述した通り、もともとは漫画業界やお笑い業界の言葉だったものが、九〇年代頃から若者の間で広く用いられるようになり、もはや流行語の域を超えて一般語として定着した言葉なのです。
いわゆるスクールカーストの成立には、「キャラ」が重要な役割を果たしています。コミュカが高い陽キヤ、モテキャラは、同水準のコミュカを持つキャラ同士でグループを形成し、これがカースト上位層となります。一方、コミュカが低い「陰キヤ」「非モテキャラ」「いじられキャラ」は、問答無用にカースト下位に位置づけられます。つまり、クラスにおいて個人のキャラの設定と、カースト上の位置づけとは、ほとんど同時に決定されるのです。そこには決定の主体が存在しません。両者を決めるのはあくまでもクラスの「空気」で、だからこそ、誰も決定に逆らえないのです。空気には反論も抗議もできませんからね。
こうしたカースト認定の決まり方について、森口朗氏は次のように述べています。
「子ども達は、中学や高校に入学した際やクラス分けがあった際に、各人のコミュニケーション能力、運動能力、容姿等を測りながら、最初の一~二ケ月は自分のクラスでのポジションを探ります。
この時に高いポジション取りに成功した者は、一年間『いじめ』被害に遭うリスクから免れます。逆に低いポジションしか獲得できなかった者は、ハイリスクな一年を過ごすことを余儀なくされます」(『いじめの構造』新潮新書、二〇〇七年)
みてきた通り、現代の学校空間では、対人評価のほとんどが「コミュカ」で決まります。かつての学校社会においてはそれなりに意味のあった「勉強ができる」「絵が上手い」「文才がある」といった才能は、対人評価軸としてはほとんど意味をなさないようです。それどころか、場合によってはそうした才能をうっかり発揮して与えられたキャラを逸脱してしまったがゆえに、カースト下位に転落する、といった事態もありうると言います。私が思春期だった四十年前の学校と比べても、子どもたちはなんと過酷な生存競争を生きているのか、と同情を禁じえません。

職場で「常識がない」と批判されることも

私たちの生きる社会は、発達障害ではない定型発達の人が多くを占めています。表情やしぐさなどを使ったノンバーバルコミュニケーションで意思疎通をはかり、皮肉や比喩、遠回しな表現も、解説なしで理解し合います。とくに、日本は「以心伝心」を重んじ、共通言語、共通認識が土台となるハイコンテクスト文化です。目くばせ、うなずき、空気を読むことが求められ、これらが苦手な人にとって生きづらいものです。
学生時代、本や講義では後れをとらなかった人でも、社会に放り込まれると、行き詰まることが多いのです。ASDの特性ゆえに、衣食住の管理ができなかったり、職場のコミュニティで「常識がない」「自分勝手」「失礼だ」と批判の対象にされたりすることがあります。

コミュニケーション能力の低い人は求められない国(中略)

大学生の就職活動という、まさに学生が社会人の仲間入りをしていく場面でも、粒ぞろいなクオリティが問われている。というのも、就職活動では誰もが同じリクルートスーツに身を包み、誰もが同じようなエントリーシートを書き、テンプレートどおりの振る舞いを期待されているからだ。実際、経団連による新卒採用のアンケートを確かめてもそれが窺える*13――働く大人たちから期待され、選考の対象となっているのは、第一に「コミュニケーション能力」であり、「主体性があって」「チャレンジ精神に富み」「協調性があって」「誠実な」新卒者であることを、いまどきの大学生たちは前もって知らされるし、AO入試組は大学入試の段階からそれらを試されている。
就職活動やAO入試といった選抜プロセスは、コミュニケーション能力があってハイクオリティで粒ぞろいな人間であることを事実上、これから社会人になる学生に対して強いている。口では多様性を褒め称えてやまないこの社会は、実利の絡む就職という場面では、一律な規格で若者を選別しているのである。
こうしたプロセスをとおした学生の選別、そして矯正のプレッシャーは、現代では当たり前のことと見なされているが、たとえば私が記憶している限り、一九八〇~九〇年代の就職活動の風景はここまで画一的ではなかったし、サービスを提供する側もサービスを享受する側も、これほどのクオリティを求めてはいなかったはずである。海外諸都市の風景と比較すると、日本の社会人の働きぶりはやけにハイクオリティで、粒が揃いすぎている。これもまた、この美しい国ならではの過剰さではないかと私には映る。(後略)

注:i) 引用中の注釈「*13」は次のWEBページです。 「2018 年度 新卒採用に関するアンケート調査結果」 ii) 引用中の「AO入試」は次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「AO入試」 iii) 引用中の「粒ぞろいなクオリティ」に関連するかもしれない『文系理系問わず、学生に求める能力として、「主体性」や「実行力」、「課題設定・解決能力」が上位に挙げられています。』については他の拙エントリのここの (i) b) 項を参照して下さい。

将来にわたり過剰適応に悩み続けなければならない

重症の発達障害の人であれば、周囲に合わせることを諦めてしまうことも多いでしょう。幼少期に診断が下り、早期に障害として本人も社会もそれを受け入れます。障害があることを前提に、定型発達の社会で生きるルートを見出していくことができるのです。周囲に合わせようという気持ちも薄く、過剰適応におちいることもあまりありません。
軽度の場合、がんばれば能力の凸凹を埋められます。「定型発達」のふりができるために、周囲からは「普通にできている」と解釈されてしまいます。必死の努力で幼少期を生き抜いても、問題は解決されません。むしろ成人以降、複雑化した社会で仕事をしていく際に、〝普通の人のふり〟を求められ、さらに将来にわたり、この問題に悩み続けなければならないのです。

注:引用中『「定型発達」のふり』に関連する「カモフラージュ」について、自閉スペクトラム症の視点からは他の拙エントリのここを参照して下さい。

さらに、 a) 「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」については次のエントリを参照して下さい。 『「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス』 b) 加えて、「空気が読めない人を排除する現代社会」等について、③宮尾益知監修の本、「ASD(アスペルガー症候群)、ADHD、LD 大人の発達障害 日常生活編」(2017年発行)の 第7章 大人の発達障害-専門医からのアドバイス の 発達障害の方が大人になってから直面する問題とは? の「空気が読めない人を排除する現代社会」における記述(P102)を次に引用します。

空気が読めない人を排除する現代社

発達障害という言葉がテレビや新聞、書籍などを通して広く知られるようになったのはここ数年ですが、発達障害の特性がある方は昔から少なからずいたと思われます。ただ、昔は「あの人はちょっと変わっているよね」と思われる程度ですんでいたことが、現代では「空気が読めない」と排除されるようになってきた。そんな社会の在り方が、「ちょっと変わったところのある人たち」をより生きづらくさせているのではないでしょうか。
要因はさまざまにあると思いますが、情報量が莫大になり、時間管理が厳密化されるようになった社会の変化もその一つだと思われます。農業や林業、漁業など第一次産業が主流だった時代に比べると、現代は組織の中で対人関係を重視しなければならない仕事が大半です。限られた時間に大量の情報をより正確に処理できる人が重宝がられ、暗黙の了解がわからず、組織のルールからはみ出してしまう人を育てる余裕がなくなっています。

一方、「インターネットなどでの通信が高速化する中で、同時並行での作業や、求められる課題が短時間に変わっていきがちな状況下で、社会はマルチタスクな高速処理ができる器用人を求めていく傾向にある」ことについては、次のWEBページを参照して下さい。 「成人期の発達障害を巡って―多様性に寛容である社会」の「発達障害に伴う困難が際立ちやすい社会」項 加えて、上記「器用人」に関連するかもしれない職場における「メンバーや状況が変わっても素早く対応できる柔軟性」については、次のエントリを参照して下さい。 「うつ病が増えた理由を高校生にもわかるように説明してみた。」の「ハイテク資本主義に適合する人材」項

なお、 a) (ADHD の当事者において)「学校時代までは,このような対応で不適応が生じないことが多いようです」や(就職した後の)「不注意でケアレスミスが多く,上司の指示を聞きもらすことがしばしばおこりやすくなる」不適応についてはここを参照して下さい。 b) 加えて、「最近は効率が優先され、ADHDの特性のある人には厳しい状況になっている」ことについて、岩波明著の本、「ウルトラ図解 ADHD」(2018年発行)の 第1章 ADHDの基礎知識 の「大人のADHDならではの問題もある」における記述の一部(P18)を以下に、 c) 『「マルチタスク」を要求する社会の流れがますます加速すると、今後、ADHDの頻度は、もっと増えてくることも危惧される』ことについて、村井俊哉著の本、「はじめての精神医学」(2021年発行)の 第2章 自閉スペクトラム症、知的能力障害、注意欠如・多動症 の「ADHDを生み出しやすい社会」における記述の一部(P45~P46)を以下に、 d) ADHD の当事者は見逃しがちな「会社のロジック」について、岩波明編の本、「これ一冊で大人の発達障害がわかる本」(2023年発行)の 第6章 ライフステージにおける様々な問題 の B 仕事 の 2 ADHD と仕事 の ADHD 専門プログラムにおける調査 の「7)会社のロジック」における記述(P138)を以下に それぞれ引用します。

(前略)ましてや仕事となると、ミスや不注意を厳しくとがめられ、信用や評価が著しく下がってしまうこともしばしばです。「忘れっぽい」「周囲との折衝や調整が苦手」といったADHDの特性は、多くの職場ではマイナスの要素になりがちです。特に、最近は効率が優先され、タイトなスケジュールを要求されたり、業務量が増えたりと、ADHDの特性のある人には厳しい状況になっているといえます。(後略)

注:ちなみに引用中の「ADHD」に関連する「ADHDの人は増えている?」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 『ADHDの人は増えている? 「診断」をひもとく - apital

ADHDを生み出しやすい社会」
話をADHDに戻します。本人がうまくやっていける環境を整えて「自己効力感」を高めることが大事、ということであれば、大人の場合、ADHDを持つことが不利になりにくい仕事を選ぶのがよい、ということになります。ただ、現代社会の難しさは、ADHDを持つ人には向かない仕事がますます増えていることです。一つの作業を行っているときはその仕事のことだけを考え、手順に従って進めていけばよいような仕事は、ADHDを持つ人にとって、比較的取り組みやすい仕事でしょう。ところが、現代社会の仕事のほとんどは、それとは反対に、同時並行でいくつもの仕事を進めていくことが要求されるようになっています。同時並行でいくつもの仕事が課せられることを「マルチタスク」と呼びます。
歴史の中で現代ほど「マルチタスク」が要求される時代はありませんでした。現代社会は言ってみれば、「ADHDを生み出しやすい社会」なのです。つまり、別の時代であれば、ADHDであるとみなされてはいなかった人たちが、今日はADHDとみなされるようになってきているのです。
皆さんの自身の生活を振り返ってみてください。テレビを見なからスマホを操作して同時に家族と会話をしている、ということはないでしょうか。そして、間違ったメールを送信してしまった、話を半分だけ聞いて的外れな返答をして家族から叱られた、という経験をされたことはないでしょうか。ADHDの頻度は、小学生で一〇〇人に五人程度、大人ではもっと低くなる、というのが現代の統計のデータですが、「マルチタスク」を要求する社会の流れがますます加速すると、今後、ADHDの頻度は、もっと増えてくることも危惧されます。かといって社会を昔に逆戻りさせることもできませんから、むしろ、ADHD的な失敗を減らすような技術や仕組みを社会の中に埋め込んでいくことが求められるのかもしれません。(後略)

7)会社のロジック
当然ながら,仕事おいては勤務をしている会社の状況や雰囲気,会社なりの暗黙のルールも問題となる.会社という組織のなかでは,その会社の「風土」にあった振舞いが必要とされること,会社のなかでは多くの場合,上司を含む他の社員のメンツを考えた言動が求められることを認識することが重要である.この点について,ADHD の当事者である借金玉氏は,会社というものは「部族」であると次のように説明をしている(『発達障害 すごい仕事術』KADOKAWA, 2018).

――そこは外部と隔絶された独自のカルチャーが育まれる場所です.そして,そこで働く人の多くはそのカルチャーにもはや疑いを持っていません.あるいは,疑いを持つこと自体がタブーとされていることすらあります.それは正しいとか間違っているみたいな概念を超えて,ひとつの「トライブ(部族)」の在り方そのものなんです.言うまでもありませんがそれは排他的な力を持ちます.部族の掟に従わない者は仲間ではない,そのような力が働きます.

ここではハンコの押し方などの例があげられているが,職場のしきたりの多くは「茶番」であり,客観的にみれば重要な意味はないものがほとんどである.けれども組織の一員でありたいならば,理不尽と感じてもそのしきたりに従う必要がある.
毎朝のラジオ体操や1分間スピーチ,あるいは歓送迎会や宴会について,「くたらない,時間の無駄」と思っていても,それらはある程度は「喜んで,一生懸命」参加しているように振舞うことが求められるもので,多くの社員はそのように行動している.
また,新しい仕事の企画を始めるときや,他の部署などに仕事の協力をお願いするときには,事前に必ず関係者に話を通しておかかといけない.これも一種のしきたりである.そうしておかないと,「話を聞いていない」ことで「メンツ」を失った年長者や役職者から,いわれのない妨害をされかねない.
こういったルールを,ADHD の当事者は見逃しがちで,あるいは気づいていても無視する傾向があり,ASD と同様に空気が読めないと言われかねない.しかし本質的に彼らは,「空気」を読めないのではなく読もうとしないのであり,他人の考えを気にしないで,自分の意見を押し通そうとする傾向が強い.そういった行動は大きな成功をもたらすこともあるが,どこかで足元をすくわれ,必要な情報を遮断されたりして失敗に終わることが多いため,組織のなかでは十分に注意する必要がある.

注:i) この引用部の著者は岩波明です。 ii) 引用中の「ASD」は「自閉スペクトラム症」の略です。

また、『不寛容をまねく「多様性のなさ」』について、岩波明著の本、「天才と発達障害」(2019年発行)の 第六章 誰が才能を殺すのか? の『不寛容をまねく「多様性のなさ」』における記述(P229~P232)を以下に引用します。加えて、 a) 「個人においても組織においても、あらゆるパフォーマンスが細かく数値化され可視化されるようになり」「求められている成果を上げられない場合や、効率的に仕事をこなせない場合には、マイナス評価に直結する」ことについて、岩波明著の本、「増補改訂版 誤解だらけの発達障害」(2022年発行)の「増補改訂版へのまえがき」における記述の一部(P7~P8)を以下に、 b) 「近年、社会のグローバル化に伴いコンプライアンスが重視され、何事にも透明性が求められる堅苦しい「管理社会」が出現しつつある」ことについて、後者の本の「はじめに」における記述の一部(P15)を以下に、 c) 『ケアレスミスが大きな問題となってしまったり、「適切な忖度」ができずに仕事ができないと捉えられてしまう』ことについて、後者の本の 第2章 発達障害は治るのか の「発達障害の人の就職や結婚はどうなるの?」における記述(P196~P197)を以下に それぞれ引用します。

不寛容をまねく「多様性のなさ」
周囲の多くの人々とは異なった個性を持つ人が排斥されやすい状況は、大人の世界においても同様である。以前より、日本人は「よそ者」に対して厳しく、個人の自由な行動を批判する傾向が強かった。21世紀になった現在でも、以前にも増して、突出した個人に対するバッシングが続いている。
今日一般的な用語になった「バッシング」という言葉は、いつ頃から使われているのだろうか。1980年代、貿易不均衡を背景とする米国の日本批判は「ジャパン・バッシング」と呼ばれていたが、現在のような意味では使われていなかった。
現在につながる「事件」として思い起こされるのは、2004年4月に起きたイラクにおける日本人3名の人質事件である。政府や一部のマスコミは、渡航が制限されたイラクで人質となった3人に対して、「自己責任」を唱えて厳しく批判した。だが、逆に海外のメディアや政治家からは彼らを擁護する発言が目立った。
その後、SNSの発達にともない、著名人が問題発言をしたり、法に触れる些細な行為をしただけで、一般国民もマスコミも猛烈に「炎上」することが一般化した。女性歌手のラジオにおけるトークや、若手女優のふて腐れた態度、あるいは横綱の不品行や政治家の傲慢な発言に、人々は本気で怒っているようだ。ネットにおけるバッシングは明らかに行き過ぎのことも多く、時には「被害者」を自殺に追い込むことも起きている。
このような日本社会の不寛容さは、どこに由来するのだろうか。その大きな要因として考えられるのが、多様性のなさである。日本の長い歴史の中で、他民族の大量流入や長期の占領といった事態が生じたことはなく、比較的一元的な価値観が形成されてきた。
したがって21世紀の現在においても、日本人の考え方や価値観は均質的であり、理想とされるライフコースも画一的だ。このため暗黙のうちに、学校でも社会でも、その同質的な価値観を押し付ける傾向が大きいのである。
この結果、「日本人的」な生き方から外れた個人、常識的でない言動をとる人物は、たとえ優れた能力を持っていたとしても、非難や排斥の対象となりやすい。これには、集団のはぐれ者に矢を向けるという側面に加えて、特別な能力を持つ個人に対する「嫉妬心」も含まれているのかもしれない。
もちろん日本においても、傑出した人物が一時的にある種の 「ヒーロー」としてもてはやされることはある。しかし日本社会は、アウトロー的な人物が長期にわたって「大きな顔」をすることを好まない。彼らの多くは、必ずと言っていいほど、ある時点で「常識的」な人々によって足を引っ張られて排除される。このような現象は、小さな団体や会社においても同じように存在する。
したがって才能を持つ個人は、日本社会において十分に用心する必要がある。いっとき彼の能力は称賛されるかもしれないが、どこかで必ず落とし穴が待ち受けているからだ。天才は、社会によって殺されるのである。
もう一つ、日本社会の欠点は、再チャレンジが困難なことだ。いったんコースから脱落した人物がカムバックすることは、ほぼ不可能なことが多い。一度でも過ちを起こすと、その負い目を長く背負わされてしまう。その例として、薬物に関する問題がある。

注:引用中の「不寛容」に関連する、 a) 「不寛容化する日本」については次の資料を参照して下さい。 「不寛容化する日本」 b) 『日本社会から「寛容さ」が失われている理由』については次のWEBページを参照して下さい。 『精神科医に聞く、日本社会から「寛容さ」が失われている理由』 c) 『なぜ「不寛容」は生まれるのか』については次のWEBページを参照して下さい。 『なぜ「不寛容」は生まれるのか。3人の有識者にそのメカニズムと対処法を聞く。』 d) 『「不寛容社会」の中での臨床雑感』については次の資料を参照して下さい。 『「不寛容社会」の中での臨床雑感』 e) 「オールラウンダーを求める現代の日本社会」については次のWEBページを参照して下さい。 『「上司ガチャ」で外れを引いたらいつまで耐えるべき? 見極めるための3つの質問(ページ4)』の「オールラウンダーを求める日本社会に振り回されるな」項 f) 「大人の社会はというものは、あるラインを超えたら、もはや到底抗しがたい圧力をもって個人を抹殺にかかる」ことについて、『戦いを考えなければならない。ただ怒りを暴発させているだけでは、彼らは間違いなく「犬死に」する。人生という名の戦いには、高度の戦略が必要である』ことを含めて、井原裕著の本、「精神療法の人間学 生活習慣を処方する」(2020年発行)の 第Ⅰ部 人を診るということ の 第4章 《治療者であるということ》 精神科診察における説明とその根拠 ――パーソナリティ障害の説明―― の「14 世間というものの怖さを説明する」における記述(P71~P72)を次に引用します。

治療者としては、患者たちのある程度の逸脱は許容する。むしろ、許容範囲で積極的に行動化するよう促すのもいい。
しかし、同時に社会の怖さ、世間というものの怖さを教えていかなければならない。大人の社会というものは、あるラインを超えたら、もはや到底抗しがたい圧力をもって個人を抹殺にかかる。大人たち、特に「白い巨塔」で長年生きてきている医師たちは、その怖さを身をもって知っている。若者たちは、社会というものの心理的謀略の陰険さ、隠蔽された暴力の恐怖感というものをまだ実感できていない。本当の怖さをまだ知らない。
岩波(16)は、「日本人一人ひとりは、温厚な人々である。しかし日本人が集団で行動するとき、彼らはしばしば考えられない無慈悲な行動をする。集団となった日本人は、はじきだされた者をゴミのように扱う」と述べている。このような傾向は、確かに日本人のように均質化された集団を好む民族には顕著だが、おそらくは人間の普遍的な心性でもあろう。
全体主義の恐怖、それは本来守られるべき個人の内面をも躊躇なく蹂躙し、「公共善」のために少数派の珠玉のような個性を剥奪せずにはおかない。しかもその際に、見せ掛けばかりの良識や、一見して筋の通った便宜道徳が「このときとばかりに」と呼び出される。他人に強いる道徳とは、しょせんは支配欲の自己正当化に過ぎない。サディズムに倫理の衣をかぶせただけである。動物的な攻撃本能を錦の御旗で隠蔽しているに過ぎないのである。
パーソナリティ障害患者たちの怒りには、ほとんどの場合彼らなりの根拠がある。しかし、それらを、勝ち馬にかける多数派たちは、凶暴な征服欲をもって、頭から押さえつけにかかる。それも「正義は我にあり」と言わんばかりの居丈高な態度で、である。
これが大人の社会である。彼らはこんな獰猛な獣たちと伍していかなければならない。それが生きるということの意味である。戦い方を考えなければならない。ただ怒りを暴発させているだけでは、彼らは間違いなく「犬死に」する。人生という名の戦いには、高度の戦略が必要である。
屈辱を味わい、辛酸をなめ、煮え湯を飲まされるのも人生である。この過酷な真実を前にしても、なお、依然として人生は生きるに値する。若者たちに人生の夢、ロマン、理想を説いてやることこそが精神療法の骨子となろう。

注:引用中の文献番号「(16)」は次の本です。 「岩波明(2008)うつ病筑摩書房.」

(前略)かつての日本は、社会全体に右肩上がりの余裕があったためだとは思いますが、働きぶりの異なるさまざまな人を包摂できる柔軟な組織が今よりも多かったように思います。高いパフォーマンスを発揮できる人がいる一方で、あまり効率的に動けない人にも、それなりの居場所がありました。「右へ倣え」といった画一的な組織が多い一方で、多少そこから外れた人がいても黙認されるゆるやかさとダブルスタンダードが存在していたと思います。
ところが今や、個人においても組織においても、あらゆるパフォーマンスが細かく数値化され可視化されるようになりました。これは、その人の働きぶりが厳密に、適正に評価されるようになったという側面もありますが、求められている成果を上げられない場合や、効率的に仕事をこなせない場合には、マイナス評価に直結するのです。こういった現況が、発達障害などの特性をもった人たちの居場所が失われていくことにもつながっていると感じられます。(後略)

(前略)ところが近年、社会のグローバル化に伴いコンプライアンスが重視され、何事にも透明性が求められる堅苦しい「管理社会」が出現しつつあります。
こうした社会状況においては、物事に柔軟に対処できないASD(自閉症スペクトラム障害)の人や、些細なミスを頻繁に起こしやすいADHD(注意欠如多動性障害)の人は、どうしても不適応を起こしやすくなり、会社や学校で目立ってしまったり、困った存在として認識されやすくなったりしているのです。(後略)

注:i) 引用中の「ASD」については他の拙エントリを、一方、引用中の「ADHD」については他の拙エントリを それぞれ参照して下さい。

(前略)近年、企業などにおいて、コンプライアンスの遵守や情報の保護が重要視されるようになり、職場環境も厳しくなっているのが現状です。また、日本企業はとりわけ、変化してきているとはいえ、いまだに上下関係や、「場の空気を読んで」忖度する力、状況を把握する力が大きく評価されることもあります。ケアレスミスが大きな問題となってしまったり、「適切な忖度」ができずに仕事ができないと捉えられてしまうこともあり、発達障害のある人には難しい環境になりつつあります。(後略)

注:引用中の『「場の空気を読んで」忖度する力』に関連するかもしれない「忖度」や「同調圧力」を含む『「空気を読めない」ことがこれほど責められるのは、日本社会ぐらいのものかもしれない』ことについて、岩波明著の本、「医者も親も気づかない女子の発達障害 ――家庭・職場でどう対応すれば良いか――」(2020年発行)の 3章 ADHDASD……女子はなぜ見逃されやすいのか? の 「女子の発達障害」に特有の生きづらさとは の『◆「女性」の「日本人」は二重の苦しみ』における記述(P115~P118)を次に引用します。

発達障害というと、「空気が読めない」「相手の表情、しぐさを読み取れない。言葉のニュアンスがわからない」といった症状をイメージする方が多いようです。特にASDにはその傾向があります。
もともと日本人の会話は、物事をハッキリ言わずに雰囲気やニュアンスで伝えようとする傾向があります。アイコンタクトで暗黙の了解を求める、なんとなく「わかってるよね」で済ませる、会議やミーティングでは特定の人が口火を切るのを待ってから話す、などが典型です。上司が詳しい事情を説明せず、ただ「うまくやって」としか言わないことも珍しくありません。
ところが、ASDの人はこうしたニュアンスを察知できません。そのため 「どうしてみんな黙ってるの?」、「はっきり説明をしてください」などと、ひとりで問い詰めることがあります。
表情や言葉のトーンから相手の気持ちを読み取るノンバーバル(非言語的)なコミュニケーションを苦手としています。そのため、人の言葉を額面通りに受け止めてしまいます。同じ「イエス」でも本気のイエスか、ノーを含むイエスか、いろいろなパターンがあるのが日本人の会話ですが、ASDの人にとっては、「イエス」と言われたらイエスなのです。そのため、お世辞や社交辞令も真に受けてしまいます。
ちなみに、ADHDの人も同じように「空気を読めない」人に見られることが少なくありませんが、ASDとは、その原因が異なっています。
ADHDでは「相手の都合など考えず、思いついたことを言わずにいられない」傾向があります。ASDの人が「空気を読めない」のは他人への無関心によるものですが、ADHDの人が「空気を読めない」のは、その衝動性から「空気を読もうとしない」ことによるものです。
また彼らは相手の話をきちんと聞こうとしないで一方的に主張することが多いため、ASDと同様に「空気が読めない」とみなされることもしばしばです。
表面的には、ASDとADHDは似たような行動パターンを取るため、周囲からはなかなか区別がつかない場合が多いようです。
もっとも「空気を読めない」ことがこれほど責められるのは、日本社会ぐらいのものかもしれません。そもそも「空気を読む」習慣がない国では、「空気が読めない」ことが問題にならないのです。その証拠に、発達障害の帰国子女は、日本に帰ってきてから初めて問題がはっきりすることが多いのです。
帰国子女の患者さんは、「日本はワケがわからなくてつらいです。海外は楽でした」と言います。確かにそうかもしれません。日本では「善処します」、「検討します」といった曖昧な表現から、相手の真意を読み取らなければいけないからです。
言葉のニュアンスに加えて、顔色や、その場の雰囲気などを読み取るために、常にアンテナを張り巡らせなければならない。これは疲れます。また相手の社会的なポジションや経歴も常に頭に置いて発言することが求められます。日本社会では、日常の社会生活においても、常に「忖度」が必要なのです。
また、日本はまわりとの関係性を気にする社会でもあります。日本人は他人と自分を比べたがる傾向が強いのです。人種も宗教もバラバラの国では、いちいち人との違いを気にすることはありませんし、実際できません。個人の生き方や主義について、とやかく言うこともありません。人に迷惑をかけない限りは、「お好きにどうぞ」が基本です。
ところが日本人は、「みんな一緒」が前提です。肌の色も住んでいる家も、見ているテレビ番組も似たようなもの。こうした同質性が高い社会では、ちょっとした違いが大いに目立つのです。そのちょっとした違いに敏感であることが、「日本人らしい繊細さ」という美徳につながるのかもしれませんが、それが苦手な発達障害の人は、「変な人」扱いをされてしまいます。これはつらいことです。
地域や職場などの集団において、何かの意思決定を行う場合に、少数意見を有する者に対して、暗黙のうちに多数意見に従わせようと作用する強制力を「同調圧力」と呼んでいます。海外と比較して、日本社会ではこの同調圧力が強いことが指摘されていますが、それを読み取れない発達障害を持つ人には、生きづらい社会であることは明らかです。

注:引用中の「もともと日本人の会話は、物事をハッキリ言わずに雰囲気やニュアンスで伝えようとする傾向がある」ことに関連するかもしれない『日本は「おもてなし」の国ですから、他国に比べ、相手の気持ちを察し、思ったことを口にしないで控えめにすることが求められる」ことについて、福西勇夫著の本、「発達障害チェックシート 自分が発達障害かもしれないと思っている人へ」(2020年発行)の パート2 発達障害のさまざまな特性を理解する の 2 ASD(自閉症スペクトラム障害) の B:推察(コミュニケーションが苦手) の「思ったことをそのまま口にする」における記述の一部(P140~P141)について次に引用します。

(前略)日本は「おもてなし」の国ですから、他国に比べ、相手の気持ちを察し、思ったことを口にしないで控えめにすることが求められます。これに対して欧米では、言ったことがすべての世界ですから、言葉として表現しない限り通用しない国々です。それゆえに、思ったことをすぐに口にするASDの特性は、欧米諸国では立派に通用しますが、日本では正反対で、人に嫌われる原因になります。
ASDの特性を持つ人は、概して海外では実力を評価され十分に通用するのですが、日本に戻ると周囲の人に煙たがられ、ひとりポツンと孤立してしまうことがあります。本音と建前を使い分ける日本では、生きづらさばかりを感じてしまいます。(後略)

次に、発達障害の方に対する職業調査について、岩波明著の本、「増補改訂版 誤解だらけの発達障害」(2022年発行)の 第3章 誤解だらけの発達障害 の 発達障害の人のよいところは? 得意なことは? の「烏山病院における職業調査」における記述(P251~P252)を次に引用します。

以前に、昭和大学附属烏山病院の発達障害を対象としたデイケアの利用者について、職業の調査を行いました。結果としては、ASDでは定型的な事務職が多く、ADHDは専門職が多数を占めていました。
ASDは黙々と定型的な作業を継続することが得意なことが多いですが、途中で周囲から話しかけられたり、新しく指示されたりすると混乱しやすいため、変化の少ない業務環境が向いています。
一方、ADHDは一般的なデスクワークは苦手です。彼らは自分の裁量で仕事を企画し、自分のペースで作業を行うことを好みます。具体的には、イラストレーター、作家、コピーライター、プログラマーなどの分野で成功している人がよくみられます。
烏山病院の調査では、ASD348例においては、事務従事者が54%、専門的・技術的職業26%、運輸・包装・清掃8%、サービス業5%でした。一方、ADHD145例においては、専門的・技術的職業48%、事務従事者34%、サービス業6%、運輸・包装・清掃5%という結果でした。

注:i) 引用中の「ASD」については他の拙エントリを、一方、引用中の「ADHD」については他の拙エントリを それぞれ参照して下さい。

加えて、ASDの方の特性と向いた職場に関連する「変化のなさ(常同性)を好む傾向と、マニュアル化した対応を求められるコンビニとの好相性」について、岩波明著の本、「増補改訂版 誤解だらけの発達障害」(2022年発行)の 第3章 誤解だらけの発達障害 の 近年増えている発達障害を扱う作品 の「村田沙耶香コンビニ人間』」における記述(P273~P275)を次に引用します。

この小説は、2016年に第155回芥川賞を受賞した作品になります。以前に三島賞の受賞歴もある作者の村田沙耶香は、作品の舞台であるコンビニで実際に週3回働いていたことも話題となりました。
物語の主人公は36歳の独身女性、古倉恵子。彼女は大学卒業後に就職することも結婚することもなく、コンビニのバイトを18年間続けていました。その生活はすべてコンビニ中心のものでしたが、あるとき偶然に元アルバイトの男性と同棲することになるというストーリーです。
この作品に対する芥川賞選考委員の意見は、好評なものでした。たとえば奥泉光は、「(前略)本作はこの人間世界の実相を、世間の常識から外れた怪物的人物を主人公に据えることで、鮮やかに、分かりやすく、かつ可笑しく描き出した」と評しています。
また宮本輝は、「職場というものが、その仕事への好悪とはべつに、そこで働く人間の意識下に与える何物かを形づくっていくさまを、村田さんは肩肘張らずに小説化してみせた」と述べています。
もっともヒロインの恵子は、精神医学的にみると「怪物」というわけではなく、ASDの特徴が顕著な人物です。彼女は、公園で死んでいた小鳥をみなが墓を作って埋めようと言っているのに一人焼鳥にして食べようと主張するし、同級生のけんかを止めてと言われたときには、側にあったスコップで頭を殴打して怪我をさせたため職員会議にかけられました。だが恵子には、なぜ自分が怒られているのかわからなかったということです。家族からも学校でも、彼女は変わった子どもと思われていました。恵子は言葉を文字どおりに受け止めてしまうし、他人の気持ちや考えを推し量ることができないのです。
けれども自分の行動が周囲に迷惑をかけていることは理解したので、彼女は集団の中で問題にされ「異物」にならないために、極力口をきかずにおとなしくしているように努力しました。他の人のまねをするか、誰かの指示に従っていれば大きな間違いはしないですむからです。
このような特徴をもつ彼女にとって、マニュアル化した対応を求められるコンビニは、ぴったりの職場でした。この変化のなさ(常同性)を好む傾向はASDに特徴的なものです。つまりこの小説はASDの特性をもつ女性が「普通」の世界にどう適応すればよいのかを描いた作品であり、作者のねらいもそこにあるようですが、評論家も含めて大部分の読者はそれに気がつかず、主人公を「不思議な人物」と思い込んでいるようです。

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【3】発達障害の女性が責められる原因となる「男女のジェンダー・ロール(性役割)が非常に固定的で」、そして『「やまとなでしこ」が、いまだに日本女性の理想像』であることについて、その他

標記、より正確には【発達障害の女性が責められる原因となる「日本社会においては、男女のジェンダー・ロール(性役割)が非常に固定的で」、そして『いわゆる「やまとなでしこ」が、いまだに日本女性の理想像』であること】について、岩波明著の本、「医者も親も気づかない女子の発達障害 ――家庭・職場でどう対応すれば良いか――」(2020年発行)の 3章 ADHDASD……女子はなぜ見逃されやすいのか? の 「女子の発達障害」に特有の生きづらさとは の『◆「女の子らしく」ができない』における記述の一部(P111~P113)を次に引用します。

(前略)日本社会においては、男女のジェンダー・ロール(性役割)が非常に固定的です。明るくて、にこやかで、気配り上手で、常に男性を立てる。そんな女性像に縛られています。いわゆる「やまとなでしこ」が、いまだに日本女性の理想像なのです。日本の男性は、若い世代においても、このようなイメージを女性に求めていることが珍しくありません。
「家事は女性がやるべし」という風潮も、男女雇用機会均等法が施行されて30年以上が経つにもかかわらず根強く残り、男性側もそれが当然だと思っています。
夫婦共働きの家庭においても、多くの場合、家事と育児は妻が担当しているのです。夫が家事や育児に協力しているといっても、ほんのわずかな部分しか担っていないケースがしばしば見られます。
ところが、発達障害の女性の特性は、そうした「男性が求める女性の役割」とは正反対であることが多いのです。それが「女性なのに」と責められる原因です。
結婚して妻や嫁、母など求められる役割が増えると、それが顕著になります。
期待されるのは、いつも明るくにこやかで気配り上手な女性でいることですが、ASDの人は対人関係が上手でないため、親戚やご近所のつきあいができず、孤立してしまいます。
ADHDの人は片づけが苦手で、家事全般も不得意です。また悪意はないものの不用意な発言が多く、問題とされることもしばしばです。
職場でも、お茶出しのような雑務は女性に期待されがちです。入社3年日のある女性は、「雑務担当の女性が欠勤しているとき、新入社員や2年目の男性社員もいるのに、お茶出しを期待されるのは私になるんです」と述べていました。こういう風潮は日本の職場には根強く残っています。
国連の日本人職員の最高位である事務次長の中満泉・軍縮担当上級代表は、20代で国連入りし、スウェーデン人の外交官と結婚した方です。中満氏は、男女間格差が根強く残る日本の現状について、「根深い男女役割の刷り込み」があると、次のように指摘しています(https://www.47news.jp/4596012.html)。

「……日本の社会にはものすごく刷り込みがある。気がついていない刷り込みが、生活のありとあらゆるところにあって、男性はこうであり、女性はこうでありと、ジェンダーロール(男女の役割分担)に関して常時刷り込まれている」
「日本のニュース討論番組を見ていると、専門家で難しいことを言っている人はほとんど男性。で、メインのキャスターがいて、お飾りのようにサブのキャスターで女性が付いている。それが毎日毎日あるから、難しい専門的なことを話すのは男性で、ちょっとお飾り的に女性がいると刷り込まれる。
映画とかテレビドラマを見ていても、会社の執行理事会とか幹部会とかで座って会議をしているのは全てほとんど男性で、制服を着た女の人が書類を持って入ってきたりお茶を持って入ってきたり。そういうシーンがもういつも繰り返されていて、子どもたちは小さい頃からそういうのを見て育つので、社会ってこういうものなんだ、それが自然なんだと刷り込まれている」

注:i) 引用中の「ASD」については他の拙エントリを、一方、引用中の「ADHD」については他の拙エントリを それぞれ参照して下さい。 ii) 引用中の「日本社会においては、男女のジェンダー・ロール(性役割)が非常に固定的です」については次のWEBページも参照して下さい。 「なぜ女子の発達障害は、大人になるまで発覚しにくいのか(ページ3)」の「発達障害の女性が生きづらい日本社会の背景」項 iii) 引用中の『発達障害の女性の特性は、そうした「男性が求める女性の役割」とは正反対であることが多いのです。それが「女性なのに」と責められる原因です。結婚して妻や嫁、母など求められる役割が増えると、それが顕著になります。』に関連する、 a) 「発達障害とはちょっとずれますが、女性は男性以上にいろんな役割を担わされていると思います。家庭とか、職場とか、親戚付き合いとか、子育てとか、いろいろあります。ですから、そうした環境によって、ストレス反応が男性以上に起きやすいような気がします。」については次の文書を参照して下さい。pdfファイル「女性のライフステージと女性特有のうつとの関係」中の宮岡佳子著の文書「発達障害をもつ女性のうつについて ~悩みとその対処を中心に~」(P10~P13)の「Q.今回は女性の発達障害というテーマですが、対処方法には女性特有の特徴があるのでしょうか。性差はあまり関係ない印象を受けています。いかがでしょうか」項(P12) b) 「一般的に女性はいくつかの社会的役割を担いながら,結婚,出産,育児,家事,就労,近所づきあい,学校参加などをそつなくこなすことが暗に求められています。広沢(2016)は,女性が複数のライフスタイルを同時並行させなければいけないことは,ASDの特性を持つと困難が増すと述べています。」について、川上ちひろ、木谷秀勝編著の本「続・発達障害のある女の子・女性の支援 自分らしさとカモフラージュの狭間を生きる」(2022年発行)の 第I部 カモフラージュをして生きる発達障害のある女の子・女性たち の 第2章 発達障害のある男女に見られるカモフラージュの違い の「3 カモフラージュの性差」における記述の一部(P33~P34)を次に引用します。

(前略)一般的に女性はいくつかの社会的役割を担いながら,結婚,出産,育児,家事,就労,近所づきあい,学校参加などをそつなくこなすことが暗に求められています。広沢(2016)は,女性が複数のライフスタイルを同時並行させなければいけないことは,ASDの特性を持つと困難が増すと述べています。実際,ASDのある女性が社会的な性への期待や要請に関するプレッシャーを感じていたことも示されています(Milner et al., 2019)。
このようにASDのある女性は,女性に対する社会的な役割期待と,ASDのある当事者として自分らしく生きることとの間で板挟みになり,生きづらさを抱えうると考えられます。(後略)

注:i) この引用部の著者は砂川芽吹です。 ii) 引用中の「広沢(2016)」は次の資料です。 「女性の自閉スペクトラム症例とそのライフステージの課題」 iii) 引用中の「Milner et al., 2019」は次の論文です。 「A Qualitative Exploration of the Female Experience of Autism Spectrum Disorder (ASD)

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【4】情動制御が中核となる非認知能力なるものへの関心の高まりについて

標記「関心の高まり」について、「Society 5.0」を含めて、上淵寿、平林秀美編著の本、「情動制御の心理学」(2021年発行)の 第Ⅱ部 情動制御と他の心理機能 の 終章 情動制御発達研究の行方を占う の「1 非認知能力なるものへの関心の高まり」における記述や「2 非認知能力の中核をなす情動制御」における記述の一部(P207~P211)を次に引用します。

1 非認知能力なるものへの関心の高まり

現在,世界はいわゆる“VUCA”な時代のただ中に在るといわれている。“VUCA”とは,Volatility(激動),Uncertainty(不確実),Complexity(複雑),Ambiguity(曖昧)という4つの英単語の頭文字を並べて構成された造語であるわけであるが,まさに人類は今,目まぐるしく変化し,先の見通しの利かない,そして思想や価値も含め様々な要素が複雑に絡み合い,何が良くて何が悪いのかの基準もきわめて曖昧な状況の中で,明確な対処の仕方を未だ見出せぬまま当て所なく揺曳しているといえるのかもしれない。その一方で,科学技術の進展は凄まじく,殊にAIに関しては,その機能が人の知能を凌駕する,いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)に達するのもそう遠い未来ではないことが指摘されている。
こうした中,これから先の時代をたくましく生き抜いていかなくてはならない子どもたちがどのような心の力を身につけておくべきなのかということに関わる議論も盛んになってきている。おそらく,これまでは,社会的に価値づけられたコンテンツ(情報や知識)を頭の中に豊富に蓄え(内在化させ),さらにそれらを社会が求める既定の方向に従って活用する力が暗黙裡に重視されてきたといえるのかもしれない。かつ,学校教育の中でも,暗々裡に,そうした力の養成に重点がおかれてきたのだと考えられる。しかし,高機能AIが先導するSociety5.0の社会にあって,もはや私たちの生活世界には,ある意味,ありとあらゆるコンテンツが外在化した形で遍在している。そして,こうした中にあって,徐々に声高に言われるようになってきているのが,何か予め決められた価値や方向に従順に従って,必要とされるコンテンツを内在化させ,それをもとにただ思考し行動するのではなく,むしろ,予測困難な混沌とした状況に柔軟に適切に対処すべく,適宜その都度,自身の頭で考え判断し,自ら目標設定する力,そしてその目標に合わせて,外在化して在るコンテンツを主体的に選択し集め有機的に組み立てる力の必要性である。それと同時に,そうした力を独りよがりではなく,様々な他者と手を携え協力し合いながら活かしていく力の必要性である。
思うに,こうした力こそが,現在,教育の世界で,とみに注目が集まっている非認知能力なるものの実質的な中身といえるのだろう。従来型のペーパーテストで測られるような,いわゆる頭の良さ,頭のできという意味での認知能力を,たとえどんなに高水準で備えていても,もはやそれだけでは適応的に生き抜くことのできない時代が目前に迫っており,あるいはすでに到来しているのかもしれず,そうした中で,認知能力以外の何か大切な要素,すなわち非認知能力に俄然,子どもの教育に携わる者の関心が注がれ始めているのである。
こうした思潮の嚆矢となったのが,教育経済学者であるジェームズ・ヘックマン(James Heckman)の論考であることは言うまでもない(e.g. Heckman, 2013)。彼の研究は,基本的に,子育てや保育なども含めた教育への投資効果,すなわち人の生涯のとりわけどの時期に,教育に対して然るべき投資がなされれば,最も効果が大きいのかということを問うものであった。その結論は,就学前,すなわち乳幼児期における教育への投資効果が絶大であるということだったわけであるが,彼は,自身が関わった貧困層の子どもに対する介入研究(ペリ-就学前計画)を通して,大人になってからの経済的安定性や健全な市民生活などに現れる個人差が,必ずしもIQの違いによっては説明されないことから,IQの値で示されない力,彼に言わせれば認知能力以外の力,すなわち非認知能力(non-cognitive ability)を特に幼少期の段階から獲得しておくことが重要であると強く主張するに至ったのである。
ヘックマンの影響力は大きく,たとえばOECDなどは,その主張をほぼ全面的に取り入れて,2015年に“Skills for Social Progress: The Power of Social and Emotional Skills”と題したレポートをまとめ,その中で,非認知能力を,学術的により厳密な形で社会情動的スキル(social and emotional skills)と言い換えたうえで,たとえ経済的には不遇な状況にあっても,子どもが発達早期から然るべき養育や教育を受げ,その基盤を築いておくことが,その後の一生涯にわたる心と身体の健康や経済的安定性なども含めた社会的適応性の1つの鍵を握っていることを強く主張している(OECD, 2015)。OECDは「スキルがスキルを生む」という表現をとっているが,まずは幼少期に社会情動的なスキルの土台を堅固に作り上げておくと,その後の教育課程で受けることになる様々な教育の成果がそのうえに着実かつ効率的に積み上げられ,多様な側面にわたり,さらに高水準のスキルの発達がより円滑に,かつ効率的に導かれると説くのである。また,先行して非認知能力=社会情動的スキルの基盤を子どもに備えさせておくことが,その後の認知能力の発達や学力の形成にも正の影響を及ぼし得ること,しかし,その逆の因果の矢印はあまり想定できないことなども合わせて示唆している。

2 非認知能力の中核をなす情動制御

ヘックマン自身は,非認知能力として主に自身の心の状態を適切にコントロールする力(自制心)や,目標に向かって我慢強くやり抜く力(グリット)などを想定していたようであるが,経済学者ということもあって,その具体的な中身に関しては必ずしも詳細に論じているわけではない。ただ 心理学や教育学の領域に眼を向ければ,非認知能力あるいは社会情動的スキルに関してはすでに様々な理論的検討が行われており,OECDによるレポートは,そうした多岐にわたる理論的検討を踏まえて,非認知能力=社会情動的スキルを「長期的目標の達成」「他者との協働」「情動を管理する能力」の3側面から成るものとしている(OECD, 2015)。
この中の「情動を管理する能力」が,概念的にまさに情動制御に関わる一連のスキルやコンピテンスということになるが,それは大きく2つの側面に分けて把捉し得ると考えられる。このうちの1つは同じくOECDが社会情動的スキルの1要素としている「長期的目標の達成」に深く関わる情動制御であり,言ってみれば異時点間の選択のジレンマ解決において必要となるものである。もう1つは,やはり同じくOECDが社会情動的スキルの1要素としている「他者との協働」に深く関わる情動制御であり,言ってみれば自他間の選択のジレンマ解決において必要となるものである。
異時点間の選択のジレンマとは,今と未来の間の選択,すなわち,今,眼前にある利益をすぐに取りに行くことを優先するか,それとも今ここでの利益を我慢して,もう少し先の自身にとってのより大きな利益をとることを重視するか,ということをめぐる情動管理・情動制御の問題であり,それを解決する力は,実質的に,それこそ「長期的目標の達成」に必要となる,自身の衝動を抑えて行動をコントロールする力である「自制心」や,目標指向的に粘り強く努力する力である「グリット」の中に含まれて在るといえる。発達研究の文脈では,しばしばいわゆるマシュマロ課題をはじめとする満足遅延問題の中で問われてきたものであり,本書でも示されているように,標準的には幼児期くらいから,子どもはしだいに今の目先の快情動を充足させたい,不快情動を回避したいという即時的な衝動を抑止あるいは遅延させ,その先に在る,より自身にとって長期的に益をなすであろう行動の具現に向けて,一貫した形で情動を統御し,動機づけを維持することが可能となるようである。
一万,自他間の選択のジレンマとは,自己と他者の間の選択,すなわち自身の利益を優先するか,それとも他者の利益を,あるいは他者に危害・迷惑・不利益などが及ばないことを重視するか,ということをめぐる情動管理・情動制御の問題であり,それを解決する力は,それこそ「他者との協働」において必要となる協調性あるいは道徳性や規範意識などの中に自ずと含まれて在ると考えられる。発達研究の文脈では,しばしば思いやりや援助などの向社会的行動あるいはルールや道徳の遵守などのテーマで実証的に問われてきたものであり,本書でも示されているように,標準的には幼児期くらいから,他者の意図や感情などの読み取り,あるいは暗黙の社会的基準やルールなどの理解が成立し始めると,たとえば他者がくれたプレゼントに対して実際には失望の情動を覚えていても,少なくともその他者が現前している状況では,微笑んで応じるなどの他者志向的な情動表出の調整・制御が可能になっていくのである。(後略)

注:i) この引用部の著者は遠藤利彦です。 ii) 引用中の「Heckman, 2013」は次の本です。 「Heckman, J. (2013). Giving kids a fair chance. Cambridge, MA: MIT Press.」 iii) 引用中の「非認知能力」に類似するかもしれない「非認知的(社会情緒的)能力」については次の資料を参照して下さい。 「非認知的(社会情緒的)能力の発達と科学的検討手法についての研究に関する報告書」 iv) 引用中の「OECD, 2015」は次の本です。 「OECD (2015). Skills for Social Progress: The Power of Social and Emotional Skills. OECD Publishing.」 加えて、上記「OECD, 2015」に関連する「OECD による国際調査と教育に関するレポート」については上記「資料」の「③ OECD による国際調査と教育に関するレポート」項(P8~P9)を参照して下さい。 v) 引用中の「IQの値で示されない力」に関連するかもしれない「人の社会的な成功や幸福が純然たる知的能力=IQではなく,むしろ感情的知性=EI(Emotional Intelligence)によってもたらされること」については上記「資料」の『第 2 節 「IQ 神話」への疑い』を参照して下さい。 vi) 引用中の「マシュマロ課題」に関連する(衝動性の制御を測定する課題としての)「マシュマロテスト」については上記「資料」の『1.6. 衝動性の制御』項を参照すると良いかもしれません。 vii) 引用中の「Society5.0」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「Society 5.0

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【5】「論争中の病」を患う方々における「想像的な希望と可能的な希望」について、その他

最初に標記「論争中の病」に関連する次の資料があります。 「診断のパラドックス ――筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群及び線維筋痛症を患う人々における診断の効果と限界」、『「探求の語り」再考 ――病気を「受け入れていない」線維筋痛症患者の語りを通して――』、『「論争中の病」の表象の変遷――筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群に関する NHK のテレビ番組の分析から』 次に標記「論争中の病」ないしMUS(Medically Unexplained Symptom、「医学的に説明できない症状」、例えばWEBページ『「医学的に説明できない症状」って?』を参照、加えてWEBページ『第4回 「原因不明の症状」を診る 専門医と異なるアプローチ ~総合診療医の出番です~』も参照すると良いかも)における先行研究について、野島那津子著の本、『診断の社会学 「論争中の病」を患うということ』(2021年発行)の 第1章 「論争中の病」をめぐる問題 の 4 「論争中の病」をめぐる問題 の「4-1 先行研究の検討」における記述及び「4-2 診断のポリティクス」における記述の一部(P27~P31)を以下に引用します。また、下記注には引用中の「精神疾患」の定義に関する考察が含まれます。

4-1 先行研究の検討
論争中の病をめぐる問題について、医学的研究の多くは、有病率や患者の受診数の増大による医師や医療費への悪影響について検討する一方、社会学的研究の多くは、おもに質的調査によって、当事者が直面する問題を明らかにしてきた。本節では、論争中の病をめぐる問題のうち後者の問題、すなわち当事者が直面する困難に関する先行研究を検討し、そのおもな論点を確認する。
論争中の病ないしMUSは慢性疾患のため、患うことは日常化する。患者の日常は、「MUSとともに生きること(living with MUS)」にあるのである(Nettleton 2006)。しかし、ほかの慢性疾患とは異なり、器質的病因の特定が困難なMUSは、ほとんどの場合、患っているにもかかわらず診断がつかないという事態を生じさせる。このよぅな事態は、患者の日常生活や個人のパーソナリティを危機に陥れる。なかでも、患者が特に危機を感じるのは、周囲から詐病(malingering)を疑われたり、ペテン師(fraud)だと思われたり、症状を偽っている(faking)と捉えられたりすることである。
たとえば、S・ネトルトンが行ったインタビュー調査で、おもに嚥下障害や頭痛に悩まされている五三歳の女性は、「ほかの人を納得させることは難しいです。みんな、症状が目に見えず、名前のない病は絶対に信じません」と述べているが(Nettleton 2006: 1172)、いつまでも診断がつかない状態が続いたとき、周囲の人びとは、患っていることをそのままには認めない。そのため、MUSを患う人びとは、「理由なく」患っていることに罪悪感を覚え、原因を自分自身に帰するようになる(Broom and Woodward 1996; Nettleton et al. 2005; Nettleton 2006)。また、検査で異常を特定できず、適切な診断を下すことができないため、医師もまた、患いそれ自体を否定したり、原因を患者自身に帰せたりするなど、「犠牲者非難(victim-blaming)」が起きやすい(Lillrank 2003: 1050)。
また、MUSを患う人に多く生じるのは、精神疾患の診断である。MUSはさまざまな身体的症状とともに、不安や落ち込みをもたらす。そのため、身体的症状が検査で裏づけられないとき、ほかの一切の症状を無視して心理的側面だけに着目して診断が行われたり(Broom and Woodward 1996: 369)、身体表現性障害を疑われたりすることがたびたび生じる(Lillrank 2003; Broom and Woodward 1996)。しかし、患う人びとの多くは心理的問題と言われるのを拒んだり、精神疾患の診断を否定したりする。抑うつ状態や落ち込みが激しくなったとしても、それは二次的なものであって、一次的なものではないと言われる。たとえば、A・ストックルが行った、自己免疫疾患の一つである全身性エリテマトーデス(Systemic Lupus Erythematosus: SLE)の調査では、患者はたしかに落ち込むものの、それは精神的な弱さからくるのではなく、SLEを患うことにうまく対処できないためだとされる(Stockl 2007: 1554)。
さらに、患者の日常生活に訪れる重大な危機として、圧倒的な孤立が挙げられる。患者の多くは、何の病気かわからないまま、長期にわたって一人で悩み続けることになるが、それはとりもをおきず、診断されていないことが大きく影響している。ネトルトンらの調査で、深刻な痛みと歩行困難を抱える五八歳の女性は、診断がつかないとわかった後、「まるで見捨てられたかのように感じました」と語っているが(Nettleton et al. 2005: 208)、診断がつかないというのは、患いが医学的に承認されないというだけでなく、症状に関する情報にアクセスするためのキーワードを得ることができずに、途方に暮れるという事態なのである*12。MUSを患う人びとにとって、サポートグループや病気に関する詳細な情報にアクセスすることは容易でなく、患うことと孤独に向き合う期間は、総じて長期化する傾向にある*13。
このように、論争中の病を患う人びとはさまざまな困難に直面することになるが、ほとんどの論者が指摘しているのは、診断の不在および希求に関する問題である。上に述べたように、論争中の病は診断がつかないか、診断までにかなりの期間を要するため、病者の多くはさまざまな危険に晒されている。それは、上述した詐病等への嫌疑だけでなく、病を患うことの正統性(legitimacy)の欠如や、必要な治療・支援へのアクセスが不可能な状況などが含まれる。すなわち病者は、通常「病人」であれば、さしたる努力もなく手に入るはずの権利や、病む者に対する他者の配慮が得られない事態に陥っているのである。
こうした事態を脱するため、病者は熱烈に診断を希求する。しかし、ネトルトンによれば、病者は診断そのものを希求しているというよりも、診断によって友人や家族、そして何よりも医療専門家に彼らの症状が「本物(genuine)」であると認められることを希求しているという(Nettleton 2006: 1170)。J・ダミットもまた、C・グレントン(2002)を参照しながら、病者は自分たちの苦しみ/患うこと(suffering)の証明として、医学的診断やヘルスケアシステムへのアクセス権が得られることを必要としていると述べる(Dumit 2006: 582)。すなわち、診断は、それそのものやケアされる権利の獲得のためというよりも、彼らの日々の症状や苦しみが「本物」であることを「証明」するために希求されていると言える。
またこうしたことと関連して、多くの研究は、心理学的説明に対する病者の抵抗について指摘している。上に見たように、病者は、器質的病因が特定されないために、容易に精神疾患と診断されうる状況にある。しかし彼らは、病気がけっして自分の心にではなく(not at all "in the mind")身体にある("really is in the body")ことを確信している(Stockl 2007: 1554)。例として、ネトルトンのレヴューからは、精神疾患の事例として分類されるリスクを縮減しようと慎重に語りを進めるインタビュイーや(May et al. 2000)、痛みが想像されたものではなく身体にあることを聴き手に納得させるために語りを構成しようとする女性など(Werner et al. 2004)、精神疾患や心の問題として捉えられることに抵抗する事例が確認される(Nettleton et al. 2006: 1169)。また、ほとんどの病者にとって診断の獲得は、「正常(normality)」への帰還方法を教示するものと見なされている(Stockl 2007: 1553)。しかし、心理学的説明ないし精神疾患という診断は、病者にとって「正常」への回帰を意味するものではないため、断じて受け入れられることはない。
ストックルは、心理学的説明への決然とした抵抗の背景にあるものとして、患う人びとが、自分たちの病気の「最初の専門家(proto-professional)」として診断のプロセスに加わっていることに注目している(Stockl 2007: 1556-7)。というのも、病者は得体の知れない彼/彼女の症状に関して、医師よりも経験的な知識を持っており、加えて膨大な情報収集を行うからである(Stockl 2007: 1557)。そのため、その病気のエキスパートの特権的メンバーとして診断のプロセスに積極的に参加し、医師の言葉を自分なりに咀嚼しながら、症状への対応を自ら決定し、実行するのである。ただし、「最初の専門家」としての態度のみが、精神疾患という診断の棄却に作用しているかは定かでなく、ほかにもさまざまな要因が検討される余地を残している。

4-2 診断のポリティクス
以上の問題を整理すると、論争中の病をめぐる重要な問題は、ひとえに「診断のポリティクス」にかかわるものであると言うことができる。患っているにもかかわらず診断されない事態は、かくも多くの困難を生じさせるが、診断が患いの正統性を付与するものと見なされているかぎり、論争中の病を患う人びとは、病と病でないものとを分ける境界線の内側に入るか否かのポリティクスに巻き込まれざるをえない。(後略)

(i) 引用中の註「*12」の記述(P198)を次に引用(『 』内)します。 『*12 「情報へアクセスすることは特に困難である。目立ったサポート集団や会は存在しないし、そもそも、「グーグルで何を検索するのか(what do you type into google?)を知っていないことには難しい」(Nettleton et al. 2005: 208)。』 (ii) 引用中の註「*13」の記述(P198)を次に引用(【 】内)します。 【*13 医学的に説明されず、医療的ケアから疎外されている人びとを、ネトルトンらは、R・A・アロノヴィッツの言葉を借りて、「医学/医療的孤児(medical orphans)と読んでいる(Nettleton et al. 2005: 208)。】 (iii) 引用中の「Nettleton 2006」、「Nettleton et al. 2005」はそれぞれ次の論文です。 「'I just want permission to be ill': towards a sociology of medically unexplained symptoms」、「Understanding the narratives of people who live with medically unexplained illness」 (iv) 引用中の「Broom and Woodward 1996」は次の論文です。 「Medicalisation reconsidered: toward a collaborative approach to care」 (v) 引用中の「Lillrank 2003」は次の論文です。 「Back pain and the resolution of diagnostic uncertainty in illness narratives」 (vi) 引用中の「Stockl 2007」は次の論文です。 「Complex syndromes, ambivalent diagnosis, and existential uncertainty: the case of Systemic Lupus Erythematosus (SLE)」 (vii) 引用中の「C・グレントン(2002)」は次の論文です。 「Chronic back pain sufferers--striving for the sick role」 (viii) 引用中の「Dumit 2006」は次の論文です。 「Illnesses you have to fight to get: facts as forces in uncertain, emergent illnesses」 (ix) 引用中の「May et al. 2000」は次の論文です。 「Medical knowledge and the intractable patient: the case of chronic low back pain」 (x) 引用中の(病者は)「膨大な情報収集を行う」ことの後に関連するかもしれない「患者会エビデンスに基づく情報を提供することが重要」であることについては次のWEBページを参照して下さい。 「日本人卵巣がん患者特有の課題を医療者ではない立場だから支援できる」の「患者会にも科学性に基づく患者支援が求められている」項 (xi) 引用中の「身体表現性障害」について次のWEBページや資料を参照して下さい。 「身体表現性障害 - 脳科学辞典」(注:このWEBページ中には次に引用(『 』内)する記述があります。 『身体表現性障害とは(中略)つまり、身体面で「器質的機能的な異常が見当たらない」のに、身体症状を訴え続ける精神障害である。』)、『「とらわれ」から考えるリエゾン的身体症状症』(注:このWEBページの「身体疾患と精神疾患を区別しているものとは」項には次に引用(【 】内)する記述があります。 【「身体疾患か精神疾患か」という切り分けは,実に不明確なものでもあります。】)、「身体症状症」(注:この資料の「はじめに」項には次に引用(《 》内)する記述があります。 《2013年に改訂されたDSM-5では「身体表現性障害」から「身体症状症および関連症群」という疾患カテゴリーに変更され》)、「身体症状症および関連症群の認知行動療法」 (xii) 引用中の『精神疾患という診断は、病者にとって「正常」への回帰を意味するものではないため、断じて受け入れられることはない』ことを含めて「精神疾患」の定義が不明瞭であると本エントリ作者は考えます。仮に「精神疾患」を引用中の「詐病」、「症状を偽っている」、「心理的問題」、「心の問題」や(特に上記『身体面で「器質的機能的な異常が見当たらない」』ので短絡的に診断する)「身体表現性障害」(上記 (xi) 項も参照)のみと定義するならば、標記引用は理解できないことはないのですが、例えば引用中の「病気がけっして自分の心にではなく(not at all "in the mind")身体にある("really is in the body")ことを確信している」ことは「精神疾患」ではないと必ずしも言えないと本エントリ作者は考えます。なぜならば、 a) トラウマを負った(注:精神疾患としては、例えば PTSD参照]や複雑性PTSD[ICD-11、発達性トラウマ障害を含めて資料「複雑性 PTSD への簡易トラウマ処理による治療」を参照]に分類される)方におけるポリヴェーガル理論(拙エントリのここの「最初に」を参照)の視点からのニューロセプション(又は神経知覚、拙エントリのここを参照)による「危険」あるいは「命が脅かされている」との検知、誤検知(注:これらに関連する『ニューロセプションは、必ずしも常に正確とは限らない。危険がないのに「危険である」とニューロセプションが誤って検知してしまうこともある。あるいは危険でないにも関わらず「安全である」という「合図」だと取り違えてしまう可能性もある。』ことについては拙エントリのここを参照)において、『「ニューロセプション」は環境中の危険因子について、(上記自分の心にや認知ではなく)意識しない又は神経的なプロセスで評価する』ことについては拙エントリのここここを参照して下さい。そして上記複雑性PTSD(又は発達性トラウマ障害)をはじめとしたトラウマを負ったの身体症状については他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 加えて特にパニック症においては「動悸、窒息感、発汗、めまい、手足のしびれ感等」の身体症状を伴います。次のWEBページを参照して下さい。 「パニック症 - 脳科学辞典」の特に「典型例」項 その上に、例えば「解離性障害」(解離症)や「全般不安症」においても身体症状を伴います。前者に関連する解離性身体症状については他の拙エントリのここここを、後者については他の拙エントリのここを それぞれ参照して下さい。さらに、仮面うつ病(例えばWEBページ「第9号 仮面うつ病 精神科医師 谷 宗英」を参照)もあります。また、上記「身体症状」に関連する「心理要因というのは自律神経を介することで結果として身体症状を呈する」ことについてはここを参照して下さい。一方、線維筋痛症を例とした「身体疾患に併病する精神疾患を見落とすリスク」については他の拙エントリのここを参照して下さい。また、「筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群」「線維筋痛症」(ここを参照)等の引用中の「論争中の病」に関連する、 1) 「機能性身体症候群」に上記 PTSD が含まれることの主張については資料「線維筋痛症」の「図2 機能性身体症候群(functional somatic syndrome)」[P2081]を、上記「パニック症」(パニック障害)が含まれることの主張についてはガイドライン線維筋痛症診療ガイドライン 2017」の「解説 - CQ1 線維筋痛症とはどのような疾患か」項を それぞれ参照して下さい。 2) 「中枢性感作症候群」に上記 PTSD が含まれることの主張については次の資料を参照して下さい。 「中枢神経感作病態としての心身相関」の「Fig. 3 中枢性感作症候群」(P174) (xiii) 引用中の「全身性エリテマトーデス」については次のWEBページを参照して下さい。 「全身性エリテマトーデス(SLE)(指定難病49)」 なおこの疾患は既に難病に指定されているので標記「論争中の病」とは異なると本エントリ作者は考えます。 (xiv) 引用中の「患っているにもかかわらず診断されない事態は、かくも多くの困難を生じさせる」ことの範囲外かもしれない、 a) 「病名よりも診断よりも大切なのが治療です」や「病状が起きている仕組みやメカニズムが推定できれば治療はできるのです」について、國松淳和著の本、「医者は患者の何をみているか ――プロ診断医の思考」の表紙裏における記述の一部を次に引用(【 】内)します。 【病名よりも診断よりも大切なのが治療です。症状の原因が分からず、診断名も与えられない……ということでいろいろな病院や科へ回る患者さんがいます。それは間違っています。病状が起きている仕組みやメカニズムが推定できれば治療はできるのです。】(注:引用中の「病状が起きている仕組みやメカニズムが推定できれば治療はできるのです」に関連する「かちっと診断が決まらなくても治療はできる」ことについては次のWEBページを参照して下さい。 「小説であり医学書『仮病の見抜きかた』の狙い-南多摩病院総合内科・膠原病内科の國松淳和氏に聞く」の『――改めてご経歴をお聞きしたいのですが、「原因の分からない病気の診断と治療を専門」とするようになったのはどのような経緯からでしょうか。』項) b) 「診断は治療をするために必ずしも必須ではありませんし、前提でもない」ことについて、同本の 第1章 診断とは の「診断は何のため? 誰のため?」における記述の一部(P011)を次(《 》内)に引用します。 《診断をつけることは重要ですが、重要であることと、必須・前提であるということは違います。患者さんはともかく、医者でもこの両者を知らず知らず置き換えてしまう誤謬に陥ることがしばしばあります。わかりやすくいえば、診断は、できればつく方が嬉しいけれど、診断は確定しなければ何もできないというわけではないということなのです。診断は治療をするために必ずしも必須ではありませんし、前提でもないのです。》 (xv) 引用中の「診断のポリティクス」に類似する「診断をめぐるポリティクス」についてはここを参照して下さい。

標記「想像的な希望と可能的な希望」について、同の 終章 「論争」からシティズンシップへ の「2 想像的な希望と可能的な希望」における記述(P173~P178)を以下に引用します。ただし、上記本においては「論争中の病」として主に「痙攣性発声障害」「筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群」「線維筋痛症」を取り上げていますが、この引用の注において標記「論争中の病」としての「線維筋痛症」も取り上げます。加えて「論争中の病」としての「化学物質過敏症」(注:研究成果報告書「化学物質過敏症患者の生活回復――論争中の病としての環境病」を参照すると良いかも、)もあります。

2 想像的な希望と可能的な希望

本書で見た「論争中の病」を患う人びとは、診断もままならないうえに、診断されても効果的な治療法はなく、また「制度の谷間」に置かれて福祉サービスも受けられず、経済的にも身体的にも疲弊していた。そして、さまざまな人びとから心ない言葉をかけられ、心に深い傷を負っている人も少なくなかった。こうした人びとにとって、自分たちの生を生物学的なものと結びつけることは、適切に診断され、治療され、福祉サービスを受けられるようにするために必要なプロセスの一つであった。
しかし、こうした生物学的シティズンシップの希求は、社会保障費をこれ以上支出したくない国や地方自治体にとって、あるいはいま現在、医療費助成や福祉サービスを受けている人びとにとっては、財政の悪化やパイの奪い合いが激化するかもしれないため、厄介なものに映るかもしれない。また、わずかな給料のために毎日朝から晩まで働かねばならない「健康*7」な人びとにとっても、生物学的シティズンシップを希求する人びとは、疾病利得を追求しているように見えるかもしれない。こうした潜在的社会的排除や対立は、実のところさまざまな場面で、すでに「論争中の病」の人びとにおいて経験されていたことは、本書の実証研究で見てきたとおりである。病者の症状は、彼らが通常役割を滞りなく遂行することを期待する家族や会社の人間にとっては「怠けている」、診断できない医師にとっては「精神疾患」や「心の問題」、そして病気かどうか見た目にはわからない者に対応するのをためらう行政の人間にとっては「たいしたことのない問題」として、それぞれの都合の良いように解釈され、病者の訴えがまともに相手にされない事態が生じていた。
こうした他者の解釈やまともに相手にされない事態は、論争中の病の人びとにとっては、心に傷を負うという心理的な出来事であるだけでなく、もろもろの共同体からの排除ないし排除される可能性を彼らに突き付ける社会的な出来事である。さらに、経済的な基盤を失いかねない、または失った後に障害年金の受給を希望するも申請すらままならないといった、経済的にもクリティカルな出来事である。そして、こうしたことを幾度となく経験するあいだにも、症状は依然として彼らの生活/人生の中心を占めており、肉体的な苦しみは途絶えることなくそこにあり続ける。この肉体的な苦しみこそが、論争中の病の人びとの生を文字どおりかたちづくっているのであり、その生をほんのわずかでも良い方向に変えていきたいと思わせるところのものである。
肉体的な苦しみを管理しようとし、その縮減を目指そうとする試みは、病者だけでなく、「健康」な人びとの多くもまた、日々実践していることである。それは、労働力を売って金を稼ぎ、消費者として資本主義社会に貢献するためだけに行われているのではない。どのような社会に生まれようとも、私たちは人間であるかぎり、肉体的な苦しみは(個々人によって程度の差はあれ)実際にとても辛いものである。それが慢性的に続いているのならば、そして尋常ではない程度のものであるのならば、何とかしたいと思うのは当然のことであろう。そして、これが少しの休息や他者の配慮を得たところで良くなるものでないとき、私たちは医学的なものを希求する。このとき、人は、健康に価値を置く健康至上主義者でもなく、労働不能な者を社会の「お荷物」と見なす資本主義社会の賛同者でもなく、人間を生物学によって管理し統治すべしと考える生物学至上主義者でもなく、ただただその苦しみを取り除いてほしいと願う受苦者でしかない。そしてその苦しみは、抽象的な苦しみではなく、具体的かつ肉体的な苦しみであるからして、宗教やまじないによって、また当然ながら「気の持ちよう」によって取り除かれるはずもない。もちろん医学にも限界があり、現に論争中の病は、いまなおその疾患概念が論争の的であり続けているし、効果的な治療法もほとんどない。しかし、それでもなお医学――生物医学――は、思う人びとにとって可能的なものなのである。
前章で見たように、生物医学に対する論争中の病の当事者の態度は、奇跡をもたらす絶対的救世主としてそれを信じるのではなく、あらゆる選択肢のなかで最も(治療の)可能性のあるものとしてそれに賭けるというものであった。医学が奇跡をもたらすのであれば、人はそれを盲目的に信じるだろうが、現実には奇跡などもたらさないことを、論争中の病の当事者は身をもって知っている。だが、彼らの病気を研究する研究者が少ないながらも存在し、バイオマーカーの探索が試みられており、診断法や治療法の開発が模索されており、そして実際に多くの患者が世界中に存在するというこの進行中の現実において、生物医学は、論争中の病の当事者がそれによって自分たちの生を理解し、少しでも苦しみが取り除かれる希望の実現可能性を見出すのに値するものなのである。
このように当事者が生物医学に見出す希望は、希望の政治経済を批判的に捉える者には、憐れなものに映るだろう。というのも、科学者は研究に対する公的支援や資金の獲得を目指して、自分たちの研究の重要性をしばしば誇張して宣伝するのだが、そこでは当事者の希望が大いに利用されているからである(Petersen 2015)。当事者の治療への希望は、多くの業績を上げて競争に勝ちたい研究者の希望や、利益を生み出したい企業の希望と結びつき、現実味をもたない研究成果への楽観的な期待が、さまざまなプロジェクトを駆動させる(Brown 2003; Brown 2011; Petersen et al. 2013)。そこにおいて希望は、「商品」として取引されたり、取引のための「資本」として利用されたりしているのである(Martin et al. 2008)。こうしたプロジェクトが失敗に終わったときに、最も実害を被り失望するのはほかでもない当事者であるが、希望を利用した政治経済は、失敗を次の希望へと横滑りさせ、失望の到来を遅延させる。このように、希望の政治経済は、人びとの希望を「搾取」し続けることのできる絞滑な仕組みとして描かれ、理解される傾向にある。
こうしたかたちで希望の政治経済を批判的に捉える見方は、ある程度妥当なものである。とりわけ、当事者と研究者・企業における科学的知識ならびに社会的影響力の非対称性を考慮すれば、生物医学的研究の妥当性や実現可能性を当事者に判断することは困難であると考えられるし、当事者がプロジェクトに疑問や批判を投げかけたとして、それが正当に受け止められるかどうかは疑問の余地がある。さらに言えば、当事者の多くは苦しみの最中にあるため、治療可能性という「ニンジン」がぶらさげられたプロジェクトには、藁をもすがる思いで参加したり期待したりする者も少なくない。だが、プロジェクトを推進する研究者や企業の人間は、自分たちの身体がどうこうなるわけではないため、たとえそれが失敗に終わったところで別段痛くもかゆくもないだろう。したがって、当事者の希望は、プロジェクトに人道主義的な正当性を与えるために、また資金を得やすくするために動員されうる点、そして「希望」以外の当事者の視点や態度は、研究者や企業にとってはプロジェクトを阻害するものとして排除されうる点は、批判的に検討されなければならない*8。
しかし、そうした批判のなかで当事者の希望が、しばしば楽観主義的で生物医学を無批判に受容しているかのように論じられる点は、再考すべき余地がある。繰り返すように、本書で見た論争中の病を患う人びとは、医学に法外な期待をしているわけではなく、あくまでも現状の技術的限界を見据えたうえで、肉体的な苦しみの縮減や、生物学的なものを基盤として社会的に包摂される可能性を見出しているのであった。つまり、論争中の病の当事者の希望は、「想像的な希望」――現実を考慮することなしに抱かれる希望――ではなく、「可能的な希望」――現実ならびに現実を構成する諸関係を考慮したうえで抱かれる希望――として理解される類のものである。みずからの経験や、膨大な資料収集、そして専門家への接触等によって、現時点における生物医学のカ能や現実の諸関係を見定め、生物医学に可能的な希望を見出すという当事者の態度は、資本主義的主体の一側面であるかもしれないが、そうである以上に、それは、ただ患うことを許さない社会、そして、ただ患っているだけでは誰も助けてくれないどころか、患いを嘲笑され、矮小化され、否認され、無視されるばかりのこの現実社会において、自分たちがどのようにして生きていくことができるのかを考え続けるなかで得た、生きるための方法論的態度なのである。
こうした希望の内実を思い見ることなく、希望の政治経済の批判者たちは、当事者の希望を想像的な希望として扱いがちであり、まるで当事者が生物医学に夢を見ているかのような印象を与える(もちろん、想像的な希望を抱いている当事者がいるかもしれないことは否定できない)。そうした見方は、当事者を、生物医学に対して過剰な要求をする無知な消費者として、そして希望の政治経済を、当事者の弱みにつけこんだあくどい営みとして図式化してしまいがちである。
しかし、実際に「診断」や「治療法」を買うことのできるマーケットは、この世に存在する数多の疾患のなかで、精神疾患やがんなどごく一部の疾患に開かれているに過ぎない。選択可能な「商品」が目の前に存在している当事者というのは、実際のところ批評家が考えるよりも少ないうえに、当事者の多くは病気で仕事を失ったり、体調悪化を防ぐために働くのを控えざるをえなかったりするため、「診断」や「治療法」を買い漁る消費者と言うには、彼らの資金はあまりにも乏しい。批評家が好む資本主義的・商業主義的ストーリー――消費者としての当事者が、研究者や企業に働きかけて治療法をつくらせたりそれを買ったりすること、また、患者団体が寄付等で得た莫大な資金を動かして科学研究の方向性を決定したりすること――は、先進諸国の希望の政治経済に特徴的だと言えるかもしれないが、それでもなお、そうしたストーリーは、一部の疾患の当事者にしか当てはまらないだろう。
さらに言えば、研究者や企業は、業績や利益を追求すると同時に、患う人びとに資する可能性を提示してもいるのだが*9、バイオマーカーなき患いには社会的な支援がほとんど期待できない現実を考慮したとき、こうしたことが批判的にのみ捉えられ続けるのであれば、診断法や治療法の開発に向けたプロジェクトは委縮し、当事者の利益を逸することになるかもしれないことは、よくよく考えられなければならない。

注:i) 引用中の註「*7」の記述(P216)を次に引用(『 』内)します。 『*7 もちろん、リスク医療(化)の観点からすれば、健康と病気の二項対立など無意味であり、あらゆる人びとは、病気のグラデーションを生きているに過ぎないし、健康というのは、実現不可能な理念型であり幻想に過ぎないのかもしれない。また、健康というのは、人間の状態を表すのに普遍的で客観的な概念であるというよりも、社会にとって好ましい状態であるという価値判断を含んだ概念であるからして、不用意に用いられるべきではないだろう。こうしたことを踏まえ、ここでは健康をかぎ括弧つきで用いている。しかし、実際のところ、病気のグラデーションを生きているというよりは、健康(的)に生きていると言った方が適切な人たち、すなわち、心身の状態が生物医学的介入なしに安定しているような人たちは数多く存在する。また、医学用語を除けば、私たちが身体の状態を呼び表す語彙というのは限られており、その一つひとつが曖昧である。したがって、心身ともに「健やかである」と思われる状態を「健康」と呼び表すことは、病人と呼ぶべき人との違いを示したり考えたりするうえで、いまなお有用であるように思われる。』 ii) 引用中の註「*8」の記述(P216)を次に引用(【 】内)します。 【*8 もっとも、どのような種類のものであれ、当事者の視点や態度が科学研究に入り込むこと自体が問題であるという批判もあろう。】 iii) 引用中の註「*9」の記述の引用は省略します。引用元の本を参照して下さい。 iv) 引用中の「Petersen 2015」、「Petersen et al. 2013」はそれぞれ次の本、論文です。 「Petersen, A., 2015, Hope in Health: The Socio-Politics of Optimism, New York: Palgave Macmilan.」、「Therapeutic journeys: the hopeful travails of stem cell tourists」 v) 引用中の「Brown 2003」、「Brown 2011」はそれぞれ次の論文です。 「Hope Against Hype - Accountability in Biopasts, Presents and Futures」、「The dark side of hope and trust: Constructed expectations and the value-for-money regulation of new medicines」 vi) 引用中の「Martin et al. 2008」は次の論文です。 「Capitalizing hope: The commercial development of umbilical cord blood stem cell banking」 vii) ちなみに、線維筋痛症をはじめとした「慢性一次疼痛」(又は一次性疼痛、primary pain)が ICD-11 に登録されたことについては例えば次の資料を参照して下さい。 「長引く痛みの克服に向けて:慢性疼痛の分類(ICD-11)や治療モード,治療施設などの分類と臨床利用」の「① MG30.0 慢性一次疼痛(例:過敏性腸症候群,非特異的慢性腰痛,線維筋痛)」項、「内科医が知っておきたい疼痛の病態」の「3)その他の病態(非身体器質的病態)」項 加えて、治療法のリストアップをはじめとした、線維筋痛症診療ガイドラインや慢性疼痛診療ガイドラインはそれぞれ次を参照して下さい。 「線維筋痛症診療ガイドライン 2017」、「慢性疼痛診療ガイドライン」 一方、上記線維筋痛症における診療を例にして、身体疾患に併病する精神疾患を見落とすリスクについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 viii) 引用中の「生物学的シティズンシップ」について、同の「1 生物学的シティズンシップを記述する」における記述の一部(P167~P169)を次に引用します。

1 生物学的シティズンシップを記述する

生物学的シティズンシップは、ウクライナにおけるチェルノブイリ原発事故の被害者の社会的実践を呼び表すにあたって、その語を用いた人類学者のA・ぺトリーナに帰される(Petryana 2003=2016)。ぺトリーナは、ウクライナ放射線研究センターやキエフ精神神経科病院等、さまざまな場所でフィールドワークを行い、医師や被災地域の住民等、さまざまな立場の人びとと出会うなかで、生物学的シティズンシップという概念を見出した。
ぺトリーナによれば、チェルノブイリ後のウクライナは、ソヴィエトからの独立という大変動を経て、「被災者(ポテルピリ)」と呼ばれる新たな人口集団が増加したという。被災者とは、チェルノブイリ原発事故が原因で被曝したと法的に認められた者であり、サブカテゴリーによって年金の支給額が異なる。最も支給額が多いのは、労働不可能な者である。ソヴィエト崩壊後、突然到来した資本主義経済は、市民に失業等のリスクを負わせたが、ぺトリーナの記述では、こうしたリスクは健康上のリスクによって相殺されうる。放射線の影響は確定不能であるという考えや、ウクライナの法システムにおいて伝統的な「陳情(スカルハ)」という文化的慣習によって、被災者は年金額が多く、経済的な心配をしないで済む上位の障害者ステータスを求めて、チェルノブイリと強く関連づけられた診断を、さまざまな方法で手に入れようとする。
こうしてポスト社会主義に現れた、新たな「生社会」(Rabinow 1996)における市民の実践を、ぺトリーナは生物学的シティズンシップと名づけた。「生物学的シティズンシップとは、生物学的損傷を認知し補償するための医学的、科学的、法的基準に基づいて遂行される社会福祉の一形態に対する巨大な要求であり、またそれに対する選別的なアクセスであるといえる」(Petryana 2003=2016: 37)。
社会主義国であり、未曽有のカタストロフィというウクライナに特有の文脈を持つぺトリーナの生物学的シティズンシップに対し、N・ローズは、彼女の議論を参考にしつつも、より一般的な概念として同用語を提案した*1。ローズによれば、少なくとも一八世紀以来、シティズンシップは西洋社会において、生政治の対象であり続けてきた。市民のあり方は、彼らの生命的で有機的な特徴、つまり生物学的な特性という点から理解され、対処されてきたのである。とりわけ、「二〇世紀前半の生政治にかんしては――優生学的なかたちにおいてであれ、福祉主義的なかたちにおいてであれ――市民の身体、すなわち個々の市民の身体と、国民国家、もしくは民族の集合的な身体が最も重要な価値であった」(Rose 2007=2014: 46-7)。「望ましい市民を」生み出すための、身体への配慮を促す国家的なキャンペーンによって、生活やライフコースに関する「上からの」教育や指導が、そしてある種の人びとに対しては、強制的な措置や抹殺さえも行われたことは、人類の負の歴史として知られるところである。(後略)

注:(i) 引用中の註「*9」の記述の引用は省略します。引用元の本を参照して下さい。 (ii) 引用中の「Petryana 2003=2016」は次の本です。 「Petryana, A., 2003, Life Exposed: Biological Citizens after Chernobyl, Princeton: Princeton University Press.(=2016, 森本麻衣子・若松文貴訳『曝された生――チェルノブイリ後の生物学的市民』人文書院.)」 (iii) 引用中の「Rabinow 1996」は次の本です。 「Rabinow, P., 1996, Essay on the Anthropology of Reason, Princeton: Princeton University Press.」 (iv) 引用中の「Rose 2007=2014」は次の本です。 「Rose, N., 2007, The Politics of Life Itself, New Jersey: Princeton University Press.(=2014, 檜垣立哉監訳『生そのものの政治学法政大学出版局.)」 (v) 上記「生物学的シティズンシップ」において、 a) 「これはME/CFSやFMにおいても今やおなじみのものとなりつつある」ことについて、同の 第6章 「論争中の病」と診断 の 3 希望をめぐるポリティクス の「3-3 来るべき患者のために」における記述の一部(P158)を次に引用します。 【そして、この生物学的シティズンシップは、ME/CFSやFMにおいても、今やおなじみのものとなりつつある。】(注:引用中の「ME/CFS」と「FM」はそれぞれ「筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群」と「線維筋痛症」の略です) b) 「論争中の病の当事者は、生物医学的なものを基盤として自分たちの生を理解し、自分たちや同じ病気の人たちの生が少しでも良いものになるよう、各自にできる範囲で行動を起こしていた」ことについて、同の「3 生きるための/肉の政治」における記述(P179~P182)を次に引用します。

3 生きるための/肉の政治

ここまで、論争中の病の当事者における困難と診断の影響を明らかにし、当事者が患いの正統化と希望の実現を目指して行うポリティクスについて、生物学的シティズンシップを導きの糸として理解することを試みてきた。これは、ローズが言うところの「下からの」生物学的シティズンシップの実践について、その一部を描き出そうとしだものであり、別言すれば、社会的排除のプロセスと包摂に向けた営みを、当事者の視点から描き出す試みであったとも言える。
患い、学校に行けなくなり、仕事ができなくなり、他者との交流がなくなり、家事ができなくなり、風呂に入ることすらできなくなっても、病気と見なされず、不当な扱いを受け、経済的な基盤がなくなり、孤立した状況に追い込まれた人びとの語りは、この社会が、医学的にも社会的にも確立していない病気を患う人びとには非常に冷淡であることを示していた。それは、当事者においては、まさにA・リルランク(Lillrank 2003)が指摘していたとおり、「普通の市民」ではない――「非市民」――という感覚をもたらすものとして経験されていた。医学的に確立されていて、誰でもその名前を知っていて、見た目にもわかりやすければ、そうした病気や障害は、たとえスティグマを付与されることがあったとしても、それを深刻なものと捉えて研究をする者や支援をする者がたくさんいたり、制度的に包摂されていたりする場合が多い。しかし、本書で見たとおり、論争中の病を患う人びとは、そうしたものをほとんど期待できないのである。
このような状況において、論争中の病の当事者は、生物医学的なものを基盤として自分たちの生を理解し、自分たちや同じ病気の人たちの生が少しでも良いものになるよう、各自にできる範囲で行動を起こしていた*10。こうした生物学的シティズンシップの実践は、社会的に、制度的に、経済的に不安定な状況に置かれた当事者において、肉体的な苦しみが唯一確かなものであることを示している。そして、この生物学的シティズンシップを実践ないし実現するために、まずもって必要なのが診断であった。それぞれの肉体的な苦しみに相応の説明がなされる病名診断は、たとえそれが論争的なものであれ、自分の状態を理解し、病気の情報を集め、同病の患者とつながり、今後どのように生きていくことができるかを考え始める契機となる。そして、この診断が元手となって、当事者は生物学的シティズンシップを駆動し活用させること――他者に自分の状態を説明したり、専門家に働きかけたり、患者同士で支え合ったり、制度的な包摂を希求したりすること――ができるようになるのである。
このように、診断は生物学的シティズンシップを可能にするものとして、また個別的なものと生物学的なものと社会的なものが交差し、すれ違い、ときに論争を生み出す場として理解することができる*11。そして、本書で見てきたように、医学的にまた社会的に包摂されていない病気の場合、診断法や治療法が確立されていなかったり、病気を信じない他者が現れたり、福祉サービスをスムーズに受けられなかったりするといった問題が、診断にはともなう。こうしたことから、その診断(名)をめぐって、当事者はつねにすでにポリティカルな状況に置かれていると言え、だからこそ彼らは、生物学的シティズンシップ――医学的にも社会的にも包摂されること――を求めざるをえない。換言すれば、すべての診断(名)が公平に扱われているわけではなく、論争中の病のように、生物学的シティズンシップを主体的に希求しなければならない――それは必然的にポリティカルなものである――人たちがいる一方で、そのようなことをしなくても医学的にも社会的にも包摂された病気を患う人びとがいるのである(もちろん、病人の社会的包摂は部分的なものに留まるという指摘があろうことは承知している)。しかるに、生物学的シティズンシップは、ある状態がたんに生物医療化されているか否かだけではなく、それが社会的に包摂されているか否か、それはどの程度のものか、そしてそこにはどういった問題があり、当事者はなぜポリティカルな状況に巻き込まれるのかを理解するのに有用な概念装置であると言えよう。
なお、このポリティカルな状況、すなわち診断をめぐるポリティクスを理解しようとするには、アイデンティティ・ゲームというフレームとは別の見方が必要であることを指摘しておきたい。論争中の病の当事者において、その病名を見つけたときあるいは付与されたときから巻き込まれ、ときに積極的に参入することになるポリティクスは、承認をめぐる闘争としてのアイデンティティ・ポリティクスという観点だけでは見落とされる現実がある。論争中の病の当事者が向かうことになるもう一つのポリティクス、それは、いつ崩壊しないとも限らないソーマ的な生を何とか持ちこたえさせるのに必要な身体を賭した政治、すなわち、生きるための政治である。
すでに述べたように、承認の問題は議論の余地なく重要であり、論争中の病の当事者においても、彼らの思いが他者に承認されるか否かがクリティカルな問題であることは、本書の記述からも十分に理解されよう。しかしそれとは別の問題、あるいはより根本的に重要なのは、ソーマ的な生の崩壊を食い止めること、そしてそのいかんともしがたい身体によってままならない日常の生活――それは、生きていくための基本的な活動、すなわち、話したり、動いたり、歩いたりといった、私たちが公的な場に現れて行う文化的・社会的な活動を下支えする、文字どおりのベーシックな活動のことである――を少しでも立て直すことであり、そうしたことを希求するポリティクスとは、アイデンティティである前にすでにそうなってしまっているところの、またそれによってアイデンティティが危機に晒されその再構築を迫られるところの、そして何よりも、どうにかしてそこで生じている苦痛を少しでも取り除いてほしいと願うところの「肉の政治」である。
肉を腐らせないためには、肉を生き生きとした状態にさせるためには、それに見合った方法――たとえば治療――が必要である。もちろん、人間が生きていくには治療だけでは済まされない。食べることが必要である。食べるためには金が必要である。福祉サービスが必要である。肉の状態を維持し、肉の生を少しでも良いものにすること。かような肉の存在をこの社会に認めさせること。この肉の政治こそ、論争中の病の当事者が不可避的に参与することになる、彼らの生物学的シティズンシップの実践ないし実現に向けた活動において生じるところのものである。

注:i) 引用中の「Lillrank 2003」は次の論文です。 「Back pain and the resolution of diagnostic uncertainty in illness narratives」 ii) 引用中の註「*10」の記述(P217)を次に引用します。 『*10 もちろん、本書の協力者がみな生物学的シティズンシップに基づいた、あるいはそれを目指すような行動を起こしていたわけではないし、論争中の病を患うすべての人びとがそうするわけでもないだろう。注意したいのは、第4章の註15にも書いたように、「活動的な患者」となることが規範的な患者像として定着した場合、生物学的シティズンシップ追求のためのアクションを起こさない、すなわち「活動的に」ならない患者は、ある疾患のコミュニティから疎外されたり、コミュニティ内で流通し交換されている情報を手に入れることができなかったり、「本物の患者ではない」と差別されたり、当人にそういう感覚をもたらしたりする可能性があることである。したがって、当事者コミュニティ内で生じるミクロポリティクスの抑圧的な部分にも留意する必要があろう。ただこうした問題は、論争中の病に限らず、さまざまな病気の当事者の「活動」プロセスで生じるように思われる。』 iii) 引用中の註「*11」の記述(P217)を次に引用します。 【*11 「私たちは、たんに診断によって犠牲者になったり、疎外されたり、客観化されたりするわけではない。疾患カテゴリーは、私たちすべてが社会的存在者として存在するところの制度、関係、意味のより大きなシステムに対する、人間の経験の非一貫性と恣意性を理解するために、個人的なものと集団的なものを結びつける、捉えどころのない諸関係を管理するための意味とツールの両方を提供するのである」(Rosenberg 2002: 257)。】(注:引用中の「Rosenberg 2002」は次の論文です。 「The tyranny of diagnosis: specific entities and individual experience」) iv) 引用中の「ソーマ的」とは「物質身体的」とのことのようです。同の P157 を参照して下さい。 v) 引用中の「ローズ」についてはここにおける引用を参照すると良いかもしれません。 v) 引用中の「ソーマ的」とは「物質身体的」とのことのようです。同の P157 を参照して下さい。 vi) 引用中の「専門家に働きかけたり」に関連するかもしれない『患者会やまれな病気の患者・当事者たちというのは、「どこに働きかけるか」というのはけっこう大事かなと思います。効率よくやっていかないといけません。』については次のログミーの最後の記述を参照して下さい。 『知識さえあれば病気は診断できる? 臨床医クニマツ氏が語る、「診断は医師の仕事」である理由

※:なお、上記「論争中の病」又は下記「論争されている病」の特徴を有する「化学物質過敏症」において注目されている三点について、佐藤純一、美馬達哉、中川輝彦、黒田浩一郎編著の本、「病と健康をめぐるせめぎあい コンテステーションの医療社会学」(2022年発行)の「コラム1 化学物質過敏症」における記述の一部(P67~P68)を次に引用します。

(前略)この病について、次の三点が注目される。
第一に、この二重の意味で「論争されている病」を病むということが、通常の病を病む際には見られないような苦痛や困難をもたらす、という点である。自分の状態を病気と認めてくれる医師になかなか出会えないこと、関連して、家族や友人、職場の上司・同僚などが自分を病人とみなしてくれないことや、発症後にこれらの人々とそれまでの関係を続けるのが難しいこと、症状を引き起こす人工的化学物質を住居や学校、職場からなくすようにするのが難しいこと、などである(Lipson 2004; Dumit 2006)。
第二に、この病を「疾患」として認めさせる運動である。このような運動としては、一つには「臨床生態学(Clinical ecology)」や「臨床環境医学」を自称する専門科の医師たちの運動がある。これらの医師たちは臨床研究などを通して病態の解明と診断基準の作成を試みているが、医学の主流からは認められていない(立石 2007)。もう一つには、医師の運動と連動する形で、この病を病む人々の団体による運動がある。この団体の主要な目的は、社会とくに政府に対して、この病を「疾患」として認知させ、この病についての研究やこの病に苦しむ人々の救済を求めることである。(中略)

中には、この病を引き起こしやすいとされる化学物質の規制を求める運動を行っている団体もある(Dumit 2006; Phillips and Rees 2018)。
第三に、特定の化学物質による健康被害に対する補償をめぐる論争がある。職場の空気に含まれる有害物質や施設から大気中に排出される有害物質が環境基準を満たしているような場合、それでもなお、それに起因する被害を申し立てる際に、「化学物質過敏症」が持ち出される。そのような健康被害の認定をめぐる裁判では、裁判官が判決に当たって、「化学物質過敏症」に関する対立する医学の知見をどのように取り入れるかが注目される(Phillips 2010)。

注:i) この引用部の著者は黒田浩一郎です。 ii) 引用中の「この病」とは「化学物質過敏症」のことです。 iii) 引用中の「Lipson 2004」は次の論文です。 「Multiple chemical sensitivities: stigma and social experiences」 iv) 引用中の「Dumit 2006」は次の論文です。 「Illnesses you have to fight to get: facts as forces in uncertain, emergent illnesses」 v) 引用中の「立石 2007」は次の資料です。 【立石裕二、二〇〇七、「環境問題における運動目的と研究課題のずれ――化学物質過敏症シックハウス症候群を事例として」『年報 科学・技術・社会』一六号、一ー三五頁。】 vi) 引用中の「Phillips and Rees 2018」は次の論文です。 「(In)Visibility Online: The Benefits of Online Patient Forums for People with a Hidden Illness: The Case of Multiple Chemical Sensitivity (MCS)」 vii) 引用中の「Phillips 2010」は次の論文です。 「Debating the legitimacy of a contested environmental illness: a case study of multiple chemical sensitivities (MCS)」 viii) 引用中の『二重の意味で「論争されている病」を病む』ことに関連するかもしれない『二つのタイプの特徴を合わせ持つ「化学物質過敏症」』について、同本の 序章 病をめぐる論争とはなにか の『「論争されている病」から「病をめぐる論争」へ』における記述の一部(P3~P4)を次に引用します。

本書の研究対象を規定するに際し、健康と病気の社会学(医療社会学)にはこのような論争の側面に照準した概念がすでにあったので、まずその概念の検討から始めた。その概念とは「論争されている病(contested illness)」という概念である。バーカーによると、これには次の二つのタイプがある(Barker 2010: 154(2))。

①「慢性疲労症候群(chronic fatigue syndrome)/筋痛性脳脊髄炎(myalgic encephalomyelitis)」「線維筋痛症(fibromyalgia)」など、医学的に説明ができない症状で、それに苦しむ人々とその擁護/代弁者はそれを正統的な生物医学的用語を用いて疾患として認定させようと奮闘しているが、医学研究者、医師、関係機関/施設からはそれへの反対があるような病
乳がんぜんそく、肺がんなど、その病の環境上の原因をめぐって科学的な論争(dispute)と公的な場での広範な討議(debate)があるような病

さらに、①②の二つのタイプの特徴を合わせ持つ「湾岸戦争症候群(Gulf War syndrome)「化学物質過敏症」(multiple chemical sensitivity)」などもある。
①と②とは、何が争点となっているか、という点で異なっている。①で争点となっているのは、生物医学で承認されている既存の身体疾患と区別される一個の独立した身体疾患か否かという点である。これに対して、②の争点は、疾患の環境因、とくに近代科学技術を応用した産業やその商品が環境に放出する化学物質や放射能である。(後略)

注:i) この引用部の著者は黒田浩一郎です。 ii) 引用中の注「(2)」の内容(P17~P18)を次に引用(『 』内)します。 『バーカーは①を“contested illness”、②を“contested environmental illness”と名付けて使い分けているが、②のタイプの議論でバーカーが言及しているブラウン(Brown 2007)では、②のタイプを指す用語として“contested illness”が用いられている。本書では、学説史的に、誰が、いつ、どちらの意味でこの概念を提起したのか、①の意味と②の意味のどちらが先かなどについての検討は控え、両方のタイプに共通する「論争(contestation)」に注目して、サブタイプとして①と②を含むものを「論争されている病」と捉えることにする。』(注:引用中の「Brown 2007」は次の本です。 「Brown, Ph., 2007, Toxic Exposures: Contested Illness and the Environmental Health Movement, Columbia University Press.」) iii) 引用中の「Barker 2010」は次の本です。 「Barker, Kristin K., 2010, "The Social Construction of Illness: Medicalization and Contested Illness," Chloe E. Bird, et al., eds., Handbook of Medical Sociology 6th Edition Vanderbilt University Press, 147-162.」 iv) 引用中の「医学的に説明ができない症状」については次のWEBページを参照してして下さい。 『「医学的に説明できない症状」って?』 ちなみに上記「医学的に説明できない症状」の文脈において、身体感覚増幅(somatosensory amplification、SSA)が近頃は身体脅威増幅(somatic threat amplification)と呼ばれることについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 v) 引用中の「慢性疲労症候群」、「筋痛性脳脊髄炎」や「線維筋痛症」については共にここを参照すると良いかもしれません。 vi) 引用中の「生物医学で承認されている既存の身体疾患と区別される一個の独立した身体疾患か否かという点」に関しては、『「臨床生態学(Clinical ecology)」や「臨床環境医学」を自称する専門科の医師たちの運動がある。これらの医師たちは臨床研究などを通して病態の解明と診断基準の作成を試みているが、医学の主流からは認められていない』(における引用を参照)にもかかわらず、引用中の「化学物質過敏症」を(精神疾患ではなく)「身体疾患」であると決めつけるのはいかがなものかと本エントリ作者は考えます。ちなみに、「精神疾患にも身体症状を伴うことがある」ことについてはWEBページ『「心身症」とは?心の病気との違い-ストレスなどが関わる「体の病気」』の『「身体疾患」と「身体症状」を混同しないこと-精神疾患も身体症状を呈する』項を参照して下さい。

さて同が発行された2022年においては、の引用における「三点」以外にも次の点も重要であると本エントリ作者は考えます。すなわち、ニセ医学として批判されている「Clinical ecology」(ここにおける引用、そして拙訳はありませんがWEBページ「Multiple Chemical Sensitivity: A Spurious Diagnosis - Quackwatch」、「Regulatory Actions against AAEM Members - Quackwatch」を参照)[拙ブログにおける和訳]臨床環境医学(例えばエントリ「臨床環境医学は専門家にも注目されていた。悪い意味で。 - NATROMのブログ」を参照)をはじめとした曝露や不耐性/(超)過敏に焦点を当てる用語のものから、知覚要素(注:日本においては2019年に発行された坂部医師が著者でもある論文[全文]『Chemical intolerance: involvement of brain function and networks after exposure to extrinsic stimuli perceived as hazardous.[拙訳]化学物質不耐症:危険と「知覚」される外因性刺激への曝露後の脳機能及びネットワークの関与』[他の拙エントリのここ及びここを参照、加えて、他の拙エントリのここも参照すると良いかも]を参照、また、海外においては式「知覚=予測+感覚の精度÷(予測の精度+感覚の精度)×予測誤差」[他の拙エントリのここを参照]に関連する「予測符号化」[他の拙エントリのここを参照][又は「予測的符号化」〔他の拙エントリのここを参照〕]からの視点のものもあります。次の論文[全文]「Idiopathic Environmental Intolerance: A Comprehensive Model[拙訳]突発性環境不耐症:包括的なモデル」[2017年発行][他の拙エントリのここを参照]、「Idiopathic Environmental Intolerance: A Treatment Model[拙訳]突発性環境不耐症:治療モデル」[2021年発行]を それぞれ参照して下さい。)に沿った用語のものへとパラダイムシフト(他の拙エントリのここを参照)が上記論文[全文]の発行により明確に行われたものと考えます。加えて上記「臨床環境医学」の視点からは、上記坂部医師、そして石川医師や宮田医師(例えば他の拙エントリのここを参照)も著者である2016年発行の資料「Chemical Sensitivity-The Frontier of Diagnosis and Treatment」の日本語要約(P54)において次に二分割して引用(それぞれ『 』内)する記述があります。 『化学物質過敏症の疾患概念の歴史はかなり古く、1950年代では、環境病(Environmental illness)の一つとして、概念的に捉えられていた。』、『しかしながら, 化学物質過敏症状を訴える患者が存在することは明らかであるにも関わらず, その病態解明が未だ進展していないために, 取り扱う臨床家・医療機関によって患者への対応は大きく異なっているのが実状である。その最大の理由として, 環境中の大量ではなく, 極めて微量な化学物質との因果関係の証明が非常に困難であることがあげられる。』 また*1も参照すると良いかもしれません。
従って、WEBページ「化学物質過敏症を標準医療に(2022年2月16日/衆院予算委・第五分科会・高橋千鶴子議員の質疑文字起こし)」において次に引用(【 】内)する記述 【→鎌田・厚生労働省医薬生活衛生局長[中略]化学物質過敏症、病態、発症メカニズムは未解明でございまして、特定の物質との因果関係というのは科学的知見が得られていないというものでございまして、まずは病態解明ということで、今現在その病態に関する研究を進めているところでございます。】 に関連するかもしれない厚生労働省がスポンサーとなって化学物質過敏症についても「種々の症状を呈する難治性疾患における中枢神経感作の役割の解明と患者ケアの向上を目指した複数疾患領域統合多施設共同疫学研究」(例えばWEBページ「種々の症状を呈する難治性疾患における中枢神経感作の役割の解明と患者ケアの向上を目指した複数疾患領域統合多施設共同疫学研究」を参照、加えて上記坂部医師が著者である分担研究報告書「化学物質過敏症候群患者の中枢感作検証」も参照すると良いかも)として上記2022年2月16日において研究が実施されています。加えて、WEBページ「【回答】香害で苦しむ人の医療、介護の改善を求める要望書(2021年4月12日)」にリンクされている資料「(厚生労働省の)回答書」の「要望2」項も参照すると良いかもしれません。なお、上記「中枢神経感作」又は「中枢感作」は(「Clinical ecology」やその延長線上ではなく)「知覚要素に沿った用語のもの」であると考えます。

*1:ちなみに、 a) 上記パラダイムシフト前の「Clinical ecology」やその延長線上に位置づけられるだろう、2016年に発行された次の資料があります。 「化学物質過敏症研究へのメタボロミクスの応用」 ただし、上記資料の「3-3 考察」項には次に引用(『 』内)する記述があります。 『今回の研究結果は,サンプル数も少なく,断面調査のため因果関係には踏み込むことはできない。』 また、この資料の続報(WEBページ「加藤 貴彦 - researchmap」の「論文」項を参照すると良いかも)を上記2022年2月16日までに拙ブログ作者は発見できませんでした。 b) 加えて、上記「Clinical ecology」やその延長線上に位置づけられるかもしれない、上記2016年以降に開始された日本における化学物質過敏症に関連する研究としては次が挙げられます。 「日本人多種化学物質過敏症に関連する遺伝要因の解明」、「化学物質過敏性における腸内細菌叢解析」 ただし、これらの研究の成果は上記2022年2月16日までに査読を経た英文の論文として発表されたことを拙ブログ作者は発見できませんでした。

一方、標記「論争中の病」に関連するかもしれない身体疾患・内科疾患が否定された後の内科医の視点からの(下記「不明・不定すぎて診断名がない」に分類される)「不定愁訴治療の前のチェックリスト」について、「不定愁訴というのは複雑」なことを含めて國松淳和著の本、「病名がなくてもできること 診断名のない3つのフェーズ 最初の最初すぎて診断名がない あとがなさすぎて診断名がない 不明・不定すぎて診断名がない」(2019年発行)の Chapter 3 不明・不定をどうするか の「Section 5 不定愁訴治療の前に」における記述の一部(P200~P211)を形式を変えて以下に引用します。ちなみに、 a)この本を紹介するエントリ『「病名がなくてもできること」から診断推論について考えた【医学書評】』やツイートがあります。 b) 『「臨床医は、病気を持つものの人生や人生観に触れられる奇異な職業」との感性が不定愁訴を診るために必要な能力なのだろう』ということについては次のエントリを参照して下さい。 「不定愁訴をみるために必要なこと【医学書評】仮病の見抜きかた」の「まとめ」項

不定愁訴」はそれ自体症状や病態とは言えないから,不定愁訴という語に対応する治療はない.すでに述べたように,不定愁訴というのは一種の「状況」である.患者の訴える一方的な症状的な困りごとだけからなる集合体というわけでもない.
不定愁訴を診療しようというときには,まず不定愁訴という状況になりやすい身体疾患・内科疾患を検討しそれらの積極的な診断を試みることから始める.そして身体疾患・内科疾患が否定された後,不定愁訴に対する治療に移るが,それは「どの薬を出すか」などというものではなく,不定愁訴という状況を打開するためのプロジェクトをまずは立ち上げてみるといったような趣のものとなる.
それほどに“本当の”不定愁訴というのは複雑で,“難プロジェクト”という様相であり日常業務のなかでいちいちそのような大きなことに構っていられないわけで,だからこそ担当医が心理的に忌避してしまう.ここで言いたいのは,不定愁訴の解決には,患者とその周辺の問題について「ときほぐし」が必要だということである.不定愁訴を治療することを決断するというのは,「捜査本部を置く」ことと似ている.

捜査本部:重要または特異な犯罪が発生したとき,捜査能力を統合的に発揮するため,警察本部や所轄警察署に臨時に組織される機関の名称.
デジタル大辞泉小学館,Ver.18)〕

不定愁訴を解決するために捜査本部を本当に置くわけではないが,下線部の箇所(引用者の注:この箇所は上記「捜査能力を統合的に発揮するため」が該当)が非常に意味のあることだと私は考えていて,通常の単純な捜査では解決しない・しなさそうであるから,各所の応援と協力を募って総合的な能力で難局の打開をするのであり,このあたりは不定愁訴にも共通する.不定愁訴のときほぐしもこうした対応が望まれるのである.

不定愁訴治療の前のチェックリスト

すると,不定愁訴治療の第一歩は,いきなりの解決は無理(というか,いきなりの解決が無理であるから不定愁訴となっている)であるから,初動の確実さを重視する.少々迂遠で面倒くさいのであるが,不定愁訴治療の,基本的に一貫して必要なマインドが「急がば回れ」である.
不定愁訴という複雑な状況に対し,まずは基本的な整理が必要である.(中略)

脱線するつもりはないが,不定愁訴の病歴は多くは長い.数年前からなどざら,短くても数ヵ月前からという時間単位であり,さすがに日の単位で急ぐ必要はまったくない.そこは多くの場合,患者自身も理解していて,こちらが「少し時間をください」というと考える時間をくれたりする.
そこで不定愁訴の治療を考える前に,表3-10に示すようなチェック項目について,十分担当医が自身に問うておくと良い.患者の症状に直接的に関連する事柄ではないということがポイントである.患者からしたら一見,主訴とは関係のないことまで聞いてしまうことになるので,戸惑う患者もいるとお思いかもしれない.実は実際にはそんなことはない.本当の不定愁訴の患者は,どんな質問や診療にも非常に協力的である.自分でしっかりと理路整然と述べることはなくても,こちらの質問には真面目に誠実に回答しようとしてくれる.
先に少しネタばらししてしまうと,熟練者は診断と治療を明瞭に分けたりしていない.診断的に診立てている段階で,こうした表3-10のようなことをすでに探りを入れている.これを「診断のために早めに聞いておく」と勘違いしてはならない.逆である.「治療のために早めに聞いておく」のである.チェックリストと言うと,普通診断に関与するものが多いが,表3-10のことを丁寧に聞くことによってそれだけで治療になっているのである.

1 まずそれは本当に不定愁訴なのか
不定愁訴の確定 ― この場合は本質的には身体疾患・内科疾患の除外ということであるが ― が前提のように話を進めても良いが,それだと現実的ではないことも多い.実際には,完全に器質的疾患を除外して先に進むのは難しいからだ.程度に差はあれ,いくらかは器質的疾患のことが頭にちらつきながら不定愁訴治療の診療を進めることになる.この不安は,患者のみならず担当医にもある.
不定愁訴を治療する段になって,あえてこの問い(表3-10の1)を最初に持ってくることによって,自戒的にさせるのである.ただ,治療に向かう“流れ”も大事である.なので,ここではせめて炎症反応が陽性である患者が不定愁訴とされていないかということだけ最終的にチェックしておきたい.CRP が陽性の患者には,決して「病気ではない」,「不定愁訴である」などとしてはならない.測定していなかったら必ず測定する.

2 受診の経緯と目的は
例えば紹介されて受診されたときのことを考える.受診日的(診察依頼)に必要十分に適うものであるために,まずはその紹介状をよく読まなくてはならない.必要にして十分というのは実は不定愁訴の診療全般で重要で,気負い込んで構い過ぎでもいけないし,サボったり見放したりもいけないのである.これについて例示する.例えば,ある紹介患者の紹介元はメンタルクリニックからで,患者は不定愁訴を訴えているが器質因があるとは思われず,ただ内科にきちんとかかったことがないので身体疾患・内科疾患の精査をお願いします,という場合がある.丁寧な紹介状をお書きになる先生だと,「内科で何もないということであれば,こちらに戻していただき,身体症状症として当方で治療します」とワンライン追記してくださる先生もいる.これは極めて理想的な紹介状である.このようにお書きになる先生は,もう初めからわかっていておそらくこの紹介状を書いている段階でもう治療が始まっている.それはさておき,この紹介だと,治療まではあまり大いに踏み込まなくていいということになる.あまりに踏み込んでしまうと,患者が混乱する.紹介元の主治医とこちらのダブルスタンダードになるからである.不定愁訴の患者はこうした状況にぐらついてしまうので注意したい.ちなみに,こういう“良い”紹介状を作成されて受診した患者さんに,身体疾患・内科疾患が判明した試しがない.逆に,「不定愁訴なので自分はよくわかりませんのでよろしく」という紹介状の場合のほうが,あっさりと内科疾患が判明したりする.
あとは,受診に至る患者の思い,考えをうかがい,いきさつを総合的に捉えておきたい.目的に関しても,患者本人・患者家族・紹介元の医師とで微妙に,あるいは全然異なるかもしれない.それが紹介受診時に初めて浮き彫りになることすらある.症状だけ聞いて,検査を出し,鑑別疾患を考えるという医師がいるが,一度どういうわけで受診に至ったか,この受診を誰がどう思っているかは聞いてみると良い.このあたりについては次の「3」ともつながっているので次項に読み進められたい.

3 誰が,どう困っているのか
この問いは,実は極めて重要である.表3-1の5の問いとともに,最重要視したい.
一般にこの「誰が,どう困っているのか」という問いは,思いのほか医療現場で問題にされない.おそらく「患者がとても困っている」に決まっているではないかという決めつけからであろう.この問いを私が例えば医師に投げると一様に怪訝な顔をする.
ここで重要なのは,この問いは発した側つまり治療者のみが把握すれば良いということである.「誰が,どう困っているのか」を,関係各位すべてが理解し共有しなくて良い.患者は知らなくて良いし,紹介であれば紹介元の医師が知らなくても良い.患者の家族が関与していたら,家族ですら知らなくて良い.とにかく治療することになる担当医が知っておくことが必要と考えている.この問いを発することによって不定愁訴の状況の全体を広角にみようとするということに意味を見出しているのである.
また,この問いが存在するということは,「患者がとても困っている」以外の事情があるということでもある.例を挙げてみると,患者は早く症状治療を開始して欲しいと思っているのに,患者の家族が診断が確定されないことに困っていてさらなる精査をして欲しいと思っている,などは象徴的な例である.つまり患者と患者の家族の間で考えや希望が違うのである.また,患者やその家族はあまり診断にはこだわっておらず早く症状への治療を始めて欲しいと思っているのに,紹介元の担当医が診断がつかないことに困っていて検査ばかり繰り返して,さらなる精査を求めて紹介する,などもそうした例の1つである.この2つの例の本質的な問題がわかるだろうか.それは患者の気持ちを悪意なくなおざりにしている点である.最新の医療水準で理解される範囲内で合理的なものだけを認めようとする合理主義が,悪意なくまかり通っているのが現実の医療現場である.多数の問題があるのならそれを要素に分け,各々の原因を限界まで徹底分析し,その結果を集合して検討するということが最善であって,それでわからないものはわからない,といった具合である.この合理主義では,治療は診断を前提にするから診断がわからない限り治療はできない,診断をもとに治療が決まるのであって診断がついていないのに治療ができるわけがない,となる.(本音は隠して)建前上そのように思っている医師もいれば,本当に悪意なく(素っ頓狂に)そう考えている医師もいる.こう指摘すると「検査をするのか何が悪い」となる.もちろん検査に罪はない.ただ,検査を受けるのは患者である.その,やろうとした・やった検査で何がわかって何がわからないままなのであろうか.考えなしに検査をやっても,やってもやらなくても変わらなかったのではと思うことがある.ただこれを言うと,結局「検査をするのが何が悪い」となり堂々巡りである.趣味ではないがロジカルに反論すれば,検査前確率や条件つき確率で説明できてしまう.検査前にその疾患がある可能性が著しく低い状態では,それなりの検査をしたとしても結果が陰性でも陽性でも検査後にその疾患の可能性(この場合,もともと著しく低い)が特に臨床医の決断に関与するほどには上下しないのである.このくらいのレベルの数学など楽勝で解ける者が医学部医学科に入学したはずであるのに,医師になるとなぜか慣習に絆され,せっかくの洗練された常識を失ってしまうのはなぜだろうか.
さて,医師たちは何を間違うのだろうか.それはおそらく,前頁の下線部のところの「限界まで徹底分析」ができていないと考えてしまうのである.つまり,自分のところでは限界まで調べられないし自分では症状の原因はわからないのではと考えてしまい,紹介状作成に至ってしまう.この悪意のないところでことが進んでしまうところが根深い闇(問題)であると私は考えている.「わからないなら突き止めようとするのは当然だ」という正義を貫く原理主義なのである.ただ患者は徹底的にとか合理的な理解とかそこまで詳しいことを望んでいない.あまりに細部に入り込んでしまう前に(原理主義に染まってしまう前に),どうか患者自身に本音を問うてみて欲しい.
表題の「誰が,どう困っているのか」の後半部分の,「どう困っているか」ということを患者自身がうまく言語化して私たちに述べるのは実は難しい.ケースによっては,うまく言えないから不定愁訴になっているという場合もある.私個人の範囲でいまでもよく経験するのは,患者が自分の社会生活のなかでその症状があるためにどの程度支障が出ているのかというのをうまく言えない,毎回聞くたびに変わる,言えても実際と違う,というケースである.ひと通り,単純に聞いたのでは患者の症状を知った気になってはいけないのである.繰り返し聞いても翻弄されるのである.「(その症状のために)どう困っているか」の問いは,本人から抽出されるものしか信用できないが,その当人もまたそれをうまく言えないとなれば,なかなかにことは難しい.不定愁訴の解決が難しい理由の一端がおわかりいただけただろうか.

4 訴えは無差別か:陰性症状を言えるか
これを確認することは,ある種の問診のスキルではある.診断(病態把握)や治療の両輪に役立つ重要な確認である.例えば体じゅうが痛いという訴えがあるとしよう.すると「体じゅう」ではわからないから,どういった箇所や領域が痛いか,そしてそれはどの程度痛いかを聞くわけである.(もちろん病態にもよるが)不定愁訴の患者の多くは,「ここは痛いですか」,「ここはどうですか」の質問にすべて Yes となってしまうことが多い.これは,たくさん訴えがあるということと違う.部位や領域,程度において“無差別である”ということである.突き詰めれば「定量ができない」という表現に落ち着く.自分の症状の程度を脳が正確に定量できないから,1本の閾値線があるだけの判断基準しかない.つまり,痛みであれば「痛い」か「痛くない」のどちらかでしかない.こういうのを私は“定量障害”と呼んでいる.
脳の認識の偏りなのかもしれない.「調子はどうですか?」と質問をしたとき,同じような状況の患者であっても,随分と答え方が違うなあと思うことがある.「熱はもう出ないですが,まだ腰とももは痛いです.それよりも肩や首の痛みは相変わらずでこれが一番辛いので午前中は家事ができません」と答える人もいれば,「だめです……変わらないですね」と(だけ)答える人もいる.前者の人はこちらの「どう?」を有機的に解釈しているが,後者の人は,なんというか「どう?」というのを字義どおり以上には取っておらず,つまり「どう? と言われてもだめだからここにきてるんだ」となる.後者は,ある・なしの2択の思考.世の中が真ん中で「良い・悪い」の二手に分かれている,あるいは白と黒に分けられているという思考になっている.これはその人の意識や理解度とは別次元で そういう脳の性質であるという意味である.別の解釈をすれば,まだ未成熟で脳が幼稚であるとも言える.少し戻るが,前者の回答をした人は,診察というのはその人全体からしたらごくわずかの時間であって,症状を解決するために病院へヒントをもらいに来ていて,多くの時間を過ごす診察以外の生活のなかで 自分自身で治そうという気持ちがうかがえる.他方,後者は完全に受け身である.
定量障害”ではない患者は,医師から質問されると,解決に前向きだから自分の疼痛を見極めようとする.よって,例えば「体じゅうが痛い」であっても,ある部位は痛い,ある部位は痛くないと弁別できる.“定量障害”である患者は,「体がとても痛い」ということに脳が支配されてしまっているために,「ここは痛くないです」と選り分けて言えなくなっているのである(これ自体が病的とも言えよう).痛くない箇所をはっきり言えるというのは極めて重要な所見であり,カルテにしっかりと記載する価値がある.
区別,弁別,選別.これらは何かの事象を定量するための第一歩である.陰性症状を言えるか言えないかは,目の前の患者の状態の把握,ひいては今後の治療関係を占うものだと私は捉えている.

5 本人は,原因を何のせいにしているか
この問いも前項と一部内容は共通,通ずるものがある.「原因を考える」というのは,比較的高度な頭脳の営為である.それをすでに,医師に訊かれる前にできているのだとしたら,診療への協力・同調というのがもうできているということである.自分で症状をそれなりに分析できているか.このあたりは確認に値する.
原因を考えるというのは当然,この場合他ならぬ自分自身の症状についてである.症状の原因を患者自身が考えるというのは,その状況を内省的にメタ認知している(引きで眺めている)ということになる.これは非常に高度な脳の使い方であると言える.
ネタばらしをすれば,この問いは担当医が治療で用いる.内省的なメタ認知とは,成熟した大人の思考であり,例えば小学生では無理である.これはある成人の脳を指して「子ともじみている・子ともレベルだ」と見下げて言い放っているのでは決してない.子どもは普通どの子でも自ら内省することはなく,なんでも嫌なことは自分以外のせいにするものだし,そのほうがむしろ子どもらしい.「症状にとらわれる」ことに陥りやすい人の脳は,その症状を正確にメタ視点で認知できていない.自分の症状があたかもある日空から降ってきてその症状が勝手に自分に纏わりついているかのような認識でいるのである.しかもそれは無自覚・無意識に,である.症状は,外からやってきたのではない.自分自身のなかから生じているというのに.
不定愁訴」が勝手に,自然には治らないのにはそれぞれにわけがある.自然に治らないメカニズムをまず医師がみて取り,そこから患者自身が理解していく(ように促す).これは不定愁訴治療の本質でもある.この場合,医師の理解が先であるから,医師がもう少し頑張る必要がある.

6 現在の生活はどうなっているか
患者は,診察室にいる時間は自分の生活からしたらごくわずかで,ほとんどの時間を自分の生活を生きる時間に費やされる.不定愁訴診療は,入院で行うということはないから,診療時間はごくわずかとなる.診察のあいだはある意味“受け身”となっていても仕方がないが,それ以外の時間は自ら生活を構築し能動的に考え動く必要がある.よって,その人のあるがままの生活状況はその人のある種の能動性そのものを表していると私は考えている.
「生活」というのはその人の環境そのものであり,家族なども含めて考えれば自分を中心としたときの社会の最小単位でもある.不定愁訴となる患者は,大なり小なり環境から影響を受けている.もちろん空気が汚いとか猛暑のなかエアコンが壊れているとかの環境因で直接身体に影響が出るようなこともあれば,人間関係の不良や生活サイクルの乱れからくる疲労などの要因から,心理面への影響が出ることもある.このような「環境(生活社会)-心理」の関係が,人よりも感受性が強く負の関係性で結びついてしまうとき,心理面の解放が図られず身体症状となってしまう.この感受性というのは,その人自身の性質としての例えば神経質さとか不安状態とか気分とか知能とか人格の安定性とかとも違うように思われる.純粋にその人のもともとの独立した属性か,病的状態(病態)か,のどちらかだろうと思われる.
不定愁訴の治療は,このような「環境(生活社会)-心理」の関係性に注目し,それを扱うことで進められる.こう言うと,なんだか心理療法とかそういう捉えどころのない話だと曲解されることがあるがそうではない.「心理社会的因子に目を向ける」というのは別に特殊なことだったり,専門性が高いことだったりはしない.普通のことである.要は,患者の周辺事項へ関心を向けるということであり,患者の周辺事項というのは先に述べたように患者の生活そのものである.生活について聞く,というのもまったく特別なことではなく,むしろ臨床医にとっては基本的かつ日常的で,要するに「生活・社会歴を聞く」ということそのものである.
生活社会歴を聞くというとそれだけで大上段に構えるような気になってしまう医師や,あるいはそういう時間がない・そういうのは苦手であるという医師もいるだろう.そのときには,特に何も考えずその患者の「1日の平均的な過ごし方」を尋ねると良い.起床時刻から始まってその後何をするのか,というのを淡々と時系列順に聞いていく.当然,食事時刻,自宅を出発する時刻や勤務時間,家事など通常すること,就寝時刻に至るまで少なくともそれらの時刻や時間を聞いてみるのである.「食事」は生活の基本でありこれを軸に聴取しても良い.食事の回数や開始時刻,誰が作るか,どこで買うのか,どういうところで外食するのか,量,誰と食べるのか,などがあると良い.ややテクニカルだが食欲の多寡と実際の摂食量との関係性もわかる.「全然食べれてません」と言いつつ,行動を確認するとけっこう食べているとかがわかったりする.「腸が動きまくって腹がすぐ痛くなる」と言いつつ昼にラーメン,夜にラーメン+チャーハン・深夜に焼肉を食べていたりする.それらの派生で「まったく動けません」と言いつつ夕方にジムに出かけていたりするのである。私はこれらを特殊な事例と思わない.これらに類する人は本当に多い.
生活の基本的な事柄を聞いているうちに,それらの“行間”がわかるようになる.例えば,家族構成とか,家族と会話する時間があるのかとかもわかってしまうことは多い.「朝つら過ぎて動けず,食欲はあるのに1階に降りられない」ということを聞いたならば,その患者の家屋が少なくとも2階建以上であり患者はダイニングの階上が居室であるということまでわかってしまう.少し勘ぐれば,マンションではなく持ち家(らしい)ということもわかってしまう.持ち家ということであれば,ひとり暮らしではない可能性が出てくる.生活圏に患者以外の者がいるというのか判明すると,こうした問診はさらに捗る.「そういえば家族構成はどうなってますか?」と切り出す.答えてくれれば,その者たちそれぞれのことを聞くこともできる.もちろん良くも悪しくも関係性がわかり,その患者の心理の動きもわかる.
もちろんもっと具体的な事柄を聞くのも有用である.職業・仕事に関することは,食事に並んで必須である.勤め先,通勤方法,業務内容,勤続年数,転職歴,勤務時間,勤務体制,勤務状況,患者の勤務や勤め先に対しての考えなど,休日はいつで・どれくらいで,いまの仕事や部署をどう思っているかとか,ストレスや充実度,勤務と症状との関連(仕事をしているときは大丈夫かとか,対人関係で悪化しないかなど)も聞ければ良い.
生活状況に関しては,余暇の過ごし方,外出頻度,TVやスマートフォン,PCを使う時間,タバコ・アルコールの量,趣味の内容,インターネットの利用状況,娯楽や習いごと,旅行などについても聞くと良い.というのは,症状で困っていると言いながらこういうことはできているのだなという把握ができるからである.
生活を知るとはその人の社会を知ることである.治療では,患者の生活/社会が患者の心身にどう影響を及ぼしているかを,患者と治療者の双方で一緒にメタ視点で見直していくのである.

7 何を目標としているのか
最後は目標である.これは,臨床医なら当然確認するものとして認識されていることと思われる.ただ,不定愁訴診療ではこの当たり前のことが抜け落ちしてしまっていることが多い.現実的な目標設定というのは大事である.患者がこれを見誤るのはそれが不定愁訴的状況では織り込み済みな面もあるのでひとまず良いとして,医師が目標設定を間違えてはいけない.診療の目標が「患者→診断をできれば付けて欲しい,患者の親→診断を絶対付けて欲しい,担当医→症状をいまよりも緩和する」のように,立場によってここで違ってしまうと,このまま診療を続けてしまえば当然のごとく交わるということはない.
このような例もある.診察と一般的な検査で特に問題のない軽い症状を患者が非常に気にしているとする.「そのくらいなら精密検査の必要はないんじゃないの」,「それは様子みていい症状だけれど,私がみてあげるから何かお薬飲みながら通院してみましょうか」,「たまにみてあげるから月に1回くらいはおいで」などと,ごり押ししない程度に“兄貴的”あるいは昔で言う“寮母さん的”な態度と距離感で接すれば良いところを,妙に及び腰となって「念のためこの検査もしましょう」とどんどん検査を追加したり,「では紹介状を書きますからすぐ大きな病院でみてもらいましょう」とか「私ではわからないので別の先生を紹介します」などと他医を紹介したり,あるいは「症状の原因が解決しない」ということを大義名分にして患者の適切な到達地点を医者側が大いにブレさせている場面を残念ながらよくみかける.その大義名分でもって,自分が“中腰”になることなく,納得させることを怠っているとしか思えない事例もある.
適切な態度と距離感で接するべきだと言うと,それをしてしまうと患者が医者や医療者に過剰に寄りかかってくる恐れがあるとする考えを言われる.しかし実際には,不定愁訴の患者は節度をもって接してくる.この両者のあり方のミスマッチのために,結果として相対的に医師が不定愁訴の患者を見放し気味とする構図となる.一度患者に見放されたと思われてしまうと,何ひとつうまく行かない.何ひとつである.
いろいろ述べてしまったが,目標設定の間違いはもちろん普通は患者がしている.それを医師が患者に気づかせることが治療そのものである.治療が始まるにあたり最初のうちに,①目標と現状のずれを確認すること,そして,②それを担当医・患者の双方が設定し直すこと,を忘れないでおけばそれで良い.

不定愁訴治療:“読者”をだます叙述トリック

実はもうここで,不定愁訴の治療についての総論的なものの説明はほぼすべて終わりである.もう続きはない.本項は序盤戦であって,この後も続くかとお思いになっていた読者諸氏には拍子抜けかもしれない.そこで「不定愁訴治療の前のチェックリスト」のところをここで読み返して欲しい.
そこでは,不定愁訴の治療の第一歩はまず基本的な整理であり,事前に表3-10のような項目について検討しておくと良い,というような要旨であった.しかし,5段落目にこういうことも書いていた.“熟練者は診断と治療を明瞭に分けたりしていない,表3-10のことを丁寧に聞くことによってそれだけで治療になっている”と.ここで「表3-10」というのはここまで説明してきたように本項全体そのものである.つまり,「不定愁訴治療の前に」というタイトルによって心理的に「まだ続く」と思ってしまったかもしれないが,先ほど述べたようにこの後はもう続かない.実は,まだ序盤だというミスリードを促しつつ,読んできたことそのものが治療の指南になっているのである.(後略)

注:i) 引用中の「不定愁訴」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 『「医学的に説明できない症状」って?』 加えて、『「一筋縄ではいかない難しさを楽しめるような感性」が上記「不定愁訴」を診る診るために必要な能力なのだろう』ことについては次のエントリを参照して下さい。 「不定愁訴をみるために必要なこと【医学書評】仮病の見抜きかた」の「まとめ」項 ii) 引用中の「メタ認知」についてはここを参照して下さい。 iii) 引用中の「検査前確率」(又は事前確率)に対し、これが非常に低い場合(例えば 0.001%)には特異度が高くても(例えば 99%)、陽性反応的中割合が低い(上記前提では 0.1%)である計算例については次のエントリを参照して下さい。 「特異度と偽陽性率と陽性反応的中割合と - NATROMのブログ」 加えて、上記事前確率を踏まえた新型コロナの PCR 検査の陽性的中率等については次のエントリを参照して下さい。 「感度、特異度、陽性的中率などの重要事項【例:コロナ検査】」 iv) 引用中の『「症状にとらわれる」ことに陥りやすい人の脳は,その症状を正確にメタ視点で認知できていない』ことに関連するかもしれない『日ごとに患者の「病気」のイメージは突飛な方向に膨らんでいき、ことあるごとに「わたしは MUS という難病を抱えて何年も闘病生活をしてまして」などと言うようになる』ことについては他の拙エントリのここここを参照して下さい。 v) 引用中の「表3-10」(P201)の記述を形式を変えて以下に引用します。 vi) 引用中の「不定愁訴」の診療における「患者の表現が歪む」ことについて、同 Chapter 3 の Secton 1 各論の前に あらためて「不明・不定」とは の「■患者の因子」における記述の一部(P172)を以下に引用します。

表3-10 不定愁訴治療の前の7つの自問自答
1 まずそれは本当に不定愁訴なのか
2 受診の経緯と目的は
3 誰が,どう困っているのか
4 訴えは無差別か:陰性症状を言えるか
5 本人は,原因を何のせいにしているか
6 現在の生活はどうなっているか
7 何を目標としているのか

■患者の因子(中略)

「患者の表現が歪む」とは,患者に内在する真の訴えが,患者が発言として表現する段になり量・質ともに変化し,聞き手からするとよくわからなくなってしまうというような意味である.本当はあるはずの症状が積極的な訴えとして表現されないこともあれば,本当はそんなにないはずの症状が過剰かつ適当でない表現方法で訴えられることもある.このことが起きやすい患者の,具体的な背景例を表3-1に挙げた.これに該当する場合,不定愁訴化しやすい.(後略)

注:引用中の「表3-1」(P172)の記述を形式を変えて次に引用します。

表3-1 「患者の表現が歪む」ことが起きやすい患者背景
・思春期
精神疾患あるいは心療内科圏内
・認知機能低下・知的障害
・病的状態(sick, weak, inactive)
・外国人(日本語が母国語でない)
・感覚器の機能低下ないし不全(聾唖者,重度の白内障,難聴など)
・重度肢体機能不全(頸髄損傷,脊髄炎後,外傷後の重度の後遺症など)

加えて、「心身症的アプローチが効かなかった理由」について、同 Chapter 3 の Secton 6 「本当の不定愁訴」の治療の反省とさらなる“仕分け” の「■心身症的アプローチが効かなかった理由」における記述の一部(P216~P218)を次に引用します。

3つの理由に分けて解説する.
①病態は心身症的だが患者の不安やストレスが取りきれない
これは要するに,治療者の問題と思われる.あらためて述べると,心身症というのは「発病や経過に心理要因が強く関与する身体疾患2)」であるとされる.心身症は身体疾患である.ここまでくどく言い続けて,これ以上は語るまいとさえ思う.心理要因というのは自律神経を介することで結果として身体症状を呈する.これはピットホールではなく,常識である.医学部医学科に限らずヒトの生理学の講義が開講されている大学なら,どこでも習うものである.あるいは新書などの一般書籍でも入手できるような知識である.思い切って言えば 心理的問題というのは,からだの問題であると包括できる.こう意識を変換するだけでも,医師読者諸氏の目の前の患者の,(あなたの言う)「不定愁訴」が緩和していく気がする.不定愁訴心身症と診断するだけでも,何かが前に進む気がする.

②病態が心身症的ではない
本項冒頭で挙げた「慢性疲労症候群」などは良い例である.疲労感のみならず,熱,痛み,体動時などの自律神経症状などで困っている患者が多く含まれる症候群である.この症候群に分類される患者は,あらゆる検査で異常所見が出ないというのもあり,ほぼ全例が不定愁訴のレッテルを貼られている.器質的・内科的疾患は十分除外された熱ということで,高体温症として治療を試みた症例を多く経験した.が,いずれも無効だった.これはおそらく冒頭に述べた,慢性疲労症候群に分類される集団のなかの“病気(自己免疫?)”に入る患者群で,神経炎症などの関与によるものであろう.既知の検査では検出できない炎症の存在により著しく過小評価されている,(十分に人口に膾炙されていないという意味で)未認知の病態であろうかと思われる.要するに,病気であるから治療が要るが,まだ治療が確立されていないという状態である.二次的なうつ,心身症には一定の効果があるかもしれないが,熱苦痛や易疲労感などは取れないだろう.個人的には,患者に期待を持たせてしまったと鋭く自己反省している.(中略)

③異常体験の関与(患者側の内面の要因)
実はこの要因に関してはのちに取り上げて掘り下げ,機能性高体温症の治療の失敗という枠にととまらず,考え方を不定愁訴患者への治療全体に適用できるようにしたいと思っている.
「体験」というのはおそらく精神症候学的用語だろうと思う.一般社会ではほぼイコール「経験」のように用いられるが,ここで言う異常体験というのは異常な経験というのとは違う.異常体験とは,患者自身によって主観的に体験された病態の患者側の内面を言ったものである.それをうかがい知るには,患者にそれを語らせなければならない.患者がありのままを語った「言動」とも言える.「体験」と対比される考え方は,患者の「外面・外観」や「行為」である.
異常体験というのは,症状を患者に語ってもらってその内容を知ることになるが,それがありのままであるならばそれ自体が患者の症状であり困りごととなる.例えば「24時間体が痛い」と患者が言えば,それ自体が異常体験であり症状となる.もちろん医師のほうも,さまざまな病歴聴取や場合によっては検査などで,その言い分がどうやら患者の真の困りごととして相当の蓋然性があるのかということを検証する.検証の結果,そうであればそれは患者の体験だろうとされ,医師によってそれが異常かどうかを認定していく.そういう異常体験というのは,実際にはさまざまものがあり,内容によっては一般身体診療を大なり小なり難しくする.
1つ具体的に例示すれば,心気症の場合である.これは,自身の熱やその周辺症状の些細な変調・変化,不調に対してひどくこだわりそして恐れることである.一種の体感異常であり,昔かられっきとした病的体験として記述されてきた.あれこれと種々~多彩な身体症状を訴える場合もあれば,単一症候のみを訴える場合もある.当然「熱」を含むときがあり,心気症としての機能性高体温症は,どうやら治療が難しいようである.この場合,患者はストレスどうこうの理屈にそぐわない状態にあり,当然心身症アプローチでは快癒しない.もちろん特効薬もないが,個人的失敗としては,前項同様に患者に期待を持たせてしまったことかもしれない.やはり臨床というのは努めて患者を一定の距離で観察し続けることが重要で,安易に患者に期待を持たせたり喜ばせたりすることを先行してはならないと思われる.治療が難しいということを一緒に受け止めるのも,診療であるということを学んだ.(後略)

注:i) 引用中の文献番号「2)」は次の本です。 「濱田秀伯,著.精神症候学 第2版.弘文堂;2009.」 ii) 引用中の「不定愁訴」及び「心気症」については共に例えば次のWEBページを参照して下さい。 『「医学的に説明できない症状」って?』 加えて上記「心気症」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 iii) 引用中の「心身症」については次のWEBページを参照して下さい。 「心身症 - 脳科学辞典

その上に、「患者の性質を特徴づける属性が多ければ多いほど治療は難しい」ことについて、「心身症の立ち位置」や「不定愁訴治療における治療の難易度・治療反応性予測のためのルール」も含めて、同 Section 6 の「■心身症の立ち位置」、「■他の“属性”の併存と複雑化」及び「■不定愁訴治療における治療の難易度・治療反応性予測のためのルール」における記述(P222~P223)を次に引用します。

心身症の立ち位置

そうなると「心身症」という,これまで大切にしてきた考え方はどのようにすれば良いであろうか.これは,治療者の目線の問題である.ある患者に対し心身症である・心身症かもしれないという目でみているときは,患者の行為や外観をみていることになる.家庭や社会での行動の様子,表情や言動,服装などの行為・外観の情報から患者の精神状態をうかがい知るというもので 大まかな印象を取るのに適したアプローチである.この意味で 前述の「心身症的アプローチが効かなかった理由」の③で述べたように患者側の内面の要因を深く読み取り体験の異常として患者の問題を抽出するアプローチと異なることがわかると思われる.こうした行為・外観に注目するのはどの異常体験を伴う病態をみているときにも応用が効くので有用である.心身症自体は患者の行為や心理社会因子が交絡した複雑な事象の集合体であるため治療は簡単ではないと言えるが,特定の内容の強い思考障害などを伴わず軽症例であれば心身症は一般内科医でも与しやすいものであるとも言える.

■他の“属性”の併存と複雑化

麻雀の役が増えるほど指数関数的に点数が上がるように,患者の性質を特徴づける属性が多ければ多いほど治療は難しい.例えば,パーソナリティ障害の傾向も持つ統合失調症患者の不定愁訴で全般性不安の要素もあるものだとか,アスペルガー傾向を持つ患者の不眠を伴う疼痛障害だとか,PTSDを持つ児で強迫性障害と動揺する不安症状を持つもの,といったような具合である.こうした複雑性が増せば増すほど,身体症状の改善は難しい.

不定愁訴治療における治療の難易度・治療反応性予測のためのルール

不定愁訴を治療するにあたり,患者の性質の診立ての末に,予想される治療の難易度・治療反応性に原則があるように思われるので紹介する(表3-12)

注:i) 引用中の「心身症」については次のWEBページを参照して下さい。 「心身症 - 脳科学辞典」 ii) 引用中の「パーソナリティ障害」については次のWEBページを参照して下さい。 「パーソナリティ障害 - 脳科学辞典」 iii) 引用中の「統合失調症」については次のWEBページを参照して下さい。 「統合失調症 - 脳科学辞典」 iv) 引用中の「PTSD」の別名である「心的外傷後ストレス障害」については次の資料を参照して下さい。 「トラウマ体験に苦しむストレス症候群 心的外傷後ストレス障害を診る」 v) 引用中の「強迫性障害」については拙エントリのここを参照して下さい。 vi) 引用中の「全般性不安」に関連する「全般不安症」については拙エントリのここを参照して下さい。 vii) 引用中の「疼痛障害」に関連する「疼痛性障害の合併症」については次の資料を参照して下さい。 「疼痛性障害の合併症」 viii) 引用中の「表3-12」(同のP224)を形式を変えて次に引用します。

表3-12 不定愁訴治療における治療の難易度・治療反応性予測のためのルール
Rule1:身体症状だからといって心身症的アプローチ一辺倒では症状改善が難しい病態がある
Rule2:感情障害より思考障害のほうが治療が難しい
Rule3:感情障害なら,慢性より発作性のほうが治療が易しい
Rule4:思考障害なら,対象が特定のもののほうが治療が難しい
Rule5:思考障害のうち,思考体験の障害より思考内容の障害のほうが治療が難しい
Rule6:内科に受診しがちな病態のうち,単純なパニック,侵害受容性疼痛や純粋な神経因性疼痛は,内科医でも治療がうまくいきやすい
Rule7:恐怖症・心気症の傾向の強い身体症状を訴える患者は,内科医だけでは症状の改善は非常に難しい
Rule8:軽度の強迫性障害不定愁訴になり,中等度以上の強迫性障害は内科にはこない
Rule9:患者の性質を特徴づける心理要因・精神状態・社会背景が多ければ多いほど治療は難しい

注: i) 引用中の「感情障害」の別名であるだろう「感情の障害」についてはここを参照して下さい。 ii) 引用中の「軽度の強迫性障害不定愁訴になり」に関連する「身体症候がメインになった強迫性障害」についてはここを参照して下さい。

さらに、『「本当の不定愁訴」の治療を難易度順に考える』ことについて同 Section 6 の「■「本当の不定愁訴」の治療を難易度順に考える」における記述(P223)を次に引用します。

これまでの記述をもとに,総まとめ的に表3-13にまとめた.心身症の理解は前提として,心身症的アプローチ一辺倒では限界があることを理解し,不定愁訴の基盤となっている患者の精神構造や性質について“仕分け”を行うことで,困難となりやすい不定愁訴治療において若干の助けとなるだろう.

注:i) 引用中の「心身症」については次のWEBページを参照して下さい。 「心身症 - 脳科学辞典」 ii) 引用中の「不定愁訴」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 『「医学的に説明できない症状」って?』 iii) 引用中の「表3-13」(順位[治療難易度、【困難】1位~7位【容易】]、疾病/病態、カテゴリ、P224)を形式を変えて次に引用します。

表3-13 内科にくる「本当の不定愁訴」の治療:治療難易度ランキング
1位、[疾病/病態]恐怖症あるいは心気症/身体症状症、[カテゴリ]思考内容の障害
2位、[疾病/病態]軽度の強迫、[カテゴリ]思考体験の障害
3位、[疾病/病態]中等症以上の心身症、[カテゴリ]心身症
4位、[疾病/病態]全般性不安(複雑でないもの)、[カテゴリ]思考内容の障害
5位、[疾病/病態]パニック、[カテゴリ]感情の障害
6位、[疾病/病態]各種神経痛(複雑でないもの)、[カテゴリ]知覚の障害
7位、[疾病/病態]軽症の心身症、[カテゴリ]心身症

注:i) 引用中の「感情の障害」について同 Section 6 の「■感情の障害」における記述の一部(P219)を次に引用(『 』内)します。 『感情(の障害)の最も馴染みのある例が「不安」である.不安は,定まらない漠然とした恐れの感情のことである.そして病的な不安というのは,不安を生んだ刺激が内部で歪曲・肥大化されるために,客観的な危険に比して不釣り合いに強く反復してあらわれる不安のことを言う.慢性の不安状態を全般性不安といい,発作的で急性の不安状態をパニックと言う.』 ii)(内科にくるのかどうかはともかくとして)これら以外にも引用中の「本当の不定愁訴」に関連するかもしれない、発達性トラウマに関係する「診断上のどんな分類にも簡単には当てはまらない説明不能な一連の症状」については他の拙エントリのここここを参照して下さい。

注:引用中の「思考内容の障害」や「思考体験の障害」にも関連する「思考障害の分類」について、同 Section 6 の表3-11(P220)を形式を変えて次に引用します。

表3-11 思考障害の分類
1 思考の流れやまとまりがおかしい.
2 思考ののちに,さらに体験として思ったことがおかしい.
3 思考の内容自体がおかしい.
4 妄想そのもの.

注:引用中の「体験」について、同 Section 6 の「■思考の障害」における記述の一部(P220)を次に引用します。

(前略)2は「体験」という言葉を使ってしまったが,本来は「思考体験の障害」と書きたいところであった.考えて,それを自分がさらに感じ考えた結果,そのときの体験が異常だということである.1との比較で言えば,思考の流れやまとまりは保たれているが,要は「考え方がおかしい」というわけである.
代表的な例が「強迫」である.(後略)

注:i) 引用中の「強迫」に関連する「強迫性障害」については拙エントリのここを参照して下さい。 ii) 引用中の「思考体験の障害」については次の資料を参照すると良いかもしれません。 「精神保健基礎研修」の「3-3)思考体験の障害(強迫症状含む)」シート(P22)

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【6】医師と患者の双方が責任を持つ「共同意思決定」について

標記「共同意思決定」について、夏苅郁子著の本、『病院で聞けない話、診察室では見えない姿 精神科医療の「7つの不思議」』(2021年発行)の 第1章 不思議1 病名を言われずに、何十年と通院している患者さんがいる の 患者・家族としての私の願い 病気を理解するには、病気の説明が必要です の『「インフォームドコンセント」から「共同意思決定」の時代へ』における記述(P57~P58)を次に引用します。

時代が変わり、現代の医療は、強い立場の医師が患者の治療を一方的に決める「パターナリズム」から、「インフォームドコンセント」の時代となりました。
インフォームドコンセント」は、ある医療行為を医師が行う際、治療の目的や効果・副作用などについて患者さんに説明し、同意を得たうえで治療するというものです。インフォームドコンセントが正しく行われるならば、それは大変有用ですが、現状では形骸化の傾向が目立ってきています。
本来は「十分な説明」のうえで「医師と患者双方が話し合って同意」するはずが、医師は治療の決定を患者へ丸投げしてしまう傾向があります。けれど、いくら説明されても、医師と患者の知識の差には絶対的なものがあり、患者と家族だけで治療の選択をするのは不安極まりないことです。
そこで、インフォームドコンセントからもう一歩踏み込んで、近年は「共同意思決定」という概念が提唱され始めています。文字どおり、「患者と医師が互いに情報を交換して、治療方針を共同で決定する」というものです。この概念の大きな特徴は、「お互いが決定に責任を持つ」という点です。
パターナリズムでは医師が責任を持ち、インフォームドコンセントでは患者が責任を持ちました。私は医療においては、医師も患者も「医療行為の当事者」であるからには、双方が責任を持つことが本来の考え方だと思っています。
精神科だけではなく、すべての医療でこうした考え方が広まることが患者さん、ご家族の願いではないでしょうか。

注:引用中の「患者と医師が互いに情報を交換して、治療方針を共同で決定する」ことに関連するかもしれない(認知行動療法スキーマ療法において)「セラピストだけがクライアントの抱える問題を理解するのではなく,クライアントと共に CF(ケースフォーミュレーション)の作業を進め,理解したことは全て共有するプロセスを通じて,両者の共通理解を練り上げていくこと自体が治療的に機能する」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。

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【8】価値観が多様化すれば(了解可能性を吟味することとしての)感情移入による理解は一層難しくなり,時間のかかる作業になるだろうことについて、その他

最初に標記「了解」についての簡単な説明について、 (a) 次のWEBページを参照して下さい。 「伝統的精神医学の考え方とは、その中心にある了解について」の『「了解」することとはどういうことなのか』項(注:上記WEBページを含む一連のWEBページについては上記WEBページの「精神医学(古茶大樹先生)の連載記事」項を参照して下さい) (b) 井原裕著の本、「精神療法の人間学 生活習慣を処方する」(2020年発行)の 第Ⅲ部 私の考える精神療法 の 第18章 精神療法の人間学 の「6 精神療法における了解」における記述の一部(P264~P265)を二分割して次に引用(それぞれ『 』内)します。 『了解とは、自然科学における因果関係の解明とは異なるところの、知的理解である。』、『人をモノの塊としてではなく、怒りや悲しみをもった存在として理解することが了解である。人と語り合うときに相手の心情を推し量ることが、典型的な了解である。ヤスパースは、素朴な例をあえて引用して、「攻撃された者は怒り、裏切られた恋人はやきもちを焼くことを了解し、動機からこうしようという決心と行為が起こってくることを了解する」と述べる。このように、人の心情をおもんばかることが了解の本質であり、その了解の範囲を広げることこそ、精神科医の務めだという。』(注:1) 引用中の「了解」の「明証性」についてはここを参照して下さい。 2) 引用中の「攻撃された者は怒り、裏切られた恋人はやきもちを焼くことを了解し、動機からこうしようという決心と行為が起こってくることを了解する」についてはここここも参照して下さい。) (c) 内海健兼本浩祐編集の本、「精神科シンプトマトロジー -症候学入門- 心の形をどう捉え,どう理解するか」(2021年発行)の 総論 の 4 了解と症状把握 の「1. 初めに」における記述の一部(P54)を次に引用(【 】内)します。 【精神科医は,必ず患者と面接して,患者の状態を把握しようと試みる.このとき精神科医は患者の態度や応答を理解(了解)しようとするが,ときに了解の限界に行き当たることもある.】(注:この引用部の著者は熊﨑努です)

加えて、標記「了解」が臨床的に果たす意義について「了解的な態度」を含めて、同4 了解と症状把握 の「2. 了解はなぜ現在の精神科臨床の課題なのか」における記述の一部(P54~P55)を次に引用します。

まず,うつ病の診断をする場面を例に,臨床的に了解が果たす意義を確認したい.(なお,次に呈示するのは特定の患者の病歴ではなくモデル症例である)

【症例:40歳代,男性】
約半年前に昇進して「今までの努力が報われた」と喜び,その後しばらくは熱心に仕事をしていた.しかし3か月程前から,中途覚醒が目立つようになり,朝は体がだるくて起き上がれず 遅刻が目だつようになった,出勤しても,何となく書類を眺めるだけで仕事が進まない.休日は,以前のように遊びに出かけることもなく,一日中臥床している,見かねた妻が,旅好きの本人のために温泉旅館を予約したが,本人は喜ばないどころか,「ちゃんと働けない俺に,遊びに行く資格はない.」と泣き顔になった,それで驚いた妻が精神科に連れてきた

このような患者が来院したときに,操作的診断基準1)に照合すれば,大うつ病性障害の診断をすることは可能である.しかし,患者を診察しながら精神科医が行っているのは,ただチェックリストに印をつけることだけであろうか.操作的診断基準に当てはめて考えているときでも,〈昇進してすぐはうれしかっただろうし,意気に感じていたんだろうな〉〈でも今のこの人は何をしても楽しくないのだな.辛そうだな〉と感じたり,〈それにしても休日の旅行まで楽しくないのはよくわからないな.やはりうつ病だな〉と感じたりしているのではなかろうか.このように感じているとき,われわれは患者に了解的な態度で接していると言えるだろう.(後略)

注:i) この引用部の著者は熊﨑努です。 ii) 引用中の文献番号「1)」は次の本です。 「American Psychiatric Association : Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed. American Psychiatric Association, Arlington, V A, 2013.〔日本精神神経学会(日本語版用語監修),高橋三郎,大野裕(監訳):DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京,2014.〕」 iii) 引用中の「大うつ病性障害」の別名である「うつ病」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「うつ病 - 脳科学辞典

次に標記「多様な価値観の時代に移行してきたならば、(了解可能性を吟味することとしての)感情移入による理解は一層難しくなり,時間のかかる作業になるだろう」ことについて、同総論 の 5 臨床精神病理学的視点からみた精神障害診断学と分類について -症状学,診断学分類学,治療学の有機的なつながり- の 4. 診断学・疾病分類学上の具体的な問題点について の「(1) 了解可能性の判断について」における記述の一部(P76)を次に引用します。

了解可能かどうかの判断を下すためには十分な情報が必要である.その判断が難しくなるのは情報不足によることが多く,時には医師の側に原因がある.対象者の性格や物事の捉え方・考え方・体験の反応の仕方をよく知ろうとする前に,たった1回の問診で得た断片的内容(歩んできた人生全体ではなくある局面だけを切り取ってきたもの)をすぐさま自分自身の価値観に照らし合わせ,その判断を下してしまう.このような精神科医は驚くほど多い.了解可能性は対象者に感情移入したうえで心の全体像の動きを検討するものだが,それがなされていない.しかし,そのような誤った了解可能性は最近になって始まったことでもないようにも思う.
振り返ってみると30年以上前のこと,自分が精神科医になりたての頃から既にその傾向は見てとれた.だからこそ,多くの精神科医がそのやり方に疑問を感じることもなかったのだろう.これが大きな問題となってきたのは,われわれ日本人の価値観がかつてのように比較的一様であった時代から多様な価値観の時代に移行してきたことと関係があるように思う.そもそも民族多様性とは縁遠い島国としての歴史が長く続き,第二次大戦では苦い敗戦を経験している.日本は敗戦国として再出発し,国民一丸となり高度成長期を経て復活を遂げた国家である.そのような歩みを共有することのできる文化がかつてはあったのだが,今ではこのようなストーリーをピンとこない世代も確実に増えてきている.かつての常識的なことやこれまで習慣的にしていたことが,現在ではそうとも言えないこともたくさんある.わが国の価値観の多様性は,格差の広がりとグローバル化とともに顕著になり,多様性そのものを積極的に認めようとする風潮はさらにその傾向を助長する.多様な価値観が当たり前になってしまうと感情移入による理解は一層難しくなり,時間のかかる作業となるだろう.了解可能性を吟味する骨の折れる作業よりも,横断面の精神状態から症状を数え上げるほうがずっと簡単で,診断の信頼性も高くなることは自明である.米国で了解可能性という疾病性判断の重要な指標が浸透しなかったのは,民族文化や価値観の多様性が当たり前の国民性と無関係ではなかったのかもしれない.(後略)

注:i) この引用部の著者は古茶大樹です。 ii) 引用中の「多様な価値観が当たり前になってしまうと感情移入による理解は一層難しくなり,時間のかかる作業となるだろう」に関連する「現代のように変化の激しい社会では,生活背景が大幅に異なる人間同士が同じ集団に属して顔を接する機会が沢山あると考えられる.(ヤスパースの時代である)100年前と同じように了解できるかできないかを精神症状の指標としてよいのかという疑問が生じるとしても,一理ある」ことについて、同総論 の 5 了解と症状把握 の 6. 了解精神病理学の領域とその限界 の「(2) 了解精神病理学の限界と今後の課題」における記述の一部(P63)を次に引用します。

(前略)それから,現代のように変化の激しい社会では,生活背景が大幅に異なる人間同士が同じ集団に属して顔を接する機会が沢山あると考えられる.100年前と同じように了解できるかできないかを精神症状の指標としてよいのかという疑問が生じるとしても,一理ある.
相手の言うことを理解し難いときに,すぐに了解不能と決めつけるのではなく,少し想像力を働かせてみたり,相手の生活背景をもう少し詳しく聞いて把握したうえで了解しようとする努力が必要になってきていると考えられる.このような場合,自然に了解すると言うよりむしろ,人為的に反実仮想的な手続きを経て了解することになる.このような手続きは,ヤスパースの枠組みでいうと感情移入的な側面がやや弱くなり,解釈に近いものになるが,このような努力も含めた形での了解が,現代では要請されているように思われる.

注:(i) この引用部の著者は熊﨑努です。 (ii) 引用中の「解釈」に関連するかもしれない、 a) 「解釈学的アプローチ」については次の資料を参照して下さい。 「臨床倫理学における解釈学的アプローチ」 b) 「精神分析」の視点からの「解釈」については他の拙エントリのここを参照すると良いかもしれません。

また、標記「了解」の明証性に関連して「精神療法と呼ばれるものの本質」や「了解的関連」を含めて、同「6 精神療法における了解」及び「7 了解における明証性」における記述の一部(P264~P267)を以下に引用します。加えて、上記「明証性」に関連して「明証性を伴ってわかることを、了解可能と呼んでいる」や「了解的関連」を含めて、古茶大樹著の本、「臨床精神病理学 精神医学における疾患と診断」(2019年発行)の 第1章 精神医学における疾患とは の 了解について の「了解的関連とは」における記述の一部(P18~P20)を以下に引用します。

6 精神療法における了解(中略)

了解の明証性は、何かの媒介なしに直接的に納得させてくれるものである。了解心理学の目的は、この明証性を獲得することにあり、それによって「今まで気づかれなかった精神的関連を理解する(18)」。それは、了解した瞬間、「あたりまえ」の感すら抱かせるような種類のものだが、そのような自明な感じを抱かせるような点にこそ、了解の明証性の明証性たるゆえんがある。だからこそ、ヤスパースは、先述のように「攻撃された者は腹を立てて防御行為をするし、欺かれた者は、邪推深くなる」といった、ごく一般的な例をあげていたのである。

7 了解における明証性

ただし、了解の明証性は、当然のように与えられる知ではない。了解の筋道を丁寧に追わないかぎりわからない。その人の身になってみれば、わかるべくしてわかる。しかし、その気にならなければ絶対にわからない。ここに了解の真髄がある。想像力を働かせることに怠惰な者は、わかるはずのことすらわからない。結果として、了解の明証性に到達することができないのである。
他人に対して警戒的で、過剰なほど身構えてとりつくしまがない者がいる。こういう行動にはわけがある。その人の背景を調べてみれば、たびたび攻撃されたことがあって、それで、「誰も信用するものか」というような、過剰な防御姿勢をとっているのだとわかる。こちらが一所懸命誠実に働きかけても、「お前など信用できない」というような尊大な態度で、好意的なメッセージをすら拒否する者がいる。なにかわけがある。あれこれ以前のことを尋ねてみれば、やはり、過去に信頼していた人に裏切られたことがあったことがわかる。
こういう一見常識的なことでも、その人の背景に関心をいだき、その人の身になって想像し、その人の意識の筋道を丁寧に追う作業をしなければ、理解できない。了解とは、このように、感情移入のセンスがあり、想像力に富み、思考に勤勉な者にとっては容易である。その一方で、惰性に乏しく、共感性が貧困で、思考に怠惰な者は、永遠に明証性に到達できないだろう。
臨床家にとって、重要なことは、当事者は、第三者にとって自明のことに気づかないことがあるという点である。自分が人とうまく付き合えない理由が、かたくなな態度にあることに気づかないし、かたくなな態度が、かつて受けた心の傷によるということも、わかっていない。患者自身が自分を主人公とする物語の筋を見失っている。ここにおいて、治療者と手を携えて、見失った了解の筋道を見つけようとすることが、精神療法と呼ばれるものの本質である。そうして自身の物語を取り戻し、患者自身が了解の明証性に達することができれば、それが精神療法における治療と呼ぶべきものになる。
そして、このような認識の助けになるものは、日常生活を通した人間観に負うところが大である。

誰でも精神生活の自明の了解的関連をたくさん知っており、これは生活の経験から教えられるものである。

ある人が了解的な認識を豊富に持っているほど、「心理学的説明」によるこういう分析がたくみにできる。(後略)

注:i) 引用中の文献番号「(18)」はここの (ii) 項で示される本です。 ii) 引用中の(ヤスパースにも関する)「攻撃された者は腹を立て」に関連する「攻撃された者は怒り」についてはここを参照して下さい。 iii) 引用中の「了解的関連」に関連する、「反応性」だと判断するための指標の一つとしての「了解的関連」について、上記「反応性」を含めて、内海健兼本浩祐編集の本、「精神科シンプトマトロジー -症候学入門- 心の形をどう捉え,どう理解するか」(2021年発行)の 各論 の 39 反応性 の最初の部分及び「1.反応性の指標」における記述(P162)を次に引用します。

反応性の病態なのか,内因性の病態なのか,判断に迷うケースがある.ここでいう反応とは,ある出来事に対する心の反応,さらにいえば感情性の応答である.「心因反応」という言葉が用いられることもあるが,クルト・シュナイダーは「体験反応」と呼んだ.もっともな動機がある悲しみや怒りは正常な体験反応であるが,その強さや持続時間,外観などが平均よりも偏ったときに,「異常体験反応」と判断される.
1.反応性の指標
ある病態を内因性ではなく,反応性だと判断するための指標は,ヤスパース1)が挙げたものがよく知られている.すなわち反応性の病態では,1)体験と反応的状態とのあいだに時間的な結びつきがある,2)体験の内容と反応の内容とのあいだに了解的関連がある,3)時が経つにつれて異常性は目立たなくなり,原因がなくなると異常反応もなくなる.また,反応の経過はさまざまな体験によって変わる.

注:(i) この引用部の著者は玉田有です。 (ii) 引用中の「ヤスパース1)」は次の本です。 「Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathogie : Ein Leitfaden für Studierende, Ärzte und psychologen. Springer, Berlin, 1913.(西丸四方訳:精神病理学原論.みすず書房,東京,1971.)」 (iii) 引用中の「反応性」の病理として考える利点については、同「39 反応性」の「3.了解できるか,できないか」における記述の一部(P163)を次に引用(【 】内)します。 【反応性の病理として考える利点は,精神療法や環境調整の可能性がひらけるところにある.】 加えて、この引用に関連するかもしれない「精神疾患を反応性であると考えてみること」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (iv) 引用中の「内因性」に関連して、 a) 上記「反応性」との差異について、同「39 反応性」の「2.経過の特徴」における記述の一部(P162)を次に引用(《 》内)します。 《ヤスパースによれば,内因性の病態の場合は,その病気固有の法則に従って経過するため,精神的な動機の影響を受けない.つまり原則的には,患者の身の回りでいいことがあっても,悪いことが起こっても,内因性疾患の経過は変わらないはずである.》 b) 「外因性,内因性,心因性精神障害」については次の資料を参照して下さい。 『バイオマーカーはどこまで進歩したか?』の「2. 外因性,内因性,心因性精神障害」項(注:上記「外因性」に関連する「身体的基盤が明らかな精神病」、上記「内因性」に関連する「内因性精神病」、そして「心因性」に関連する「心的あり方の異常変種」については『精神医学における「疾患単位」と「類型」(理念型)の違い』を含めて共に次の資料を参照して下さい。 「精神医学における疾患とは何か ――Kurt Schneiderに学ぶ臨床精神病理学――」) c) 「内因性うつ病」については次の資料を参照して下さい。 『「内因性うつ病」という疾患理念型をめぐって』 d) 「内因性精神病」については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 『精神医学から見る精神障害 精神障害はすべてが「病気」ではない』の「精神障害の分類」項

了解的関連とは
ある場合には精神的なものが精神的なものから、はっきりそうとわかるように、明証性をもって出てくることをわれわれは了解する。われわれはこのように精神的なもののみにありうる様相で、攻撃された者は怒り、裏切られた恋人はやきもちをやくことを了解し、動機からこうしようという決心と行為が起こってくることを了解する。

ヤスパース精神病理学原論』(22)の有名な一節である。前段はなんともわかりにくいが、後段に挙げられた例はシンプルである。明証性(エビデンス)とあるが、これはもちろん今日の Evidenced-Based Medicine(EBM)におけるエビデンスとは違う。多数例を集めて統計学的に証明する類のものではなく、むしろ個々の例において「そう理解するしかない」というような根源的で本質的な理解を意味している。後段に挙げられた例はいかにも簡明であるが、この明証性はいつもたやすく到達し得るものではない。むしろ「あなたがどうしてそう考えるのか、そう感じるのかよくわからない」というところから出発することは多々ある。しかし、時間をかけて相手のストーリーに耳を傾け、疑問をぶつけながら、徐々に相手の物事の考え方や捉え方(そこにはその人の歴史もまた含まれる)がわかってくる。するとどこかで、「さっぱりわからない」ものが、「ああ、そういうことか」と腑に落ちる。これこそが明証性であり、一度そこに到達すると、もはや他の理解の仕方は考えられず、そう考えるのが自然であるとわかるのである。一つ例を挙げてみよう。

二四歳女性。温かい家庭に育ち、明るく快活で、さしたる挫折の経験はない。彼女は大学を卒業すると第一志望の銀行に入社した。社会人として独立した生活を送ろうと実家を離れ、一人暮らしを始めた。職場には少し年上の先輩のお姉さんがいて、彼女を厳しく指導する。新米の彼女は、「自分に経験がないのだから仕方ない、先輩も自分のことを心配して指導してくれているはずだ」と思って、明るく元気よく出社していた。ところが来る日も来る日もきつい言葉で叱られると、さすがにつらくなってきた。それでも週末は友人とショッピングに出かけて気分転換できていた。入社して三ヵ月経ったが、職場の状況は変化がない。この先輩は仕事ができるので、上司も後輩に対する指導が厳しすぎることに気がつきながらも助けてくれない。毎朝会社に行くために着替えをしていると涙がこぼれそうになる。「また先輩に叱られる、会社に行きたくない」という思いがよぎるが、そう思っている自分が恥ずかしい、何だか不登校児童みたいだと思う。社会人なんだから、お給料をもらっているんだから、叱られるから会社に行きたくないなんて情けないと自分を鼓舞してみる。「行かなきゃ」という思いと、「行きたくないな」という思いが、毎朝綱引きのようになる。それでも綱引きになんとか勝って、休まずに出社する。しかし、状況はいつまで経っても変わらない。最近は、土日も会社のことが頭から離れず、気分転換もやめてしまった。日曜日の午後になるともう気分が沈んでくる。月曜日が来るのが怖いと思う。そして入社して半年が経ったある月曜日の朝、涙がポロポロと止まらず、熱はないが吐き気と腹痛がする。そこで彼女は、「こんなに体調が悪くては会社に行けそうにない、行きたくないんじゃなくて行けない」と思う。そして、会社に休みの連絡を入れようと電話してみると、よりによって件の先輩が出てしまい、彼女は思わず無言のまま受話器を置いた。

短い描写であるが、入社の喜びが職場の失望に変わり、葛藤が生じ、それが身体化するまでの彼女の心の動きが、一続きのストーリーとしてよくわかる。いくつもの理解があるのではなく、他ならぬこのストーリーとしてわかるはずである。このように明証性を伴ってわかることを、了解可能と呼んでいる。
われわれは臨床診断の際には、心の動きをいったん止めて静的な状態像を評価(抑うつ状態、不安焦燥状態など)し、それから精神障害の分類診断へと進むのだが、実際は、小は止まることなく流れている。了解的関連では、心を知覚・感情・思考・意欲といった要素にバラバラにするのではなく、常に統合された全体像の推移を対象とすることに注意を促したい。知覚的体験刺激、それに引き続いて生ずる感情、そこに含まれる志向性、ここに触発される思考、そして結果としての作為あるいは不作為までを、一つの流れ、ストーリーとしてわれわれは理解するのである。心の全体像を評価する唯一の方法といってもよいかもしれない。

注:引用中の文献番号「(22)」はここの (ii) 項で示される本です。

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【10】未成年患者に付き添う非常に傲慢で高飛車な親への診察室における対応例について、その他

最初に標記対応例について、井原裕著の本、「思春期の精神科面接ライブ こころの診療室から」(2012年発行)の「症例3 名門校の女子生徒 中学3年で妊娠して直ちに退学」における記述の一部(P68~P77)を以下に引用します。また、この引用では脚注はまとめて別途表示しています。次に、クレーマーへの対応における「やりとりを始める前の準備」について、宮田雄吾著の本、「やっかいな子どもや大人との接し方マニュアル」(2016年発行)の 第3部 やっかいな大人にどう対応するか の「第2章 クレーマーへの対応」における記述の一部(P208~P214)を以下に引用します。

あらあら、先生はお若いわねえ
谷古宇奈央さんは、15歳の女子中学生。川口市内の公立中学の3年生。アンケート用紙には、「この夏に転校したばかりで、学校になじめない」とあった。

井原:(待合室へのマイクでの呼び出し)「やこうなおさん、やこうなおさん、1番診察室にお入りください」

上品な身なりの長身のお母様と一緒に来院。ご本人は、お母様よりさらに長身で、170センチはゆうにある美しい女性。髪も長く、とても中学生とは思えない大人びた雰囲気である。しかし、診察は少々緊張した雰囲気で始まった。

母親:おはようございます。谷古宇奈央の母でございます。あらあら、先生はお若いわね。私ども、井原教授の診察を受けたくて参りましたのよ。教授のご名望を伺って、わざわざ獨協まで参りましたの。あなたは、研修医、助手さん、それとも……*1。
井原:わ、わたくしが井原でございます。若造で申し訳ございません。いや、その……若そうに見えるだけで、実際は結構な年なんでございますが……。ま、ま、とにかくどうぞおかけください。お二人とも、どうぞそちらの椅子のほうに……。
母親:あら、先生が井原教授なの? 随分伺っていたお話と違うわねえ。京王医大の蓮見教授からお話は伺っておりましたのよ。もっと年配の白髪の立派な方かと思ったわ。大丈夫かしら。
井原:すみません。貫禄がなくて……。多分、蓮見教授のおっしゃっていた井原はわたくしのことだと思います。獨協に井原という医師はわたくしだけですから。
母親:オッホッホ。県内で中学生、高校生を一番たくさん診ているベテランだと伺っていたわ。人は見かけによらないわねえ。ああら、失礼いたしました。ごめんなさい。
井原:いえいえ、すべてはわたくしの不徳のいたすところで……。
母親:先生のことは、少しお調べさせていただいたわ。東北大学をご卒業になっていらっしゃるのね。まっ、東大や京王じゃないのが残念ね。それにケンブリッジにご留学あそばしたとのこと。私の甥は、オックスフォードのマートン・コレッジ*2に留学しておりましたのよ。歴史学を専攻しておりましたわ。そうそう、ちょうど甥が留学する5年ほど前に徳仁親王マートンにいらっしゃったわ。皇太子は、まあ甥のご学兄ってところかしらね。あなたは、ケンブリッジはどちら? キングス、それともセント・ジョーンズ?
井原:お詳しいですね。わたくしはロビンソンです。
母親:ロビンソン? 聞いたことないわねえ。
井原:新しいコレッジなんです(注8)。

医学会の権威のご推薦だからここに来たのよ

井原:でも、まあそんな話はやめませんか? 当院の外来は患者様も多数お見えになります。まだお待ちになっている方もいらっしゃいます。時間は無限ではございません。先を急がせていただいてもようございますか?
母親:あら、蓮見先生のご高配を賜っていたのだから、少しお時間をとっていただけると思っていたのに……。
井原:申し訳ありません。ご期待に添える自信はございません。わたくしどもはすべての患者様に公平にご奉仕させていただく義務がございます。その点は、どうぞご理解くださいますようお願いいたします。
母親:ちょっと待って。何を言っているの、何を!*3 あなたねえ、どっこの無名の医者だか知らないけど、医学界の権威の蓮見教授のお顔に泥を塗るつもりなの? 私たちは蓮見教授のご推薦だからここに来たのよ。普通の患者とは違うのよ。無礼なまねは許しませんよ。蓮見教授には直ちに獨協の学長に電話させます。
井原:まあ、申し訳ございません*4。蓮見先生にも電話でお伝えいたしました。蓮見教授はご高名な方だから、都内のセレブリティの患者様を多数ご覧になっていらっしゃる。その縁で、わたくしのところにも資産家のご子息やご令嬢がお越しになります。ただ、当院は、セレブの方専用の病院ではないのです。基本的には、地域の一般の皆様のための病院です。
母親:だから何度も言ったでしょ。私たちは、そんなこともあるだろうと思ってわざわざ事前に蓮見教授にお願いして、先生に紹介状を書いていただいたのよ。おたくの病院がただの平凡な病院だなんて言われなくてもわかっているわよ。見ればわかりますよ。まったくみすぼらしい!
井原:みすぼらしいかもしれませんが、多くの患者様にご利用いただいている病院です。当院は、それこそ生活保護を受けている人もお越しになるんです。セレブの方も、生活保護の方も同じ診察室で同じ診療をさせていただく。セレブの方のための特別外来をご用意させていただいているわけではございません。恐れ入りますが、その点は、当院の事情をご考慮くださいますようお願い申し上げます*5。
母親:いいかげんにしなさい。あなた、私に喧嘩を売ってるつもりなの! 生活保護と同じはないでしょう。いくらなんでもひどい言い方ねえ。ふざけるのもほどほどにしなさい。私たちを何だと思っているの? 川口の谷古宇よ。谷古宇開発の谷古宇よ。あなた、知らないわけではないでしょう。
奈央:お母様。もう、おやめになって。
母親:あんたは黙ってなさい!
井原:まあまあ。わたくしもこの土地にはよそ者ですので、あまり事情に通じているわけではございません。その辺は、患者さんや皆さんにいろいろ教えていただかなければならない点もある。不行き届きなところがあって申し訳ありません。

院長を出しなさい、院長を!

母親:いまさら、何を謝っているのよ、何を! しらじらしいにもほどがあるわ。私たちを何だと思っているのよ! もう、許せない! (携帯電話をかけながら)ええっと、小森谷法律事務所は……、まったく、これだから三流大学はだめよ*6。私たちは普段は京王医大病院がかかりつけよ。この子は、生まれは郁愛病院よ。京王の系列の。産婦人科の越塚教授もお見えの病院だわ。私ども、獨協の病院なんて来たくなかったの*7。やっぱりお医者さんは、東大出か京王出でないとねえ……。谷古宇家の者をあまりに程度の低い医者にみせるわけにはいきませんからね……。「ああ、もしもし。小森谷法律事務所ですか。小森谷先生、いらっしゃる。私、川口の谷古宇です。……だから、川口の谷古宇と言えばわかるわよ。さっさと小森谷先生につなぎなさい。……えっ、ご不在? ああん、もう、イライラする。わかったわ。事務所に戻ったら、すぐに谷古宇まで電話するよう言ってちょうだい。いいわね?」。今、顧問弁護士にも電話しましたわ。先生、あんまり失礼なことをなさるようなら、ただではすみませんよ。これは、ドクター・ハラスメントでしょ。こっちは蓮見先生の紹介状までもって、礼節を尽くしたのよ。それが、いきなり「ご期待に添えない」はないでしょう。
井原:申し訳ありませんが、過大なご期待はお控えください。いきなり弁護士も悪くないけれど、当院には「患者様相談窓口」というのをご用意しておりますので、診療内容等のご意見はそちらにどうぞ。それと申し訳ありませんが、院内では携帯電話のご使用はお控えください。医療機器に影響を及ぼすおそれがございますので……*8。
母親:もうっ、いったい、あんた、何様のつもり! 携帯電話をどう使おうと私の勝手でしょう。「相談窓口」に怒鳴り込んでやるわよ!
井原:いいえ、勝手ではございません。わたくしどもは、「患者様を中心とした医療」のために、患者様の安全を第一に考えております。その際に携帯電話は、医療機器に影響を及ぼす恐れがありますので、医療安全上の問題としてとらえております。どうかご使用をお控えください。
母親:あんた、いったい誰なのよ。院長なの? 学長なの? そんな立派な人? ただの下っ端の医者でしょ。いったいぜんたいなんの権利があって、そんないっぱしの口をきくのよ。あんたなんかと話しててもらちがあかないわ。おい、こら、院長を出しなさい、院長を*9。あんたなんかと話してもどうしようもない。院長にすぐ来るように言いなさい!

日ごろから厳しく警察署に指導していただいています

井原:少し声を落としてください。これでは待合室にまで聞こえてしまいます。わたくしは、当院の医療安全管理室の副室長という立場でございます。病院全体の安全に関して、一定の責任を担うよう病院長から命ぜられております。今日の谷古宇様のご要望についても、わたくしから病院長に報告いたしますから、さらにご意見がおありでしたら、どうぞわたくしにおっしゃってください。
母親:ああん、もう、まったく……*10。
井原:ただ、お願いですから少し声を小さくしてください。これではほかの患者様がおびえてしまいます。外来受付のところに、「患者様およびご家族の皆様へ」というポスターが掲示してあったでしょう。そこに記したとおり、他の患者様の安全な医療の妨げとなるようなことをなさる場合は、退去していただくこともございます。
母親:退去って、出てけってこと。
井原:わたくしどもは、とにかく患者様の安全を第一に考えさせていただいております。それは、病院長以下当院一同の基本的な姿勢であるとともに、越谷保健所や越谷警察署に日ごろから厳しく指導していただいているところでもございます*11。院内で安全管理上の重大な事態が発生した時には、わたくしが警察署や保健所に電話することもございます。どうぞ当院の方針にご理解をお願いしたく存じます。どうかご協力のほどをお願い申し上げます。
母親:……。
井原:それとも、本日の診察は中止いたしましょうか? わたくしどもの病院は、どうやら谷古宇様にご想像いただいているような病院ではなさそうですね。わたくしも、谷古宇様のご期待に応えられるほどの大した医者じゃございません。
母親:わかったわよ。私は黙ってりゃいいんでしょ、黙ってりゃ。ここまで来たんだから診察は受けますよ。
井原:とにかく時間は限られております。先に進ませていただいてようございますか? お嬢様のために、時間を有効に使いましょう*12。さて、谷古宇奈央さん、今日はいかがいたしましたか?(後略)

脚注:
*1 精神科教授は、皆、こういう経験をしている。困ったことに、肩書きだけ見て過大評価する人はいる。
*2 'College' は、米語発音では「カレッジ」だが、イギリスでは「コレッジ」と発音される。オックスフォードやケンブリッジへの留学経験者は、しきりと「コレッジ」「コレッジ」と発音したがる。
*3 直前の説明をもう少し穏やかに行っておれば、これほど過激なリアクションはなかったかもしれない。ただ、この婦人は、一度は恫喝して支配・服従関係を明確にしたいほうなので、好機をうかがっていたのであろう。
*4 このあたりでは、こちらとしてはまだ「下手にでて、なだめに回ろう」と思っている。しばらくは、防戦一方で、ガードを固めて、相手の出方をみてやろうという心づもりである。
*5 このあたりも、まだまだこちらとしては専守防衛である。相手方もそろそろ落ち着いてくれても不思議はないのだが、このご婦人は刀を振り上げすぎて、簡単に鞘に返せなくなっている。
*6 そろそろ万策尽きるだろうと思っていたところで、突然携帯電話で弁護士呼び出しである。これは明らかなルール違反なので、当方としては反撃に転じる絶好の機会となる。こっちもそろそろ臨戦態勢に入ってきた。
*7 獨協については、お母様に誤解がある。医大こそ1973年設立で新しいが、学園自体は古い名門であり、1881年の獨逸学協会にさかのぼる。1883年に西周を初代校長として、獨逸学協会学校が設立された。それが学園の母体である。
*8 さて、戦闘開始だ。まずは、院内規約を杓子定規に提示する。エキサイトしている人は、規則を盾に正論で来られると間違いなく逆上する。そして、その拍子にかならず失言する。失言をとらえて切り込んでいく。
*9 「院長を出せ!」。ついに出た! そろそろ出るかと思っていたのだ。いったい私は、何度この言葉を聞かされただろう。何度も聞かされているだけに、対応も慣れている。いつものセリフを静かに告げるだけである。
*10 「病院長から命ぜられている」「病院長に報告する」、これだけで相手は意気阻喪である。相手も、そろそろ「向こうはプロだ」と思い始めている。
*11 「保健所や警察署に日ごろからご指導いただいている」、これは、苦情処理を担当しているすべての病院関係諸氏にはぜひとも覚えていただきたいセリフである。実際、保健所や警察とのパイプはもっておくこと。
*12 お母様はどうであれ、本日の主役は奈央さんご自身である。診察は続けなければならない。戦闘モードから通常モードに、こちらの心理も切り替えていく。
(注8) 'Robinson College' は、1981年創設のケンブリッジの最新のコレッジのひとつ。赤レンガの建築と美しい庭園で知られる。

注:(i) 引用中の「支配・服従関係」に関連するかもしれない、 a) スキーマモード(これに関連するスキーマ療法における「モードモデル」については他の拙エントリのここにおける引用を参照)における「自己誇大化モード」について、編者、監訳者及び訳者を※※に示す本、「スキーマ療法最前線 第三世代CBTとの統合から理論と実践の拡大まで」(2017年発行)の 第2章 スキーマ,コーピングスタイル,そしてモード の表 2.2 における記述の一部(P51)を形式を変更して次にそれぞれ引用(『 』内)します。 『自己誇大化モード:このモードにある人は,自分は他者より優れており特権が与えられていると信じている。他者の考えにはおかまいなしにに,自分だけはやりたいことができ,ほしいものを手に入れるべきだと主張する。自尊心の増大のために,自分を誇示したり他者を中傷したりする。』(注:この部分の著者はハニー・ヴァン・ジェンダレン,マーリーン・レーケボア,アーノウド・アーンツです。) b) ナルシシスト(不健全な自己愛をもつ人)及びスキーマ療法の視点からの「権利要求モード」について、ウェンディ・ビヘイリー著、伊藤絵美、吉村由未監訳の本、「病的な自己愛者を身近にもつ人のために あなたを困らせるナルシシストとのつき合い方」(2018年発行)の 第5章 注意を向ける の ナルシシストのもつ四つの「仮面」とその付き合い方 の「権利要求モード」における記述の一部(P146~P147)を以下に引用します。 (ii) 加えて、次に紹介する上記以外の自己愛に関連する本もあります。 『市橋秀夫監修の本、「自己愛性パーソナリティ障害 正しい理解と治療法」(2018年発行)』 (iii) 上記引用全体に関連するかもしれない、不健全な自己愛(又は不健康な自己愛)を含む患者側の治療妨害要因としての人間の基本的弱点について、平井孝男著の本、「心の援助にいかす精神分析の治療ポイント 波長合わせと共同作業、治療実践の視点から」(2019年発行)の 第5章 こころの病は治るのか? の「2 個々の治療妨害要因」における記述の一部(P254~P257)を以下に引用します。 (iv) 引用中の「苦情処理」に関連するかもしれない感情の修羅場たる医療トラブルの現場における「こころの専門家の関与」について、井原裕著の本、「激励禁忌神話の終焉」(2009年)の 第11章 危機管理と精神科医 の「こころの専門家の関与」における記述の一部(P194~P196)を以下に引用します。

権利要求モード
「権利要求モード」をもつナルシシストは、自分だけは特別な「マイルール」を作ってもよく、自分の望むものは望むときに与えられてしかるべきだと信じています。彼女(ここでは女性にしてみます)は、自分は他者より上位にいるように振る舞い、特別扱いされるのが当然だと思っています。彼女には「ギブ・アンド・テイク」という考え方を受け入れる余地はありません。彼女は人から「ノー」と言われることを嫌い、相手に無理な要求をするのに何のためらいも感じないようです。彼女は他人の気持ちに関心がなく、「共感」の価値を理解することができません。(後略)

注:(i) 引用中の「権利要求モード」に関連する、 a) 「特権意識」について、引用中「ナルシシスト」に関連する「自己愛傾向」を含めて、松崎朝樹著の本、「教養としての精神医学」(2023年発行)の 第2章 精神医学から見た「〇〇な人たち」 の「自分はすごいと思いたがる傷つきやすい人たち(自己愛性パーソナリティ障害)」における記述の一部(P192)を次に引用(『 』内)します。 『特権意識が前面に出て偉そうな態度を取る「誇大型自己愛傾向」と、批判に傷つきやすい「過敏型自己愛傾向」がある。』 b) 「オレ様・女王様」スキーマ(WEBページ「自分でスキーマ療法に取り組む」の『「オレ様・女王様」スキーマ』項、そして資料「スキーマの概念とスキーマ療法のレビューに関する一考察 ―スキーマの修復に関する人材開発手法の研究のために―」の「17. 権利欲求/尊大スキーマ」項(P71)も参照すると良いかも)としての「自分だけに与えられた特権があるはずだ」について、「人が守るべきルールでも、自分だけは破っても良い」ことや「他人は自分に奉仕するべきだ」を含めて、伊藤絵美著の本、「ケアする人も楽になる マインドフルネス&スキーマ療法 BOOK2」(2016年発行)の 第1章 スキーマ療法 その1 自らのスキーマとモードを理解する の 1-3 早期不適応的スキーマのマップを作る の 18の早期不適応的スキーマ の『⑰「オレ様・女王様」スキーマ』における記述(P058)を以下に引用します。なお、上記「スキーマ療法」や「早期不適応的スキーマ」については共に他の拙エントリのここを参照して下さい。

⑰「オレ様・女王様」スキーマ
[解説]「自分は他人と違う特別な存在だ」「自分は他人とレベルの違う人間だ」「自分は特別なのだから何をしてもよい」「自分は特別な存在として皆から扱われるべきである」「人が守るべきルールでも、自分だけは破ってもよい」「他人より優位に立ちたい」「自分だけに与えられた特権があるはずだ」「自分は自分のやりたいようにやりたい」「他人は自分に奉仕するべきだ」「自分がやりたいようにやるために、他人を利用しても構わない」といった思いが、このスキーマの中心にあります。まさに「俺はオレ様だ!」「私は女王様よ!」という感じです。
*このスキーマを持つ人の特徴……周囲に特別扱いを要求し、それが当然であるかのように振る舞います。皆が守るべきルールを平然と破ります。他人を見下し、馬鹿にするような態度を取ります。人に持ち上げられると、満足げです。相手に平然と要求し、その要求が通らないと、激しくクレームをつけたりします。ルールを守るよう言われたり、ルール違反をとがめられたりすると、急に怒り出します。特別扱いされない場所ではしょんぼりし、そのような場を避けるようになります。自分のこのような傾向に気づいている人は、そのような自分をうっすらと恥じている場合もあります。

2 個々の治療妨害要因

(1) 患者側の治療妨害要因
[人間の基本的弱点]
〈治療を妨害するものって抵抗だけなんですか〉
「主には抵抗なんでしょうが、根本には人間的弱点というか根源的煩悩というか人間の良くない癖・有害な点が非常に大きく広がっています。いわば抵抗を生み出す根本のようなものです。それは今までに挙げた抵抗と重なるかもわかりませんが、思いつくまま挙げてみます。
・気づき・自覚の妨害(特に自分の弱点、欠点、煩悩・欲求、防衛機制、攻撃性、恥等の無自覚)
・自分を大事にしない(過剰で破壊的な自己否定、不規則・不健康な生活、自己破壊傾向等)
・不健康な自己愛(不適切で過剰な自己中心、他者配慮性の無さ、過剰な万能感・称賛欲求等)
・破壊性や怒りのコントロールの無さ(常に思い通りにいかないと不満。破壊行動)
・相互性や対話力の無さ(対話困難。理解可能な話し方が困難。質問に答えない。討論不能
・その他の主要な弱点
現実認識ができていない。自己愛的幼児的万能感が強くそれを自覚・コントロールできない。相手を自分の思うように動かそうとしやすい。目標を持てていない。自分の『したいこと』『できること』『有益なこと』がわかっていない。わかっていても実践できていない。予想をして行動しない。行き当たりばったりである。常に不平・不満を言っている。苦を受け止められない。あることに過度に捉われすぎている。逆に過度に無頓着である。すぐ行動しない。グズグズする。決断できない。悪いほうばかり考える。逆に良いことばかり考える。目先のことしか考えない。瞬間に釘付けになる。広い長期的視野で考えない。ということぐらいで止めますが、おそらく挙げだしたら無限に多くなってしまうと思います」

[人間に弱点の多い理由]
〈何故、こんなに人間って弱点が多いのでしょうか〉
「まず人間として生まれてしまったら様々な欲求を持たされているということでしょう。欲求・欲動・欲望という言葉に反発を感じる人は、希望・理想・願い・祈りという言葉に言い換えてもいいかもしれませんが、いずれにしろ何らかの方向性へと向かうベクトル(フロイトの言う欲動)を持たされています。
例えば、生まれた時から順番にその欲求を挙げていくと、腹いっぱいオッパイを吸いたい、清潔でいたい(汚れたらオムツを早く変えて欲しい)、側にいて欲しい、(不快を感じたら)噛みつきたい、何でも手に取りたい、等々乳児期でも多くの欲動を持たされています。
そして大きくなるに従い、誉められたい、叱られたくない、両親から愛されたい、良い友達が欲しい、友達より優りたい、勉強でもスポーツでも一等になりたい、何かを達成したい、先生から評価されたいから、注目されたい、異性の友達が欲しい、性的欲動の自覚、恋人が欲しい、いい学校に入りたい、知識を身に着けたい、運動が上手になりたい、車が欲しい、旅行したい、いい仕事がしたい、困っている人の役に立ちたい、家が欲しい、賞が欲しい、有名になりたいなど、それこそもっと無限の欲求が出てくるでしょう。
老年期になれば、健康でいたい、早く病気が治って欲しい、長生きしたい、死ぬ時までにいろんなことを済ませたい、死ぬときは安楽な気持ちで死にたい、苦しまずに死にたい、極楽や天国に行きたいといった具合です」
〈人間の一生が欲望の歴史であることはわかりました。でも引きこもっている人や何の欲求も持ちたくないと言っている人はどうなるんですか〉
「引きこもっている人は、静かにしておいて欲しい、そっとして欲しいと思っているかもしれないし、なんとか抜け出したいと思っているかもしれません。
何の欲求も持っていないと言う人は『欲求を持ちたくない』という欲求を持っていると言えるでしょう。それから、そういう人であっても痛みなどの生理的苦痛がひどくなったら、そう言うかどうかは別にして、痛み除去の気持ちが自然に湧くんじゃないですか」

[欲求→欲求不満→苦→弱点の発生と増大]
〈欲求が何故弱点の発生につながるのですか〉
「欲求はいつもいつも満たされるとは限りません。むしろ満たされないことが多く、欲求不満をうまく受け止められないと欲求不満は膨らんで苦や苦痛が大きくなります。そして苦を受け止められない場合には、弱点が発現するか今までの弱点が強くなります。いずれにせよ、欲求に果てが無いように、弱点・抵抗も無限です」
〈たくさんありすぎてうんざりしてきました〉
「しかし、こうした一見妨害要因のように見える点もこれを自覚し適切に使うと治療促進要因に変わるかもしれません」(後略)

注:i) 引用中の〈 〉内は問いを、「 」内はこれに対する応答をそれぞれ表すようです。 ii) 引用中の「抵抗」については他の拙エントリのここここを参照して下さい。 iii) 引用中の「苦」について、仏教思想の視点からは他の拙エントリのここ及びWEBページ「間違えられた苦の原因 スカトー寺副住職 プラユキ・ナラテボー①」を参照して下さい。加えて他の拙エントリのここも参照して下さい。 iv) 引用中の「防衛機制」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「防衛機制 - 脳科学辞典」 iv) 引用中の「まず人間として生まれてしまったら様々な欲求を持たされているということでしょう」に関連するかもしれない「欲望(煩悩)によって条件づけられた現象の認知の仕方」については拙エントリのここを参照して下さい。

こころの専門家の関与

しかし、医療事故を別の側面からみれば、様相は一変する。それは医療事故には、被害者と加害者がいるということ、怒りがあり、悲しみがあり、失望があり、当惑があるということである。「危機」管理における「危機」とは、何よりも人のこころのなかに起こるなにものかである。異常事態発生時に人のこころをどうとらえ、どう対応していくか。この一点においてこころの専門家としての精神科医がにわかに注目されることとなる。
したがって、「危機管理に精神科医の関与を!」という場合、それは精神科医の対人スキルゆえである。精神科医には、タフ・ネゴシエーターとしての役割、トラブル・シューターとしての役割が期待されている。実際、稿神科医は他の診療科のスタッフに比して、心理戦の経験を豊富に有している。症例検討会を通して個性の多様性に精通し、過酷な診療を通して対人折衝のスキルを磨いてきている。この日々の臨床の経験が、人間の感情の修羅場たる医療トラブルの現場で発揮できるはずだと、考えられているのである。
たとえば、医療事故が訴訟に発展するとき、それは一見して経済裁判の様相を呈しているが、実態は人格裁判である*11-03。患者側から損害賠償の請求を目的として起こされるが、実際は、医療者個人に対する憎悪・敵意に端を発している。前章でも触れたが、金が欲しくて訴えるのではない。恨みを晴らすために訴えるのである*11-04。
このことは、われわれ精神科医にとっては、「相手の陰性感情にどう対応するか」という精神療法学のおなじみの問題に帰着する。「転移」「抵抗」「投影同一視」「理想化とこきおろし」などの臨床の基本問題が、すべて多少のモディファイを受けつつ、医療安全の医師・患者関係に現れる。医師一般にとって脅威に映る事態は、精神科医にとってはかならずしもそうではない。ふだんの診療で行っているとおり、精神療法の定石に則った対応を適切に行えば、訴訟という最悪の結果は回避できるはずである。患者とのコミュニケーションの重要性を、精神科医以上に指摘できる人はほかにいない。
どの病院でも困った問題となっている苦情処理は、前章で述べたように、精神科医がリーダーシップを発揮せねばならない課題である。実際、それは、適切に対応しなければ訴訟に発展する。そのほかの精神科医の活躍の場としては、危機的事態発生時の心理的混乱の調整、医療被害者・事故発端者への支援、真実説明・謝罪表明文化の構築などが考えられる。

注:i) 引用中の文献番号「*11-03」は次の本です。 【深谷翼 『精神科医療事故の法律知識』 星和書店、一九九三年】 ii) 引用中の文献番号「*11-04」は次の資料です。 【井原裕 「カルテ開示のリスクマネージメント」 『臨床精神医学』 第三六巻増刊号 (精神科医療のリスクマネージメント)、七二-七六頁、二〇〇五年】 iii) 引用中の「転移」に関連する「感情転移」については、例えば次のWEBページを参照して下さい。 「感情転移」 iv) 引用中の「抵抗」については他の拙エントリのここここを参照して下さい。 v) 引用中の「投影同一視」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 vi) 引用中の「理想化とこきおろし」については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、これに関連する「アラジンの魔法のランプ願望」については他の拙エントリのここにおける引用の「アラジンの魔法のランプ願望」項を参照して下さい。 vii) 精神療法学のおなじみの問題に関連して、上記 iii) ~ vi) 項以外にも「誤学習」(例えば他の拙エントリのここをはじめとしたリンク集、そして次の資料を参照して下さい。 「学童期~思春期に現れる教育的・社会的困難への支援 ―心理学の立場から―」の P43)及び「ナルシシズム」(不健全な自己愛)に関連する「ナルシシスト」(参照)が含まれるかもしれません。 viii) 引用中の「精神療法の定石に則った対応を適切に行えば」に関連するかもしれない「精神科臨床の真剣勝負の場では、毎日のように、患者の激しい感情に対応しなければならない。しかし、考えようによっては、これこそリスク回避法のトレーニングである」ことについて、井原裕著の本、「激励禁忌神話の終焉」(2009年)の 第10章 接遇に慎重な配慮を要する人々 の「病気を憎んで、患者を憎まず」項における記述の一部(P185)を次に引用(『 』内)します。 『精神科臨床の真剣勝負の場では、毎日のように、患者の激しい感情に対応しなければならない。しかし、考えようによっては、これこそリスク回避法のトレーニングである。精神療法のイロハをふまえた対応を、時宜を逸することなく行えば、最悪の結果は避けられるはずである。医療安全に関するいかなる取り組みにおいても、第一に取り組まなければならないこと、それは患者とのコミュニケーションに力を注ぐことである*10-02。』(注:引用中の文献番号「*10-02」は次の資料です。 【井原裕 「カルテ開示のリスクマネージメント」 『臨床精神医学』 第三六巻増刊号 (精神科医療のリスクマネージメント)、七二-七六頁、二〇〇五年】) 一方、引用中の「タフ・ネゴシエーター」にも関連する、引用中の「苦情処理」又はこれに類似した「クレーム処理」において、「どこか一ヵ所でもほころびがあれば、組織全体が敗北する」ことについて、同項における記述の一部(P186)を次に引用(『 』内)します。 『少数のタフ・ネゴシエーターを育てると同時に、全体の底上げも必要である。一人ひとりがある程度は難しい対人折衝ができるレベルに達しなければならない。どこか一ヵ所でもほころびがあれば、組織全体が敗北する。』

第2章 クレーマーへの対応

長年、思春期精神医療や児童福祉に携わっていると、ザ・クレーマー、また、まさにモンスターペアレンツとでもいうべき、激しい攻撃性を向けてくる親に出会うことがあります。通常はその親の怒りの背後にある不安を汲み取り、丁寧に説明を重ねていく中で次第に落ち着いてくるものですが、落ち着きを得るまでの話し合いは困難を極めます。
また、教師からも「子どもの対応よりも、最近はクレームを繰り返す親の対応に苦慮しています」という声をたびたび耳にします。
そこでここからは、そのような相手とやりとりをする際に、どう態勢を作り、どうその場で振る舞うか、述べようと思います。
参考までにいいますと、この方法は職場での顧客からの苦情対応にも応用できます。また、ここからは攻撃してくる大人の対応について述べていきますが、実は激しく文句をぶつけてくる思春期の子どもの対応においてもそのまま使えます。

1 やりとりを始める前の準備

まず、やりとりを成功に導くために、事前に行っておくべきことについて述べます。

(1) 話ができる時間を設定する
このような相手は、ある日突然窓口に現れたり、電話をしたりしてきては、一方的に不満を話し始めます。こちらはあまり状況も把握できていない中で、その飛び込んできた相手に付き合わされる羽目になります。その話はとめどなく口から溢れ、いつ終わるとも知れません。
対応している側は、その状況に戸惑いつつも、次第にもともと行う予定だった別の用件のことが気になり始めます。
「もう会議は始まってるのに」
「あの子、待ってるだろうなあ」
そうなると、もう落ち着いて目の前の話を聞いていられません。うわの空になったり、早く切り上げたくてイライラし、話の途中で口を挟みたくなります。そうなると、自分の話を軽視されたと感じた相手はますます怒り出すのです。
そうならないために必要なのは、こちらの抱えている事情を早い段階で伝え、いつなら改めて時間をとって対応できるかを示すことです。
「申し訳ございません。現在、先約がございまして、ゆっくりお話しできません。後日お時間をとらせていただきますので、ご都合をお教えください」
文字にしてみるとたいして難しくなさそうですが、その場になると別の事情があることをつい言いあぐねてしまいがちなので注意しましょう。同様に、電話の場合も早めに事情を説明していったん切ったうえで、後からかけ直すといいでしょう。
さらに後日約束をする場合には、日時を決めるだけでなく、「どのくらいお話をする時間をとったらよろしいでしょうか」と尋ねます。話す総時間をあらかじめ決めることによって、相手が際限なく話し続け、長期戦に陥ることを防止できるでしょう。

(2) 言動を詳細に、時間軸に沿って記載する
このような紛争ケースの場合、相手の言動とこちらが伝えたことを、できるだけ詳細に記録します。相手の発言内容はこちらの主観は極力交えずに、言った通りに時間軸に沿って記載するのを基本とします。もちろん実際には相手の言うことすべてを記載することなどできませんが、ポイントはきちんと押さえなければいけません。
そのためにも、その場には記録だけを担当する者を同席させるといいでしょう。
「漏れがないように録音させてください」と依頼することもありますが、それは相手からみると「こちらが物を言いにくいようにしやがったな」と不愉快に感じさせる行為でもありますので、あまりお勧めしません。
ちなみに、記録した内容が正しいかどうか、相手が疑念をもつ場合があります。そのような相手に対しては「今日の話し合いの内容はこれでよろしいですね」と最後にその内容を読み上げることで相手の疑念を軽減することができます。

(3) 窓口は一つ、情報は共有
このような相手と対応する際には、対応する担当者がその都度変わらないように心がけます。それは相手から「Aさんは○○と言った」「Bさんは××と言った」と撹乱される事態を避けるためでもありますし、何度も話し合ううちに関係性が次第に構築されることを期待するためでもあります。
窓口はこのように一つにしたほうがいいのですが、得られた情報は決して一人で抱え込んではいけません。話し合いが終わった後は関係スタッフや上司と速やかに情報共有し、次の作戦を練らなければならないのです。
また情報の共有だけでなく、相手に対して感じた怒りや不満についてもそこで話しましょう。要するに愚痴を聞いてもらうことで、心の中の重荷を降ろし、自らにエネルギーをチャージするのです。

(4) 反社会的行為には法的な対応を検討する
攻撃的な相手の中には、暴力的な行為に及ぶ者がいます。腹を立てて殴りかかってきたり、目の前の机を蹴り上げたり、待合室の掲示物をはぎ取って投げ捨てたり……。こちらに何らかの落ち度があると、「腹を立てさせてしまったのはこちらだから」と考えて、黙認してしまう場合があるかもしれません。
しかし、それだと相手の行動はエスカレートするばかりとなります。それではダメなのです。
もし殴りかかってきたら、とにかくすぐにその場から逃げ出し、他の者の助けを仰ぐべきです。さらに司法的な対応を即座に決断し、警察への電話も辞さない態度で臨むべきです。
さらに、相手が飲酒後に朦朧状態のまま来院し、文句を言ってくることがあります。この場合は、いくら相手が「話をさせろ」と言っても応じてはいけません。酪訂状態で話しても一切実りのある話はできないからです。ですから、この場合は「お酒の臭いがいたします。酔った状態ではお話しできませんので、後日ご連絡ください」とまずは退去を促します。もしそれでも応じずに乱暴な言動に及んだら、「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」に基づき警察通報します。
また、中には「悪いと思ったら土下座しろ」と言ってくるケースがあります。しかし、常識的に考えても土下座までする必要などありません。「申し訳ありませんが、お断りします」と毅然と断って構いません。それでも相手が強要してきたら、その場合は「強要罪」(刑法二二三条)に該当します。ちなみに、これは無理やり謝罪文を書かせた場合も適用されます。
さらに要求が通らなかったのに腹を立てて、「お引き取りください」と伝えられたにもかかわらず、いつまでもそこに居座り続けた場合は「不退去罪」(刑法一三〇条)の対象です。
また、病院の待合室などで「他の患者さんの診察の妨げになるのでおやめください」と伝えても大声を上げ続けていれば「威力業務妨害」(刑法二三四条)に該当します。
他にも自分や親族の生命、身体、自由、名誉、財産に対し害を加えると脅した者は「脅迫罪」(刑法二二二条)、恐喝により金銭等を奪った者は「恐喝罪」(刑法二四九条)、さらにまだ奪っていなくても要求した段階で「恐喝未遂罪」(刑法二五〇条)が成立します。
相手の立場で考えれば、何か腹が立つことがあったから、このような行動に出ているのだとは思います。しかし、どれほど腹が立っても、何をやっても許されるわけではありません。
やはり法律で許される範囲内での振る舞いを相手に求めなければならないのです。(後略)

注:(i) 引用中の『「Aさんは○○と言った」「Bさんは××と言った」と撹乱される事態を避けるため』でもあるかもしれない、そして引用中の「情報は共有」にも関連するかもしれない「医師の指示以外のこと。を行ってはならない」、「話をきいてあげてもいいが、患者にいれあげない」や「互いに情報を綿密に交換する」ことを含む「ボーダーラインシフト」については次の資料を参照して下さい。 「若草内外通信 H26.4月号」の「ボーダーラインシフトの10か条」項(P14) (ii) ちなみに、 a) 「威嚇的なクレーマーへの対応」についての記述を有するツイートがあります。 b) 「相手の意見を変えようとまでは考えない」ことについて、同第2章 クレーマーへの対応 の「(8) 相手の意見を変えようとまでは考えない」における記述(P223~P224)を次に引用します。

(8) 相手の意見を変えようとまでは考えない
「それは○○じゃないですか」
「いえ、私どもは××だと考えております」
「違いますよ、○○ですよ」
「いえ、××です」
このように相手と主張が食い違い、話がまったくの平行線のまま膠着することがあります。いくら言っても意見を曲げようとしない相手の考えをなんとか変えようとこちらは躍起になりますし、相手は相手でこちらのことをなんてわからず屋なんだと考えています。お互いに言い分があるのです。ですから一方的に自己主張だけを繰り返しても、水掛け論になるのです。
このように相手と意見が異なる場合は、意気込んで相手の意見を変えてみせようなどとは考えないことです。せめて自分の意見を伝えられれば、相手が受け入れなくてもそれでよしと考えるのです。そして「その点はお互いの主張が噛み合わない部分ですね。ただ、そちらのお考えは承知しました」などと伝え、相違点はいったん棚上げし、別の話題に移ろのも手だと思います。
相手と自分とがそもそも共通の価値観をもっているわけではありません。頑張ればこちらの意見をすべて納得して受け入れてもらえるなどという幻想は捨てましょう。

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***** 臨時の記事 *****
他の拙エントリの改訂作業の都合上、改訂作業中で未整理の記事等をあえてここに記述します。掲載期間は~数カ月又は数年を予定していますが、状況に応じてさらに延びるかもしれません。

(A)「感覚過敏」を「予測符号化モデル」で説明することについて、その他
標記説明について「少数派同士、経験をシェアする機会」を含めて、熊谷晋一郎編の本、『ちいさい・おおきい・よわい・つよい No.129 「過敏さ・繊細さ」解体新書』(2021年発行、ジャパンマシニスト社、ツイートも参照すると良いかも)中の熊谷晋一郎著の文書『「過敏さ」は「五感」と「内臓」の関係から』(P39~P64)の『「トラウマ的記憶」が刻まれるとき』及び「少数派同士、経験をシェアする機会を」における記述(P60~P64)を以下に引用します。ちなみに、標記「予測符号化モデル」(predictive coding model)は上記文書中の P48~P49 において言及されています。一方、突発性環境不耐症と標記「予測的符号化モデル」(predictive coding models)との関連については他の拙エントリのここを参照して下さい。ちなみに、上記「ジャパンマシニスト社」から発行された、 a) 水野玲子著の本、『「甘い香り」に潜むリスク 香害は公害』(2020年発行) b) 古庄弘枝著+被害者・発症者の声の本、「マイクロカプセル香害 柔軟剤・消臭剤による痛みと哀しみ」(2019年発行)では共に標記「予測符号化モデル」に言及していないと考えます。

「トラウマ的記憶」が刻まれるとき

ここまでの話をまとめると、「過敏さ」が強い、「感覚過敏」といえる状態では、「感覚の量」や「予測誤差」を感じやすく、またシンプルな文脈情報と内臓感覚が結びついている状態であるといえます。そして、「情動伝染」が起きることもあります。
これらのことに加え、私が「感覚過敏」につながるのではないかと思うことが、じつはもうひとつあります。それは、「記憶」に対する過敏性のようなものです。
つまり、過去に起きたできごとを不快に思ったり、思い悩む度合いのようなものも、そのできごとを思い起こすような感覚に対する「過敏さ」と関連しうるということです。こうした現象は「恐怖症」と呼ばれることが多いのですか、これも、「過敏さ」という大雑把な言説の空間のなかに入れられているのではないか、と思うのです。
私たちの脳は「できごと」もカテゴリー化しています。「よくあるできごと」は「あるある話」としてカテゴリー化します。「予測誤差」を感じやすい人は、この「あるある話」から少しでもはずれているできごとを、「新規のできごと」だと感じます。そして、そう感じる頻度が人一倍多いということになります。
「新規のできごと」というのは、どこにもカテゴリー化されないエピソード記憶で、それが「不快感情」をともなうならば、広い意味での「トラウマ記憶」といえるでしょう。カテゴリー化されない、名状しがたいできごとがあり、しかもそれを思いだすたびに内臓が動いて「不快感情」や「衝撃」がともなっているからです。

少数派同士、経験をシェアする機会を

しかし、深い傷となるようなカテゴリー化できない経験(ある話)を一度してしまったとしても、認知的共感をしあえる類似した経験(ある話)をもつだれかと分かちあうことで、「あるある話」としてカテゴリー化できるようになり、トラウマ的ではない記憶になっていくことがあります。
「予測誤差」を感じやすい人は、カテゴリー化されない記憶が常に頭のなかで飽和している状況を生きており、ほんとうは人一倍だれかと分かちあうニーズが高いのかもしれません。ところが、ここに多数派・少数派の問題が生じます。少数派は、多数派に包囲されがちです。そして、多数派に共感されず、「あるある」といってもらえないようなできごとは、トラウマ的なエピソード記憶になりやすく、それをたくさんもつことになるのです。
ですから、たとえラフな定義であっても、「過敏さ」という言説によって、「あるある話」のネットワークが少数派にも広がるのはとてもいいことだと私は考えます。それは、記憶が疼いている人、私にしか起きていない名状しがたいものを経験している人にとっては、非常に意味のあることだと思うのです。それは「トラウマ的な記憶」が「ふつうの記憶」になることを応援するからです。
この「あるある話」をシェアする機会に恵まれないと、過去のトラウマ的な記憶が経験を連想させる刺激によって思いだされ、生活を邪魔されるということが起こります。このような状況も、もしかしたら「過敏さ」とか「繊細さ」のような言葉、たとえば「くよくよ悩む」といったかたちで表現されているのではないかと思います。
もしそうだとすれば、「予測誤差」を感じやすい人同士で集まり、オルタナティブな「あるある話」のカテゴリーを発明するコミュニティを立ちあげれば、トラウマ的な記憶が少なくなることが考えられます。
感覚に意味をあたえるできあいのカテゴリー(たとえば言葉)も、エレベーターのない建物のように、多数派向けにデザインされているので、少数派は、自分の感覚経験にあった独自のカテゴリーや言葉を発明する必要が時にあります。
「高次にカテゴリー化された複雑な文脈情報と内臓感覚を統合できないマイノリティ」とされ、「感覚過敏」や「情動伝染」で苦しんできた人が、独自のスタイルで高次にカテゴリー化した文脈情報の下で内臓感覚を解釈でき、独自の言葉で感情を表現できるようになり、過敏が静まると同時に認知的共感でつながりあえるのではないか――私が専門とする当事者研究のビジョンはそのようなものです。
結局、「感覚過敏」のある人が複雑な文脈による情報と内臓感覚を結びつけづらいというのは、たんに内臓感覚が敏感だということだけではなく、同じような人同士でコミュニティ、対話空間を形成していないことの帰結かもしれないと私は思っています。つまり「過敏さ」には個人差があるものの、それをシェアするコミュニティの不在によって、その個人差が過度に増強されているのではないか、ということです。
もし「過敏さ」に困っていたら、そのメカニズムを知るとともに、経験をシェアできる仲間をもつことがとても重要なことなのです。

注:(i) 上記「五感」に類似する「外受容感覚」や上記「内臓」に関連し、引用中の「内臓感覚」に類似する「内受容感覚」については共に他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて上記「内受容感覚」や引用中の「予測誤差」については上記「予測的符号化」(predictive coding)を含めて例えば次の資料を参照して下さい。 「予測的符号化・内受容感覚・感情」(注:なお、この資料の「2. 予測的符号化」項においては次に引用(【 】内)する記述があります。 【ここでの予測とは,脳内の神経ネットワークが自発的に示す活動パターンを意味する。これは純粋に物理的・生物学的な現象であり,意志により生じる特定の意味内容を予見する精神活動のことではないので注意が必要である4。】) その上に、引用中の「予測誤差」については同中の和田真著の文書『なぜ、感じ方に差があるか ――「自閉スペクトラム症」と「感覚過敏」』(P65~P84)の P71 でも言及されています。また、この文書中の複数の箇所で言及されている「予測」については他の拙エントリのここを参照すると良いかもしれません。 (ii) 引用中の「情動伝染」については例えば次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「第16回 【健康コラム】人と言葉が新年を決める!」 (iii) 引用中の「当事者研究」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (iv) ちなみに、 a) 引用はありませんが標記「予測符号化モデルによる当事者研究」については次の研究成果報告書を参照して下さい。 「当事者研究による発達障害原理の内部観測理論構築とその治療的意義」の「4.研究成果」項 加えて、この研究に関連するかもしれない『他者との相互作用に含まれる随伴性検出が乳児期の模倣学習を促進し,自己身体運動の感度や精度(予測誤差修正)が他者運動知覚と関連する等の事実も得た.これらは,周産期以降,環境に対する運動制御を脳内シミュレートする「内部モデル」の獲得が社会的認知発達の基盤である可能性を示唆するものである.』ことについては次の事後評価報告書を参照して下さい。 『平成29年度科学研究費補助金「新学術領域研究(研究領域提案型)」に係る事後評価報告書 「構成論的発達科学-胎児からの発達原理の解明に基づく発達障害のシステム的理解-」 (領域設定期間) 平成24年度~平成28年度』の「④ 予測学習と予測誤差検出に基づき,感覚運動レベルから社会性に接続する知見とモデル」項(P8) なお、上記「内部モデル」に類似するかもしれない「内的モデル」(inner model)については例えば次の資料を参照すると良いかもしれません。 「予測的符号化・内受容感覚・感情」の「1. 序」項(P2) b) 一方、同文書の『「高次の外からの情報」+「内臓感覚」=「感情」』における、「アレキシサイミア」(他の拙エントリのここを参照、なお上記「アレキシサイミア」は化学物質過敏症の症状としてリストアップ[他の拙エントリのここを参照]されていないと本エントリ作者は考えます)に関連する記述の一部(P54~P55)を次に引用します。

(前略)このことからいえるのは、五感から入ってくる「高次の外からの情報」と、それを文脈とした「内臓感覚」が合体したときに、「感情」が生まれるということです。
逆に外からの情報と内臓感覚が統合されない場合があります。すると、「感情を感じとれない(失う)」のはもちろん、体調不良を感じることにもなります。つまり、吊り橋の上に立っていても恐怖心が感じとれず、「不整脈かもしれない」などと感じてしまうのです。
このような状態を「アレキシサイミア(失感情症)」といいます。「感覚過敏」といわれる人が同時に「アレキシサイミア」になることもめずらしくなく、「自閉スペクトラム症」でも「アレキシサイミア」の合併率が高いことは、よく知られています。

注:引用中の『五感から入ってくる「高次の外からの情報」と、それを文脈とした「内臓感覚」が合体したときに、「感情」が生まれるということです』に関連するかもしれない、「身体状態の神経表象である内受容感覚を基盤としてコア・アフェクトが形成され,それが記憶中の概念や現在の文脈情報によりカテゴリー化されることで経験される感情が構成される」ことについては次の資料を参照して下さい。 「文化と歴史における感情の共構成」の「Figure 1.」(P6)

さて、上記文書『「過敏さ」は「五感」と「内臓」の関係から』(P39~P64)の内容は、「予測符号化モデル」(predictive coding model)に基づいていること以外においては、本エントリ作者にとってとても難解な部分(例えば『「予測誤差」を感じやすい人』や「高次にカテゴリー化された複雑な文脈情報と内臓感覚を統合できない」こと[注:本エントリ作者が考える「カテゴリー化」については資料「文化と歴史における感情の共構成」の「Figure 1.」〔P6〕を参照して下さい])があり、この文書についての可否の評価や詳細な説明は、この引用部を含めて本エントリ作者にはできませんが、上記突発性環境不耐症等における「予測的符号化モデル」(predictive coding models、他の拙エントリのここを参照)についての一考察を、本エントリ作者が以下に試みます。ただし、引用の都合上もあり「予測符号化」と「予測的符号化」(注:両者は同じ意味です)、そして「化学物質過敏症」、「突発性環境不耐症」(注:両者は概ね同じ意味です)、「化学物質不耐症」が混在しています。ちなみに、上記「予測的符号化モデル」は「曝露や不耐性/(超)過敏に焦点を当てる用語から、これらの現象の根底にあると思われる知覚要素に沿った用語へのパラダイムシフト」(他の拙エントリのここを参照、また、論文要旨「Chemical intolerance: involvement of brain function and networks after exposure to extrinsic stimuli perceived as hazardous.[拙訳]化学物質不耐症:危険と知覚される外因性刺激への曝露後の脳機能及びネットワークの関与」、全文はここを参照〔これらについては他の拙エントリのここ及びここを参照〕も含む)後のモデルであり、かつ上記で示した論文を読めば分かるように(研究面においても、少なくとも日本では)非主流であった、上記「曝露や不耐性/(超)過敏に焦点を当てる」 Clinical ecology(拙訳はありませんが例えばWEBページ「Multiple Chemical Sensitivity: A Spurious Diagnosis - Quackwatch」や「Adverse Court Rulings Related to Clinical Ecology Theories and Methodology - Quackwatch」を参照、和訳:臨床環境医学、例えばエントリ「臨床環境医学は専門家にも注目されていた。悪い意味で。 - NATROMのブログ」を参照)から主流の医学に「パラダイムシフト」したと考えます。
[前提]『ミャンマーの瞑想センターでは、ウィパッサナー(観察・気づき)の瞑想を行うことで、欲望(煩悩)によって条件づけられた現象の認知の仕方――私の言葉で表現すれば、「物語の世界」――から身を離して、欲望によって条件づけられることのない、ありのままの現象を認知する(如実知見する)ことを、まずは目指します。』(他の拙エントリのここを参照、なお上記「ウィパッサナー(観察・気づき)の瞑想」に関連する「マインドフルネス」と(上記「予測符号化モデル」に関連する)「過去の経験から形成された予測(下記「事前の信念」と類似する事前分布)に重みづけず(精度を低め),現在の感覚入力に重みづける(精度を高める)こと」との関係についてはWEBページ「マインドフルネスのメカニズムの予測符号化モデルに基づく理解」からダウンロード可能な資料「マインドフルネスのメカニズムの予測符号化モデルに基づく理解」の図7[P312]を参照すると良いかもしれません。加えてツイートも参照すると良いかもしれません。その上に、「The mechanisms we propose essentially concern changes in precision-weighting (of sensory inputs and various beliefs, respectively) that are elicited by the elements of the MBCT program and concern different levels of perceptual hierarchies.[拙訳]筆者らが提案したメカニズムは、MBCT(マインドフルネス認知療法)プログラムの要素によって誘発され、そして異なるレベルの知覚階層に関係する精度重み付け(それぞれ感覚入力と様々な信念の)の変化に本質的に関係する。」ことについては論文[全文]「A Computational Theory of Mindfulness Based Cognitive Therapy from the "Bayesian Brain" Perspective[拙訳]「ベイジアン脳」 の視点からのマインドフルネス認知療法の計算的理論」の「Conclusions」項や「Figure 9 Summary of the hypotheses presented in this paper and the proposed experimental tests.」を参照して下さい。)ことを踏まえ、〔「物語の世界」、もとい「漫画やアニメの世界」――から身を離して、ありのままの現象を認知する(如実知見する)ことを目指すためにも〕上記漫画やアニメを例にした、以下に示す強固な変容した「事前の信念」[prior beliefs]〔拙訳はありませんが論文要旨「Multiple chemical sensitivities: A systematic review of provocation studies」を参照、加えて他の拙エントリのここも参照すると良いかも〕※1又は刷り込まれた信念体系〔資料「環境因子による病をもつ患者の看護学的考察」の表1(P89)の④項を参照〕としての、例えば「全世界がエイリアンだらけ」(資料『東日本大震災県外避難者が描く「復興曲線」から見えてくるもの ――トラウマの視点から』の「3-2 身体の芯から感じる安全・安心」項を参照)、もとい『全世界が猛毒の「瘴気」(参照)だらけ』(例えばウィキペディア風の谷のナウシカ」の「あらすじ」項を参照)や「農薬、合成保存料、家畜用の成長促進剤、遺伝子組み換え作物などが含まれるハンバーガーは危険すぎて食べられない」(例えばウィキペディア地球少女アルジュナ」の「メリケンバーガー」項を参照)を有する方を対象とします。そしてこれらの「事前の信念」を有することは上記強迫神経症(又は強迫症強迫性障害)に視点からの(望ましくない可能性が残されていてもその現実化はないだろうと度外視する世界および自己への根拠なき信頼のうちの)暫定性(他の拙エントリのここを参照)が欠如※2している、そしてトラウマの視点からの『「まあ、何とかなるだろう」という感覚』(他の拙エントリのここを参照)も欠如していること意味するのでは? と考えます。
加えて(「不正確な知覚」としての)、(i) 『近年の心身医療系の研究者の間では,高不安の個人は,内受容感覚に敏感というよりも,内受容感覚の知覚や推測が実は「不正確」あるいは曖昧なのではないかという見方が目立ってきた(e.g. Farb et al., 2015)。たとえば,不安症の個人において,脳が身体から受け取る情報は,意味のある信号よりも,信号に伴う「ノイズ」のほうが増幅されているという見解がある(Paulus & Stein, 2006)。』(資料「身体を通して感情を知る ―内受容感覚からの感情・臨床心理学―」の「解釈 3:不正確な知覚」項[P311]を参照、注: a) 上記文献「Farb et al., 2015」と「Paulus & Stein, 2006」は共にこの資料を参照して下さい。 b) 上記「内臓感覚」に類似する引用中の「内受容感覚」については他の拙エントリのここを参照して下さい。)、 (ii) 『福島論文で記述されているように,高不安の個人は,自らの身体に過敏である反面,身体からの信号はノイズが多く不正確だと考えられている(Stewart et al., 2001;Farb et al. 2015)。』(資料「内受容感覚の予測的符号化 ―福島論文へのコメント―」の「4.シミュレーションからの示唆」項を参照、注: 1) 上記文献「Stewart et al., 2001」と「Farb et al. 2015」は共にこの資料を参照して下さい。 2) 上記「福島論文」に関連するツイートがあります。)ことにより、上記「不正確な知覚」が成立している方を対象とします。一方、上記「内受容感覚」をさらに洗練させることについては他の拙エントリのここを参照して下さい。また、(感覚入力によって更新される信念[他の拙エントリのここを参照]としての)上記「知覚」においては(ベイズ推論としての)『知覚=予測+感覚の精度÷(予測の精度+感覚の精度)×予測誤差 [2]』(他の拙エントリのここを参照、加えて※1における Figure や以下も参照すると良いかも)が成立するものとします。また、 a) 記述「Expectations are also prominently conceptualised in emerging predictive processing models which suggest that symptom perception emerges through an integrative process of sensory input, prior experience (leading to implicit expectations, or 'priors') and contextual cues (such as affective state).74 These models show that the relationship between subjective symptoms and pathophysiological dysfunction is highly variable, both between and within individuals, and that pathophysiological dysfunction may even be completely absent in the presence of strong priors and ambiguous somatic input. Depending on relative strength and precision, the actual symptom experience may be more determined by somatic input or by priors.[拙訳]予期はまた、症状の知覚が、感覚の入力、事前の経験(暗黙の予期、または「事前」につながる)、及び文脈的手がかり (感情状態等) の統合的なプロセスを介して現れることを示唆する新たな予測的処理モデルにおいて顕著に概念化された74。これらのモデルは、主観的症状と病態生理学的機能不全との間の関係は、個人間及び個人内の両方で非常に変わりやすく、そして病態生理学的機能不全は、強い事前及び曖昧な身体的入力の存在下において完全に欠けていることさえあるかもしれないことを示す。相対的な強度及び精度に応じて、実際の症状の経験は身体的入力又は事前によりもっと決定されるかもしれない。」ことについては次の論文(全文)を参照して下さい。 「Persistent SOMAtic symptoms ACROSS diseases — from risk factors to modification: scientific framework and overarching protocol of the interdisciplinary SOMACROSS research unit (RU 5211)」の「d. Interactions of biopsychosocial factors」項 なお、上記文献番号「74」は次の論文です。 「Symptom perception, placebo effects, and the Bayesian brain」 この論文(全文)以外にも、「Recent neurocomputational theories have hypothesized that abnormalities in prior beliefs and/or the precision-weighting of afferent interoceptive signals may facilitate the transdiagnostic emergence of psychopathology. Specifically, it has been suggested that, in certain psychiatric disorders, interoceptive processing mechanisms either over-weight prior beliefs or under-weight signals from the viscera (or both), leading to a failure to accurately update beliefs about the body.[拙訳]最近の神経計算理論は、事前の信念及び/又は求心性内受容信号の精度の重み付けにおける異常が精神病理学の横断的診断の出現を促進するかもしれないという仮説を立てている。具体的には、特定の精神疾患において、過大な事前の信念又は内臓からの過小な信号(あるいはその両方)の内受容処理メカニズムが、身体についての信念を正確に更新することの失敗をもたらすことが示唆されている。」との記述を有する論文(全文)は次を参照して下さい。 「A Bayesian computational model reveals a failure to adapt interoceptive precision estimates across depression, anxiety, eating, and substance use disorders[拙訳]ベイズ計算モデルは、抑うつ、不安、摂食、及び物質使用障害にまたがる内受容精度の推定を順応させることの失敗を明らかにする」の「Abstract」 これ以外にも上記論文(全文)の「Author summary」項において次に引用(【 】内)する記述があります。 【Theoretical models propose that the computational mechanisms of interoceptive dysfunction are caused by overly precise prior beliefs about body states ("hyperprecise priors") or underestimates of the reliability of the information carried by ascending signals from the body ("low sensory precision").[拙訳]身体状態についての過剰に高精度の事前の信念「高精度過ぎる事前」又は身体からの上行信号によって運ばれる情報の信頼性の過小評価「低い感覚精度」によって引き起こされる内受容機能不全の計算メカニズムを理論モデルは提唱する。】 加えて、上記「精度」や「予測的処理」についてはそれぞれ次の資料を参照して下さい。 「予測的符号化・内受容感覚・感情」の Figure 1.(P3)、「文化と歴史における感情の共構成」の特に「2-2 感情の予測的処理」項 b) 『トラウマ・セラピーの訓練を受けたセラピストは、トラウマ・セラピーにおいては、「人の知覚は、事実よりも重要だ」ということを十分理解しています。「事実」ではなく、人がそれをどう知覚したかによって、トラウマが生じます。』については他の拙エントリのここを参照して下さい。
[上記一考察]上記資料の Figure 1.(P3)において、次に引用(《 》内)する記述があります。 《事前分布は,内的モデルにより生成される,ある知覚の予測を表す。ここに感覚信号が入力されると,予測との差分である予測誤差が計算される。これらから,ベイズの定理に基づいて事前分布が事後分布に更新される。主観的な知覚経験は,こうした一連の過程,特に事前分布から事後分布への更新が意識されたものであると考えられる。a. とb. では予測は同じであり,予測と感覚信号の平均値の距離(平均予測誤差)も等しい。しかしb. はa. に比べて感覚信号の精度が低い(分散が大きい)。感覚信号の精度が高ければ,予測が大きく更新されるが(a.),感覚信号の精度が低い場合には,主観的に経験される知覚は,入力された感覚信号とはかけ離れてほとんど予測と同じになる(b.)。》※3 すなわち、上記(ある知覚の予測を表す)事前分布としての上記「変容した事前の信念」は、感覚信号の精度が高い(例:「瘴気」だらけの空気を吸った又は農薬、合成保存料、家畜用の成長促進剤、遺伝子組み換え作物などが含まれるハンバーガーを食べたものの、確実に[内受容感覚の入力信号として]危険ではなかった等)場合には予測が大きく更新される(例:上記のような変容した信念が大きく更新され、上記暫定性が回復する又は『「まあ、何とかなるだろう」という感覚』を持てるようになる)ものの、上記前提である(内受容感覚の入力信号は)『意味のある信号よりも,信号に伴う「ノイズ」のほうが増幅されている』ので、『感覚信号の精度が低く、知覚は,入力された感覚信号とはかけ離れてほとんど予測(すなわち、上記「変容した事前の信念」)と同じになる』と考えます。別言すると上記知覚には「身体感覚増幅」や「身体脅威増幅」(共に他の拙エントリのここを参照)が伴うのでは? そして、上記トラウマが生じたかもしれないのでは? と考えます。また、 a) 「より強い感情的応答は、事前の信念が症状の意識的経験を支配することを可能にする不正確で内受容的な予測誤差が一因となっているかもしれない」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 「知覚に際し,脳は無意識のうちに推論を行っているという考え方がある」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。
[余談]同の「〈ちいさい・おおきい・よわい・つよい〉 たがいに考えあうために」(P03)において次に引用(『 』内)する記述があります。 『①ナラティブ(当事者の語り)、②エビデンス(科学的根拠)、③ヒューマンライツ(人権意識)、④コンパッション(思いやり)、この四つの柱を軸にこれからの〈ち・お〉を編んでまいります。』(注:この引用部の著者は熊谷晋一郎編集代表です) さて、引用中の「エビデンス(科学的根拠)」に関する疑問を本エントリ作者が次に提示します。同中の和田真著の文書『なぜ、感じ方に差があるか ――「自閉スペクトラム症」と「感覚過敏」』(P65~P84)の『後天的に「過敏さ」が生じるとき』における記述の一部(P79)を以下に引用します。 【さらに、においについては、ホルムアルデヒドなど揮発性の化学物質に対して、低濃度であってもつらいと感じる方がいます。いわゆる「化学物質過敏症」として、不特定のアレルギー症状の一種としてとらえられていますが、(後略)】(注:この引用部の著者は神経生理学者の和田真です) この引用に対し、 a) 引用中の「におい」、「ホルムアルデヒド」や「化学物質過敏症」に関連し、上記臨床環境医が主張する記述(ホルムアルデヒド濃度が)「八ppbでも反応する患者がいました。」や「ホルムアルデヒドの臭いは、通常の人間の臭覚では、二〇〇ppbから三〇〇ppbにならないと感じません。」については共に他の拙エントリのここを参照して下さい。すなわち、(上記引用中の「低濃度」である)「臭いを感じない八ppbでも反応する患者がいた」ことも含めて臭いに関連づけるのはいかがなものかと考えます。 b) 一方、上記和田真著の文書では、上記「予測誤差」(ここを参照)をはじめとした「感覚の予測」(P71、未引用)に対し肯定的に言及していると考えます。このことにより上記「予測的符号化」に対しても肯定的であると考えます。しかし、上記突発性環境不耐症における因果メカニズムに関する「予測符号化モデル」を含む上記論文が発行されているにも関わらず、上記『いわゆる「化学物質過敏症」として、不特定のアレルギー症状の一種としてとらえられています』と記述するのは、「感覚過敏」としての「予測的符号化」には肯定的であるものの、「突発性環境不耐症」としての「予測的符号化」を否定するならば、上記論文を論破する必要があると考えます。加えて、『いわゆる「化学物質過敏症」として、不特定のアレルギー症状の一種としてとらえられています』ならば、上記論文要旨「Chemical intolerance: involvement of brain function and networks after exposure to extrinsic stimuli perceived as hazardous.[拙訳]化学物質不耐症:危険※4と知覚される外因性刺激への曝露後の脳機能及びネットワークの関与」とも相容れないのでは? と考えられ、この論文も論破する必要があると考えます。また、上記論文要旨中の「CONCLUSIONS:」項には「Further neurophysiological research(中略)are required.」(拙訳:さらなる神経生理学的※4な研究が必要である)との記述があり(他の拙エントリのここを参照)、「化学物質過敏症」に言及する神経生理学者がこの論文を知らないことは、「ポリヴェーガル理論が広がっていくのは非常によいことだと思います。(中略)医学系ではあまり注目されていないので、トラウマの研究者と神経生理学者が手を組んで研究を進展できるといいなと思っています。」(他の拙エントリのここを参照)ことも考慮して、本エントリ作者にとっては考えにくいことです。これら以外にも、上記『いわゆる「化学物質過敏症」として、不特定のアレルギー症状の一種としてとらえられています』に対し、同中のリウマチ・膠原病科医の津田篤太郎が著者である文書『免疫系にもある「過敏さ」 ――アレルギー・花粉症が起こる理由』(P90~P110)においては、化学物質過敏症に対してどのように言及しているのでしょうか? これについて、同文書の『アレルギー以外で見られる「過敏」な症状』(注:すなわち、「化学物質過敏症」はアレルギー以外で見られるものとして分類されているようです)における記述の一部(P104~P105)を次に引用します。 【また同じ過敏症でも、薬物以外の日用品をふくむ多種類の化学物質に反応する「化学物質過敏症」というものもあります。嗅覚の過敏性と関連していることや、過去の外傷的な記憶が嗅覚によってよみがえるフラッシュバックをともなうケースもあり、「神経系の過敏さ」といえる部分も大きいと思いますが、まだわからないことも多いです。】(注: a) 引用中の「外傷的な記憶」に関する「トラウマ」に関連し、PTSD[資料「トラウマ体験における症状認知と対処行動に関する検討」の特に「第1章 トラウマに関する研究動向と課題」を参照]や複雑性PTSD[資料「複雑性 PTSD への簡易トラウマ処理による治療」を参照]における症状でもある引用中の「フラッシュバック」については他の拙エントリのここを参照すると良いかもしれません。 b) 一方、上記「PTSD」や「トラウマ」と化学物質過敏症又は突発性環境不耐症との関連については他の拙エントリのここを参照して下さい。) この引用では「外傷的な記憶」や「フラッシュバック」には言及しているものの、上記「不特定のアレルギー症状の一種」には言及していないと考えます。

※1:(上記「予測符号化モデル」の視点からは)上記[prior beliefs](事前の信念)は、 a) 論文(全文)「Idiopathic Environmental Intolerance: A Comprehensive Model[拙訳]突発性環境不耐症:包括的なモデル」の Figure 1(P49)や「Idiopathic Environmental Intolerance: A Treatment Model[拙訳]突発性環境不耐症:治療モデル」(共に他の拙エントリのここを参照)の Figure 1(P283)によれば「prior(prediction about the presence of a sympton)」と、 b) 資料「予測的符号化・内受容感覚・感情」の Figure 1.(P3)によれば「事前分布」と それぞれ呼ばれています。

※2:上記「暫定性の欠如」に関連するかもしれない、強迫症の視点からの「つまり0か100か、あるいは白か黒かの完璧性にこだわり、曖昧さやグレーを認めたがらない思考です。」、『この世は確率論です。患者はこの不安定な世界観に、必ずどこかで向き合わなければいけません。強迫症と付き合っていると忘れがちですが、このような世界観は、皆が受け入れている当たり前の事実です。多くの人は曖昧なグレーに対して自然に妥協します。「まぁ、いっか」と。さらに言えば、多くの強迫症患者も発症以前はこのようにグレーを受け入れて過ごせていたはずなのです。』、「私は常日頃思うのですが、この社会は滅茶苦茶に適当です。こんな適当な社会に完璧性を求めれば、あっという間にクラッシュします。」については共に他の拙エントリのここを参照して下さい。ちなみに、 a) (自分で自分を追い込む)「悪循環」としての「ゴキブリが嫌いな人が,自衛のためにゴキブリが出てきそうな場所をじっとみつめるがゆえに,余計にゴキブリを目にすることになり,さらにゴキブリが嫌いになるような逆説的な悪循環です。」については他の拙エントリのここここを参照して下さい。加えて、上記ゴキブリを例にした『嫌悪の「うつりやすさ」』についてはここを参照して下さい。その上に、「道端の犬や猫のフンに汚染恐怖を感じるタイプは、自分の通る道にフンがないかを慎重に確認するがあまり、結局怖いものをどんどん見つけ出してしまい(どんな道も注意して見れば汚いものだらけです)、通れない道がますます増えるなど、自分で自分を追い込む傾向がしばしば認められます。」については他の拙エントリのここを参照して下さい。その上に、「普通の人は気にも留めないような、小さな点のようなものでも、体からの分泌物が嫌いな人には、それが分泌物かもしれないと見え、害虫が嫌いな人には、害虫のふんかもしれないというように見えてしまう」ことについては他の拙エントリのここここを参照して下さい。 b) 一方、上記内受容感覚(Interoception)は「OCD(強迫症)研究の有望な目標である」(Interoception presents itself as a promising target for OCD research)ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。

※3:上記「感覚信号の精度が高ければ,予測が大きく更新されるが,感覚信号の精度が低い場合には,主観的に経験される知覚は,入力された感覚信号とはかけ離れてほとんど予測と同じになる」ことに関連する「近年、起立性調節障害をもつ患者では内受容感覚の予測誤差が減弱されないことが実験的に明らかにされている。起立性調節障害では、起立直後に低血圧になり、立ちくらみや全身倦怠感を覚える。これらの患者では内受容感覚の予測誤差を最小化できないために適切な内臓(血管)運動制御ができないことと考えられる」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。

※4:上記「危険」(と知覚される)と「神経生理学」の両者に関連する「もっとも大きな貢献としての、トラウマを体験した人が抱えていた状態について、神経生理学的な説明を行った」(他の拙エントリのここを参照)ポリヴェーガル理論(他の拙エントリのここの「最初に」を参照)の視点からのニューロセプション(神経知覚)が「危険」と検知することについては、『危険がないのに「危険である」とニューロセプションが誤って検知してしまうこともある』ことを含めて他の拙エントリのここを参照して下さい。ちなみに、『危険がないのに「危険である」とニューロセプションが誤って検知してしまうこともある』ことに関連する「煙感知機の誤作動」についてはここを参照して下さい。

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(B)「行動免疫理論」と「煙感知機」(の誤作動)や「嫌悪」との関連について、その他
標記関連について、「もし身の回りにあるものすべてが汚らしく、感染リスクをまとったものに見えたなら、私たちの活動範囲は大きな制限を受ける。そしてそれらをつい触ってしまったら、実際には汚れていなくても、すぐに手を洗いたくなるだろう。」ことを含めて、「こころの科学 220号(2021年11月)」中の岩佐和典、堀越勝著の文書「嫌悪という感情」(P10~P15)の「嫌悪の偏り」における記述の一部(P14~P15)を次に引用します。

(前略)行動免疫理論(6)によると、人間には感染源との接触を未然に防ぐための心理学的なシステムが備わっているのだという。曰く、私たちは知覚できる情報を頼りに、目の前の刺激や、自分を取り巻く環境の汚染・感染リスクを推定している。「知覚できる情報を頼りに」と書いたのは、ウイルスや細菌といった感染源は、人間が自分の感覚器で捉えるには小さ過ぎるからである。たとえば新型コロナウイルスは目には見えないが、街でマスクをせず激しく咳き込む人を見たら、その人物との接触は感染リスクの高い行為だと感じられるかもしれない。これが、知覚できる情報をもとにした病原性推定である。
こうした正解が不明確な問題の推定では、生存に貢献する判断が優先されるらしい。この傾向は一般に「煙感知機原則」と呼ばれている。煙感知機の誤作動を経験したことがある人なら、この比喩にピンとくるかもしれない。嫌悪もそれと同じで、なにかに嫌悪を覚えたからといって、それが実際に危険だとは限らないのである。ただこうした偏りも、疾病等の深刻な結果から逃れるという点では理に叶っている。架空の嫌悪に苦しむはめになろうとも、危険を見落とした結果、重篤感染症や汚染で死んでしまうよりは、いくぶんマシだろう。
問題は、ときにこの偏りが私たちを難しい状況に追い込むことだ。たとえば汚染恐怖を伴う強迫症は、嫌悪の偏りと強いつながりをもつ精神疾患だといわれている。もし身の回りにあるものすべてが汚らしく、感染リスクをまとったものに見えたなら、私たちの活動範囲は大きな制限を受ける。そしてそれらをつい触ってしまったら、実際には汚れていなくても、すぐに手を洗いたくなるだろう。しかし、架空の汚れを物理的に落とすことはできない。汚染の疑念は即座に消えるものではなく、いくら洗ってみても、綺麗になったとは実感できない。そうして私たちは、気が済むまで手を洗い続けることとなる。それがもたらす生活支障は、しばしばとても大きなものとなるのだ。(後略)

注:(i) 引用中の文献番号「(6)」は次の論文です。 「The behavioral immune system (and why it matters).」 (ii) 拙訳はありませんが引用中の「煙感知機原則」の英文表記「smoke detector principle」についての論文(全文)は次を参照して下さい。 「The smoke detector principle」 加えて、上記「煙感知機原則」(又は煙感知器原則)に関連する「偽陽性バイアス」や「知覚対象が感染源としての性質を有していなくとも,それをほのめかすような情報が提示されていさえすれば,嫌悪や回避といった行動免疫反応は生じることが知られている」ことを含めて次の資料を参照して下さい。 「行動免疫からみた特定集団への否定的態度」の「行動免疫の2原則」項(P48) その上に、引用中の「架空の嫌悪に苦しむはめになろうとも、危険を見落とした結果、重篤感染症や汚染で死んでしまうよりは、いくぶんマシだろう」に関連する「病原体の存在を推定する際,偽陰性のコストは感染症リスクの増大であり,それはすなわち生存への脅威である。一方,偽陽性のコストは不必要な嫌悪反応な過剰な回避行動であり,それらは社会的機能の低下に結びつく。そして,これらを比較した場合,より深刻なコストが伴うのは偽陰性であるから,行動免疫による推定は偽陽性に偏るのだと説明されている」ことについても同項を参照して下さい。その上に、「嫌悪って、結局、身体的には危険を感じているってことなんだと思う。」との記述を有するツイートもあります。 (iii) 引用中の「煙感知機の誤作動」に関連する「煙探知機は普通、危険の手掛かりを捉えるのが非常に得意だが、トラウマを負うと、状況が危険か安全かの解釈を誤る可能性が増す」ことについては他の拙エントリのここにおける引用の「危険を突き止める――料理人と煙探知機」を参照して下さい。 (iv) 引用中の「汚染恐怖を伴う強迫症は、嫌悪の偏りと強いつながりをもつ精神疾患だといわれている」ことに関連する、 a) 「精神疾患の中で、強迫性障害が嫌悪という情動と最も関係が深いと言える」ことについて、「こころの科学 220号」(2021年11月)中の高橋英彦著の文書「嫌悪の脳科学」(P22~P26)の「精神疾患と嫌悪嫌悪」において次に引用(『 』内)する記述の一部(P25)があります。 『精神疾患の中で、強迫性障害が嫌悪という情動と最も関係が深いと言える。強迫性障害の患者では、感染や汚染に対する過度な懸念から、洗浄や清掃の強迫観念・強迫行為が引き起こされると考えられる。嫌悪は強迫性障害の精神病理や症候学にとっても中心的なテーマである。』 b) 「編者が専門とする強迫症においても、しばしば人を対象とした心理的な嫌悪感情が汚染恐怖へと移行する症例を経験する」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、「嫌悪に関しての強迫症の研究等のまとめ」については次のWEBページを参照して下さい。 「強迫症と嫌悪」 その上に、上記「汚染恐怖を伴う強迫症は、嫌悪の偏りと強いつながりをもつ精神疾患だといわれている」ことを踏まえた上記「煙感知機の誤作動」に関連する「強迫症が起こる原因」について、原井宏明監修・著、岡嶋美代著の本「図解 やさしくわかる強迫症」(2022年発行)の 1章 強迫症(OCD)を理解しよう の「強迫症が起こる原因」の 自己防衛システムと強迫症の関係 の「昔の人の脳の自己防御システム」及び「現代人の脳の自己防御システム」における記述の一部(P13)を以下に引用します。 (v) 一方、『嫌悪の「うつりやすさ」という特徴』について、同文書の「伝染の法則」における記述の一部(P13)を以下に引用します。

強迫症が起こる原因(中略)

昔の人の脳の自己防御システム(中略)

昔の人は、人間をおそう天敵、戦争、感染症の流行など、リアルな危険にさらされていたため、常に脳の防御システムが活発に活動していた

現代人の脳の自己防御システム(中略)

現代は、脳の自己防御システムを働かせるリアルな危険がなくなり、その反動で、ありえない不安や恐怖など余計なところに自己防御システムが働いてしまう

注:i) 引用中の「強迫症が起こる原因」について、同「強迫症が起こる原因」における記述の一部(P12)を次に引用(『 』内)します。 『強迫症の発症には、私たちが生きるために備わっている脳の自己防衛システムが関わっているという説があります。』 ii) 引用中の「ありえない不安や恐怖など余計なところに自己防御システムが働いてしまう」ことに関連するかもしれない、OCD(強迫症強迫性障害)の患者において「他の不安障害と同様の病的不安の関与,認知と行動の相互作用,強固な恐怖条件付けや消去不全などが,典型的 OCD 患者は観察される」ことについては次の資料を参照して下さい。 「強迫性障害の臨床像・治療・予後 ――難治例の判定,特徴,そして対応――」の「1. OCD の病像」項

最近筆者は、引っ越してきたばかりの自宅風呂場の壁に、一匹のゴキブリが這うのを見た。その瞬間、激しい嫌悪がこみ上げたのは言うまでもない。とはいえ黙ってやり過ごすわけにもいかず、しかめ面で風呂場から立ち去り、台所の棚から強力な殺虫スプレーを持ち出して、ゴキブリを速やかに除去した。しかし、それを除去してもなお嫌悪の感覚は消えなかった。それどころか風呂場全体が汚らしく見え、充満する温かい質感にさえ寒気を覚えた。湯船につかっている間も、身体を洗浄している間も、自分の身体が清浄になっていく実感はもてず、むしろどんどん汚れていくように思えた。風呂場全体にゴキブリの気持ち悪さが伝染したような感覚といえば、わかってもらえるだろうか。
この現象は嫌悪の「うつりやすさ」という特徴をよく反映している。(後略)

注:(i) 引用中の『嫌悪の「うつりやすさ」』に関連するかもしれない強迫症強迫性障害)における「共感呪術」については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、引用中の「伝染」を含めて次のWEBページを参照して下さい。 「汚染恐怖に関する研究」の「病的汚染の恐怖」項 (ii) 一方、引用中の「ゴキブリ」に関連する「虫供養」については次のWEBページを参照して下さい。 「殺虫効果UPへの協力に感謝 アース製薬が虫供養」 また、上記「虫供養」はひょっとすると『お化け屋敷論』(他の拙エントリのここを参照)と関連するかもしれません。ちなみに、 a) 上記『お化け屋敷論』にひょっとすると関連するかもしれない「蜘蛛恐怖症の曝露において、蜘蛛に対するポシデイブなイメージを与えることで、曝露の効果を上げることができる」との記述を有するツイートがあります。加えて『上記「蜘蛛恐怖症」(クモ恐怖症)の研究によって、きめ細かな情動の分類は、情動を「調節する」他の二つのアプローチにまさることが示されている』ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 上記「蜘蛛」や引用中の「ゴキブリ」がリストアップされている「限局性恐怖症」(の対象)については共に他の拙エントリのここを参照して下さい。

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(C)ミニ情報【論文(全文)『Working With the Predictable Life of Patients: The Importance of "Mentalizing Interoception" to Meaningful Change in Psychotherapy[拙訳]予測可能な患者の生活との連携:心理療法における有意な変化への「内受容感覚のメンタライジング」の重要性』のご紹介、その他】における記述の一部の分担
ミニ情報において書ききれない標記記事における記述の一部としての標記論文(全文)中の要旨の記述を次に引用します。

To understand our patients and optimize their treatment, psychotherapists of all theoretical orientations may benefit from considering current scientific evidence alongside psychodynamic constructs. There is recent neuroscientific evidence that subjective awareness, feelings and emotions depend upon "interoception," defined as the neural signaling to the brain from all tissues of the body. Interoception is the obvious basis of homeostasis (in the brainstem) but some interoceptive signals rise above this level and contribute to inferential processes that substantiate intrapersonal and interpersonal experience. The focus of this paper is on the essential role that their "interoception" plays in our patients' emotional experience and subjective awareness, and how the process referred to as "mentalizing interoception" may be harnessed in therapy. This can best be understood in terms of "predictive processing," which describes how subjective states, and particularly emotion, are inferred from sensory inputs – both interoceptive and exteroceptive. Predictive processing assumes that the brain infers (probabilistically) the likely cause of sensation experienced through the sense organs, by testing this sensory data against its innate and learned "priors." This implies that any effort at changing heavily over-learned prior beliefs will require action upon the system that has generated that set of prior beliefs. This involves, quite literally, acting upon the world to alter inferential processes, or in the case of interoceptive priors, acting on the patient’s body to alter habitual autonomic nervous system (ANS) reflexes. Focused attention to bodily sensations/reactions, in the safety of the therapeutic relationship, provides a route to "mentalizing interoception," by means of the bodily cues that may be the only conscious element of deeply hidden priors and thus the clearest way to access them. This can: update patients' characteristic, dysfunctional responses to emotion and feelings; increase emotional insight; decrease cognitive distortions; and engender a more acute awareness of the present moment. These important ideas are outlined below from the perspective of psychodynamic psychotherapeutic practice, in order to discuss how relevant information from neuroscientific theory and current research can best be applied in clinical treatment. A clinical case will be presented to illustrate how this argument or treatment relates directly to clinical practice.


[拙訳]
我々の患者を理解し、そして治療を最適化するために、全ての理論的志向の心理療法士は、精神力学的構成概念とともに現在の科学的エビデンスを考慮することから恩恵を受けるかもしれない。主観的な気づき、感情、情動は、身体のすべての組織から脳への神経シグナルとして定義される「内受容感覚」に依存しているという最近の神経科学的エビデンスがある。内受容感覚は(脳幹内における)恒常性の明らかな基礎ですが、一部の内受容性シグナルはこのレベルを超えて上昇し、そして個人内及び個人間の経験を実証する推論プロセスに寄与する。この論文の焦点は、患者の情動的経験及び主観的気づきにおいて「内受容感覚」が果たす重要な役割と、そして「内受容感覚のメンタライジング」と呼ばれるプロセスが治療においてどのように利用されるかもしれないかに関するものである。これは、主観的状態、特に情動が感覚入力(内受容性と外受容性の両方)からどのように推論されるかを描写する「予測処理」の観点からが最もよく理解できる。この感覚データを先天的及び学習済みの「事前」に対して試験することにより、脳が感覚器官を通じて経験する感覚のもっともらしい原因を(確率的に)推論すると、予測処理は仮定する。これは、過度に学習された事前の信念を変えるためのいかなる努力も、その一連の事前の信念を生み出したシステムに対するアクションを必要とすることを含意する。これには、文字通り、推論処理を変えるために世界に作用すること、又は内受容性の事前な場合には、習慣的な自律神経系(ANS)の反射を変えるために患者の体に作用することが含まれる。治療的関係の安全性において、身体的感覚/反応に注意を集中させることは、深く隠された事前の唯一の意識的要素かもしれない、従ってそれらにアクセスする最も明確な方法である身体的手がかりによって「内受容感覚のメンタライジング」のルートが提供される。これにより、次のことが可能になる;情動及び感情に対する患者の特徴的な機能不全の応答を更新する;情動的な洞察を高める;認知の歪みを減らす。そして、現在の瞬間のより鋭い気づきを生み出す。これらの重要なアイデアは、神経科学理論及び現在の研究からの関連情報が臨床治療においてどのように最適に適用できるかを議論するために、力動的精神療法の実践の観点から以下に概説される。この議論又は治療がどのように臨床診療に直接関係するかを示すために、臨床症例が提示されるだろう。

注:i) 引用中の「内受容感覚」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 ii) 引用中の「メンタライジング」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 iii) 引用中の「情動」については次のWEBページを参照して下さい。「情動 - 脳科学辞典」 さらに上記メンタライジング等の視点から他の拙エントリのここを参照して下さい。 iv) 引用中の「予測処理」に関連する「予測的符号化」については次の資料を参照して下さい。 「予測的符号化・内受容感覚・感情

加えて、標記論文(全文)中の「Conclusion」項における記述を次に引用します。

Our patients come to therapy when habitual responses, which are embedded within their physiology, fail to produce expected or desired outcomes. Predictive processing theories of the brain as an inference machine cast valuable light on how such dysfunctional patterns of responding can come about in infancy and be highly resistant to change. In order to change a prior it is necessary to act on the interoceptive system that created that prior in the first place.

Increasing attention to interoceptive sensation changes the balance of precision between the current interoceptive sensation and the "stubborn prior." This change in precision can update a resistant prior and in doing so increase the patient's ability to "mentalize interoception," allowing alternative hypotheses to be generated about subjective experience. Intervening to influence precision similarly supports the patient's efforts to bring emotion into awareness, which increases opportunities for their verbal expression – an important outcome of any therapeutic encounter.

We propose that the crucial point of access, within the therapeutic relationship is for the patient to focus attention onto their current internal bodily sensations (their interoception). Attention to the body, and the feelings that accompany this, sets in train a series of responses that may permit updating of default/habitual beliefs and the expectations that cause the patient distress in their current relationship to themselves, others and the world. We describe how this can re-calibrate the patient's interoceptive responses, increase emotional awareness, strengthen evaluative thought patterns and allow the patient the flexibility to discern what is real and present in any given moment.


[拙訳]
我々の患者は、生理機能に組み込まれている習慣的な反応が期待される又は望ましい結果を生み出せない場合に治療に来る。推論機械としての脳の予測処理理論は、このような応答の機能不全のパターンがどのようにして幼児期に起こり、変化に対して非常に抵抗力があるかということに、貴重な光を投げかけた。優先順位を変えるためには、最初にその優先順位を生み出した内受容システムに働きかける必要がある。

内受容感覚への注意の増加は、現在の内受容感覚と「頑固な事前」との間の精度のバランスを変化させる。精度におけるこの変化は、抵抗性の事前を更新することができ、そしてそうすることで、主観的経験が生み出される代替仮説を認める、患者の「内受容感覚のメンタライジング」能力を増加させる。精度に影響を及ぼすための介入も同様に、患者の言語表現の機会を増大させる-これは、あらゆる治療的接触の重要な結果である、情動が気づきをもたらす患者の努力を支援する。

治療関係の中での重要なアクセスポイントは、患者が現在の内部身体感覚(内受容)に注意を集中させることであると、我々は提案する。身体への注意、及びこれに伴う感情は、デフォルト/習慣的な信念、そして自分自身、他者、及び世界との現在の関係において患者の苦痛を引き起こす予期を更新できるかもしれない一連の応答を訓練で設定する。どのようにしてこれが患者の内受容的な応答を再調整し、情動的気づきを高め、評価的思考パターンを強化し、そして患者が任意の瞬間に何が現実で何が存在するかを柔軟に識別できるようにするかを、我々は描写する。

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(D)「陰謀論を生み出す心理とネットワーク」について、その他
標記について「新型コロナウイルス陰謀論」や「陰謀論は民主主義を破壊する脅威であり、政治的リスクなのである」ことを含めて、福田充著の本、「リスクコミュニケーション 多様化する危機を乗り越える」(2022年発行)の 第6章 陰謀論と民主主義の危機 の「新型コロナウイルス陰謀論」及び「陰謀論を生み出す心理とネットワーク」における記述(P149~P154)を次に引用します。

新型コロナウイルス陰謀論

巨大な危機が発生したときにデマやフェイクニュースが発生することはこれまでも紹介してきたが、そうした危機事態においては陰謀論も発生する。例えば東日本大震災のときも、この巨大地震アメリカ軍の地震兵器によって引き起こされたもので、トモダチ作戦もその地震兵器の威力を調査、検証に来たものであるとする陰謀論が発生した。一般的な知識と良識を持っていれば、そのような地震兵器などこの世には存在しない、ということは理解できるはずである。しかし、実在した発明家ニコラ・テスラが新しいエネルギーを研究し地震兵器を開発していたとする陰謀論を知っている人々は、このテスラの地震兵器が東日本大震災で実際に使用されたのだというように、過去の陰謀論と新しい事象を結びつけることで新しい陰謀論が生まれるのである。
この傾向は新型コロナウイルスパンデミックにもあてはまる。新型コロナウイルスは中国武漢のウイルス研究所で作られた生物兵器であるとする説も、当初は陰謀論であると否定された。それは、初期の研究と分析によって新型コロナウイルスのDNAの塩基の配列やその特徴が人工物ではなく、自然由来のものだと結論づけられたことによる。しかし、陰謀論の問題は別として、新型コロナウイルスが人工物でなかったとしても、ウイルス研究所から研究中の自然由来のウイルスが外部に流出したという可能性は残されており、バイデン大統領がアメリカの情報機関に対してその調査と情報分析を指示しているのも、その点が解明すべき重要ポイントであるためである。
新型コロナウイルスパンデミック陰謀論の問題が深刻なのは、ワクチンをめぐる問題である。これまで、インフルエンザやコレラ、ポリオなど様々な種類の感染症においてもワクチンが開発され、ワクチン接種によって多くの命が救われてきた。しかしながら、基礎疾患や体質によってワクチンには一定程度の副反応が発生する事実があり、それがもとで亡くなった事例もある程度の規模で存在するため、ワクチン接種に対して否定的な態度を示す専門家、医師、一般市民も多く存在する。そうした新型コロナウイルスのワクチンについて「ワクチン接種が自閉症の原因となる」という情報が世界中に拡大した。この情報に関しても、医学の専門家の中から否定的な見解が示されているため、一般的にも否定されつつある状況である。これは新型コロナウイルスをめぐる陰謀論というよりもインフォデミックの状況を示す事例ともいえるだろう。それゆえに、新型コロナウイルスパンデミックにおいては、そのワクチンに対する市民のリスク不安を取り除いて積極的は接種してもらうための社会教育、メディアキャンペーンなどのリスクコミュニケーションが実施されており、これは命を救うための極めて重要な取り組みである。
しかしながらある種の反ワクチン運動と結びついた悪質な陰謀論も存在する。例えば「新型コロナワクチンはmRNAワクチンという特殊なワクチンなので、DNAを書き換えて遺伝子組み換え人間にする危険なワクチンである」といった陰謀論は世界中に拡大していて、人々にワクチン接種への不安を広げている。これもmRNAといった医学・生物学的に高度な科学的知識が必要となるために、一般市民には科学的に正しい情報か間違った情報かを判断することがやや難しいのであるが、ある程度の科学的知識を持っていて、正しい情報を調べて理解すれば、こういうことがありえないことは判断できるはずである。
また「ワクチン接種をするとマイクロチップが埋め込まれて5G接続され身体を操作される」といった荒唐無稽な陰謀論も世界中に広まっている。フェイクニュースという以前の悪質なデマであるが、これには新型コロナウイルスが、陰の権力によってもたらされた「人類の人口削減計画の一環である」という陰謀論や、「世界中の人間の遺伝子組み換えを実行して5G通信で操作しようとしている陰の権力が存在する」という陰謀論がその背後にある。さらには、新型コロナウイルスはその治療薬やワクチンを大量に使用させることによって医学界、医療業界が莫大な利益を生み出すための自作自演の人工ウイルスである、という陰謀論まで存在している。
このような陰謀論を信じる人が社会の圧倒的多数ではない、ということが救いであるが、それでもそれらを信じる人々が一定程度存在することによって、ワクチン接種推進派とワクチン反対派の問に社会的分断をもたらすことにつながっている。

陰謀論を生み出す心理とネットワーク

こうした陰謀論を信じる人々の心理を考えてみたい。まずそこには、真実は権力や政府によって隠されているという不信感がある。社会において、自分はそうした権力や政府から抑圧されていて、社会からも疎外されているという孤独感がある。そこで隠されている真実を探ろうとインターネット、SNSの世界を放浪し、自分に似た境遇にある人々のコミュニティやアカウント、サイトに出会う。そこでは自分が追い求めている真実が語られていると感じるのである。
大衆は愚かであり、権力や政府によって騙されている。それに対して、自分だけが真実を知っているという優越感、周りの人は騙されているが、自分は騙されていないという自信、権力に騙された大衆を救わねばならないという正義感、使命感がそこに発生する。社会の体制に追従するメインストリーム(主流派)に対して、自分はカウンター(非主流派)的存在であるとアイデンティファイする傾向があり、それはメインストリームに自己を投影する勝ち馬効果(バンドワゴン効果)よりもむしろ、カウンターに自己を投影する負け犬効果(アンダードッグ効果)の心理的傾向が強いと考えられる。
陰謀論にはまってしまった人は、周囲の一般的な主流派の人間との間の溝をますます深め、孤立していく。その中で自分と同じ考えを共有している陰謀論のコミュニティこそが自分の仲間であり、同志であるとの思いを強め、ますます陰謀論の深みにはまっていく。これはカルト宗教と似ている。この陰謀論にはまった人々をそこから救い出そうと説得する試みは非常に困難である。社会の大勢を占める一般的な情報、または科学的に正しい情報を示すことによって、考えを改めるように説得コミュニケーションを行ったとしても、反対に自分の考えに固執するようになる現象が発生するが、これはバックファイアー効果(反発効果)と呼ばれている。一人ひとりの個人を陰謀論から解放する教育と説得コミュニケーションが必要であると同時に、社会的にもこうした陰謀論が拡大しないようにするためのリスクコミュニケーションが求められる。
陰謀論は「オルタナティブ・ファクト」である。先述したように信者にとってそれはデマでもフェイクニュースでもなく、「オルタナティブ・ファクト」、嘘や偽りではない、もう一つの真実、隠された真実なのである。この、もしかしたらこれがもう一つの真実かもしれない、隠された真実かもしれないと信じたがる心理傾向は、ある意味で価値相対主義的な思考であり、カウンター志向であるといえる。
かつて陰謀論はうわさ話や口コミ、アンダーグラウンドな書物などで広がっていったものであったが、現代においてはインターネットやSNSが、それを広める媒体となっている。さらにエコーチェンバーやフィルターバブルといった、自分が信じる特定の環境やフォローしているインフルエンサーのもとで、陰謀論のコミュニティが形成され、それが自分にとって心地よいコミュニティとなり、その中で集団極性化現象が発生する。
陰謀論が生み出す分断はこうして拡大して、現実社会を侵食していく。ネット社会、SNS社会の現代において、陰謀論は民主主義を破壊する脅威であり、政治的リスクなのである。

注:i) 引用中の「陰謀論」については次の資料を参照して下さい。 「偽情報・陰謀論時代のオンライン情報評価と多元的リテラシーとしてのメディア・リテラシー」 ii) 引用中の「フェイクニュース」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 iii) 引用中の「インフォデミック」については同本の P124 によると「新しい感染症が世界にパンデミックをもたらし拡大していくように、危機において社会全体で様々な情報が発生し、拡散されていく過程の中で、どの情報が正しくてどの情報が間違っているのか、わからなくなる状況のこと」を指すようです。 iv) 引用中の「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」については共に他の拙エントリのここを参照して下さい。 v) 引用中の「バックファイアー効果」については次のWEBページを参照して下さい。 「バックファイア効果」 vi) 引用中の「ワクチン接種が自閉症の原因となる」ことに対する反論については例えば次のエントリを参照して下さい。 「【文献】ワクチンやそれに含まれるチメロサール,水銀は自閉症と関連しない.メタ解析

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(E)自動思考をモニターすることについて、その他
標記ついて、伊藤絵美著の本、「世界一隅々まで書いた認知行動療法・認知再構成法の本」(2022年発行)の §1 認知再構成法とはどういう技法か の「自動思考をモニターする」における記述の一部(P18~P19)を次に引用します。

この自動思考をモニターする,というのは,心理学的には「メタ認知」と呼びます。認知についての認知(「自らの認知を認知する」とも言えます)がメタ認知です。自動思考をモニターする練習をするだけで,メタ認知の機能が強化されるのです。平たく言えば,メタ認知とは「自分を見るもうひとりの自分」の視点のことです(図1-4)。

この「メタ認知」がとにかくものすごく重要で,メタ認知の機能がしっかりと身につくだけでいろいろないいことがあります。まず,状況およびそれに対する自らの反応を客観的にとらえられるようになります。距離を置いて状況や反応を眺められるようになるのです。特に自分自身の反応,とりわけ自動思考をモニターできるようになると,原因帰属のあり方が変わってきます。自動思考とは,「その状況を自分がどう処理しているか」の表れです。何かよろしくないことが起きた時,自動思考をモニターできないと,「あいつにあんなことされたから,自分は怒って,殴ってやった」というように,原因がすべて外側の事象に帰属されがちになってしまいます。しかし,自動思考をモニターできれば,外側の状況だけでなく,「それを処理する自分」という視点ができると,「あいつにあんなことされたことに対して,自分がこう思ったから,腹が立って,殴りたくなった」というように,自分の反応についての説明が変化してきます。状況を処理している自分がいて,その処理のありようによって,自らの気分・感情や行動が変化する,というとらえ方に変わってくるのです。

これがすなわち「メタ認知の力が底上げされた」ということになりますし,別の言い方をすれば「内省力が高まった」とも言えます。自分の内的な反応に対する気づきの力が増すのです。さらに自動思考を継続的にモニターできるようになると,つまり自動思考のモニターが習慣化されると,自分の反応パターンのようなものがわかってきます。自分らしい反応のクセに気づくのです。「私,なんかいつも心配しているな」とか「私,なんかいつも人のせいにしているな」とか。そうやって自己理解が進んでいくわけです。

さらに「処理する自分」という感覚が強まってくると,状況にそのまま翻弄されることが減ってきます。「あいつがああだから」「こんなことがあったから」ということで即座に行動化するのではなく,「あいつがああだから,こんな自動思考が出てきて,こう感じた」「こんなことがあったから,こんな自動思考が出てきて,こう感じた」という受け止めができるようになると,いったん立ち止まって,「じゃあ,そういう自分はどういう行動を取ろうかな」と考え,行動が選択できるようになります。状況を処理する主体,状況に関わっていく主体という感覚が強化され,状況にそのまま巻き込まれてることが減ってきます。(後略)

注:(i) 引用中の「図1-4」についての引用は省略します。代わりに「自動思考をモニターすることのメリット」について、上記「図1-4」における連続する記述の一部を五分割して次に引用(それぞれ【 】内)します。 【・状況とそれに対する自分の反応を客観視できる。】、【・自分の反応の理由を状況と自己の双方に帰属させて考えることができる。】、【・メタ認知の力がつく。内省力が高まる。自己理解が深まる。】、【・状況に直接翻弄されなくなる。「自分」がしっかりする。】、【・他人の反応に対する理解力や共感力が高まる。】 (ii) 引用中の「自動思考」については次のWEBページを参照して下さい。 『「働く女性全力応援セミナー」第1回 講演② 講演録』の「●自動思考という概念」項 加えて上記「自動思考」に関連する『自動思考自体を何も消したり変えたりする必要はないのです。もうすでに出てきちゃった思考を引っ込める必要はありませんし,消したり引っ込めたりすることは不可能です。それより「出ちゃったものはしょうがないよね」とそのままにして置いておき(マインドフルネス),代わりとなる思考を新たにいくつも生み出して,自動思考の周りに散りばめればいいのです。そうすれば,自動思考をどうこうしなくても,自動思考と同等の重みの思考がいくつも周りに配置されれば,自動思考の重みは相対的に軽くなりますね。自動思考が「オンリーワン」から「ワンオブゼム」という位置づけに変更されますね。』については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (iii) 引用中の「メタ認知」については次のWEBページを参照して下さい。 「メタ認知 - 脳科学辞典」 加えて、上記「メタ認知」と「注意」との関連については他の拙エントリのここを参照して下さい。 その上に、「メタ認知療法からみたマインドフルネス」については次の資料を参照して下さい。 「メタ認知療法からみたマインドフルネス」 (iv) 引用中の「自動思考をモニターする」ことに関連する、 a) 「認知行動療法の中で一番重要な要素は、セルフモニタリングだと思っている」ことについては次のWEBページを参照して下さい。 『「今、ここ」の感覚を取り戻すマインドフルネス|臨床心理士 伊藤絵美』の「マインドフルネスは認知行動療法の土台である」項 b) 『自動思考のモニターは「マインドフルネス」にそのままつながる』ことについて、同§1 認知再構成法とはどういう技法かの「マインドフルネスにつながる」における記述の一部(P20~P21)を次に引用(【 】内)します。 【実は自動思考のモニターは,今大変注目されている「マインドフルネス」にそのままつながります。】 c) 『技法を導入する前の,アセスメントの段階でセルフモニタリングがしっかりとできるようになっている,という「お膳立て」はとても重要である』ことについて、「認知再構成法では,対象とする場面における生々しい自動思考を扱うことが非常に重要です」を含めて同の §4 認知再構成法の導入 の 認知再構成法を導入するにあたっての注意点 の「2) 感情をどう扱うか」における記述(P75~P76)を次に引用します。

次の注意点は,感情の扱いについてです。認知再構成法では,対象とする場面における生々しい自動思考を扱うことが非常に重要です。「生々しい自動思考」とは,生々しい感情と分かちがたく結びついている自動思考のことです。「ホットな思考」と呼ばれることもあります。生々しい感情と分かちがたく結びついた生々しい自動思考を生き生きと扱ってこそ,認知再構成法はその効果を発揮することができます。言い換えると,感情を伴わない「頭だけの認知」「理屈だけの認知」を扱ってもあまり意味がない,ということです。感情を回避し,知的作業に終始するだけの認知再構成法では,「そう思ってはみたものの,気持ちがついていかない」「理屈ではそうかもしれないが,ピンとこない」といった残念な結果で終わってしまいます。要は「単なる言い聞かせ」で終わってしまい,それでは意味がないのです。ただし生々しい自動思考や生き生きとした感情のモニタリングは,認知再構成法を開始してはじめてそれを行うのではなく,CBT の第一段階であるアセスメントの作業をしているなかで,特にセルフモニタリングの練習をするなかで,リアルタイムに認知や気分・感情に気づきを向けることができるようになっていれば,その延長線上で認知再構成法に取り組めばよいので,さほど難しいことではありません。そういう意味でも,認知再構成法や問題解決法やエクスポージャー(曝露療法)といった技法を導入する前の,アセスメントの段階でセルフモニタリングがしっかりとできるようになっている,という「お膳立て」はとても重要です。

注:i) 引用中の「CBT」は認知行動療法の略です。加えて、上記「CBT」に関連する「徹底的なモニターに尽きる」や「CBTをやっている実感とぴったりだ。」との記述を有するツイートがあります。 ii) 引用中の「認知再構成法」については他の拙エントリのここや次のWEBページも参照すると良いかもしれません。 「認知行動療法について」の「②認知再構成法について」 加えて、上記「認知再構成法」に関連するかもしれない「認知的再評価」と「気晴らし」は「脱中心化を媒介して精神的健康に関連する」ことについては次の資料を参照して下さい。 「認知的再評価と気晴らしは脱中心化を媒介して精神的健康に関連する」 その上に、「感情を伴わない次元で、いくら言い聞かせ的な認知再構成法をしたって、心がついてこない」との記述を有するツイートがあります。 iii) 引用中の「問題解決法」については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「認知行動療法について」の「③問題解決技法について」 iv) 引用中の「エクスポージャー(曝露療法)」については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「エクスポージャー療法」、「エクスポージャー療法普及プロジェクト 不安と上手に付き合うための認知・行動療法」 v) 引用中の「頭だけの認知」、「理屈だけの認知」、「単なる言い聞かせ」や「知的作業に終始するだけ」に関連するかもしれない「ふりをするモード」については他の拙エントリのここを参照して下さい。

一方、上記「自分の反応パターンのようなものがわかってくる」ことに関連するかもしれない(CBT[認知行動療法]の視点からの)「本格的な CBT が始まれば、自らの反応(認知、気分・感情、身体反応、行動)をモニター(観察)し、それに向き合う作業に入る」ことについて、伊藤絵美著の本、「ケアする人も楽になるマインドフルネス&スキーマ療法BOOK1」(2016年発行)の 第3章 マミコさん、認知行動療法を開始する の マミコさんはなぜ仕事を続けていられたのか の「◎ 少しずつ変えていけばいい」における記述の一部(P102)を以下に引用(【 】内)します。 【いずれにせよ本格的な CBT が始まれば、自らの反応(認知、気分・感情、身体反応、行動)をモニター(観察)し、それに向き合う作業に入ります。つまり気分・感情を殺すのではなく、それに向き合い、受け止めるということを必ずすることになります。】(注:引用中の「認知、気分・感情、身体反応、行動」については例えば次のWEBページや資料を参照して下さい。 「認知療法・認知行動療法とは」(注:このWEBページ中には「図2. さまざまなストレス反応の例」があります)、「認知行動療法とは」、「認知行動療法的アプローチの有効性に関する一事例 ─ストレスコーピングの視点から─」の「3.認知行動療法的アプローチ」項、「入門!認知行動療法 こころのしくみ」の「感情・考え・行動・身体反応の関係」シート[P6]) 加えて(従来の)上記「認知行動療法」における「自らの反応や自動思考をモニターすること」以外の、 a) (ポリヴェーガル理論[他の拙エントリのここの「最初に」を参照]の視点からの)「自身の自律神経系の状態を、マッピングし、トラッキング」することについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) (構造的解離の視点からの)『誘発刺激とパーツ(又は部分、これに関連する「情動的な人格部分」については資料「Unification of Subconscious Personalities by Tapping Therapy(USPT)による解離症の治療 ――第二次構造的解離としての複雑性PTSD――」の「1. 構造的解離とは」項を参照)間の瞬間的な相互作用にクライアントが気づくように導く』ことや『自己観察できる〔日常を送る〕自己(これに関連する「あたかも正常にみえる人格部分」については同項を参照)の質と、トラウマ関連の活性化されたパーツたちを区別する。』ことについては共に他の拙エントリのここここを参照して下さい。 c) (コンパッション・フォーカスト・セラピーの視点からの)「厄介な脳についての心理教育は,感情的苦痛を経験しているときに自分自身から距離をとり,古い脳と新しい脳のループに気づくことを大きく助ける」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて他の拙エントリのここも参照すると良いかもしれません。 d) (「ソマティック・エクスペリエンシング」の視点からの)「トラッキング(Tracking)」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 e) 慢性腰痛(Chronic Back Pain)の治療法かもしれない Pain Reprocessing Therapy(拙訳はありませんが論文[全文]「Effect of Pain Reprocessing Therapy vs Placebo and Usual Care for Patients With Chronic Back Pain」やWEBページ「慢性腰痛患者の痛みを心理療法で緩和」を参照)における「感覚を安全なものとして再評価する」(Reappraising sensations as safe)ことを含む Somatic tracking については拙訳はありませんが次のWEBページを参照して下さい。 「How the Brain Causes Chronic Pain & How to Stop It」の「Pain Reprocessing Therapy (PRT) and How it Works」項 f) 「NeuroAffective Relational Model™ [NARM]」における「The metaprocess for the NARM model is the mindful awareness of self in the present moment. The client is invited into a fundamental process of inquiry: "What are the patterns that are preventing me from being present to myself and others at this moment and in my life?" We explore this question on the following levels of experience: cognitive, emotional, felt sense, and physiological. NARM explores personal history to the degree that patterns from the past interfere with being present and in contact with self and others in the here-and-now.[拙訳]NARMモデルのメタプロセスは、現在の瞬間における自己のマインドフルな気づきである。クライアントは探求の基本的なプロセスに誘引される。 「今この瞬間、そして私の人生において、私が自分自身や他者に対し現在にあることを妨げているパターンは何でしょうか?」 我々はこの質問を次のレベルの経験で調査する:認知、情動、フェルトセンス、及び生理的。NARMは、過去のパターンが、今ここにおける自分自身や他者に接して現在にとどまることを妨害する過去からのパターンの程度まで、個人史を探求する。」との記述は上記を除き拙訳はありませんが次のWEBページを参照して下さい。 「Introduction to the NeuroAffective Relational Model™ [NARM]」(注:1) 上記「フェルトセンス」については他の拙エントリのここここを参照して下さい。 2) 上記「マインドフルな気づき」に関連するかもしれない「マインドフルネス」と「セルフモニタリング」との関係の例について、伊藤絵美著の本、「ケアする人も楽になるマインドフルネス&スキーマ療法BOOK1」(2016年発行)の 第1章 マインドフルネス超入門 の マインドフルネスとは の「◎ 評価や否定をせず、受け止め、味わい、そっと手放す」における記述の一部(P036)を以下に引用(《 》内)します。 《「自らの体験にリアルタイムに気づく」というのが、セルフモニタリングでしたね。マインドフルネスはその応用編のようなもので、自らの気づきに対する「構え」のようなものです。簡単に言えば、セルフモニタリングを通じて気づいたことを、評価や否定をすることなしに、優しく受け止め、興味を持って味わい、そっと手放す、というのがマインドフルネスの構えです。》[注:引用中の「評価(中略)をすることなし」に関連する「交感神経系の活性化に関連する防御システムの起用は、マインドフルネスとは両立しないということにも気づきました。マインドフルネスは中立であることを必要とすることを思い出してください。何事も評価しない中立の状態は、生存のために良い評価を得なくてはいけないという防衛状態とは両立しません。」については他の拙エントリのここを参照して下さい] 3) 「マインドフルネスは認知行動療法の土台である」ことについてはWEBページ『「今、ここ」の感覚を取り戻すマインドフルネス|臨床心理士 伊藤絵美』を参照して下さい。 4) 上記「being」にひょっとして関連するかもしれない「Being Mode」については他の拙エントリのここを参照して下さい。) g) 「たとえば慢性疼痛を患う人は、痛みの強度に釣り合わないほど大きな影響が生活全般に及んでいると、悲観的に考えることが多い。そのような人が身体の痛みと不快感を区別する術を学ぶと、鎮痛剤をそれほど所望しなくなり、使用頻度が減る」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 h) 三大煩悩(WEBページ「思考の管理で、心を癒す」を参照)としての三毒(貪䐜痴)を「如実観察」することについては次のWEBページを参照して下さい。 「マインドフルネスの先にある、サティとは」の『「惑業苦」の悪循環が人間の性』項[注:上記「三毒(貪䐜痴)」について、ロバート・ライト著、熊谷淳子訳の本、「なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学」(2018年発行)の 13 すべては(多くても)一つ? の「二つの説法と三毒」における連続する記述の一部(P259)を次に引用(それぞれ【 】内)します。 【タンハーと自己という感覚のつながりは、仏典でたびたびくり返される戒めによくあらわれている。「ラーガ」「ドヴェーシャ」「モーハ」の「三毒」を避けるようにという戒めだ。三つの毒はそれぞれ貪欲、嫌悪、迷妄などと訳され、これをまとめた「貪・䐜・痴」という語呂のいい熟語は、瞑想合宿の法話のときに指導者から聞いた覚えがあるという人も多いはずだ。しかしこの翻訳はいくつかの点で誤解を招きやすい。貪欲と訳されることばは、物質的な富への渇望感だけでなく、より全般的な渇望感をあらわす。また、嫌悪と訳されることばは、人に対する負の感覚だけでなく、あらゆるものに対する負の感覚、つまり忌避感すべてを意味する。】〔注:引用中の「タンハー」(渇愛)については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「タンハー」〕、【要するに最初の二つの毒はタンハーの二つの側面、快への渇望と不快の忌避ということだ。】]

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(F)オスラーの名言としての「断定的な診断をしてはならない」ことについて、その他
標記ついて、平島修、徳田安春、山中克郎著の本、「こんなときオスラー 『平静の心』を求めて」(2019年発行)の「オスラー名言集 1」における記述の一部(P13~P14)を形式を変更して次に引用します。

(前略)Never make a positive diagnosis.
断定的な診断をしてはならない(中略)

Case 1
60 代、男性。主訴は数時間前からの胸痛。心電図所見で,四肢誘導のⅡおよびⅢ、aVf 誘導で ST 低下あり。血清トロポニンの上昇あり。心エコーで下壁の壁運動低下を認めた。非 ST 上昇型心筋梗塞の疑いで保存的治療が開始され、集中治療室入院となった。
しかしながら、入院後も胸痛が持続していた。心電図検査を再検したが、特に変化はなく、ST 低下の所見が持続していた。担当医はやはり、非 ST 上昇型心筋梗塞と考え、「そのまま様子観察」の指示を出した。
翌朝になって、総合内科チームが回診に訪れた。両上肢の血圧に左右差を認め、右上肢の収縮期血圧が 20mmHg 以上、左の上肢の収縮期血圧より低めであった。また胸部の聴診で拡張早期漸減性雑音が認められた。
以上より、緊急で胸部造影 CT を撮像したところ、「スタンフォード A 型の急性大動脈解離」の診断となった。心臓血管外科による緊急手術が直ちに行われ、その後、病態は軽快した。スタンフォード A 型の急性大動脈解離では、右の冠動脈の血流遮断を合併することが多く、下壁の心筋梗塞を同時に認めることがある。

Case 2
インフルエンザが流行していた冬の時期に、3 日前からの発熱を主訴とした 20 歳の女性が受診した。その日の初診外来を担当していた A 医師は、その日、すでに 10 人ほどのインフルエンザと思われるケースを診療していた。
この 20 歳の女性は、発熱以外の症状として腰痛を訴えていた。医師はインフルエンザの診断を考えた。腰痛は、インフルエンザによる筋肉痛症状であると思ったのだ。解熱鎮痛薬のみを処方し、帰宅とした。
しかし、その 2 日後、この女性が再受診した。まだ発熱が持続していることと、腰痛が悪化していたからである。今度は、別の B 医師が診察を担当した。今回の問診では、残尿感と頻尿があることが判明し、診察では、右の肋骨脊柱角に叩打痛を認めた。
尿検査で、白血球尿および細菌尿を認めた。尿のグラム染色では、白血球に貪食された中型サイズのグラム陰性桿菌を認めた。腎孟腎炎の疑いで、抗菌薬がスタートとなった。その後、徐々に解熱し、軽快した。血液および尿培養からは、大腸菌が検出された。

【診断のバイアスに陥るな!】
オスラーは、「診断は確率のアートであり、不確実性のサイエンスである」と述べた。すなわち、100% 確実な診断というのは、滅多につけられないものなのである。画像検査や検体検査が発達した現在の臨床医学の現場においても、外来診療での診断エラー率は、5~15% 程度はあるといわれている。
診断エラーの原因として、認知バイアスが関連している(p.22)。このうち、Case 1 ではアンカリング・バイアスが関連し、Case 2 ではアベイラビリティ・バイアスが関連している。アンカリングとは、最初に考えた診断に固執することだ。アベイラビリティとは、すぐに思いつく診断に満足することだ。
認知バイアスに陥ったとき、早期閉鎖という状況となる。英語でプレマチュアクロージャーと呼ばれるものだ。適切な鑑別診断を考えずに思考停止をしてしまうことで、早熟閉鎖と呼んでもよいだろう。オスラーは、このようなバイアスに陥らないように、医師たちに警告していたのである。

注:i) この引用部の著者は徳田安春です。 ii) 引用中の「四肢誘導」については次のWEBページを参照して下さい。 「心電図読解のポイント」の「四肢誘導は電気の流れを上下方向から観測」項 iii) 引用中の「ST 低下」については「ST 上昇」を含めて上記WEBページの「■STは冠動脈の血流状態」項を参照して下さい。 「心電図読解のポイント」の「四肢誘導は電気の流れを上下方向から観測」項 iv) 引用中の「心筋梗塞」については次のWEBページを参照して下さい。 「心筋梗塞」の v) 引用中の「血清トロポニン」の別名である「心筋トロポニン」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「心筋トロポニン」 vi) 引用中の「スタンフォード A 型の急性大動脈解離」については例えば次のWEBページを参照して下さい。 「急性大動脈解離」の「スタンフォードA型」項 vii) 引用中の「腎孟腎炎」については引用中の「右の肋骨脊柱角に叩打痛を認めた」ことを含めて例えば次のWEBページを参照して下さい。 「腎盂腎炎」 viii) 引用中の「グラム陰性梓菌」については例えば次の資料を参照して下さい。 「グラム陰性桿菌による院内感染症の防止のための留意点 -マニュアル作成の手引き-」 ix) 引用中の「p.22」の引用は省略します。代わりに引用中の「認知バイアス」については他の拙エントリのここや次の資料を参照して下さい。 「代表的認知バイアス各論の紹介」 x) 引用中の「アンカリング・バイアス」に関連する「anchoring」(アンカリング)については上記資料の「4) anchoring/representativeness/diagnostic momentum2)」項を、引用中の「アベイラビリティ・バイアス」に関連する「availability」(アベイラビリティ)については上記資料の「2) availability2)」項(P1845)を それぞれ参照して下さい。加えて、両者に関連するかもしれない「表3 臨床現場でよくあるバイアス」を有する資料「診断エラーを引き起こす認知バイアス」もあります。 xi) ちなみに、引用中の「オスラー」先生のもう一つの言葉の例は次のWEBページを参照して下さい。 「オスラー先生の言葉に学ぶ 臨床推論の真髄 明日から役立つ臨床推論!vol.5【総合内科・徳田安春先生】」の「オスラー先生の言葉に学ぶ」項

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(G)「承認欲求」と「陰謀論」の関連について、その他
標記関連について、斎藤環著の本、『「自傷的自己愛」の精神分析』(2022年発行)の 第二章 自分探しから「いいね」探しへ の「承認欲求から陰謀論へ」における記述の一部(P143~P146)を以下に引用します。なお、「陰謀論を生み出す心理とネットワーク」についてはここを参照して下さい。

トランプ大統領の時代以降、世間には「フェイクニュース」「ポストトゥルース」といった言葉があふれました。それはトランプ政権に限った話ではありません。コロナ禍にしてもロシアによるウクライナ侵攻にしても、常識や科学に反した主張を確信し、堂々と展開してみせる人は少なくありません。彼らは批判を受けるどころか、同様の主張をする仲間と連帯し、一定数の支持者すら集めています。これはどういうことなのでしょうか。
陰謀論にはまり込んで、そこから抜け出した経験がある人が語ってくれれば一番いいのですが、そういう人は決して多くありません。なにしろ陰謀論にはまったことがあるということ自体が恥ずかしいので、それについて語りたがらないのはむしろ当然のことでしょう。
そんな中で、Twitter 上で貴重な証言を見つけました。これは俳優で依存症当事者としても活動している高知東生氏によるものでした。以下にいくつか引用してみます。

2021-01-29 21:04:25
高知東生 @noborutakachi
言うのがとても恥ずかしんだけど、俺陰謀論を信じかけてたんだよ。仲間と話していて「高知さんの情報はすごく偏ってます」って言われて驚いた。Youtube って自分の見ている関連動画が次々出てくるようになっているだってな。そんなこと全然知らなかったから教えて貰わなかったら本当にやばかった。

2021-01-31 23:33:57
高知東生 @noborutakachi
俺は「人の裏を読め」を金言としていた。この度危うく Youtube の見過ぎで陰謀論を信じかけた事を内省したが、よく考えたら表の仕組みを何も知らないんだよ。そもそもの知識がないし、知る努力を面倒くさがってた。でもちゃんと調べなくても裏を読んだつもりになるって楽に賢そうな気分になれたんだよ

これはなかなか勇気ある証言です。高知氏は自分を「知識がない」「賢くない」と卑下していますが、こうした筋道だった分析は、まぎれもないすぐれた知性の産物でしょう。
これにつづく高知氏の論旨を私なりにまとめるとこうなります。
ある種の人々は、単純で断定的な結論を言い切ってくれる人の話にひきつけられます。彼らの話はわかりやすい。専門家はいろいろな角度から複雑な議論を展開するため、わかりにくくて結論も曖昧だったりするので敬遠されることになります。
自分の知性に自信がない人々は、YouTube やSNSに流れてくる、シンプルな「裏情報(本当は裏でも何でもないが、裏っぼく見える情報)」にひきつけられがちです。なぜか。裏情報は、「表の知識(一般常識、根拠のある情報)」のメタレベルだからです。つまり「表ではこんな風に言われているけれど、実は……」というロジックですね。苦労して表の知識を学ぶよりも、すぐに理解できるマイナーな知によってマウントが取れる快感がそこにあります。
これは他人事ではありません。私も学生の頃に、ユングの「シンクロニシティ」とか「曼荼羅」とか、オカルティックな側面にハマりかけた経験があるからです。知的なコンプレックスを抱えていると、ウラの知識で一発逆転を狙いたくなる気持ちはまったく共感できます。「これで全部わかった!」という快感もまた、知性の働きではありますが、非常に危険な誘惑なのです。
「自分は裏の仕組みを全部知っている」という快感は個人的なものですが、これがコミュニティとして共有されると、そこに「仲間として承認される」という快感が加わります。つまり「世界の裏の真実を共有している集団に帰属している」「その仲間とつながり承認されている」という快感ですね。これは単なる自己満足を超えた快楽をもたらしますので、抜け出すのがいっそう困難になります。高知氏は幸い、そうした集団には帰属していない段階で間違いに気付いたということなので、そこは幸運でした。(後略)

注:(i) 引用中の「フェイクニュース」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 (ii) 引用中の「シンクロニシティ」については次のWEBページを参照して下さい。 「5-8 シンクロニシティ」 (iii) 引用中の「ある種の人々は、単純で断定的な結論を言い切ってくれる人の話にひきつけられます。彼らの話はわかりやすい。専門家はいろいろな角度から複雑な議論を展開するため、わかりにくくて結論も曖昧だったりするので敬遠されることになります。」に関連する、 a) 『複雑で複眼的な考察が出来ないとシンプリスティックなロジック「のようなもの」にすぐ騙され、陰謀論に落ちる。』との記述を有するツイートがあります。 b) 『嘘をつくと、事実と異なるほど、医療情報は「やさしく」なる』ことについては次の note を参照して下さい。 「不正確な情報はやさしい」 (iv) 引用中の「筋道だった分析」とは大きく異なる、 1) 「ファクトチェックなどの取り組みによる誤情報の訂正について、訂正情報にアクセス可能な状態にするだけでは誤情報を信じている人に訂正情報を届けることにはつながらない」ことについては次のWEBページを参照して下さい。 「信じている誤情報の訂正は見たくない? 名工大など」 2) 「深く信じ込んでいる信念を修正していくのは容易ではない。一般に,ひとたび獲得された誤信念は,正しい事実の指摘に抵抗して容易に変更されない性質を持つ。当人や関係者の状況にもよるが,深く信じ込んでいる陰謀論信念からの脱却は,カルトからの脱洗脳や脱会カウンセリングに相当する困難を伴う。」ことについて、サブカルチャー心理学研究会著、山岡重行編の本、『サブカルチャーの心理学2 「趣味」と「遊び」の心理学研究』の Ⅲ 陰謀論の心理学 の 9章 陰謀論の本質――その心理・文化・歴史 の「7. 陰謀論への対処」項における記述(P218~P220)を以下に引用します。 (iv) 引用中の「陰謀論」に関連する「陰謀論信念」について「陰謀論者は,不確実性や偶然性を嫌い,また偶然性に関する正確な推論を苦手とするとも予測できる」ことを含めて、同「9章 ナラティブの拡散と自己学習型マインド・コントロール」[上記 (iv) 2) 項を参照]の「6. 陰謀論信念の心理メカニズム」における記述の一部(P214~P216)を以下に引用します。 (v) 引用中の「陰謀論」と「自己学習型マインドコントロール」との関連について、同「Ⅲ 陰謀論の心理学」[上記 (iv) 2) 項を参照]の 10章 ナラティブの拡散と自己学習型マインド・コントロール の「8. 自己学習型マインド・コントロール」における記述の一部(P237)を以下に引用します。 (vi) 引用中の「陰謀論」に関連する「陰謀論者は情報を選択的に接触したり回避している」ことについては、同「Ⅲ 陰謀論の心理学」[上記 (iv) 2) 項を参照]の 11章 陰謀論マインド・コントロール の 6. 陰謀論者がビリーフ固執に用いる 6 論理のマインド・コントロール の「5) 偏った証拠の評価:平等に証拠に向き合わない」における記述の一部(P260)を以下に引用します。

7. 陰謀論への対処

従来はただの個人的な思い込みと片付けられていた主張が,SNS では大規模に拡散し,予想もしないような影響力を持つ。現代の陰謀論は,公の知識としては否定され「隠されていた」ものが,覚醒者とネットの力で暴かれる物語性を帯びている。そのために,たとえ笑ってしまうようないい加減な主張でも,現実の社会に悪影響を及ぼすことがあり得る。
では,身近な人が陰謀論にハマってしまった場合,私たちはどう対処していけばいいのだろうか。
まず,一般に陰謀論(だけでなく超常現象や疑似科学)に対して,誰でも素朴にとるのが「欠如モデル」にもとづく対処である。つまり,陰謀論に陥る人は,正しい知識を持っておらず,合理的な思考ができないのであって,誤りを指摘して正しい知識を教え込んで修正してやればいいと考えるもので,これはごく一般的に学校教育現場で行われる対処方法である。
しかし,これまで見てきたように陰謀論は単なる知識の欠如の問題ではなく,その人の信念の問題である。したがって,正しい事実を突きつけて陰謀論者の考え方を変えようとしても,必ずしも有効な方略とはなり得ない。
もちろん,科学知識と教育の普及によって多くの非合理的信念が克服され,現代の科学文明の基盤が形成されたのも間違いない。しかし,陰謀論にはまってしまう人の多くは,長年にわたって教育を受け,科学的な知識や合理的な思考も備えている。陰謀論の信念は反証不能性をはじめとして世界解釈においても整合性がとれた一種の無謬性があり,それに反する指摘への抵抗は強いものと考えられる。こうした信念特性に配慮せずに,一律的な欠如モデルからの対処は,かえって反発を生み,ひいては専門家と市民の分断や反知性主義の温床となる可能性すらあると考えられている。
深く信じ込んでいる信念を修正していくのは容易ではない。一般に,ひとたび獲得された誤信念は,正しい事実の指摘に抵抗して容易に変更されない性質を持つ。当人や関係者の状況にもよるが,深く信じ込んでいる陰謀論信念からの脱却は,カルトからの脱洗脳や脱会カウンセリングに相当する困難を伴う。周囲の人々が当人の思い込みを厳しく否定して失敗するのは,カルト脱会の試みで多く見られるケースである。脱洗脳では,まずカルト集団からの隔離が重要になるが,陰謀論はそれほど明確な集団がなく,ふだんはふつうに仕事や生活をしているのでネットや SNS の遮断も難しい。粘り強く働きかけていくためにとるべき姿勢は,周囲が間違いを修正してやる態度ではなく,おそらくは,相手の話を否定せずに傾聴し受容していくカウンセリングマインドではないか。陰謀論を信じて声高に主張するのは表面的な現象であって,そこに至る深刻な問題は,陰謀論に傾倒しなければ解消されないような不安や焦燥,孤独,悩みといった点にこそある可能性が高い。陰謀論を否定する前に,まず相手がかかえるさまざまな問題の解決に向けて働きかけていく枠組みが必要かもしれない(……といった,信奉の背後に大きな心理的問題がある,という考え方自体が,陰謀論信奉と共通する人間の認知機能だということがおわかりいただけると思う)。
陰謀論やカルトに対処する上で最も大切なのは,ハマってから対策に取り組むのではなく,その前から,メタ認知知識をもとに世の中の出来事を多面的に考えるクリティカルシンキング・スキルを養うことである。たとえば陰謀論を理解するためには,人の信念の生起や強化など心理面に着目したアプローチが大きな助けになると,これまで述べてきた。人は,世界を一貫したものとして効率的に把握しようとする認知システムをデフォルトで備えている。そして不確実な未来をコントロールして前向きに生きていこうとする社会的動機に動かされている。こうした自律的認知システムは,人が適応的に生きていく上で必要であり,だれでも自然に身につけている。そして,この優れた認知システムが,複雑で困難な状況に対処するためにオーバーランした結果が,時に陰謀論や ESB を引き起こし,人生における不適切な意思決定を生み出すと考えられるのである。こうした認知システムの振る舞いについて理解し,自分の認知を客観的に把握・制御していくメタ認知は,情報を多面的に評価して適切な意思決定や問題解決につなげていく実践的で汎用的なクリティカル・シンキングの基盤を形作るのである。

注:i) この引用部の著者は菊池聡です。 ii) 引用中の「欠如モデル」については「疑似科学」を含めて次の資料を参照して下さい。 「疑似科学を題材とした批判的思考促進の試み」の「4 疑似科学から入門する批判的思考」項 iii) 引用中の「反証不能性」についてはこれに関連する「反証可能性」を含めて次の資料を参照すると良いかもしれません。 上記資料の「反証可能性の有無について」項 iv) 引用中の「信念」については他の拙エントリのここ及びここを参照して下さい。加えて、引用中の「方略」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 v) 引用中の「メタ認知」については以下のWEBページ以外にもここ及びここ、そして他の拙エントリのここを参照して下さい。 「メタ認知 - 脳科学辞典」 vi) 引用中の「疑似科学」に含まれるかもしれない「ニセ医学」に対する「読むワクチン」については次のWEBページを参照して下さい。 【『「ニセ医学」に騙されないために』書評 インチキ予防に「読むワクチン」】 加えて上記「ニセ医学」に関する次のWEBページもあります。 《書籍『新装版「ニセ医学」に騙されないために』発売記念! 内科医・名取宏先生 インタビュー 》 vii) 引用中の「クリティカル・シンキング」又はこの別名である「批判的思考」については共に他の拙エントリのここや次の資料を参照して下さい。 上記資料の「2 市民リテラシーとしての批判的思考」項、「3 疑似科学からの批判的思考入門」項や「4 疑似科学から入門する批判的思考」項 viii) 引用中の「ESB」は「実証的根拠を欠く事物への信念:Empirically Suspect Beliefs」の略であることについては次の資料を参照して下さい。 上記資料の「陰謀論が覆う世界」項 加えて、上記「ESB」の代表が超常信念と疑似科学信念であり、陰謀論もこの ESB の一つに位置づけられる」ことについて、同「9章 陰謀論の本質――その心理・文化・歴史」[ここの (iv) 2) 項を参照]の「4. カウンターカルチャーとしての陰謀論――オカルト,疑似科学」における記述の一部(P202)を次に引用(『 』内)します。 『こうした怪しげな「知」を信じる信念は,実証的根拠を欠く事物への信奉として ESB(Empirically Suspect Beliefs)と総称される(眞嶋,2016)。その代表が超常信念(Paranormal Beliefs)と疑似科学信念(Pseudoscientific Beliefs)であり,陰謀論もこの ESB の一つに位置づけられる。これら三種の信念の間には相互に正の相関があるだけでなく,影響を与える変数の構造も類似しているために,同じ心的メカニズムが働いていると想定されている(Lobato, Mendoza, Sims & Chin, 2014)。』(注:a) この引用部の著者は菊池聡です。 b) 引用中の「眞嶋,2016」は次の文書です。pdfファイル「日本認知科学会第33回大会発表論文集」中の眞嶋良全著の文書「科学リテラシー・認知スタイルと疑似科学信奉」(P106~P109) c) 引用中の「Lobato, Mendoza, Sims & Chin, 2014」は次の論文です。 「Examining the relationship between conspiracy theories, paranormal beliefs, and pseudoscience acceptance among a university population.」)

6. 陰謀論信念の心理メカニズム(中略)

陰謀論信念は,適応的な心的システムの反映であり,人が進化の中で身につけた優れた心的能力が(過剰に)発揮された結果だと考えられる。曖昧で把握が難しい不確実な出来事や,偶然の出来事に困惑や脅威を感じた場合,その背景にある特定の意図を検知し,整合的な理解の枠組を作り出して,意味を与える機能を持っている。そして,不確実な世界を秩序ある予測可能なものに回復させる社会的・文化的機能を提供する。そのために特定の邪悪な敵を作り出して,不可解な事象をすべて帰属させるのは有効な戦略である。しかも,こうした秘密を自分だけが知っているという感覚は,自尊感情を高め,自己高揚的な感情を引き起こす。よって,時代が複雑になればなるほど,多くの人が不安に感じる社会状況であればあるほど,陰謀論が心の安定のために採用されやすくなると考えられる。そうした点からは,私たち誰にでも陰謀論者の素質があると言える。
こうした論点から,興味深い研究仮説と研究を紹介しておこう。陰謀論者は,不確実で予測不能な状況に脅威を感じ そこから来る不安を陰謀論でコントロールしていると考えられる。もし,この仮説が正しいとすれば 陰謀論者は,不確実性や偶然性を嫌い,また偶然性に関する正確な推論を苦手とするとも予測できる。
たとえば確率に関する錯誤(連言錯誤)を誘発しやすい課題に取り組ませた実験では,陰謀論を信じる人たちは,仮説通りこのテスト成績が低いことを明らかにした(Brotheton & French, 2014)。こうした確率推論の失敗傾向は,テレパシーや予知などの超能力信奉者にも見られるものである。(後略)

注:i) この引用部の著者は菊池聡です。 ii) 引用中の「特定の邪悪な敵を作り出して,不可解な事象をすべて帰属させる」ことに関連するかもしれない「本来の自分はこのような否定的事態を享受しなければならない者ではなく,もっと社会的に認められるべきなのに理不尽だと思うような自己愛の強いパーソナリティは,その原因を外的な事情に帰属することになりやすい」ことについて、同「11章 陰謀論マインド・コントロール」[ここの (vi) 項を参照]の 5. 陰謀論を信じる背景的な心理 の「・ユーティティ機能」における記述の一部(P254~P255)を次に引用します。

(前略)つまり,社会生活の行き詰まりなどから,個人が方向づけていた人生意義の追求が不安定になり,不安を抱くと,そのような否定的な状態に陥っている自分の現状を説明したいという心理が高まると考えられる。それは、社会心理学的には自発的な原因帰属の推論に従事する傾向の高まりであり,自分の身に生じている否定的結果が意外に思える人ほどその傾向が強くなるとされる(Wong & Weiner, 1981)。すなわち,本来の自分はこのような否定的事態を享受しなければならない者ではなく,もっと社会的に認められるべきなのに理不尽だと思うような自己愛の強いパーソナリティは,その原因を外的な事情に帰属することになりやすい。(中略)

こうして陰謀論ビリーフを受け入れると,陰謀史論の虜になって,インターネットからいろいろな情報を受け取り,陰謀ビリーフ群を発達させる。そして彼らはさらに,それぞれの陰謀論的情報の論拠や情報間の関係によって整理・連結,つまり他者からの視点では支離滅裂に一気に構造化する。(後略)

注:(i) この引用部の著者は西田公昭です。 (ii) 引用中の「Wong & Weiner, 1981」は次の論文です。 「When people ask "why" questions, and the heuristics of attributional search.」 (iii) 引用中の「ビリーフ」の別名であるかもしれない「信念」についてはここを参照して下さい。加えて上記「ビリーフ」の説明について、 a) 同「11章 陰謀論マインド・コントロール」[ここの (vi) 項を参照]の「3. 陰謀論の構造」における記述の一部(P247)を次に引用(『 』内)します。 『陰謀論を構成する要素は陰謀的な含意のビリーフ(belief)である。ビリーフというのは,心理学的には,ある概念と別の概念や事象の関係を示す認知である(西田, 1988)。例えば,概念「世界を闇で支配する組織」が「存在している」という認知であったり,概念「ワクチン」が「危険」という認知であったりして,ヒトは個人的にそれらを集めて整理して記憶として貯蔵している。』(注:1) この引用部の著者は西田公昭です。 2) 引用中の「西田, 1988」は次の資料です。 「西田公昭,1988,ビリーフの形成と変化の規制についての研究 (1) ―認知的矛盾の解決に及ぼす現実性の効果―,実験社会心理学研究,28,65-71.」) b) 「ビリーフは、一般には「知識」「偏見」「信念」「信仰」などと呼び方にいろいろな種類があり、それらの形成や変化がどのような機制で生じるかには差異が見られる」ことについては次の資料を参照して下さい。 「ビリーフの形成と変化の機制についての研究 (3) ―カルト・マインド・コントロールにみるビリーフ・システム変容過程―」の「問題」項 c) 「ビリーフとは、ある対象と他の対象あるいは概念や属性との関係によって形成された認知内容であり、条件づけがビリーフを形成している対象と、他の対象あるいは概念や属性との連結性に価値を与えることになり、ビリーフの強化になる」ことについては次の資料を参照して下さい。 「ビリーフの形成と変化の機制についての研究 (4) ―カルト・マインド・コントロールにみるビリーフ・システムの強化・維持の分析―」の「問題」項

8. 自己学習型マインド・コントロール(中略)

陰謀論には,特定個人をカルト集団に引きずり込もうとする意図がない。不特定多数に向けた情報が主としてインターネットで発信されるだけである。陰謀論にはコントロールの主体となる明確なカルト集団が存在しない。組織性のないネット上のスレッドや SNS のコミュニティが存在するだけである。陰謀論にはメンバーに課せられるノルマがない。陰謀を解き明かすクエストがあるだけである。しかし,陰謀論マインド・コントロールである。なぜ陰謀論マインド・コントロールになるのか。それはクエストに参加し積極的に謎を解こうとする者たちは,結果的に同じ陰謀論ナラティブに支配されてしまうからである。陰謀論ナラティブが世界を理解する枠組みになり,その枠組みを共有しない人とのコミュニケーションが破綻していくからである。これを自己学習型マインド・コントロール命名する。(後略)

注:i) この引用部の著者は山岡重行です。 ii) 引用中の「陰謀論ナラティブが世界を理解する枠組みになり,その枠組みを共有しない人とのコミュニケーションが破綻していく」こと関連するかもしれない「集団極性化」について、同「9章 ナラティブの拡散と自己学習型マインド・コントロール」[ここの (iv) 2) 項を参照]の「7. 陰謀論の過激化――集団極性化現象」における記述の一部(P234)を次に引用(『 』内)します。 『エコーチェンバーにしてもフィルターバブルにしても,同方向の意見や態度を持つばかりの集団で議論すると,各人の持つ態度よりも極端な結論が出ることがある。集団極性化現象である。集団極性化により,陰謀論はどんどん過激で荒唐無稽なものになっていくのである。』(注:a) この引用部の著者は山岡重行です。 b) 引用中の「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」については共に拙エントリのここを参照して下さい。)

5) 偏った証拠の評価:平等に証拠に向き合わない
ネット陰謀論者は,些細で異常な情報を多く拾い集めて論を構築するという。そこには難解な知識や暗号解読のような思考に執着して重視する一方,一般的に認知されている否定的情報にはあまり注意を払わない。マインド・コントロールされた人々の場合も,教祖などの権威者の指示によって重視するべき情報が決められ,無視するべきとされた情報に対して独自な注目は罪であるとされており,厳しく罰せられることさえある。いずれにしても,ビリーフに合致する情報ばかり受け入れる強い「確証バイアス」や,特別に目立つように大きな事例に注目して、目立つ事例はそれなりに重大な秘密の理由があると解釈する「比例バイアス」が働いていると指摘されており,Festinger(1957)の認知的不協和理論が指摘するように,陰謀論者は情報を選択的に接触したり回避しているのだ。

注:i) この引用部の著者は西田公昭です。 ii) 引用中の「Festinger(1957)」は次の本です。 「Festinger, L. (1957). A theory of cognitive dissonance. Stanford University Press.」 加えて、引用中の「認知的不協和理論」については他の拙エントリのここここ、そして次の資料を参照すると良いかもしれません。 「フェスティンガーの認知的不協和理論に関する一考察」 iii) 引用中の「確証バイアス」については「人は見たいように見る」ことを含めて他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、同「8. 自己学習型マインド・コントロール」[ここの (v) 項を参照]における記述の一部(P238)を次に引用(『 』内)します。 『人の情報処理において様々なバイアスが働くことが知られているが,その中の一つに確証バイアスがある。人は自分の持つ信念,偏見,先入観などの情報と整合する情報を積極的に認識し,整合しない情報は認識されなかったり,認識されても例外視されてしまう。人は自分が見たい情報や知りたい情報を優先的に認識するのである。』(注:この引用部の著者は山岡重行です)

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(H)VTuber「もりのこどく」さんについて、その他
標記「もりのこどく」さんについて、松崎朝樹著の本、「教養としての精神医学」(2023年発行)の 第2章 精神医学から見た「〇〇な人たち」 の「Column 語り始めた当事者たち」や「ピアとしての存在」における記述(P246~P247)を次に引用します。

Column 語り始めた当事者たち

精神障害を持つ当事者として自らの経験を語っているVTuberの1人に、有名な「もりのこどく」さんがいる。
彼女は、統合失調症という困難な病気にかかりつつも、自分の病気について勉強し、きちんと治療し、その経過を広く公表している。もちろん、快調なときばかりではないだろう。不調の波に襲われることはあっても、そうしたことも含めて伝えてくれるからこそ、見ている人たちは真の理解を得られるのだ。彼女の声は、語りかけるように優しく、またポップでかわいらしくて、統合失調症の患者は「避けるべき対象」ではないことを充分にわからせてくれる。併せて、統合失調症などの精神障害者に対し、世の中がどんな援助をしていけばいいのかについて理解するためのヒントも与えてくれている。

ピアとしての存在

彼女の行動は、本人が意識しているかどうかにかかわらず、統合失調症の当事者たちの代表として、一般人の認識を良い方向に変える役割を担っている。と同時に、「ピア」としての存在意義も持っている。ピア(peer)は同僚、仲間、対等者などという意味を持つ言葉だが、ここでは「同士」とでも言ったほうがいいだろうか。
精神疾患の治療の現場では、基本的に主治医が病状の説明や指導を行っているが、看護師、薬剤師、精神保健福祉士などが専門的立場からアドバイスをすることで、より患者の理解は深まる。
同じように、「当事者」が体験やノウハウを語ることによって、理解が深まることはもちろん、治療への抵抗感が軽減されるという利点がある。
さらには、彼女の活動は、統合失調症を抱えながらより良く生きるという面において、自らにも影響している。
多くの視聴者に今の自分の状態を見せ、今後について公言することは、逃げることなく治療を続けるモチベーションとなっているはずだ。また、人に説明することで、自分の病気への理解はさらに深まる。
こうして彼女の活動は、一般人のためにも、同病者のためにも、自分のためにも、想像以上に大きな意味を持っているのだ。

注:i) 引用中の(VTuberの)「もりのこどく」さんについては次の YouTube やWEBページを参照して下さい。 「統合失調症Vtuberもりのこどくちゃんねる」、『「動画を見ているときだけは「死ね」という声が聞こえなかった」統合失調症VTuberもりのこどくを救ったVTuber活動』 ii) 「メタバースを用いた統合失調症の当事者会「もりのへや」。この運営委員会って私(注:上記松崎朝樹氏)も関わってます。」とのツイートがあります。加えて、上記「もりのへや」では「精神科医公認心理師など医療福祉関係者の支持・協力を得て、統合失調症当事者がどこからでも安心して参加し、同じ時間を過ごせる居場所を提供している」ことについては次のWEBページを参照して下さい。 『【医療の部】統合失調症患者の「居場所」を作った当事者 Vtuber もりのこどくさん』の『活動名:統合失調症の情報発信及びメタバースにおける当事者の居場所「もりのへや」主宰』項 ちなみに、ツイートもあります。

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(I)自律神経は「天気の変化」が苦手なことについて、その他
標記について、佐藤純著の本、『「天気が悪いと調子が悪い」を自分で治す本』(2022年発行)の 第4章 自律神経と天気はどのように関係しているのか? の『自律神経は「天気の変化」が苦手です』、「自律神経が乱れると、内耳センサーが興奮しやすくなります」及び「ストレスと不規則な生活は自律神経の大敵です」(P124~P135)における記述又は記述の一部を以下に引用します。加えて、WEBページ『佐藤純の「病は天気から」』、『天気が原因で体調を崩す「気象病」の深刻、潜在患者は国内1000万人以上!?』、資料「気象関連痛(天気痛)の疫学,臨床的特徴と発症予測情報サービス」や研究成果報告書「気象病発症メカニズムにおける気圧感受機構の解明-動物実験と臨床試験の連携研究-」がある一方で、YouTube気象病・天気痛ってホント!?【専門医解説】」もあります。

自律神経は「天気の変化」が苦手です

人間や動物は晴れの日に交感神経が優位になり、雨や曇りの日には副交感神経が優位になるという特徴があります。
晴耕雨読」といった四字熟語もあるように、晴れた日には外に出て田畑を耕し、雨の日には家の中にこもって読書をする。言葉そのものは〝悠々自適な生活を送る〟という意味になりますが、昔から天気によってオンとオフを切り替えることで、心と体のバランスを整えていたことがわかるのではないでしょうか。
一方、現代社会では雨や曇りの日でも学校や仕事に行かなければならず、よほどの悪天候でもない限りは「今日は天気が悪いから休みにしましょう」といった連絡はきませんよね。
交感神経が休みたい状況にもかかわらず、無理矢理にでも働かせざるを得ないのですから、それは自律神経にとっても相当な負担がかかります。その反動として脳が疲労し、天気が悪いというだけでもダルさを感じてしまうことも少なくありません。

「気圧」や「気温」の変化が自律神経による痛みを増幅させる

交感神経にはストレスを受けたときに興奮し、活発に動き出すしくみがあります。そこで、天気の変化が血圧や心拍数にどのように作用するのかを測定する実験を行うことにしました。
健康なラットに血圧と心拍数を測定できるセンサーをつけ、徐々に気圧を下げていくと、血圧・心拍数ともに上昇しました。つまり、気圧の低下によって交感神経にストレス反応が起きていたことがわかります。同じように今度は気温だけを下げていくと、気圧のときよりもゆるやかですが、やはり血圧・心拍数が上昇しました。
これによって「気圧」や「気温」といった天気の変化が、自律神経のストレス反応に作用することが証明されたことになります。
「気圧」「気温」と自律神経の乱れがどのような負の相乗効果を生むかについて、もうひとつ例を挙げましょう。
たとえば、片頭痛の原因が気圧によるところの大きい人は、気温が下がると症状がやわらぎます。季節でいえば、冬になると元気になる人が多くなります。片頭痛は脳の血管が急激に拡張することによって起こるため、気温が下がることで血管が収縮すると症状が軽くなるのです。
しかし、気圧だけでなく自律神経の乱れも影響している人は、気温の変化も苦手としますので、気温が低くなったとしても症状が軽くなることはありませんし、逆に気温が高くなっても症状が出ることもあります。というのは、気温が上がることで血管が拡張するからです。
このように、もともと自律神経が乱れてしまっている人に天候の影響が重なると、慢性病が増幅してしまうというわけなのです。

自律神経が乱れると、内耳センサーが興奮しやすくなります

第2章で述べたように、気圧の影響を受けやすいのは、内耳が敏感に働く人です。そして、その内耳と自律神経の関係について整理すると、現時点における私の仮説になりますが、次の通りになります。

内耳に存在する、体のバランスをとる機能を持った外リンパ液と内リンパ液を隔てる膜に、気圧の受容チャンネルのようなものがある。
→その受容チャンネルが、気圧の変化を感じると、平衡感覚をつかさどる前庭神経が興奮し、その情報が脳へと伝わる。
→交感神経と副交感神経からなる自律神経系を混乱させて、体に不調をきたす。
→交感神経が活性化する人の場合は、心拍数が上がり血圧が上昇して慢性痛などの病みが増幅する。
→一方、副交感神経が活性化する人の場合は、強い眠気に襲われたり、体がダルくなって動けなくなったりする。

これは、自律神経が乱れていなくても、内耳のセンサーが敏感な人には起きると考えられる現象です。しかし、自律神経のバランスが崩れている人は、さらに状況が悪化する可能性があります。
なぜなら、自律神経が乱れることで血行不良が引き起こされ、ただでさえ敏感な内耳のセンサーがより高感度になるからです。わずかな気圧の変動に反応するだけでなく、前項で述べたように、気温にまで反応する体質になってしまいます。
気圧にも、気温にも影響を受けやすい人は、内耳が敏感なだけでなく、自律神経のバランスも崩れていると考えられます。

ラットを使った実験で明らかになった気圧と内耳の関係性

気圧を感じるセンサーが耳にあることを明らかにしてくれたのが、私の研究を手伝ってくれていた学生さんたちとの実験でした。
手術によって坐骨神経痛を発症させたラットを気圧の操作できる空間に入れ、気圧変化で痛みの度合いが違うのかを観察したところ、ラットが痛みによって足を上げる回数は気圧が下がるにつれて増えていました。
この実験を発展させるかたちで内耳を麻痺させたラットにも同様の観察を行いました。すると、気圧変化による足上げ回数の増減はなかったのです。つまり、内耳が機能していなければ気圧の変化を察知できず、痛みの強弱にも影響しないということがわかりました。
よくプールや海で泳いだあとに耳がボワッと詰まることがありますよね。あれは実際に水が耳に入っている場合もあれば、そうでない場合もあり、気圧変化によって引き起こされる症状のひとつだったりもします。
ほかにも飛行機や高層ビルのエレベーターに乗った際などに、急上昇や急降下によって耳が似たような感覚になった経験があるのではないでしょうか。気圧と耳は、私たちの経験則からも深く関連していることを想像できると思います。

ストレスと不規則な生活は自律神経の大敵です

気象病に深く関連する自律神経は、自分自身の意志とは関係なく、24時間365日、いつなんどきでも欠かすことなく体の調整を続けてくれています。その働きを妨げるものが〝ストレス〟です。
ストレスといっても精神的な苦痛だけを指すわけではなく、ストレスの原因となる変化は「ストレッサー」と呼ばれ、いくつかの種類に分類されます。

【環境的な要因】気温や気圧の変化、乾燥や湿潤
【肉体的な要因】疲労、ケガ、持病
【社会的な要因】仕事や勉強のプレッシャー、多忙
【精神的な要因】人付き合い、近親者のトラブルや不幸

私たちは生活していくうえでさまざまなストレスと向き合い、上手に付き合っていかなければなりません。

寝る前に見るスマホの画面が自律神経を乱れさせる悪循環に

ストレスをうまくコントロールできるかどうかは、ストレスの程度や種類はもちろん、個人の性格や体のコンディションなどによっても大きく変わります。
痛みとなって現れるだけでなく、どこか体がダルかったり、どうもやる気が出なかったり、なにかしら体の違和感を覚えるときにはストレッサーに対する許容範囲自体が狭くなっているのかもしれません。
そういった体の変化は自律神経からの警告ともいえるでしょう。
その警告を放置していると「自律神経失調症」という病気へと進行してしまいます。頭痛、肩こり、首こり、手足のしびれ、めまい、動悸、不整脈、倦怠感、不眠症などなど、その症状が多岐にわたることも特徴です。
ほかにも「神経性胃炎」「メニエール病」「過敏性腸症候群」「過呼吸症候群」「パニック障害」「不安障害」など、自律神経の乱れによって発症する病気は少なくありません。

自律神経を乱れさせる大きな問題のひとつにスマートフォンが挙げられます。(後略)

注:i) 引用中の「第2章」における引用は省略します。 ii) 引用中の「自律神経失調症」については次の資料を参照すれば良いかもしれません。 「自律神経失調症」 iii) 引用中の「気象病」について、上記WEBページの『“天気痛”ドクターが解説! 「天気が悪いと調子が悪い」は気のせいではない』項における連続する記述の一部を次に二分割して引用(それぞれ『 』内)します。 『天気が悪くなると古傷が痛む、雨が降る前や台風が近づくと、頭痛が起きたり気分が落ち込んだりする……など、天気の変化で体調が悪くなることはありませんか。もしかしたら、その不調は「気象病」かもしれません。』、『天気の変化に伴う不調には、頭痛、めまい、首・肩こり、腰痛、関節痛、むくみ、耳鳴り、だるさ、気分の落ち込みなど実にさまざまなものがあり、それらの病態を総称して「気象病」と呼んでいます。』 加えて、上記「気象病」に関連する「もし体調を崩す原因が気象病だと気づかないまま、適切な処置を行わずにいたらどうなるのか」について、同の 第5章 天気に左右されない心と体をつくりましょう の「悪循環が心の病を生むことも 気象病であることへの気づきが大切」における記述の一部(P218)を次に引用します。

もし体調を崩す原因が気象病だと気づかないまま、適切な処置を行わずにいたらどうなるのでしょうか。
頭痛のような慢性的な痛みは一向に治らず、ストレスが溜まることで交感神経と副交感神経のバランスが悪くなり、自律神経が乱れると血行不良によって内耳の感受性が高くなる。そうすると、また「頭痛が起きやすくなる」という振り出しに戻ってしまうため、延々と〝負のスパイラル〟から抜け出せなくなってしまいます。(後略)

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(J)「DSM を捨てることはできません。が,同時に,臨床を真に理解できる精神医学をも学ぶことが求められている」ことについて、その他
標記について、「これからの精神保健・医療・福祉の従事者には,DSM精神病理学という 2 つの異なる言語をしっかりと身につけ,時と場合に応じて使い分ける力が必要だと思われる」ことを含めて、日本精神病理学会 書籍刊行委員会[清水光恵、芝伸太郎、熊﨑努、松本卓也]編の本、「精神症状の診かた・聴きかた はじめてまなぶ精神病理学](2021年発行)の「おわりに」における記述の一部(P269~P272)を以下に引用します。ちなみに、「精神科用語シソーラス」については次のWEBページを参照して下さい。 「精神科用語シソーラス

この本は,現代社会で見られる多様な精神症状をもっと深く理解したいと願う,すべての方々のために企画しました。「すべての方々」に向けて,しかも「深い理解」を,というのはなかなか大胆な目標です。それを可能にするのが,他ならぬ精神病理学であると私たちは考えています。とはいえ,多くの方々は,「精神病理学って何?」と思われるでしょうし,精神病理学を少しご存じの方は,「精神病理学って小難しい理屈をこねるばかりじゃないの?」とおっしゃるでしょう。本書をご覧くださった読者には,精神病理学は精神症状を,精神障害を,そして患者さんを理解するためにどのように役立つか,わかっていただけたことと思います。でも読者の中には,本を「あとがき」から読み始める習慣の方々もいらっしゃるかもしれません。ここでは私たち編者がなぜこの本を皆さまにお届けしたかったかを改めてご説明します。
現代日本の精神保健・医療・福祉の教科書の多くは,アメリカ精神医学会が作成した診断基準 DSM に準拠しています。生物学的研究や国際比較などの疫学研究をする場合,DSM なしでやり過ごすのは困難です。DSM と兄弟のような関係の ICD は,厚生労働省が採用しましたので,行政手続きなどをする上で不可欠です。こうした「操作的」と言われる診断基準は日本の精神保健・医療・福祉に浸透し,その形式も内容も今では当たり前のようになっています。
しかしがら,例えば DSM統合失調症の診断基準を見てみましょう。まず症状の数と持続期間の基準が示されてから,「妄想,幻覚,まとまりのない発語(例:頻繁な脱線または滅裂),ひどくまとまりのない,または緊張病性の行動……」などとあります。しかし,臨床や支援の場で私たちが目にし耳にしているこの状態は本当に,いわゆる「妄想」なのか,いわゆる「幻覚」なのか,また,何をもって「まとまりのない」発語や行動と判断するべきなのかという判断は,じつはたいへん難しいはずです。そこにはいろいろな知識と経験が慎重に適用され鑑別されるべきなのです。例えば,これは「幻聴」じゃなくて記憶のフラッシュバックではないか,これは「妄想」ではなくこの人の日常的に歪んだ認知の一端ではないか,この「まとまりのなさ」は,統合失調症ではなくて若年性認知症ではないか……などなど。妄想や幻覚だけではありません。うつ症状にしても,「うつ」という状態像までは初心者の方でも一定の診立てができるかもしれません。そこでさらに操作的に「うつ病」と診断できたとしましょう。しかし実際には,さまざまな病態の「うつ」があります。躁うつ病うつ病統合失調症の初期のうつ状態発達障害に伴ううつ病認知症に伴ううつ病,あるいはうつ病に見える認知症……これらすべてをひとくくりに「うつ病」と見做して治療や対応まで一律にしてしまうと,病状を増悪させてしまうことにさえなりかねません。DSM は,研究と改訂を今後も重ねることを前提に,あえてそうした“症状の背後にあるもの”への手探りをせず,判断を宙づりにしています。しかし臨床や支援の場で,背後にあるものを考えずに症状や疾患やさらには患者を理解することはできません。じつは,DSM-Ⅲが発表された1980年代から,日本では,「DSM だけやっていれば精神科の臨床ができるというふうに錯覚される」のは問題であると警鐘が鳴らされていました。
それではどうすればよいのでしょう。DSM を捨てることはできません。が,同時に,臨床を真に理解できる精神医学をも学ぶことが求められています。これも1980年代に,DSM が後年普及することが予期されながら指摘されたことですが,症候学つまり症状学は,できるだけきめ細かにすることで病気や患者のありかたをも照らし出すような人間学に昇華できるのであり,それが精神病理学の一番大事な仕事なのです。さまざまな症状の「質」を見分ける力を身につけることが大切なのです。私の考えでは,精神病理学とは臨床に基づいて病気や患者のありかたをことばで描き出す学問であり,臨床の本当のエッセンスを示すことのできる学問です。そこで日本精神病理学会を中心に,それぞれの精神科医が得意とする分野について,「この症状をどう診るか,症状の背景に何があるのか」という,つまり症状の「質」の違いを論じ,臨床で役立つようできるだけ丁寧に説明した精神病理学の本を作ることにしました。

この本は,精神保健・医療・福祉の専門家と養成課程の学生に向けて執筆されました。しかし,患者・当事者や家族,教育関係者など,専門家ではないけれど精神病理学の知識を必要としている方々にも利用していただけるよう,できるだけ噛み砕いたわかりやすい記述を心掛けました。一方で,ベテランの方々の知識のブラッシュアップにも役立ちたいと欲張っています。最も念頭に置いた読者層は,看護師,保健師精神保健福祉士作業療法士臨床心理士公認心理師などのコメディカル全般と,その養成課程の学生の方々です。
なぜ,コメディカルの方々なのでしょう。21世紀に入った頃から,日本の精神保健・医療・福祉の現場は大きく変化しました。20世紀後半までは,統合失調症躁うつ病うつ病が臨床の中心でした。しかし,21世紀に入って,発達障害,パーソナリティ障害,依存症などの障害も非常に多いことが知られるようになりました。そうした新しく知られるようになった障害は,まだ正確な概念が普及しているわけではありませんし,また治療的にも従来の医療だけでは改善や完治が難しいことが多いのですが,新しい治療や支援の仕組みはまだ十分には整備されていません。その結果,患者や家族の方々は,地域の中で適応に苦慮し生きづらさを抱え続けることがしばしばとなってしまっています。精神科の往診医は多くないという現状でそうした方々に直接向き合っているのは,訪問看護師や,保健所の保健師や,地域の福祉関係者(例えば相談支援事業所の職員,民生委員,自助グループの関係者,自殺予防のゲートキーパー)など,医師以外のコメディカル等の職種です。入院したりデイケアに通っている患者においては,医師による薬物療法だけではなく,作業療法士とのプログラムがその後の生活の回復にとって重要です。また,小学校から大学までカウンセラーが配置されつつある現在,心理職が医師のいない現場で患者と向き合い判断をする機会はますます増えています。(後略)

注:(i) この引用部の著者は清水光恵です。 (ii) 引用中の「精神病理学」の特徴は「いろいろな視点を提供するところにある」ことについて、高橋幸男、上田諭、水野裕、大塚智丈、齊藤正彦著の本、「認知症の人のこころを読み解く ケアに生かす精神病理」(2023年発行)の「あとがき」における記述の一部(P168)を次に引用(【 】内)します。 【先述した『分裂病の精神病理』の最終巻で土居健郎先生は「精神病理学的研究には……その特徴は、まさしくいろいろな視点を提供するところにある……とどのつまり……コミュニケーションの障害のある人たちと何とかして話をつけようとすることに最終の狙いがある」と述べておられる。】(注:a) この引用部の著者は高橋幸男です。 b) 引用中の「『分裂病の精神病理』の最終巻」は次の本のようです。 「土居健郎編『分裂病の精神病理16』東京大学出版会、1987年」) (iii) 引用中の「DSM」については次のWEBページを参照して下さい。 「精神疾患の診断・統計マニュアル (DSM) - 脳科学辞典」 加えて、「DSM-5」としての引用中の「DSM統合失調症の診断基準」については次のWEBページを参照して下さい。 「統合失調症とは」の「DSM-5における統合失調症の診断基準」項 その上に、「DSM統合失調症の診断基準」に関連するかもしれない「確かに現代の精神医学では操作的診断基準が汎用されていますが、決して操作的診断基準がその病気の本質を記述していると考えられているわけではありません」については次のWEBページを参照して下さい。 「【4231】統合失調症の不完全型のようなものはあるのでしょうか - Dr 林のこころと脳の相談室」の「林: 現代の精神医学では統合失調症のものとして定義された症状をリスト化しそれを診断基準にしているようですが、」項(このサイトのホームページ) ちなみに、『ICD-11「精神,行動,神経発達の疾患」分類』については次のWEBページを参照して下さい。 『連載 ICD-11「精神,行動,神経発達の疾患」分類と病名の解説シリーズ』 また、(症状に基づいた従来の診断法にとらわれない精神疾患の生物学的な分類のことである)「バイオタイプ」については次の資料を参照して下さい。 「3. 統合失調症のバイオタイプ研究」の「1. バイオタイプとは」項 (iv) 引用中の『さまざまな病態の「うつ」があります』ことの一例として、林(高木)朗子、加藤忠史編の本、『「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか』(2023年発行)の「おわりに」における記述の一部(P266~P267)を次に引用(《 》内)します。 《「うつ病」という病名も、本当は「抑うつ症」に変えるべきだ、という議論が行われています。現在うつ病とされている患者さんの中にも、職場のストレスでうつ病を発症した方もいれば、認知症の前駆症状としてうつ病になっている方、双極性障害の最初の症状として抑うつ状態が現れた方など、さまざまな場合があります。》(注:1) この引用部の著者は加藤忠史です。 2) 引用中の「双極性障害」と「うつ病」は別の疾患であることについては次のWEBページを参照して下さい。 『じつは「うつ病」とは全く違う病気だった「双極性障害(躁うつ病)」…ついに見えてきたその「驚きの原因」』の『「うつ病」と「双極性障害」は全く別の病気』項 加えて次のWEBページもあります。 「双極性障害治療の最適化 ~入院で診断見直す―順天堂大(加藤忠史主任教授)~」 3) ちなみに、引用中の「抑うつ状態」に関連する「抑うつ症状・不安・妄想・幻聴などの精神症状を呈する精神疾患は、診察室での病歴聴取により主観的に診断されている」ことについて、pdfファイル「MULTISCALE BRAIN マルチスケール精神病態の構成的理解 NEWSLETTER Vol.05」中の文書『次世代脳・冬のシンポジウム2021 「基礎神経科学と臨床精神が融合したブレークスルー研究の育て方」』[P7~P12]の「背景」項[P8]における記述の一部を以下に引用[『 』内]します。また、上記「マルチスケール精神病態の構成的理解」の領域概要についてはWEBページ「領域概要 - マルチスケール精神病態の構成的理解」を、研究成果についてはWEBページ「研究成果 - マルチスケール精神病態の構成的理解」を、公募研究についてはWEBページ「公募研究 - マルチスケール精神病態の構成的理解」の「公募研究(2期:令和3年度~4年度)」項や「公募研究(1期:平成31~32年度」項を それぞれ参照して下さい。その上に、『医学の進歩した現代において謎のまま残されている疾患はもはや多くはなく、未解明の疾患の代表が精神疾患である。抑うつ症状・不安・妄想・幻聴などの精神症状を呈する精神疾患は、診察室での病歴聴取により主観的に診断されている。さらに治療に関して言えば、ほとんどの精神疾患に対して偶然に有効性が発見された向精神薬による治療が行われているに過ぎず、病態機序に立脚して設計された薬物療法とは言い難いのが現状である。精神疾患の原因解明がこれほどまでに困難な理由は幾つかあり、なかでも倫理的な制約から患者脳組織を生検などで直接検証することが非常に難しいことが最大の障壁だろう。したがって病態生理や治療標的の中核と思われる分子・シナプス・細胞・回路レベルの病態解明は基礎神経科学者に委ねられる一方で、臨床精神科医は臨床業務の激務の合間に患者脳画像解析やゲノム研究を遂行するのが精一杯という教室が多い。』[注:a) 引用中の「抑うつ症状・不安・妄想・幻聴などの精神症状を呈する精神疾患は、診察室での病歴聴取により主観的に診断されている」ことに関連する「精神科の臨床現場において、鑑別診断が困難であることが時にあります。これは、患者・当事者本人の主観的な訴えとしての症状や徴候に基づく診断基準を利用していることと関連しています。」については次の資料を参照して下さい。 「脳体積による精神疾患の新たな分類を提案 認知・社会機能と関連、精神疾患の新規診断法開発への発展に期待」の「研究の背景」項 b) 引用中の「未解明の疾患の代表が精神疾患である」ことに関連するかもしれない「内科学の未来」としての「癌治療は進歩したが,心不全不整脈,大動脈解離,肺高血圧症などの循環器疾患,慢性腎臓病や腎不全などの腎疾患,慢性閉塞性肺疾患間質性肺炎などの呼吸器疾患,膠原病神経変性疾患精神疾患など多くの疾患の発生機序は未解明であり,疾患を完治させることができていない」ことについて、矢﨑義雄、小室一成総編集の本、「内科学 第12版 Ⅰ」〔2022年発行、ちなみにこの一連の本は本文だけでⅠ~Ⅴの5巻もあります。ここを参照して下さい。〕の 2 環境要因と疾患・中毒 の 1 内科学総論 の 1-1 内科学総論 の「1-1-4 内科学の未来」における記述の一部〔P Ⅰ-3~P Ⅰ-5〕を以下に引用します。]) (v) 引用中の「これからの精神保健・医療・福祉の従事者には,DSM精神病理学という 2 つの異なる言語をしっかりと身につけ,時と場合に応じて使い分ける力が必要だと思われます。」にひょっとして関連するかもしれない(「ADHDDSMに従って主に臨床症状に基づいてカテゴリカルに診断されており、病態に多様性があるADHDがまとめて一つの疾患として扱われてきた」ことと対比されるかもしれない)「ADHDの多様性への理解と個々の特徴に合った精度の高い診療、教育・介入方法の開発」については他の拙エントリのここを参照して下さい。加えて、上記「精神病理学」に関連するかもしれない「症候学」についての、 a)「特異的な曝露関連メカニズムの概念に不賛成な様々な EI(環境不耐症)において非常に広範な症候学を、今回の結果は示唆する」との拙訳については他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 「症候学が分からないといい支援ができないってずっと言われて育てられた」との記述を有するツイートがあります。 (vi) ちなみに、 1) 「PTSDの特異性」項を有する note「トラウマ対応へ心理職のニーズは広がるか?:PTSD概念の拡張と心理職の役割」があります。 2) 「ふとした時の一言に『ん?』と思って拾える力は臨床の力なんだと思う」との記述を有するツイートがあります。

1-1-4 内科学の未来

癌治療は進歩したが,心不全不整脈,大動脈解離,肺高血圧症などの循環器疾患,慢性腎臓病や腎不全などの腎疾患,慢性閉塞性肺疾患間質性肺炎などの呼吸器疾患,膠原病神経変性疾患精神疾患など多くの疾患の発生機序は未解明であり,疾患を完治させることができていない.疾患を克服するにはまずは病態の解明が重要であり,そのためには近年急速な進展をみせているデータ駆動型サイエンスに大きな期待が寄せられている。(中略)

この節の冒頭で,多くの疾患の病態は未解明なため分子標的治療ができていないと述べたが,上述したようにデータ駆動型サイエンスをはじめとして,患者のビッグデータを集積し解析する技術には著しいものがあり,いままで不可能であった疾患の病因・病態の解明も夢ではない時代が到来している.わが国においては特に内科医が疾患研究の担い手として重要な役割を担っている.ほかの領域の臨床医,基礎医学や他領域の研究者,製薬会社や医療機器会社の研究者など,多くの異なる領域の人と連携することによって,病因・病態を解明したうえでバイオマーカーや薬剤シリーズの探索などを行い,新しい診断法や診断機器の開発,創薬,治療機器開発などにつなげることが期待される.日々多くの患者を診療するなかで,治すことのできない患者を経験しているからこそ,それを克服するために新しい医療を創造していくことも内科医に課せられた重要な使命である.

注:i) この引用部の著者は小室一成です。 ii) 引用中の「データ駆動型サイエンス」については次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「センター紹介 - データ駆動型サイエンス創造センター」 iii) 引用中の「内科学」について、上記「1-1 内科学総論」の「1-1-1 内科学および内科医とは」における記述の一部(P Ⅰ-2)を次に引用(『 』内)します。 『内科学は,放射線医学や外科学などのすべての医学・医療分野と密接に連携して,最適な診断および治療を行う実践的な臨床医学である.また内科学は,患者の観察から得た clinical question から出発し,疾患について病理学や分子細胞生物学,分子遺伝学,情報科学など多くの学問を動員してその病態生理を明らかにし,さらに物理学や化学といった自然科学の知見を医学に応用することによって,新しい医療・医学を開拓する基礎的・創造的な臨床医学でもある.』(注:この引用部の著者は小室一成です) iv) 引用中の(内科医は)「ほかの領域の臨床医,基礎医学や他領域の研究者,製薬会社や医療機器会社の研究者など,多くの異なる領域の人と連携することによって,病因・病態を解明したうえでバイオマーカーや薬剤シリーズの探索などを行い,新しい診断法や診断機器の開発,創薬,治療機器開発などにつなげることが期待される」ことに関連するかもしれない、(「膨大な脳・神経・筋疾患を扱う診療科」に対するかもしれない)「関連する他の診療科との連携・協力は極めて重要である」ことについては次の資料を参照して下さい。 「脳神経疾患克服に向けた研究推進の提言 2022」の「(1)脳神経疾患とは」項(P9)

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(K)「精神疾患心因性疾患・機能性疾患というのは、症状からダイレクトに即断的に診断するものではなく、器質的・身体的な疾患な可能性を十分検討したり、場合によっては治療をしたりした上で、それらを通して最終的に診断するものである」ことの一例かもしれない事例のご紹介、その他
最初に標記「最終的に診断するもの」について、國松淳和著の本、「ブラック・ジャックの解釈学 内科医の視点」(2020年発行)の 9. 外科手術だけではない の エピローグ/解説 の「精神疾患心因性疾患・機能性疾患にも精通していたブラック・ジャック」における記述の一部(P210)を次に引用(『 』内)します。 『私自身内科医として日頃から考えていることでもあるが、精神疾患心因性疾患・機能性疾患というのは、症状からダイレクトに即断的に診断するものではなく、器質的・身体的な疾患な可能性を十分検討したり、場合によっては治療をしたりした上で、それらを通して最終的に診断するものである。このプロセスは、実際には単なる「消去法」といった単純作業ではなく、器質的・身体的な疾患をかなり質高く診療(診断・治療)する能力がないと難しいのである。』

次に標記「最終的に診断するものである」ことの一例かもしれない事例を次に紹介します。すなわち、國松淳和著の本、「診療日記で綴る あたしの外来診療」(2021年発行)の あたしの診察日記・エピソード1 79歳男性 「増えない体重」 の「九月一六日 初診」の記述、「十月十四日 一回目の再診」(注:項目のみ引用)、「十一月十九日 二回目の再診」(注:項目のみ引用)及び「十二月二十四日 三回目の再診」における記述の一部(P12~P21)を以下に引用します。また、 a) この本の書評については「設定」を含めて次のWEBページを参照すると良いかもしれません。 「診察日記で綴る あたしの外来診療」 b) この本についてのツイート(その1その2)があります。

九月十六日 初診
「おはようございます」とあたしがまず声をかけると、その男は難聴があるのか、少しおどおどしていたように見えた。実際、細かく声かけしても少し反応が乏しかった。
「おはようございます」
もう一度あたしがはっきり言うと、
「あっ、女医さん…」
「そうです、私は女です」
あたしは座るべき椅子を事務的に指し示して座らせた。男は、難聴なのではなく医師の性別に戸惑っていたのだった。
どこでどう男性の医師ですと表示していたかは知らないが、これは高齢の男性にはありがちなリアクションだ。そんなのは無数に過去に経験がある。例えば、まだ研修医のとき。入院患者の担当を任されて病室に行くと、「担当の先生はいつ来るんですか」「私です」のような会話だ。たいいち、「女医」って言葉はなかなかこの世からなくならない。
「今日はどうされましたか? 先ほど紹介状はみせていただきましたが」
「あのですね、この一年、空腹感がないんですよ。食事は食べられるんですけど。体重は減っていますね」
独特な症状の表現だと思った。さまざまな違和感を感じる内容だ。
「食欲がないということですか?」
「うーん…食べているんですが、とにかくお腹が空かないんです」
普通なら、このあとさくさくと必要なこと、例えば「いつからか」とか、「ほかの症状はないか」とかを聞いて、さっさと次へ次へ病歴聴取を進めていく場面だ。今振り返っても、この言い方に正直かなり戸惑ったことをはっきりと覚えている。
この違和感は素人でもわかるのではないだろうか。食べられているけど、お腹が空かない。ああ、じゃあ無理して食べているのか? それともしっかり食べられていないことが不満なのか? いやそうとは言っていない。彼は食べられると言っている。言葉通りであれば、食べるという行為自体には障壁を感じていないようだった。そういう印象だった。主訴は「空腹感の欠如」ということになる。ただ、こんな主訴で診療を進めていくことは通常ない。
「体重はいつから減っているんですか?」
「今年に入ってからです。一年前と比べると10kg減ってます」
臨床で「体重が減った」というのは、非常にありふれた問題だ。実際、これまでの精査では、体重減少を問題点として調べ上げられていたようだった。この男がもってきた膨大な量の診療情報提供者を、あたしはパラパラと眺めながら話を聞いていた。
確かに、すでにかなりの量、範囲の精査がなされていた。体じゅうのCT、実施できる血液検査全部じゃないかというくらいたくさんの項目の血液検査、そして消化管内視鏡もやってある。いずれも異常はない。
しかしこんなにたくさん検査結果は入っているのに、この情報提供書をつくった医者の診立ては全然書かれていない。じゃあこの書類、医者じゃなくても書けるじゃんと思ったよね。しかしよくこんな膨大な資料を正気で封筒に入れられるなとも思った。
「食欲がないのか」とあえてクローズドで質問しても、この男は「はい・いいえ」で答えない。聞いても、聞いても、だんだんよくわからなくなってくるこの感覚が、普通の医者たちには耐えられないんだろうね。きっと「何か変なことを言っている患者だな」とでも思ってるんでしょう。どうりでこの患者、「診断不能」にされちゃうわけよね。
わかんないって、そんなにダメなことかなって思う。この男性についても、全然、診断も治療法もこの日記を書いてる時点だって、あたしさっぱりわからないけど、この人が変なことを言ってるとは思わないな。というか、変なことを言うくらいのほうが人間らしいと思う。理路整然としていることを美徳にする世の中って変。
「食べられるんですよ。でもお腹が空いているという感覚がないんです」

でも、やっぱりよくわからない。よくわからないけど、機能性胃腸障害と考えて六君子湯(胃腸虚弱、食欲不振などに用いられる薬)(3包分3〈一回一包、一日三回〉食前)を一ヶ月分処方して再診してもらうことをお願いした。男はこの提案を割と素直に受け入れた。最後にこう言ってきた。
「お薬出したの、先生が初めてです。ありがとうございました」
えっ。ほかの医者はいったい今まで何をしてきたんだろう。

十月十四日 一回目の再診(中略)

十一月十九日 二回目の再診(中略)

十二月二十四日 三回目の再診

「食べられてはいます。でもやっぱりお腹は空かないですね」
これは、どうしたものか。悩ましい。
要するに、こちらの介入はまだ効を奏していない。明らかに。もうあまり手がないなぁと正直思った。こういう時は関係ない話でもしてみるしかないよな。そう思ってあたしは、
「そういえば、血圧の薬はほかでもらってるんですよね?」
「はい。別の家の近くのクリニックですね。先生そういえば…」
「はい、何でしょう」
この前はこの振りであたしが結婚してるかどうかなんて聞いてきたけど、患者のこういう「ところで」みたいなの、あたしは好きだな。このあと、いい話が聞けることが多い。
「食べていると…食事していると血圧が上がる感じがするんですよ。上がると、これはまずいと思って、横になって休むんです」
「え! ちょっと待ってください。食事中に血圧測るんですか?」
「そうです。何か上がってる感じがして。で、測ると大抵上がってる」
「食後じゃなくて?」
「はい。食事中です」
これには驚いた。食事をしている時は、普通の人は血圧は気にならないし、気になっても食事を中断して血圧測定をしようとはしない。しようと思ったとしても、実際に測定する人はいないでしょう…。この人からいろいろな話をうかがったが、一番珍奇な内容だと思った。つまりあたし的には、この患者について異常に思えたのは、これが初めてだと思った。そう認識した。こういうことが、最初はわからなくても光明になったりするんだよね。
「それでもし、というか、実際に血圧が上がっていたらどうするんですか? 休んでまた食べるんですか?」
「いえ。もう食べません」
「えっ」
患者は、全くふざけていない。笑ってもいない。あたしはわざと、相手の言葉をすぐ返答せずに黙って呑み込んだ。そりゃ体重増えないわ、とすぐに言いたいのをこらえて。そしてこう言った。
「食事中に血圧の変動があるんですね」
あたしはあえて少しだけ俯瞰した目で一般化して、かつ受容的なメッセージを込めたコメントができた。ん~最近では一番良い返しだった気がする。
「何かですね、噛んでると血圧が上がる感じがあるんですよ」
これは…うん、わかった気がする。噛むと血圧が上がるという特異な解釈が、強迫になっているんだ。
これは比較的高齢で発症した、身体症候がメインになった強迫性障害(obsessive compulsive disorder; OCD)なんじゃないかな。高齢者のOCDは、軽症だとOCDだとわかりづらい上に、身体症状がメインにみえてしまったり、行動の奇異さや回避行動がわかりにくい人が多かったりするんだよね。
SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬パニック障害などに使われる薬)をトライしようと思った。判断は早いかもしれないけど。処方は、セルトラリン(SSRIの薬品名の一つ)25mgを一日の二回目の食事のあとに。(後略)

注:i) 同の P234~P235 によると、この引用部を含めて「患者さんたち・診療の情報・医師のやり取りは、全部フィクション」です。 ii) 引用中の「身体症候がメインになった強迫性障害」に関連する「軽度の強迫性障害不定愁訴になる」ことについてはここを参照して下さい。

ちなみに、 (i) 『臨床診断のポイントは「経過まで含めて診断がつく」ということ』については次のエントリを参照して下さい。 「臨床診断と皮膚科医のヤブ医者化について」の「経過まで含めて診断」項 (ii) 上記「質高く診療(診断・治療)する」ことに含まれるかもしれない、 a) 「近年は、発達障害やトラウマについての理解も求められる」ことや「このあたりに適切に対応できるのは、国内でも特A級の精神科医である」ことについて、西城有朋著の本、「精神科医に、ご用心! 心の問題に向き合うヒント」(2022年発行)の 最終章 ダメな精神科医の見極め方 の 名医に出会うためにも「賢い患者になる」ことが大切 の「【その4】精神疾患をわかっていない」における連続した記述の一部(P274)を二分割して次に引用(それぞれ『 』内)します。 『近年は、発達障害やトラウマについての理解も求められる。患者の過去のトラウマ的な体験が、発達性トラウマ障害などを含めて、さまざまな精神的な病理を複雑でわかりづらくしている。そして、当然、治療も後手にまわる。』(注:引用中の「発達性トラウマ障害」の診断基準[ただし、この診断基準は国際的なものではありません]については例えば次の資料を参照して下さい。 「子ども虐待とケア」の「表1 発達性トラウマ障害の診断基準」[P711])、『ただ、このあたりに適切に対応できるのは、国内でも特A級の精神科医である。』 b) 「成人期の発達障害の診療」や「見逃される発達障害」について「すべての精神科来院患者において検討されるべき事項」や「現在存在する精神疾患の問題について,複雑な構造を読み解いていく必要がある」ことを含めて、他の拙エントリのここここを参照して下さい。 c) 上記「さまざまな精神的な病理を複雑でわかりづらくしている」ことに関連するかもしれない「精神科の診断はとても複雑です」について、益田裕介著の本、「精神科医の本音 患者の前で言えない本当のこと」(2022年発行)の 第一章 精神科医の本音とは の なぜ精神科医によって「診断」が変わるのか? の『「抑うつ状態」=「うつ病」ではない』における記述の一部、そして「見分けが難しいケース――発達障害の見逃し」、「診察中しか患者さんを診られないという難しさ」、「患者さんは診断名を気にするより、目の前の問題解決に集中する」における記述(P28~P40)を次に引用します。

抑うつ状態」=「うつ病」ではない
やはり精神疾患については、ガイドラインはあっても「診断を出す難しさ」は間違いなくあります。
たとえば、「うつ」という言葉は一般的に使われていますが、「抑うつ状壁と「うつ病」は違います。
抑うつ状態」というのは落ち込んでいる状態、身体のエネルギーが落ちている状態です。食欲が落ちる、なかなか眠れない、気分が落ち込む、意欲が湧かない、頭がぼんやりするといった症状が出ますが、この状態が即ち、異常というわけではありません。
ストレスで憂鬱になる、疲れすぎて憂鬱になる、何か嫌なことがあったり、誰かとトラブルになったりして落ち込む、ということは誰にでもよくありますし、人間の正常な反応です。程度が軽いものであれば、こうした状態に、ほとんどの人がなったことがあると思います。よくインターネットで「うつ病チェック」と称して、チェック項目が掲載されていたりしますが、これは誤りで、正確には「うつ病」ではなく、「抑うつ状態」のチェックをしているだけです。
しかし、その程度がひどく、働けない、食事ができないなど、日常生活にも支障が出てしまったとき、それは正常の範囲を超えて、病的な範囲になります。
こうした「抑うつ状態」には、甲状腺機能低下症、適応障害燃え尽き症候群バーンアウト)、不安障害、発達障害、境界知能、境界性パーソナリティ障害、トラウマ、PTSD、アルコール依存症……と、あらゆる病気が原因でなることがあります。もちろん、いわゆる「うつ病」でも、「抑うつ状態」になります。
うつ病」というのは、古典的な理解だと「脳の病気が原因で、周期的にうつ状態を繰り返す疾患」を指し、現在では操作的診断の診断項目で、9個中5個の症状があれば、「うつ病」ということになります。
これでは本質を捉えきれていないような感じもしますが、現代の医学レベルでは科学技術がまだ十分に発達しておらず、正確な診断が困難であるため、ひとまずの最善策として、仮置きの診断基準が設けられている、というような理解でよいかと思います。
精神科医としては、臨床的に「こういうものが、『うつ病』」という漠然とした理解や感覚はありますが、「ここまでは『うつ状態』、ここからは『うつ病』」という境界線は、本質的には非常にあいまいなものです。そのため、診断理由を明確に患者さんに説明しようとすると、なかなか難しかったりはします。(中略)

見分けが難しいケース――発達障害の見逃し
よく聞かれる質問としては、発達障害に関するものがあります。これは、そもそも発達障害かどうかを診断しない、治療をしない精神科医が多いことも関係しているのかもしれません。
今でこそ大きな注目を浴びるようになりましたが、発達障害は、かつてはそれほど注意して診察されてこなかった疾患でした。そのため、精神科医の臨床知識が追いついていないことも否定できません。
たとえば、患者さんが診療の際に、テラッと「家が汚くて困っているんです」とこぼしたとしても、発達障害を疑っていなければ、主治医は深掘りをせずに、励ましや優しさの意味で、「大丈夫でしょう」「気のせいだよ」「頑張りなさい」といった言葉をかけてしまうかもしれません。もしそこで、万が一を疑って聞いてみたら、

患者さん「この前、タンスの中からなくしたと思っていた財布が出てきて……」
医師「片付けするのが苦手なの?」
患者さん「そうです。それに忘れ物だったり、物をなくすことが多くて……。恥ずかしいから、誰にも相談できず……」
医師「それって子どものころから?」

といった展開になり、診察の中で発達障害がわかることも多いのです。
つまり、さまざまな疾患を疑いながら患者さんとお話をしないと、発達障害などの障害はわからないこともあります。他にもアルコール依存症ギャンブル依存症などの、依存症系の疾患は本人が隠すことも多いですし、過去の虐待やトラウマ、性的被害やDVのことも、医師から聞かないと本人からはなかなか話せないものでもあります。
なので、本人の困りごとだけを聞くのではなく、幅広い観点から患者さんその人を診ていく態度が重要だと言えます。

診察中しか患者さんを診られないという難しさ
双極性障害躁うつ病)」の場合、躁状態が軽微なのでわからないということもあります。診察の際に、「いつもよりよくしゃべるな?」という程度の印象を受けたとします。「これまでは緊張していたのかな? うつがよくなり、これが本人の素の姿なのだろうか」と医師は考えてしまいがちです。
診察室での短い時間しかお会いしていないので、普段の様子はわからず、日常の中で見かけるおしゃべりな人程度であれば、それぐらいの元気さならと、見逃してしまうことがあります。ところが、その患者さんは普段はものすごく無口な人で、診察のときはその人なりの躁状態だった(世間的には普通の人レベルのおしゃべりであっても)、ということがありえるのです。
そのため医師は患者さんと年単位の付き合いをしないと、その人の細かい変化がわからないということがよくあります。
年単位と聞くと、大げさなように感じるかもしれません。
しかし、躁病相(躁状態が続く期間のこと。1日のうちで変わるというものではなく、通常1週間以上、1~2ヵ月ほど元気な状態が続くことも珍しくない)になるのは年に何回もありませんし、月に1回受診したとしても、年に12回しか会わないわけですから、患者さんの人となりがわかるには、それだけの月日が必要なことも多いのです。
さらに、診療時の患者さんの〝演技〟によって、その見分けはさらに難しくなります。うつを隠す人、躁状態を隠す人、診察室の中では集中力を保てるためポロが出ない人などはたくさんいます。
たとえば、「境界知能」の方は7人に1人の割合で存在すると言われていますが、初対面で医師と話す際、そこまでわからないことが多いものです。馬鹿にされたくない、みっともない姿を見せたくない、というのは普通の心理です。頭が悪いからうつになっている、なんて思われたくないのは当然です。しかし、生きづらさが知的レベルと関係しているというのは臨床上よくあることです。
境界知能や精神発達遅滞については、学歴などを聞くことで初めてわかることも多く、しかし、学歴だけで人の知性は測れるものでもないので、やはり初診の診察だけで見抜くのはとても難しいのです。一緒に長い時間を過ごしていれば、気づける場面も出てくるかもしれませんが、限られた診察時間では難しいところがあります。
すべての症状に共通しますが、やはり「患者さんとは診察でしか出会わない」というところに診断の難しさがあります。

患者さんは診断名を気にするより、目の前の問題解決に集中する
これまで説明してきたように、精神科の診断はとても複雑です。
たしかに精神科治療には学会などが提案するガイドラインがあるのですが、そのガイドライン通りに治療するにも腕が必要です。というのも、

●1つの疾患ではなく、合併症もある(例:パニック障害うつ病の合併)
●診断が途中で変わることも珍しくない(例:うつ病と思っていたら双極性障害だった)
●同じ症状でも、さまざまな病気や原因が考えられる(例:うつ状態
●見分け困難な疾患がある(例:うつ病適応障害
●患者さんが演技をする、困っていても言わない(例:双極性障害、境界知能や依存症)
●こちらが疑わずに確認しない、切り出しにくい(例:発達障害
精神疾患は病気の性質上、年単位の経過を追う必要があるが、そもそも会った回数が少なく、診察時間が短い

などがあるからだ、と説明してきました。
そのため、医師が診断をはっきり言うことができず、患者さんがモヤモヤしていることも珍しくありません。患者さんによってははっきりと言ってくれない医師を信じられず、いろいろな病院を転々としてしまう人もいます。
しかし、これまでの説明で、はっきりとは言えない理由もわかっていただけたかと思います。
では、患者さんはどうするのがよいのでしょうか?
私が勧めるのは、目の前の問題解決に集中するということです。
精神疾患を発症した背景には、ストレスのもとになったさまざまな問題や原因があることが多いのです。その問題1つひとつを解決していくことが重要だと考えます。もちろん、時間の経過や薬物治療の影響で、問題解決しなくても、事態が改善することもあります。むしろ、そちらの方が多いと思います。
しかし、背景になっている問題に向き合うことは、今後、再びストレスに参ったりしないためにも、役立ちます。
さまざまな問題に屈服しないカを、レジリエンスと呼びます。レジリエンスは、楽観性や情緒の安定度、行動力、問題解決能力、自己理解、社交性、他者理解などさまざまな要素で構成される、非認知能力(学力や知能検査では測定できない能力)の1つです。
精神科の診療や治療はこうした能力の育成にも役立ち、またこうした非認知能力を鍛えておくことで、ストレスに強くなり、再発を防ぐことができます。
なので、診断を気にしすぎるよりも、目の前の問題解決に向き合い、精神科医らと対話していく(精神療法を受けていく)ことに集中するのがよいかと思います。

注:i) この引用部の著者である益田裕介氏の YouTube は次を参照して下さい。 「精神科医がこころの病気を解説するCh」 ii) 引用中の『現在では操作的診断の診断項目で、9個中5個の症状があれば、「うつ病」ということになります。』としてうつ病の診断基準(DSM-5)については例えば次の資料を参照して下さい。 「双極性障害(躁うつ病)とつきあうために」の「2.双極性障害の症状を知ろう」項

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(L)「診断がつかなくても」に関連するかもしれない「PTSDという病名の使用における問題がある」ことについて
標記について岩波明著の本、「精神医療の現実」(2023年発行)の「はじめに」における記述の一部(P9~P11)を以下に引用します。なお、標記「診断がつかなくても」に関する文脈として、WEBページ「國松医師の外来を受診希望される患者様へ」における記述を次に引用(『 』内)します。 『長いこと症状に困り、調べられてもよくわからない・診断不明と言われてきた方が多く受診を希望されています。順次拝見していきたいと思いますが、ほとんどの人が、診断ではなく治療を提案することになっています。診断名(病気)がなくても症状は出ます。診断がつかなくても、症状が出ている原因はわかることが多いですから、治療できることが多いです。「治療はいいからとにかく診断名が欲しい」とお考えの方にはあまり力にはなれないと思います。一方、診断名はこだわらないので治療をして欲しいという方は、良い結果になっていることが多いように思います。』

[前略]最近数年にわたり、女性週刊誌を中心に、小室圭氏と眞子さんに関する記事がひんぱんにとりあげられた。その中で、やはりPTSDに関する誤った情報が報道されたことがあった。
眞子さんの場合、診断名とされたのは、「複雑性PTSD」である。実はこの病名は現時点で正式な病名として認められていないが、長く続く虐待や拷問によって従来のPTSDと同様の症状がみられる状態を指す。ここでは、私が「週刊文春」から取材を受けた内容が記事となっているので、その部分を示したい。

……報道によれば、眞子さんは、ご自身や圭さん、それぞれのご家族に対する「誹譜中傷」が続き、そう診断されるほど精神的苦痛を感じていたとのこと。ですが、具体的にどんな症状が出ていたのかは、明らかにされませんでした。
通常、PTSDとは、1つのイベントが原因となります。たとえば、戦争、災害、交通事故、犯罪被害といった死に直結するようなショッキングな出来事。それらをきっかけに、様々な症状が出る病気です。
一方、眞子さんが診断された複雑性PTSDは、死に直結する単回の体験ではないが、トラウマとなる出来事が長期的に何度も繰り返され、同様の症状が出る病気。虐待やDVなどの被害者によくみられます。(中略)
このように PTSDとは本来、とても重い病気です。人前に出ることができず、ひきこもりになったり、うつ病になったりしてしまうケースも珍しくない。私は地下鉄サリン事件の被害者のその後を調査したことがありますが、多くの人が何年にもわたってPTSDの症状に苦しんでいました。
ところが結婚会見の様子を見る限りでは、眞子さんには明確な症状は認められませんでした。少なくとも、あの場に立てるだけの元気はあったわけです。
本人がつらい状況にあったことは理解できます。ですが、バッシング報道が本当にPTSDと呼べるレベルの症状を引き起こしていたのか、疑問は残ります。(中略)
あえて病名を当てはめるなら、眞子さんは「適応障害」ではないのかと思います。それなら、ストレスの原因がなくなれば、回復に向かいます。

実は、本書で明らかにしたいのは、こういった精神医学の病名の誤用そのものではない。この点については、私自身も他の専門家も繰り返し指摘してきたことであり、賢明なジャーナリストたちは、すべてではないかもしれないが、PTSDという病名の使用における問題があることを認識していることであろう。
それにもかかわらず、「何度もバッシングを受ければPTSDになる」というような記事が、どうして繰り返して報道されるのだろうか。[後略]

注:(i) 引用中の「[前略]」と「[後略]」は共に本エントリ作者による挿入ですが、引用中の「(中略)」は引用そのものです。 (ii) DSM-5 における PTSD の(出来事)基準について、WEBページ「PTSD トピックス - 日本トラウマティック・ストレス学会」の「PTSD」項における記述を次に引用します。 『米国精神医学会診断統計マニュアル第5版(DSM-5)の基準によれば、PTSD心的外傷後ストレス障害 Post-Traumatic Stress Disorder)とは、実際にまたは危うく死ぬ、深刻な怪我を負う、性的暴力など、精神的衝撃を受けるトラウマ(心的外傷)体験に晒されたことで生じる、特徴的なストレス症状群のことをさします。』 加えて、ICD-11 における、 a) PTSD の出来事基準について、資料「ICD-11 におけるストレス関連症群と解離症群の診断動向」の「1. 心的外傷後ストレス症(Post-traumatic stress disorder:PTSD)」項における記述を次に引用(【 】内)します。 【PTSD の出来事基準は ICD-10 とほぼ同じであり,著しい脅威または恐怖を与えられるような体験に続発するとされる。】 b) CPTSD(又は引用中の「複雑性PTSD」、複雑性心的外傷後ストレス症)の出来事基準について、同資料の「2. 複雑性心的外傷後ストレス症(Complex post-traumatic stress disorder:CPTSD)」項(P679)における記述を次に引用(《 》内)します。 《CPTSD は虐待などを想定して作られた診断カテゴリーであるが,結局のところ,この診断に特異的な出来事基準を確定することはできず,PTSD と同じ基準が採用された.》 その上に、引用中の「PTSD」において「何がトラウマとなるのか」について、松崎朝樹著の本、「教養としての精神医学」(2023年発行)の 第2章 精神医学から見た「〇〇な人たち」 の「強い過去のストレスを抱えている人たち(ストレス関連障害)」における連続した記述の一部(P92)を二分割して次に引用(それぞれ『 』内)します。 『なかでも深刻な心的外傷後ストレス障害は、PTSD(posttraumatic stress disorder)と呼ばれ、危うく死にかけたり、大怪我を負いそうになったり、性暴力にあったり、あるいはそうした状況を目撃したりしたことがトラウマとなって、長期にわたりさまざまな障害を負うものだ。』、『戦争、身体的暴力やその脅威(虐待含む)、性的暴力やその脅威(虐待含む)、誘拐、人質、捕虜、テロ、拷問、天災、人災、自動車事故などによって引き起こされる。男性では戦闘が、女性では性暴力が、PTSDの発生理由として目立っている。』 一方、上記「出来事基準」にもかかわらず「ポリヴェーガル理論では、トラウマ的な体験に関しては、何があったのかという出来事ではなく、どう感じたのか、という感覚を重視します。クライアントの物語をドキュメンタリー的な側面、つまり、何が起きたのかといった出来事や物事に焦点を当てるのではなく、生き残りをかけ、安全を求める無意識の身体的衝動の物語として理解します。ポリヴェーガル理論は、どう感じたのかということを重視します。」については他の拙エントリのここを参照して下さい。また、上記「ポリヴェーガル理論」については他の拙エントリのここの「最初に」を参照して下さい。加えて、ツイート中の『PTSDの診断がなくとも「トラウマ」というだけでケアされるような社会を目指していく』ことに関連するかもしれない「たとえ、複雑性PTSD/PTSDの診断がつかなくても、トラウマの治療が必要な方は沢山います。」についてはWEBページ「複雑性PTSDとは?」の「まとめと私見」項を参照して下さい。その上に、(複雑性PTSDに対し)「診断名がつかなかったとしても、ときには治療を受けることが必要です。心が重い。苦しい。そう感じるなら、助けを求めてほしい。」についてはWEBページ『「複雑性PTSD」公表・眞子さまの回復に必要なこと―精神科医が語る「診断名がつくか否かではない」(ページ3)』を参照して下さい。 (iii) ただし、 引用中の「適応障害」の診断基準にも問題があると考えます。その例としての「診断基準にストレス因との時間的な因果関係以外に特徴的な症状の記載がない点は,結果的に不均一な臨床像が混在することとなり,診断を混乱させる要因となっている」ことについては次の資料を参照して下さい。 「適応障害の診断と治療」の「Ⅱ.現在の診断基準の特徴と問題点」項(P516) 加えて、上記(適応障害においては)「不均一な臨床像が混在する」ことに関連するかもしれない「ADHDそのものが多様な病態をもつ」ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。ちなみに、 a) 『適応障害は、「原因」からみて診断をしていきます。明確な原因があって、それがストレスになることが診断の前提です。ですから、「原因はよくわからない・・・」という方は、適応障害とは診断できません。』や「適応障害は誤解を招きやすい病気」については、WEBページ「適応障害の症状・診断・治療」の「適応障害をチェックする診断基準」項、「適応障害は誤解を招きやすい病気」項を それぞれ参照して下さい。 b) 「従来のDSM-5や従来のICD-10の診断基準において適応障害は、明確なストレスへの反応によって、主観的苦脳と社会生活上の支障をきたした場合に診断されてきました。特にDSM-5では、ストレスの強さにかかわらず、ストレスによる主観的苦悩か、社会生活上の困難のどちらかがあれば診断できてしまいます。そのため、明確なストレスがあり、他の精神疾患とは診断できないが、本人が苦しんでいるまたは生活上支障があらわれているといった幅広い状態に対して、適応障害は都合よく診断されてきました。」や『ICD-11では、このように曖昧な性格を持つ適応障害を、診断ガイドラインから除外した方が良いという意見もありましたが、世界的にもよく使われる診断名であるという理由からICD-11でも存続しています(Lancet,2013)。その代わり、ストレスへの適応の失敗に加えて、ストレスとその結果に対する「とらわれ」を特徴的な症状として診断に必須とすることで、診断の信頼性を高めました。「とらわれ」の例として、「過度の心配」「ストレスについての絶え間ない反芻」などがあげられ、付加的な特徴として「回避」もあげられています。』については共にWEBページ「適応障害(適応反応症)」の「DSM-5とICD-11における適応障害の診断基準の違い」項を参照して下さい。 c) 『「大人のADHD」患者はうつ状態,不眠を主訴として精神科を受診することが多く,たいてい適応障害と診断される』ことについては他の拙エントリのここを参照して下さい。 d) 「精神科医適応障害という診断書乱発は、今以上に精神医療への信頼を失わせるのではないかと危惧しています」との記述を有するツイートや「適応障害の診断をちゃんとしている人に会ったことがない」との記述を有するツイートがあります。

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(N)「人間の研究」について
標記について長谷川眞理子著の本、「進化的人間学」(2023年発行)の 第1章 人間への興味――越境する進化学 の「人間の研究の様々なあり方」における記述の一部(P1~P2)を次に引用します。

(前略)古来より人間は、自分自身を理解しようとしてきた。始まりは哲学であった。その後、様々な学問が発展し、学問の細分化が進んだ。法学、経済学、社会学倫理学などは、人間と人間の社会について考える学問である。心理学は人間の心理を、民族学文化人類学は、人間の文化の多様性を、教育学は教育を、考古学は先史時代の人間の活動を探究してきた。つまり、人間の様々な側面が、それぞれ異なる学問で考察されてきた。
解剖学、生理学、内分泌学、神経科学、遺伝学、生態学、行動学などの生物学の諸分野は、すべての生物が対象であるが、その中で当然ながら人間についても明らかにしてきた。殊に、最近の遺伝学、分子生物学と脳神経科学、認知科学の発展は目覚ましく、次々と明らかにされる研究結果は、専門の研究者でさえ、なかなか追いつけないほどである。
一方、自然人類学という学問もある。これはまさに人間という生物について研究し、人間の進化を明らかにしようとする学問である。自然人類学は長らく、化石として残された材料を中心に研究されてきた。古人類の化石は、人類進化の直接の材料として相変わらず重要ではあるが、最近は、ゲノム解析が進んだことや、生態学、行動学、神経科学の発展を取り込むことにより、以前よりもずっと包括的に人間の進化を解明できるようになってきた。(後略)

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(O)『重要視されるようになってきた「共有意思決定」(SDM)』について、その他
標記について宮原哲、中山健夫著の本、「治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力 医師との会話・失敗例と成功例をケースごとに解説」(2023年発行)の 第2章 医療者と「対等」な関係を築く の『重要視されるようになってきた「共有意思決定」(SDM)』における記述の一部(P34~P36)を次に引用します。

医は仁術。これは、千年以上も前、平安時代の貴族で医者だった丹波康頼が日本最古の医学書、「医心方」で示した考え方です。医者は病気に苦しむ患者に、自らの利益を考えず、思いやりと慈しみをもって接し、医術を施すべきだと解釈できます。
特別な教育と訓練を受け、豊富な経験をもとに医療技術を提供するのが医師。患者は手術や薬など、治療をすべて医師に任せ、医療を享受する父権主義的(パターナリスティック)医療が少し前まで主流でした。
しかし、病気を治したいと願う患者も医療者とともに考え、努力し、重要な意思決定と治療に積極的に関わるべきだという考え方が登場し、最近ではシェアード・デシジョン・メーキング(SDM=共有意思決定)が重要視されるようにもなってきました。
この背景には、テレビやネットを通して、さまざまな情報源から患者が獲得できる医療に関する知識も増えてきたことが一因として挙げられます。さらに病院やクリニックにとっては「患者=客」という考え方も取り入れ、健康維持や促進の器具、サプリメントなどが商品化されたのにともなって、医療も「商品」と位置づけて、患者を医療の消費者とする、コンシューマリズムの考え方も要因の一つでしょう。
仁術の「仁」は思いやりや慈しみを表しますが、それ以前に「人が二人」とも読めます。医療は、医療者と患者という二人の人間がいて初めて成り立ちます。医療を提供する人と、受ける人の関係は、治療とその結果に大きな影響を与えます。
患者と医療者との関係は時代とともに変化します。病気の種類や治療方法の選択の幅など、さまざまなことが異なるため、「理想の関係とは」という問いに答えを出すことは簡単ではありません。でも、言うまでもなく、双方にとって、医療を提供しやすい、受けやすい関係と環境をともに追い求めることは大切です。
最適な医療を受けるには、信頼関係が必須です。もちろん、そんな関係を築くのは医師の責務でもありますが、同時にパートナーとしての患者の責任でもあります。どうすれば患者が医師と信頼関係を築き、保つことができるのか、病気になる前に考えておきましょう。

注:(i) 引用中の「シェアード・デシジョン・メーキング(SDM=共有意思決定)」については次のWEBページや資料を参照して下さい。 「医療者と患者が一緒に決める方法 - 健康を決める力」、「Shared Decision Making の可能性と課題 ―がん医療における患者・医療者の新たなコミュニケーション―」 加えて、 a) 上記「共有意思決定」の別名である「共同意思決定」については次の資料を参照すると良いかもしれません。 「共同意思決定 Shared Decision Making 治療法決定プロセスに患者・家族を巻き込む」 b) 上記「共有意思決定」の別名である「協働意思決定」については次の資料を参照して下さい。 「*** 患者・市民のための診療ガイドライン *** 患者と医療者の協働意思決定と診療ガイドライン」 ちなみに、『「shared decision making(SDM)」(意思決定の共有)』との記述を有する次のWEBページもあります。 「こころを診る技術 精神科面接と初診時対応の基本」の 書評 の「認知行動療法を実践する全ての臨床家に読んでほしい」項 (ii) 引用中の「どうすれば患者が医師と信頼関係を築き、保つことができるのか、病気になる前に考えておきましょう。」に関連するかもしれない「患者中心的コミュニケーションに必要な患者の能力」については次の資料を参照して下さい。 『患者-医師間コミュニケーション研究に見る「患者中心の医療」という概念の進化』の「2) 患者中心的コミュニケーションに必要な患者の能力」項(P455)

加えて、「対等な関係を築くために患者にできること」について「患者と医療者とは異文化コミュニケーションととらえることができる」ことを含めて、同第2章 医療者と「対等」な関係を築くの「対等な関係を築くために患者にできること」における記述の一部(P47~P54)を次に引用します。

医療者、特に医師と患者の力によるコントロールによって、両者の関係性が影響を受け、医療の効果が大きく左右されます。
医師の力に偏るとおまかせ・丸投げ医療となり、反対に患者の力が強いと、医療を商品として、そして患者がお客様として扱われ、さらにはモンスターペイシェントまで生んだりする、理想から遠く離れた関係になってしまいます。医師と患者双方が力を発揮し、ともに病気に打ち克つ努力をする協働作業ができる関係がとても大事です。
ではそのような関係を築くことは、患者がどのような努力をすることで、可能となるのでしょうか。意識・認識レベルと、行動レベルに分けることができます。

医療者との関係は異文化コミュニケーションと考える

医療者と対等な関係を、と頭では理解できても、簡単ではありません。医療者と患者は立場がまったく異なるからです。それまでの経験や、知識の質・量、医療の目的についての考え方、時間の感覚、さらに価値観などありとあらゆる点で異なっているのです。その意味で患者と医療者とは異文化コミュニケーションととらえることができます。
異文化というと、外国人と外国語を使って接する場面を想像するでしょう。旅行や留学、出張などで外国に行ったり、海外勤務をしたり、あるいは国際結婚など、外国の人と会話をすると、日本人同士とは異なり、以心伝心や察しは通用しないし、お互い「空気を読む」習慣もありません。何となく分かり合えたような気にはなっても、後になって相当なズレがあった、という経験はよく耳にします。
患者と医師とでは、それまでに生きてきた、特に学校卒業後の「社会化」の過程が大きく異なることからも異文化です。生まれたときから医師という人はいませんが、医師はどうやって作られるか、ということを知っておくことも患者として、医療での人間関係をどう認識すればよいのか、ということにつながります。社会化とはヒトとして生まれてきた動物が、社会的動物としての人間へと成長する過程です。
大学医学部に6年間通った後、国家試験を受け、合格すれば最低2年間の臨床研修を受けて一人の医師としての仕事を始められます。また、内科、小児科、外科など、それぞれの診療科にも独特の文化があって、内科医と外科医との間も異文化と考えられ、医療の場には「異文化コミュニケーション」の状況があふれていると言えます。
医療者に求められるコミュニケーション能力を考え、最近の大学の医学部では、あいさつや自己紹介、傾聴などの患者や他の医療者との基本的なコミュニケーションについて学ぶ機会が増えてきたことは喜ばしいことです。
ただ、私たち大学教員にも共通していることですが、医師は人から「先生」と呼ばれるのか常です。久しぶりに会った人を、「名前は忘れたけど、この人、確か教師か医師だったな」ということで「とりあえず『先生』と呼んでおこう」というときに便利なのが「先生」という呼称です。
その便利な呼び方によって、少し勘違いしている人も少なくないかもしれません。医学部を卒業した直後から、患者や製薬会社の人たちなどに「先生、先生」と呼ばれ続けると、何か自分は特別な存在という思い違いをして、周囲の人たちに横柄な態度で接してしまうこともあるでしょう。
一方、医療者でない人は、高校、あるいは大学を卒業後直ちに企業などで働くのが一般的です。そこでは、早い段階から先輩や上司からやさしくも厳しい指導を受けたり、さまざまな人たちを相手に営業活動をしたりと、「社会人」としての社会化が始まっていると言えます。
医療に関する専門力を競い合う必要などまったくありませんが、社会人としてのキャリアは医師より相当長いことは確かです。22歳か18歳から社会で働いている人と、早くても26歳までは医師の卵として教育や訓練を受けてきた人では、どちらが上、下ではなく、異なる環境で社会化の過程を過ごしてきた、つまり異文化なのです。

異文化、ということは「同じ」ものでも「違う」意味を持つ

「同じ」日本人でも、患者と医師では文化的背景が異なり、自分にとっての当たり前が、相手には非常識、くらいのズレがあっても不思議ではありません。たとえば、医師が「この手術は成功率が高くて、千回に1回くらいを除いて成功している」と言ったとします。成功率99・9パーセントですから、医師からすれば「自信をもって勧められる」治療法と言えるでしょう。しかし、患者からすると、「自分がその0・1パーセントになったら……」という不安が頭をよぎります。
このように同じメッセージでも、患者と医者とでは意味づけが異なります。両者の「解釈モデル」が違うからです。たとえば患者が「胸やけがする」と訴えて受診します。その患者は以前、逆流性食道炎と診断され、治療をしたことがあります。今回も同じ症状なので、患者は「逆流性食道炎だと思うので、胃カメラで検査してもらいたい」と言います。医師からすると、病名と検査まで決めてしまっている「困った患者」です。
この患者は60代の男性で高血圧、高血糖、そして喫煙者という、心筋梗塞のハイリスク者と考えられるので、医師は胃カメラの代わり、あるいはその前に心電図の検査を勧めます。患者からすると、「自分の体のことは自分が一番よく分かっている。せっかく逆流性食道炎と病名まで言っているのに、なんで心電図なんだ」と思います。
胸やけひとつとっても、医師と患者とではそれがどのような意味を持ち、何が原因で起きているのかを理解するために使う、「○○には△△という意味がある」という意味づげの過程での解釈モデル、パラダイムが違うので、両者間にズレが起きるのは当然です。「同じ」できごとでも、医師と患者とでは立場も、観点も、予備知識も違うのですから無理もありません。解釈モデルの違いをなくすことはできませんが、症状に関する同じ情報でも、患者と医師の間には相当異なる意味づけのプロセスがあることを意識しましょう。
医師の解釈モデルを患者のものに合わせることはできません。でも、患者としてできることは、医師はどのような過程を経て診断に至っているのか、一般的な診察・診断の「シナリオ」を知っておくことです。これは認識力で、身の回りで起こっていることを正確に、適切に理解する、コミュニケーションカの一部です。(後略)

注:引用中の「医師はどのような過程を経て診断に至っているのか」に関連するかもしれない、 a)『「鑑別診断」の例』については他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 『その病気は「何を根拠に」診断しているのか』や「他に考えられる病気はあるか」について、上野直人著の本、「医師が患者になってわかった! 後悔しない賢い患者術」(2023年発行)の PART 3 今日から高めたい「情報を集める力」 の『その病気は「何を根拠に」診断しているかを聞く』及び「他に考えられる病気はあるかを聞く」における記述(P88~P92)を次に引用します。

その病気は「何を根拠に」診断しているかを聞く

根拠に基づく正確な病名・病状を把握する

恒常的に血圧が高い状態にあることで「高血圧」と診断され、血液中の糖の数値が高いことで「糖尿病」と診断されるように、病気の診断には、そう判断する根拠があります。判断の根拠が比較的明確な病気であれば、お医者さんの側も「検査の結果、○○が××なので、△△という病気でしょう」と伝えてくれるでしょう。
でもなかには、間違われやすい病気もあります。
たとえば「認知症です」と医師には言われたけれど、実際はうつ病だった、正常圧水頭症だった、慢性硬膜下血腫だったなど、別の病気が原因だったということもあります。
もし根拠を伝えずに病名だけ告げられた場合は、「先生がそう思われるのは、なぜでしょうか?」と必ず理由を尋ねましょう。
がんにしても、がんは誤診の多い、紛らわしい病気です。レントゲンやCT(コンピュータ断層撮影)で影があったり、しこりやコブがあったりしても、すぐに「がん」と言うことはできないのです。病理診断で、患者さんの体から採取した病変の組織や細胞を顕微鏡で確認するまでは、悪性腫瘍なのか良性のものなのかは判断できないからです。しかも病理診断の結果は、クロ(悪性)、シロ(良性)だけでなく、シロっぽいグレー、クロっぽいグレーなども含まれます。
したがって「がんでしょう」と言われたときは、そのまま受け取る前に「病理診断で、がんとわかったのでしょうか?」と、まずは確認することが重要です。さらに「確実にがんなのか、疑いの段階なのか」「今はどういう状態で、そのように考えられるのか」も確認しておきましょう。
がんに限らず、心臓病でも脳卒中でも肺炎でも、風邪であっても、どの病気もそうですが、手術や薬の服用といった治療は、体に大きな負担をかけることになります。
ですから根拠があやふやなまま、不確かな状況で治療を始めてしまうことがないように、まずは根拠に基づく正確な病名・病状を把握しておくことが大切なのです。

他に考えられる病気はあるかを聞く

感じているもやもやをそのままにしない

診断した根拠を確認することは、お医者さんが言うことをしっかり理解するうえでも有効です。医師は何かしらの根拠をもって、「総合的に判断して○○と考えられる」と判断をしています。病名だけ伝えるということは、途中の判断をはしょって伝えているということです。ですから「病気についてしっかり理解したいので」と伝えて、そう判断した理由を尋ねる習慣をつけましょう。
大きな病気でなくても同様です。熱や咳が出て診てもらったとき、多くの場合「まあ、風邪ということでいいでしょう」と医師からは言われます。そう言われて、大抵の患者さんは、もやもやがあっても「そうなんだ」で終わらせてしまいます。
けれども賢い患者になるには、それで済ませてはいけないのです。医師の言うことを鵜呑みにしないという意識をもつためにも、このように聞き返してください。「先生、風邪以外で他に何か考えられる病気があるでしょうか?」。
「他に考えられる病気がありますか?」と問いかけられたら、「これこれ、こういう理由で風邪と思っているのですが、安静にして、睡眠と食事を十分にとっても熱が下がらなかったり、咳がひどく続いたりするようならすぐに来てください。別の病気の可能性もありますから」のように説明してくれると思います。
医師から、いろいろな情報を引き出すには、感じているもやもやをそのままにしないことが大事なポイントです。
「自分の感じている症状からすると、その病名は何だか腑に落ちない。他に考えられる病気はないのだろうか?」と感じたら、その疑問を医師にぶつけましょう。
「先生、他に何か考えられる病気があるでしょうか?」と尋ねることで、医師のほうも「場合によっては」と考えられる病気を情報提供してくれるでしょう。可能性がないときも、「それはないですね。なぜなら」と返してくれるようになります。こうしたやり取りが増えていくことで、病気への理解が深まっていくのです。

注:引用中の「その病気は「何を根拠に」診断しているかを聞く」ことに関連する「なぜこの病名なのか? なぜこのように診断したのか?」について、同の PART 4 よりよい医療を引き出すためのコミニュケーション の『常に「WHY(なぜ?)」を忘れない』における記述(P110~P111)を以下に引用します。 ii) 引用中の「根拠があやふやなまま、不確かな状況で治療を始めてしまうことがないように、まずは根拠に基づく正確な病名・病状を把握しておくことが大切なのです。」の背景にあるかもしれない「不勉強な医師であっても、スキル不足の医師であっても、患者さんとのコミュニケーション能力が乏しい医師であっても、ずっと医師を続けることができてしまう」ことや「ブランドがあるからといって、必ずしも勉強し続けているとは限らない、最新の医療知識やスキルをもっているとは限らないという」ことについて、同の PART 1 患者と医師、両方の立場で見えてきたこと の「自分が賢い患者にならないと、名医も一流でなくなる!?」における記述(P25~P26)を以下に引用します。

常に「WHY(なぜ?)」を忘れない

「なぜ?」と問う姿勢をもち続けることを習慣に

不平不満の多い患者さんだけでなく、医師の「何か気になることや質問はありますか?」の問いかけに、毎回毎回、判で押したように「とくにありません」と返ってくる患者さんも心配です。説明したことを本当に理解してくれているだろうかと思ってしまうからです。
医師のなかには、腕はいいけれど説明がうまくない医師もいます。無愛想な印象だけれど、心から患者さんのことを考えてくれている医師もいます。納得できなかったり、疑問に感じたことを質問せず、「このお医者さんは何も言ってくれない」と不満を抱いたりしてしまったら、そうした医師を見逃してしまう可能性もあります。
医師のカを引き出すには、患者さんからも積極的に質問をする必要があります。受け身でいることをやめて、常に「WHY(なぜ?)」と疑問をもつことを忘れないでいてください。
「なぜこの病名なのか? なぜこのように診断したのか?」
「なぜその治療なのか? その治療がいいと考えられる理由は何か?」
「他の選択肢はないのか?」
「なぜこの薬を出したのか?」
「なぜこの薬が効かなかったのか? 他の薬は考えられないか?」
このように、いつも「なぜ?」と問う姿勢をもち続けて、「何となく引っかかることは、必ず質問する、医師に伝える」ことを習慣にしましょう。
質問することは、クレームをつけること、医師を疑って批判することとはまったく違います。自分自身がしっかり理解するために行うものです。ですから、医師に遠慮することはありません。医師も、患者さんからの質問で気分を害したりはしません。むしろ「自分の病気にしっかり向き合っている患者さん」と捉えて、よりよい医療を提供していこうと考えてくれるようになるはずです。

自分が賢い患者にならないと、名医も一流でなくなる!?

パーフェクトを医師はどこにもいない

「大きい病院で知名度もあるから安心できる」「病院ランキングでも上位にあったから大丈夫だろう」「テレビにも出ているし、ゴッドハンドと紹介されていたお医者様だから診てもらいたい」――。
どうせなら、ブランド病院や名医とされている医師にかかりたいと思う気持ちは理解できます。けれどもブランド病院のなかにも、いろいろな医師がいます。デキる医師もいれば、力不足の医師もいるでしょう。
本を出したり、テレビに出たりしているから安心ということも言えません。日本で有名な医師の患者さんが、セカンドオピニオンを受けに私のところに相談にこられることもありますが、正直「なんで、あれほど有名な医師がこんな治療法をしているのか?」「私なら、この治療はしないだろう」と感じることが多々あります。
このことひとつとっても「ブランド」に頼りきって、治療を任せきりにしてしまうのは心配です。
そもそも〝パーフェクトな医師〟など、世界中のどこにも存在しません。皆さんにはショックかもしれませんが、医師といっても所詮は人間です。名医であっても、最新情報に疎かったり、体調不良や寝不足だったりすれば、医療ミスや不幸を医療事故が起きてしまう可能性があるのです。
また日本には、アメリカと違って医師免許の更新制度がありません。アメリカの場合、州によって若干の違いはありますが、医師には医師免許の更新が義務付けられており、専門資格についても試験を受けて更新する必要があります。
私の例で言うと、長らく働いていたテキサス州では医師免許は毎年更新、腫瘍内科医と内科医の専門資格については、10年ごとに試験を受けたうえで更新が求められています。
対する日本は、医学部を卒業して医師の国家試験に合格さえすれば、医師免許は更新されないまま生涯有効です。
この制度は、医師にとっては好都合ですが、患者さんにとっては最悪なシステムだと私は思っています。なぜなら不勉強な医師であっても、スキル不足の医師であっても、患者さんとのコミュニケーション能力が乏しい医師であっても、ずっと医師を続けることができてしまうからです。
医療技術や薬剤開発の進歩が早い医療の世界において、知識やスキルを高めなくても医師として仕事が続けられる。これほど患者さんにとって怖いことはないのではないでしょうか。
名医であっても安心できないと私が言う背景には、こうした日本の実情もあります。ブランドがあるからといって、必ずしも勉強し続けているとは限らない、最新の医療知識やスキルをもっているとは限らないということです。
だからこそ、「お任せしておけば安心」と盲目的に信じ込んではいけないのです。
「じゃあ、どうすればいいの?」「といっても医療に関してはお医者様に頼るしかないでしょう?」と思っている方もいるでしょう。確かに、病気の治療は医師にしかできません。それだけに、どんな医師を選ぶかば大事ですし、それ以上に、皆さんがどんな患者になるかがとても重要なのです。

注:引用中の『「お任せしておけば安心」と盲目的に信じ込んではいけない』ことに関連する「もし、患者が何となく医師に遠慮して、診察室で質問することや、自分の思いを述べたりすることを躊躇する傾向にあるとすれば、そのままでよしとしてはいけません。」については次のWEBページを参照して下さい。 「自分の病名も薬の名前も知らない…患者が賢くならなければいけない理由(ページ2)」の『自分の健康や病気は、自分に責任…「患者目線の医療」への遠い道』項

その上に「患者中心医療の実現に向けて」について「医療とコミュニケーションとの関係」を含めて、同の 第5章 患者が医療者とともに創る「共有」の関係 の「医療だからコミュニケーション、それともコミュニケーションするから医療?」における記述(P174~P177)を次に引用します。

患者中心医療の実現に向けて

医師は専門知識と経験に基づいて、適切な診察を経て正確な診断をし、有効な治療をしてくれるお父さんのような存在で、患者は黙ってそれを受ける、というとらえ方がパターナリスティック(父権主義的)医療です。その対極が、患者はお金を払って医療サービスを購入する消費者なので、医療者は患者を「お客様」として扱う、コンシューマリズム(消費者主義)医療です。
いずれも理想的ではありません。目指すべきは、患者も医療者もお互いの知識や立場、そして考えを認め、それぞれの役割を果たし、その結果患者が診察や治療に満足し、自らの意思で受療行動を続けて回復を目指す、患者中心医療です。患者と医療者は、役割は当然異なるものの、どちらが上、下ではない、対等な関係をともに築くことが必要です。
ここで、医療とコミュニケーションとの関係を、あらためて考えてみましょう。

病気の症状や、それに伴う辛さ、不安、期待などを患者が医師に伝え、医師は問診や触診をして診断をし、それを記録したり、患者に伝えたり、また薬の処方箋を書き、服薬の方法を指示して予後のことについて伝えるなど、すべて医療という文脈でのコミュニケーションです。コミュニケーションは医療効果を上げるのに欠かすことのできない手段、道具です。
医療とコミュニケーションとの関係を一度転回してみます。
人間には、他の動物にはない、言葉や非言語という「シンボル」を使う力があります。それによって、過去を振り返り、未来に思いをはせ、現在の行動をコントロールする目的力を持っています。また、病気で苦しんでいる人の話を聞いたり、その様子を見たりして、「病気になりたくない」と思い、健康管理をしたり、かかってしまったら「早く治したい」という認識力を働かせて、治療を受けます。
人間は人と、あるいは自分自身の中でコミュニケーションをする力を持っているからこそ医療という社会行動を確立し、実践しているのです。また、コミュニケーションによって、患者と医療者の関係を作ることが可能です。医療だけではなく、介護や看護もコミュニケーションの「産物」です。
コミュニケーションは医療の道具、という考え方をひっくり返して、人間はコミュニケーションするから医療、と考えることができます。
そうすると、患者のコミュニケーションが、医療者との関係、そして診断や治療の質を決める、ということになります。患者と医療者との関係は、両者のコミュニケーションの質を忠実に反映するのです。患者が発するメッセージと、それを受け取り、反応する医療者のコミュニケーションの質は、医療の質そのものです。
たかがコミュニケーションではありません。コミュニケーションができるからこそ、人間にだけ与えられたギフト(贈り物、たまもの)の一つが医療なのです。患者中心医療は医療者がお膳立てをして、持続することも必要ですが、患者が当事者意識をもって、医療者とともにコミュニケーションカを総動員して創りあげるものです。

誰かが何とかしてくれる「なる志向」では自分が苦しむ

医療効果は患者の努力によって上げられるのです。だとすると、心得ておくべきなのが、「なす志向」です。「このところ暖かくなってきた」とか、「日が短くなった」という自然の営みは、人間の力が及ばないので、「なる」で間違いありません。「なる志向」は、自然、それに人間関係を含む社会環境に自らを合わせ、調和を図ることを大切にする日本文化の特徴です。
病気も「なる」「かかる」のであって、好きで自分を病気に「する」人はいないでしょぅ。しかし、いったん病気にかかってしまったら、「なる」を「なす」に切り替えましょう。病院に電話したり、検査の予約をしたりして、自分から行動を起こすはずです。そして、診察室に入っても、その「なす・する」志向を持続し、医療者とともに患者中心医療の環境づくりに努めなくては意味がありません。
患者には何もできない、あるいはお金を払って医療を受けている自分は客だ、という考えは、治療に必要な情報や能力を、医療者から引き出すのを難しくするだけです。医療者も人間です。患者の「治したい」という気持ちを感じることができなかったり、患者との関係に不信感や不快感を抱いたりすると、それなりのことしかしない、できない、ということもあるでしょう。
医療者と一緒に病気に立ち向かう姿勢を示さないと、結局は患者自身が嫌な思いをすることになります。患者が医師との良好な関係を保つことは、その結果持続的、効果的受療行動となり、それが治療効果の向上につながるはずです。

注:i) 引用中の『患者の「治したい」という気持ちを感じることができなかった』ことに関連するかもしれない〝la belle indifference、満ち足りた無関心〟については他の拙エントリのここを参照して下さい。 ii) 引用中の「患者と医療者は、役割は当然異なるものの、どちらが上、下ではない、対等な関係をともに築くことが必要です。」に類似するかもしれない「医師と患者は本来対等なパートナー関係にある」ことについて、上野直人著の本、「医師が患者になってわかった! 後悔しない賢い患者術」(2023年発行)の PART 1 患者と医師、両方の立場で見えてきたこと の 医師と患者は本来対等な存在 の「医師と患者に上下関係はない」における連続した記述の一部(P28~P29)を三分割して次に引用(それぞれ『 』内)します。 『忘れないでいただきたいのは、医師と患者は本来対等なパートナー関係にあるということです。医師が上、患者は下といった上下関係にはない。まずはこのことを覚えておいていただきたいのです。』、『確かに医師は病気や治療に関する知識も経験も豊富です。医療のスペシャリストですから、それに対するリスペクトや信頼感をもってもらうこと自体は悪いことではありません。専門家としての知識とスキルは大いに発揮してもらったほうが、患者さんにとってもプラスになります。』、『だからといって「お医者様は偉くて、患者はお医者様の言うことを聞いていればよい」といった意識でいるのは誤りです。「診察室の椅子に座っていれば、お医者様がすべて解決してくれる」と考えていてはいけないのです。』 iii) 引用中の「コミュニケーション」に関連する「参加型医療を促進する患者のコミュニケーション行動」について、「ナラティブに基づく医療」や「語ることによって初めて患者自身が自分の気持ちや病気に対する心構えなどを整理して自覚することができる」ことを含めて、同第2章 医療者と「対等」な関係を築くの「参加型医療を促進する患者のコミュニケーション行動」における記述の一部(P55~P57)を次に引用します。

患者が医療者と対等の立場で協働して病気に立ち向かい、治療に参加する患者中心医療を可能にするには、患者の「自己主張」が必要です。自己主張というと、和を貴び、角が立たない、波風を立てない言動を心がけ、すべて丸く収まるよう細心の注意を払うことを社会化の過程で重要視する日本文化には、いかにも似合わないコミュニケーション行動と思われるでしょう。
あの場ではお互いの立場を守ることが一番大事だった、など人間関係と自分が主張したいことを天秤にかけて、「あのときは○○と言うしかなかった」という具合に、自分の行動を周囲との「兼ね合い」によって決めることは多いはずです。
しかし、自己主張は相手を攻撃したり、批判したり、そして人がどう思うかにかかわらず自分の考えだけを前面に押し出すことを指しているのではありません。医療の場での自己主張は、情報収集、情報提供、明確な発言、不安の表現に分類できます。思っていることを主張する一方で、医療者の考えにも耳を傾け、冷静に、しかし、情熱をこめて話し合って意思決定するのが「自己主張」です。
患者は、その病気を患っていることによって日常の生活がどのような影響を受けているのか、今後どのように病気と向き合いたいのか、そしてどういった医療を受けたいと願っているのか、という点で誰よりも専門家なのです。
病名は同じでも、人によって家族構成や生活環境、性格、今後の生活への期待、不安などが異なるのですから、「同じ」病気はないと考えるべきでしょう。患者が自分の病気をどんなストーリーや物語(ナラティブ)で語るのか、という点に注目して、患者の悩みを全人的にとらえて行う医療、ナラティブに基づく医療(NBM)が今注目されています。
患者本人にしか分からない症状や感覚、気持ちなどを、信念をもって医師に伝えることは患者の権利でもあり、役割、責任でもあります。語ることは、医師に自分の病気についての情報を提供することはもちろんですが、語ることによって初めて患者自身が自分の気持ちや病気に対する心構えなどを整理して自覚することができるのです。

注:引用中の「ナラティブに基づく医療」については次のWEBページを参照して下さい。 「ナラティブ(物語、語り) - 健康を決める力

さらに、「医療は遠慮、忖度が不要・無用の場」であることについて『「リテラシー」や「メタ力」を高める』ことを含めて、同第5章 患者が医療者とともに創る「共有」の関係の「患者になる前に考え、身につけておきたい力」における記述の一部(P187~P190)を次に引用します。

認識力としてのリテラシーを高める

病気にかかった場合もそうですが、日頃からサプリメントや健康器具、あるいは保険などに関する情報をインターネットで検索することは、現代人にとって当たり前のこととなりました。
少し前までは医師や保健師などと相談しなくては手に入れることができなかった情報を、手のひらで、指一本で仕入れることができるのですから、便利になったものです。しかし、そうやって手に入れる情報すべてが、すべての人に同じ意味を持ち、同じ効果をもたらすことはあり得ません。
リテラシーはもともと「識字」、つまり読み書きができることを指す言葉です。インターネットをはじめとするデジタル媒体であふれる情報を取捨選択し、正確に理解して自分の行動に適切に応用できるのが、情報リテラシーが高い人です。
その能力を医療、健康に関わる場面で生かすことができると、「ヘルスリテラシーが高い」と言えます。病気になってしまってヘルスリテラシーを高めようとしても、なかなかうまくいかないでしょう。日頃から、健康なときにこそ、ヘルスリテラシーを高めておく練習が必要です。
ネット情報をすべて否定する必要はありません。ただ、「本当にそうだろうか」「何を根拠にこんなことが言えるのだろうか」など、批判的精神をもって情報に接するのが最初の一歩です。

「メタカ」を高める

人間だけが自分を客観視できます。客観視は、自分を外側から見ることを指します。「メタ」は異なる、特に高いレベルを意味します。自分の行動を一段上から見てみることです。
人との関わりを、まるで天井に取り付けられたカメラ越しに観察する能力を「メタカ」と呼びます。ただ、病気にかかり、痛みや、苦しさがある状況で「メタカを発揮しよう」と思っても無理です。だからこそ、日頃から友人や家族とのコミュニケーション、人間関係を、メタカを使って観察し、自分自身の特徴を知っておく努力がものを言います。
相手が誰であろうと、どんな目的でコミュニケーションをするかにかかわらず、自分を客観視したり、過去を振り返って自省したりといった認識力も、また未来に思いをはせてさまざまなゴールを設定し、それらを達成するための手段を考え、実行する目的力もコミュニケーションカを構成する大事な柱です。

医療は遠慮、忖度が不要・無用の場

言いたいことがあっても、角が立たないよう、相手の気持ちを察し、空気を読みながら、へりくだった、控えめの表現をして、何事も丸く収めようとするのが日本人のコミュニケーションの特徴です。いかにもやさしい、思いやりにあふれた、そして周囲との「和」を大切にした、世界に誇ることができる日本文化を支えてきた美徳です。
しかし、医療は命や健康の回復、維持といったかけがえのないものを対象としたメッセージのやり取りが求められる、「緊急事態」です。患者の体や心の病気を和らげたり、時には患者以上に健康に注意したりしてくれる医師ですから、それなりの敬意を示すことは当然必要です。だからといって過度なへりくだりや遠慮をすると、大事なことが伝わらなかったり、辛さや痛みが過小評価されたりして、結局診察に満足できず、病気の回復も思った通りにいかない、といった嫌な思いをするのは患者自身です。
もちろん言いたいことを一方的に言ったり、声を荒らげたり、無理難題を吹っかけたりすると「モンスターペイシエント」のレッテルを貼られ、医療者から避けられる、困った人になってしまいます。でも、患者は自分の病気に関しては「専門家」なのですから、言わなければいけないことをはっきりと、「こんなこと言うと先生から嫌われるんじゃないだろうか」などと必要以上に気をつかって話すことは避けましょう。(後略)

注:i) 引用中の「ヘルスリテラシー」については次のWEBページを参照して下さい。 「ヘルスリテラシー 健康を決める力」 ちなみに、引用中の「リテラシー」に関連する「メディア・リテラシー」については資料「メディア情報リテラシー研究 第4巻第1号」中の森本洋介著の文書「ソーシャルメディア時代のメディア・リテラシー能力概念とその枠組み」(P170~P195)を参照すると良いかもしれません。 ii) 引用中の「メタカ」に関連する「メタ認知」についてはここ及びここ、そして他の拙エントリのここを参照して下さい。

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(P)「情動の認知理論」について、その他
標記について「生存回路」、そして「自己スキーマ」や「情動スキーマ」を含めて、ジョゼフ・ルドゥー著、駒井章治訳の本、「情動と理性のディープ・ヒストリー 意識の誕生と進化40億年史」(2023年発行)の 第15部 情動的主観性 の「第64章 思慮深い感情」における記述の一部(P358~P361)を次に引用します。

情動は古代からヒトの本質の重要な部分として認識されてきた。プラトンが情動を手に負えない内的な「野獣」と考えたことは、ダーウィンやマクリーン、基本的情動理論家たちの見解を先取りしたものである。彼らはみな、情動は動物の祖先から受け継いだものだと考えていた。一方、アリストテレスが強調したのは、情動における思考と理性の重要性であり、これらがどのように道徳的行動と選択を形成するかであった。彼の考えは、プラトンの考えとは異なる情動研究者グループ、とくに情動における認知の役割を強調するようになった研究者たちに影響を与えた。
アリストテレスは真実に近かったと思うが、それはプラトンダーウィン主義者が完全に間違っていたという意味ではない。私たちの脳には、なんらかの情動があるときに起こる行動を制御する本能回路がある。それらはこのような情動を起こすだけではない。これらは生存回路であり、生物学的に重要な刺激を検知し、生物の生存を助ける身体反応を開始する。これは、LUCA(最後の普遍的共通祖先)からはじまり、この地球上に生息するすべての生物に存在する生存命令を継続するものである。一方、情動的感情は、自分が置かれている状況を認知的に解釈したものであり、その能力は意識の進化によって可能になったものだと私は考えている。
情動の認知理論は、スタンレー・シャクターとジェローム・シンガーが一九六二年に提唱した概念の変形である。これらの心理学者は、情動経験は生物学的にあらかじめ決められたものではなく、特定の経験の社会的および物理的文脈に照らして、神経シグナルを含む生物学的シグナルの評価、解釈、およびラべリングによって構築されると主張した。神経科学では、情動は大脳辺縁系に組み込まれているという信念が依然として支配的であるが、シャクターとシンガーのおかげで、情動の認知的見解は現代の心理学においても広く支持されている*。
私にとって、ヒトの情動とは、他の自覚的意識の経験と同様に、認知的に組み立てられた自覚的意識の経験である。無意識的情動という考えは矛盾語法である。実際に何かを感じなければ感情でも情動でもない。それにもかかわらず、非意識の因子が寄与する。
スキーマは認知の構成要素であった。情動が認知の一種である限りスキーマはその構築に不可欠である。さまざまな低次の、つまり非意識的な要因が存在するなかでスキーマがパターン完成することで、意識的な内容が推進される。非意識的な要因には、外部刺激の知覚の表現、生存回路の活性化による表現などがある(図64-1)。
先に述べたように、スキーマ自体は非意識の表現であり、自分が置かれている状況を理解するのに役立つ。そして、相互に関連する二種類のスキーマは、意識的な情動を自己と情動のスキーマにするうえでとくに重要である。
自覚的な経験であることから、情動的感情は個人的なものであり、それは決定的に自分自身を巻き込み、自分自身のスキーマに関与する。自分が経験の一部でなければ、経験は情動的な経験ではない。自己にかかわるすべての経験は必ずしも情動的な経験ではないが、すべての情動的な経験は自己にかかわる。リサ・バレットらは、情動は「特定の状況において自身を概念化するエージェントとは独立して理解することはできない」と述べている。危険が存在するという意識は、自らが危険にさらされていることを知っているという自覚的な意識とは異なる。
また、意識的な情動経験を認知的に組み立てる際にとくに重要なのが、「情動スキーマ」と呼ばれる、情動に関する非意識の知識であり、課題や機会を伴う状況を概念化するのに役立つものである。このように、バレットは情動を概念的行為と表現している。同様に、ジェラルド・クロアとアンドリュー・オートニーは、情動スキーマは「現在を解釈し、過去を記憶し、未来を予測する」ために使用する「既製のフレーム」であると指摘している。また、情動スキーマは、ジョン・ボウルビィの小児発達の愛着理論の中心的存在であり、アーロン・ペックの認知療法や、ジェフリー・ヤングやロバート・リーヒーが提唱したスキーマ療法にも重要な役割を果たしている。
原始的な基本的情動を、動物から受け継いだ皮質下辺緑回路の産物として扱ったヤーク・パンクセップは、それにもかかわらず、より複雑な人間の情動には反射的な自己認識が含まれ、認知処理、言語的表現、皮質回路に依存することを提案した。原始的な基本的情動においても皮質下回路を強調するアントニオ・ダマシオは、複雑な人間の情動においても認知と言語が重要であることを指摘した。しかし、私はさらに踏み込む。私にとって、一般的に基本的といわれるものも含め、すべての情動には、高次回路による情動スキーマのパターン補完に基づく認知的解釈が含まれている。
たとえば、あなたの恐怖スキーマは、脅威、害、危険、恐怖そのものについて学んだことの記憶を集めたものであり、人生を通じてそれらとの個人的な関係も含む。脅威が存在する場合は、恐怖スキーマがアクティブになる(パターン完了)。そしてスキーマは、意味論的、エピソード的な情動のテンプレートを提供し、認知システム記憶によって扱われている低次の脳や身体の状態を、トップダウンで概念化することを可能にする。このテンプレートは、そのような状況で典型的に見られる予測モデル(期待)とスクリプト(可能な行動方針) の基礎となる。表64-1は、仮想的な恐怖スキーマを言葉で表現したものである。
情動スキーマは個人的な経験によって獲得され、それが高次の情動認識に寄与する。この点において過去の経験が現在の高次の意識状態に重要であるとするアクセル・クレアマンの 「意識の急進的可塑性理論」は、ここで言及する価値がある。また、バレットの「分類と推論をサポートし、その後の行動をコントロールする」という「情動概念」にも関連性がある。(後略)

注:i) 引用中の「図64-1」の引用は省略します。 ii) 引用中の「表64-1」における全記述を二分割して形式を変更して次に引用(それぞれ『 』内)します。 『表64-1 仮想的な恐怖スキーマの言語的表現』、『仰天、死、不動、摂動、動揺させられる、臆病、逃走、恐怖症、動揺、防御的、予感、おびえ、警告、絶望、驚愕、感性、不安、逃亡、健康、心配、狼狽、恐怖、障害、ストレス、勇気、恐ろしい、いらいら感』 iii) 引用中の脚注「*」(同本の P366)の内容を次に引用します。 【* 数年にわたって情動を認知的に捉えてきた人には、ジョージ・マンドラー、リチャード・ラザルス、ニコ・フリーダ、クラウス・シェラー、デイヴィッド・サンダー、リサ・バレット、ジェームス・ラッセル、クリスティン・リンドクゥイスト、ジェローム・ケーガン、ジェロームグロス、ケヴィン・オシュナー、アンドリュー・オートニー、ジェラルド・クロア、アサフ・クロン、リウス・ペソアフィリップ・ジョンソン=レイアード、キース・オートレー、レベッカ・サックスなどがいる。】 iv) 引用中の「生存回路」に関連するかもしれない「防衛反応」については例えば他の拙エントリのここここを参照して下さい。加えて、引用中の「生物の生存を助ける身体反応」に関連する「闘争-逃走-凍りつき(又はシャットダウン、麻痺、服従)」反応については他の拙エントリのここここここここ及びここを参照して下さい。 v) 引用中の「スタンレー・シャクターとジェローム・シンガーが一九六二年に提唱した概念」に関連する「情動の二要因説」については例えば他の拙エントリのここにおける引用の「6.1.2 認知的情動説」項や次の YouTube を参照して下さい。 「【感情の心理学】つり橋効果が起きるのは,どうして?(情動の2要因説)」 vi) 引用中の「リサ・バレット」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 vii) 引用中の「愛着理論」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 viii) 引用中の「認知療法」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 ix) 引用中の「スキーマ療法」については他の拙エントリのここ参照して下さい。 x) 引用中の「予測モデル(期待)」に関連する「予測」については他の拙エントリのここ及びここを参照して下さい。 xi) 引用中の「情動概念」については他の拙エントリのここを参照すると良いかもしれません。 xii) 引用中の「信念」については他の拙エントリのここ及びここを参照して下さい。 xiii) 引用中の「危険」については他の拙エントリのここを参照すると良いかもしれません。 xiv) 引用中の「恐怖」に類似する「恐れ」については次のWEBページを参照して下さい。 「恐れ - 脳科学辞典」 加えて、引用中の「恐怖スキーマ」について「生存回路」や「意識的な情動経験は、典型的には、前頭前野の高次ネットワークによるさまざまな非意識的構成要素の処理から生じる」ことを含めて、同第15部 情動的主観性の「第65章 情動脳は熱い」における記述の一部(P373~P374)を以下に引用します。 xv) 引用中の「情動」に関連する「情動はヒトで特殊化されたものであり、私たちの脳の独自の能力によって可能になっているとの提案」について、同第15部 情動的主観性の「第66章 生存は深いが、情動は浅い」における記述の一部(P377)を以下に引用します。

(前略)要約すると、私の提案は、意識的な情動経験は、典型的には、前頭前野の高次ネットワークによるさまざまな非意識的構成要素の処理から生じるというものである。すなわち、①引き金となる出来事についての知覚情報、②検索された意味記憶エピソード記憶、③意味の層を追加する概念記憶、④自己スキーマ活性化を介した自己情報、⑤生存回路情報、⑥生存回路活性化による脳の覚醒と体のフィードバックの結果、および⑦個人の情動スキーマの活性化の結果として展開される、あらゆる情動状態についての情報である。
高次のネットワークは、これらの意識されていない低次の信号の処理を監視し、制御し、それらを使用して、結果として生じる自覚的に意識された情動状態への内省的接近、ラベルづげ、および経験を用いる。恐怖スキーマが脅威によってパターン化されている場合、あなたが利用可能な恐怖ファミリーの語彙から、恐怖、パニック、テロ、不安、心配、懸念などの言葉を使ってラベルづけされる可能性が高い。活性化されたスキーマ要素は、その瞬間の経験を定義するものであり、ラベルは単にそれを改良し、固定するものである。(後略)

注:(i) 引用中の「生存回路」に関連する「扁桃体の生存回路の活性化」について、同第15部 情動的主観性の「第65章 情動脳は熱い」における記述の一部(P371~P372)を二分割して次に引用(それぞれ『 』内)します。 『扁桃体の生存回路の活性化は、神経調節性システムの活性化にもつながり、脳全体の覚醒レベルを高める。』、『さらに、生存回路の活性化に反応して副腎髄質からアドレナリンが放出されると、体腔にある神経が活性化されて大脳の神経調節性システムに信号が送られ、扁桃体によって直接引き起こされる覚醒がさらに促進される。コルチゾールは副腎皮質からも放出され、血流に乗って脳に運ばれ、ここでこれまで論じてきた皮質と皮質下の多くの領域の処理に影響を与える。ホルモン作用の効果発現は遅いが、不活性化も遅い。』(注:a) 引用中の「アドレナリン」については他の拙エントリのここを参照して下さい。 b) 引用中の「コルチゾール」については次のWEBページを参照して下さい。 「ストレス - 脳科学辞典」の「視床下部-下垂体-副腎系」項 c) 引用中の「覚醒がさらに促進される」ことに関連する「覚醒亢進」又は「過覚醒」については次のWEBページを参照して下さい。 「過覚醒 / 覚醒亢進」) 加えて、上記「生存回路」に関連するかもしれない「迷走神経における信号処理」についてはタイトルを除き拙訳はありませんが次の論文(全文)を参照して下さい。 「Signal processing in the vagus nerve: Hypotheses based on new genetic and anatomical evidence[拙訳]迷走神経における信号処理:新しい遺伝学的及び解剖学的証拠に基づく仮説」

どんなに単純であっても複雑であっても、すべての生物はエネルギー資源を管理し、流体とイオンのバランスをとり、危害から身を守り、繁殖することによって生命を維持し、種の存続に貢献する。これらの基本的な生存活動は、中枢神経系をもつ生物の特定の生得的行動を制御する専用の回路で具体化される。しかしこれらの回路から情動は生まれない。
情動はヒトで特殊化されたものであり、私たちの脳の独自の能力によって可能になっていると私は提案する。情動は、初期のヒト科の祖先が言語を進化させ、階層的な関係推論を行い、心的な意識をもち、反射的な自覚意識をもたない限り、私たちが経験する形で存在することはできない。これらの能力により、古代の生存回路の活動は、自己認識に統合され、意味的、概念的、エピソード的な記憶として組み立てられ、パーソナライズされた自己と情動のスキーマとして解釈され、現在の行動を導くために、また将来の情動的な経験を計画するために、使用されることが可能になったのだ。それによって情動は、人間の脳の精神的な重心となり、ナラティヴや民話の素材となり、私たちが知っているような、人生において重要なすべての文化、宗教、芸術、文学、そして他者や世界との関係の基礎となった。(後略)

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注:本エントリは仮公開です。予告のない改訂(削除、修正、追加、公開日や修飾の変更等)を行うことがあります。

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*1:加えてマインドフルネスや仏教思想の関連も紹介しています

*2:注:上記広汎性発達障害の新しい名前である「自閉スペクトラム症」又は「ASD」については他の拙エントリを、一方、「ADHD」については他の拙エントリを それぞれ参照して下さい

*3:「論争中の病」又は「論争されている病」に含まれる「化学物質過敏症」についてはここを、「論争中の病」に関連するかもしれない身体疾患・内科疾患が否定された後の内科医の視点からの「不定愁訴治療の前のチェックリスト」についてはここを それぞれ参照して下さい。

*4:「反応性」についても含みます。ここを参照して下さい。